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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 61

2013年07月23日 | 日記

 

  61  (長南町の蓮田にて・・・ちょっと仏教をイメージしてしまいますが)

私たちは決して、自己に信頼して安全ではいられない。また、自分たちは誘惑を受けても大丈夫だと感じてはいけない。救い主を受け入れる者たちは、彼らの回心がどれほど誠実なものであっても、決して、自分たちは救われていると言ったり感じたりしてもよいと教えられるべきではない。これは惑わしである。すべての人は、希望と信仰を抱くように教えられるべきであるが、たとえ自らをキリストにささげ、彼が私たちを受け入れてくださっていることが分かっていても、私たちは、誘惑の届かないところにいるわけではない。・・・試練を耐え忍ぶ者だけが、命の冠を受けるであろう(ヤコブ1:12参照)。

 私たちは決して自己満足に安んじ、「私は救われている」と言って、前進するのをやめるべきではない。このような考えにひたると、目を覚まして祈り、より高い到達点を目指して真剣に努力するための動機が消え失せてしまう。キリストがおいでになり、神の都の門をくぐるまでは、清められた舌がこの言葉を語ることはない。そのときこそ私たちは、きわめて礼儀正しい態度で、永遠の救出を行われた神と小羊に栄光を帰することができるのである。


 

    説教集:永遠の愛 ② 死に打ち勝つ愛

ところがここに、この死の力に打ち勝ち、人を死から、永遠の世界へと引き戻して下さる方があります。人間を、誕生で始まり死で終わる人生から、死の彼方にある永遠の世界へと導いて下さる方、それが、イエス・キリストです。キリストはかつて、「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる」と言われました(ヨハネによる福音書1125節)。キリストを信じる時に、私たちは、死を絶望の闇、出口のないトンネルとしてではなく、新しい生命への出発点、希望への入り口とすることが出来ます。

 聖書によれば、死は一時の「眠り」(コリント人への第1の手紙1551節)であって、やがて、「死人は朽ちない者によみがえらされ」る、と言われています。(同52節)。 このことを信じて、これまで数多くのクリスチャンが、死を雄々しく受け止め、死に敗北した者としてではなく、むしろ、死に勝利した者として、平安のうちに死を迎えていきました。

 以前、フジテレビのニュース・キャスターだった山川千秋さんという方が、がんのために亡くなられました。山川さんは東大の法学部を卒業し、フルブライトの留学生としてアメリカで勉強し、フジテレビのメインキャスターとして、エリートコースを歩んでこられた方です。しかし、この方が、がんにおかされてしまいました。ジャーナリストとして脂の乗り切った時期、突然の病です。クリスチャンだった奥さんは、真実を告げます。そして、信仰のことを学んでほしいと真剣に訴えました。もともと信仰に懐疑的だった山川さんは、初めは全く関心を示しませんでしたが、奥さんの熱心さに負け、牧師の話を聞くことにしました。

 牧師との初めての面会の日、山川さんは、牧師の語る、「人間は病で決して死なない。主が与えて下さる時が、その人の最善の時です。死は決して最後ではなく、死はキリストと一緒にいられる最高の幸せの始まりです」という言葉に深くうなずきました。がんを告知されても涙を見せなかった気丈な人が、時おり、涙を拭いながら牧師の話に耳を傾けたのです。やがて山川さんは、自分の命の長くないことを知って、ご家族にあてた遺書を書かれます。二人の息子さんがおられたのですが、長男の冬樹君にあてた遺書にこうありました。

     冬樹へ

 君の父は召された。君はわずか十四歳。早すぎる。つらい、悲しい、と思うかもしれない。

 しかし冬樹よ、ただ悲しんではいけない。

 すべては主のご計画によるのだから。しかも私は病気によって、主の啓示を受け、

 信仰をもつことができた。それは何よりも、どんなことよりも、貴重であり、 

 素晴らしいことだと思わないか。

 私は知っている。君は純粋な人間だ。正直だ。そして今は主を信じている。

 私は地上で君を深く愛し、そして君を信じた。これからは君を永遠に愛し、永遠に信じている。そして、     

 天国で君を待っている。

 どうか勇気をもって、これからの人生を主にたより、真実に生きてほしい。君はそれをすることも

 父は信じている。

 いつも、主イエスを中心にして、お母さんと史門の三人と、おばあちゃん、しっかりと心を結び合って

 ゆけば、地上の父がいなくても道は必ず開ける。

 私は君を息子として誇りに思う。

 君は主によって、よしとされるキリスト者になると父は信じている。

 また会うときまで、しっかりと、地上の生を生きてほしい。

        (山川千秋・穆子著「死は終わりではない」文芸春秋社)

 「死は終わりではない」。これがキリスト教を信じる者の確信です。死は虚無ではない。むしろ新しい、希望に満ちた世界の始まりである。キリストを信じるとき、私たちは、そう言うことができるのです。