糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

集団的自衛権

2014-04-27 | 雑想

 いま、「集団的自衛権」なるものが国政での話題の一つになっています。

 国政と言えば、消費税増税と社会保障の「解体」、雇用では「有期正規雇用」や「残業代ゼロ」の改悪、TPP参加を急ぎ、外交でも問題だらけです。

 安倍首相の思想の根本にあるのは何でしょうか。「歴史を巻き戻す」——戦前のような日本社会の構築をめざすことに集約されると思います。

 「歴史認識」という言い方をしますが、「認識」を「史実」から踏み外したまま(本人には踏み外した自覚がありませんが)歴史を巻き戻そうとする今の動きには「きなくささ」を感じている人も多いのではないでしょうか。

 

 この「集団的自衛権」というのも、その入り口の一つと言えると思います。

 小泉政権時だったかなあと思いますが、当時のとあるお偉いさんがこんなことを言ったのを覚えています。

 「友だちがなぐられているのを黙って見ているのは友だちではない。助太刀するのが友だち」。

 このときのこの話は、自衛隊の海外派兵を巡っての議論だったと記憶しています。結局自衛隊は海外へ出かけていますが、今のところ戦闘行為には及んでいません。ここには憲法9条の歯止めがガッチリかかっています。

 

 安倍さんは、この歯止めを取り外そうと憲法を変えようと画策中ですが、これはなかなか骨の折れる作業でスイスイとはいっていません。

 それでも早いとこなんとかしたい、そこで出たのが「集団的自衛権」なわけです。

 

 先の友だちのけんかの話ですが、友だち(アメリカ)がなぐられている(交戦中)ときに助太刀する(アメリカと一緒に戦う)ことを言っているのはお分かりでしょう。

 この話、もっともなようでそうでもないんです。戦争状態にあることを「殴られる」と表現していることに、実は現実とは違うものがあるんです。

 殴られている=被害者の公式が成り立ちそうで、これを助けるとなれば、一見正義のために立ち上がるように見えるんですが、このけんかの舞台は、いつもアメリカではない、別の土地です。これでは「殴られている」という表現が正しくはありません。

 じゃあ、正しい表現をすると、同じ行為がどのように映るか試してみましょう。

 「友だちが殴っているのを見たら、黙ってみていてはいけない。一緒に殴るのが友だち」と、こういうことになりますかな。まるで集団暴行の片棒を担いでいるようではないですか。

 戦争はいつでも、どんな中身であれ、「自分の国を守るために戦う」と宣伝されます。だからこそ、「防衛」「自衛」と呼ぶのですが、これを鵜呑みにすると、安倍さんのような人が出てくるわけです。もっとも、今は安倍さんが先頭に立ってそういうことを宣伝しているんですが。

 

 日本国憲法は、「友だちのけんかをやめさせる」ことが日本の役割だとうたっています。世界の恒久平和を希求する憲法を持つ日本の国際的な役割は、「戦争しないこと」にあるんです。

 安倍さんがどんなに「平和」を口にしても(「積極的平和主義」なる詭弁まで言ってますが)、戦争できる条件をつくろうとする限り、日本国憲法の精神とは根本的に相容れないのです。

 「もし外国が攻めて来たらどうする」「話が通じない相手もいる」と聞くことがあります。この議論は、全部「相手が悪い」「相手の都合」によるものですね。必要なのは、相手から攻めてこられない外交をすること、話が通じないところがどこなのかをきちんと整理し、誠実に交流することではないでしょうか。それこそが「平和主義」の日本国憲法の精神であり、日本の役割なんです。

 

 「いざという時の備え」と言いながら不安を煽り、戦争できる準備を進める安倍首相。根本的な「国のあり方」に関わる大問題です。必要なのは備える覚悟ではなく、「暴力をふるわない」覚悟ではないでしょうか。そして、それこそが国際的な信頼をかちとる唯一の道筋だと思います。 

 


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