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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 48

2013年07月10日 | 日記

 

  48

罪祭の儀式を見れば、義認と聖化が起こるときに罪が止むことが分かる。すべての罪が告白され捨て去られるときに義認が起こり、人は義なる者とされる。聖化は、この時点で始まる。これは、聖所の外庭の経験である。この後に、罪祭と燔祭をささげた人は、祭司と共に(信仰によって)聖所の中に入るわけだが、それは聖化の経験が継続されることを象徴している。聖所の中では、罪のために犠牲がささげられることはない。従って、もしこの聖化の段階において過ちや罪を犯したら、その人は、もう一度外庭に戻って、別の子羊を犠牲にささげ、再び全過程を踏まなければならなかった。つまり、再び罪を犯したときは、再回心を経験しなければならないということである。事実、私たちは、日ごとに回心しなければならない。

多くの人は、聖所の制度を通して福音を理解していないために、欺瞞的な安価な福音の教えに陥っている。特に、最近の神学では、人々に偽りの救いの確証を与え、偽りの霊的経験を提供している。ただし、間違った福音だけを教える人はほとんどいない。真理と誤謬が混ぜ合わされているので、よけいに人々を致命的な安心感へ導くのである。あなたが真の神の民となりたいのであれば、聖所に明示された贖いの計画と、人間の願望が作りあげた信仰による義とを、識別できる知恵がなくてはならない。次項では、どうすれば新しい契約の経験が持てるかについて学ぶことにする。

 

説教集 愛とゆるし  今ここで

しばらく前のことですが、山谷に住む一人の人に、聖書のことを話してほしいという依頼がありました。その方は、若い時仕事に失敗し、妻子を捨てて各地を放浪したあげく、山谷の労働者になったのでした。俳句が好きで、それだけを唯一の生きがいとして生きて来て、いま六十歳を超えて、がんのために病床に伏す身となり、死への恐怖におびえつつ毎日を過ごしておられるのでした。そのような自分の人生を、この方はこう書いています。「人間だれしも長い人生ではいく度か曲がり角につきあたります。それは自分自身がつくるものもあれば、心ならずも他人や自然現象などによってつくられたものもありますが、そういうものによって人間の精神状態が変えられるのです。心の弱い者はたちまちそれに負け、落ちこぼれてしまいます。私の場合、その典型です。このような老齢になって大手術をしなければ命の保障ができないと言う最悪の事態になりました。今、自分をかえりみて、何というおろかな人生だったのだろうと、我ながらあきれてしまいます」と。

しかしこの方が、聖書を学んでいくうちに変えられていったのです。その心境をこう俳句に詠んでいます。

  蝉老いて 神への道を まさぐれり

   神へ行く 証の母印 流れ星

「私は……、今までうつ伏していた自分が上向きにされたような感じがして、胸が広くなり、死ということを考えなくなり、もし命が終わりなら神にお祈りして天に戻してもらえると、心に安らぎを覚えるようになりました。それまで看護師さんに何かと言っていたのが、感謝の気持ちに変わり、その後は一言も言わなかった。私は父や姉弟を看取ったが、貧乏のためろくに医者にもかからず天国に召されたことを思えば、今の私はなんと幸せなことか。入院させてもらい、立派な医師に診られ、手厚い看護婦の看護を受け療養のできる幸せを心から感謝し飯田さんのお陰で心のあたたかさが広がってゆくことに喜びを感じるようになりました」(手記より)。

この方が亡くなる一週間前、病床で洗礼式(バプテスマ)をすることになりました。その日は朝から容態が悪く、ずっとベッドに横になっておられました。ところが、誓約の終わりの「父と子と聖霊の名によってあなたにバプテスマを授けます!」という言葉で突然起きあがり、最後の力をふりしぼるようにお辞儀をして、「ありがとうございます!」とはっきりした声で言われたのです。

この方は人生の最後になって、自分が神のもとへ行けることを本当に喜ぶようになられました。この方は、自分でも言うように、失敗だらけの、みじめな敗残者の人生を送ってこられました。しかし、その最後に、自分の人生のすべてを赦し、受け入れて下さる方と出会うことによって、いわば、マイナスの人生が一挙にプラスに変えられたのでした。この方の絶筆となった句は明るい信頼に満ちています。

  今ここで 天に戻さる 梅雨しめり

人間には現実と真実という二つの面があります。ペテロにとっての現実は、キリストを拒み、裏切るというみじめなものでした。しかし、このような現実にもかかわらず、キリストはペテロの決心、「あなたを知らないなどとは申しません」という言葉を、真実のものとして受け入れて下さったのです。どんなに表面的には救いがたく、おろかな失敗を犯してしまう人間であっても、その心の奥にある真実の声、魂の叫びを聞きとり、神の真実にかけて、その人を愛し、受け入れて下さる方、それが聖書のイエス・キリストです。

このキリストの愛を知る時、私たちの人生は自由なものとなり、喜びに満ちたものとなります。そして、何度も許される中で、同じ失敗、あやまちをくり返すことがないように、全く新しい心へと造り変えてくださるのです。

  《 あなたが新しいキリストの愛に出会われますように 》