書の世界において『20世紀最大の考古収穫』は、やはり殷王朝跡の発見発掘でしょう。
殷王朝は『史記』に載っていましたが、歴史的事実として確認されていなかったのです。
殷王朝では占いによる祭り事が盛んに行われ、そこで使われたのが、亀の甲羅や大型動物の大腿骨に刻まれた『甲骨文字』だったのです。
硬い甲羅や骨に文字を刻すのは中々大変で、直線的な文字になってしまいがちです。
ところが元の金文はそうでもない。
つまり元の金文は筆の原型のようなものが使われていたのではないかと考えられています。
初期の筆は、棒の先を尖らせて、漆をつけて記していたそうです。
漢字の始まりはこの『甲骨文字』であり、それは神との交信に使われました。
殷王朝は紀元前17世紀から紀元前1046年まで続いた王朝です。
六百年ほど続いたわけですが、殷王朝末期、殷の王は宮殿の池を酒で満たし、木々に肉をかけて饗宴を毎晩催した、傍若無人な王朝になってしまっていたと『史記』に記されています。
ここから『酒池肉林』という言葉が生まれるのです。
酒に満たされた池で泳ぎながら酔い、ふらつきながら木々に刺し吊るしてあった肉を、パン食い競争のように食べたのでしょうか?
まさかねぇ〰
少しオーバーな気もしますが、私ごときが『史記』を否定することなどできるわけもなく(笑)
そんな殷王朝は、周によって滅ぼされます。
周は殷の文化を基本的には引き継いでいましたが、占いの衰退によって、甲骨文字は次第につかられなくなり、代わりに青銅器に刻した文字『金文』が盛んに使われるようになります。
青銅器と金文は殷時代から作られていましたが、周になると、人と人との繋がりをつくるものとして重宝され大きく発展したのです。
それは、中央から地方への命令や契約、戦功や功績などを記した青銅器が多く見つかっています。
殷時代の金文より、長文の金文が使われるようになって行きました。
周は『神を敬い遠ざける』王朝だったのです。
そんな周も280年ほど経った頃、蛮族の攻勢により都を東方の洛陽に移しました。
洛陽に移る前の周を『西周』
洛陽に移ってからの周を『東周』と呼びます。
その東周もそれから550年間続くのですが、群雄割拠の時代となり、それまで統一されていた金文も各地で変遷変化を遂げ、多くの文字に変わっていくのです。
ざっくりですが、前半を春秋時代、後半を戦国時代と呼びます。
春秋時代の紀元前552年に『魯』の国に、孔子が誕生します。
その頃老子も生まれているとされていますが、諸説あるそうです。
孔子と老子が出会ったなどとする書物もあるそうですが、それはないんじゃないかなぁ(笑)
孔子や老子が生まれた時代は、戦に次ぐ戦の時代だったのですね。
孔子の言葉をまとめたものが『論語』であり、その思想を基盤として儒教が生まれたのです。
儒教と書の関わりはとても大きく、我々が使っているお手本の多くは儒教の教えが多いです。
また老子や荘子の考え方から老荘思想が生まれ、道教になっていくのです。
仙人は道教に出てきます。
和翠塾で使っているお手本の中にも、老荘思想に基づいたものがいくつかありますが、儒教ものが大半です。
孔子の教えは教育によって、自分以外の人の役に立つ人をつくる感じ。
老子の教えは自然に従うように生き、仙人を究極の姿として捉えているのかもしれません。
混ぜていいとこ取りするのが良いかもしれませんが、怒られちゃうかな?(笑)
そしてとうとう、秦の始皇帝が中国を統一します。
始皇帝は国を統一するとともに、重さや長さ、貨幣や車軌、そして文字の統一も果たします。
それまで多くの国でそれぞれ金文から発展して使われていた文字を捨てさせ、秦の国で発展し使われていた文字に統一するのです。
共通文字とされた篆書体の文字を『小篆』
破棄させられた多くの篆書体の文字達を『大篆』
と呼称します。
現代篆書体と呼称するものは『小篆』を指します。
大篆も見つかっていますが、始皇帝によって文字も書かれた文化も焼き捨てられてしまったのです。
前漢時代に旧孔子邸の壁の中から、始皇帝によって抹殺された大篆の一つで書き記された『論語』などが多数みつかります。
棒に先を尖らせて漆をつけて書いたために、おたまじゃくしのような丸い部分があるのが特徴的です。
漆が垂れにくいよう、棒を握ってなる別垂直にして書いたのではないでしょうか。
見つかった書物は、秦時代の孔子の弟子達が、焚書されるまえに隠したものだと思われます。
今後中国全土で発掘が進み、多くの大篆が見つかっていくことを期待したいところです。
あ〰あ、、、くたびれたので、この続きは次回また!