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ひまわりさんの日々の信仰日記と再臨信仰のエッセンスについてご紹介しています

福音の道しるべ 58

2013年07月20日 | 日記

 

  58

礼典律に結びついた洗いと注ぎはすべて、たとえられた教訓であった。それは、違反と罪によって死んだ魂を清めるための、内なる心の再生という働きの必要と、聖霊の清めの力の必要を教えるものであった。

しかし、ゆるしは、多くの人が考えるよりももっと広い意味を持っている。・・・神のゆるしは、罪の宣告からわたしたちを解放する法的行為であるばかりではない。それは罪のゆるしであるだけでなく、わたしたちを罪から救うことである。心を変えるものは、あふれる贖罪的愛である。ダビデは、「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」と祈ったとき、ゆるしということを正しく理解していた。 

もしあなたが献身するなら、彼はあなたの良心を活気づけ、心を新たにし、愛情と思いを清め、彼に奉仕するために、あなたのすべての力を整えて下さる。イエス・キリストはあなたのあらゆる動機、あらゆる思いを支配なさるであろう。 

わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。わたしはまたわが霊をあなたがたのうちに置いて、わが定めに歩ませ、わがおきてを守ってこれを行わせる(エゼキエル362527)。

義認とは、良心が、死んだ業から清められ、聖化の祝福を受けることのできる所に置かれることを意味している。

  説教集:どうしても愛せない時 ④ 愛はどんなときにも赦す

 私たちにとって、人を赦すということは、決してたやすいことではありません。以前、私が住んでいた神奈川県で、当時5歳の牧師の娘さんが、教会に時々出入りしていた青年によって、殺されるという事件がありました。娘さんが夜になっても帰ってこない。心配してずっと待っていると、明け方近くになって、警察から電話が入りました。「お宅のお嬢さんらしい子が見つかったから病院へ来てください」という連絡です。ご両親は取るものも取りあえず病院へ行きました。病室のドアの前でーーそのドアの向こうには、娘さんの亡きがらがあるかもしれないのですがーー奥さんが、旧約聖書の言葉を語られました。

「主が与え、主がとられたのだ」(ヨブ記1章21節)

 「神様が命を与えられたのなら、何か意味があって命を取られるのだから、神様にすべてをおまかせしましょう」。そう言って病室へ入られました。やはり、ご自分の娘さんでした。それからはもう、毎日毎日が、砂をかんでいるような生活だったと言います。ご飯を食べていても味がない。1日が何年にも感じられるようなつらい日々だったと……。

 やっと2年たって、この父親は自分の心境を書けるようになりました。その手記の最後のところに、「被害者の親もつらいけれども、加害者の親もつらいだろう。ご両親にも、イエス様のことを知っていただきたいと、キリスト教の雑誌を送り続けました」とありました。そして、「この2年間、牧師だから赦さなければならないんだとか、あるいは、牧師だから頑張らなけりゃいけないだとか、そういう気持ちじゃなくて、本当に神様に支えられて、人を赦すということを学んできました」と結んでおられました。自分の娘を殺されたら、親としてはもう、相手を八つ裂きにしても足りないくらいではないかと思うのですけれども、神様は私たちが求めるなら赦す心をつくり出して下さるのです。