糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

親子

2013-07-27 | 日記

 うちの娘たちは、3人ともいい年してまだ子どもです。

 上の娘なんて、今年で20歳になるというのに、親と一緒に行動することに抵抗がないというか。

 

 先日、娘が腹痛を催したので病院へ連れて行きました。疲労の溜まっていた私は、待合室で転寝をしていたのですが、隣に娘がずっと座ってました。

 病院というのは、カミさんの勤めている病院ですから、当然私たちのことも、職員のみなさんご存じなわけで、その日のうちに、カミさんはみんなに「家族みんな仲がいいんだね」と言われたのだそうです。

 下の双子はもっと情緒面が幼いと言えます。もう就職なり、進学なりがリアルな年齢なんですが。娘たちに進路を訊くと、「具体的に学びたいことがあるわけではないので、進学はない」「といって、就職といわれても...。」という答え。まあ、私も18かそこらで自分の人生設計を建てられたわけではありませんが、それにしても「そういう年齢なのだ」という自覚にも著しく欠けているというか、まだ逃げ回っているように見えます。

 今年の夏休みは、家族でキャンプを予定しています。

 カミさんが、若い職員と夏休みの話になり、そう言うと、「家族でですか?あり得ない」と言われたそうです。若い、年頃の娘が親と一緒にキャンプなんて、ということだそうです。なるほどなあと思いました。

 確かに私自身、中学生くらいになると、親が学校に来るなんて「恥ずかしい」と思ってましたし、親の方も、そういう姿勢でした。

 

 なぜ、我が家の娘たちはこうなのか。「親の教育」なのでしょうか?まあ、否定はしませんが、それだけではない、重要な要因は、小学生のころからずっといじめられてきたことにもあるように思っています。

 

 誰からもまともに相手にされず、それでも通い続けた学校という場所で、娘たちは同世代の他人の子たちと社会を形成することができませんでした。私の娘たちが安心していられる場所は家庭しかなかったといえます。

 

 ですから、人とのコミュニケーションも上手にできません。人の気持ちに配慮しながら、自分らしくふるまうことも。良くも悪くも正直です。そういう人間は、今の社会では、やっぱり生きづらい。

 

 それでも娘たちは、娘たちなりに頑張っていますし、娘に関わる人たちも、あたたかく見守ってくれています。今は生きづらい世の中ですが、「誰かが理解してくれている」という安心感、信頼があるから、娘たちは生きていられる。その「誰か」は、今は親なんですが、少しずつ、今は外に向かいつつある段階です。

 

 大変な思いをしながら、それでも社会の中で生きようとする娘たち。疲れて甘えてくることもあります。しょーがないよね。

 

 我が子らが、情緒面でも大人になるのは、もっと先のこと。20歳になれば、スイッチが入るように大人になるわけではありませんからね。傷ついても、挫折しても、「最後の砦」はあるからね。安心して挑戦して、成長してもらいたい。

 

 親として、大人として、後世を支える人の社会をよりよくしたい。その思いで、社会と、我が子と接しているつもりです。

 

 

 

つもりですよ。


今はひとまず

2013-07-22 | 日記

 参院選で、日本共産党が改選3議席から8議席へと躍進を遂げました。

 都議選に続く前進を勝ち取ることができたのは、党員のみなさんの奮闘と、有権者のみなさんの思いが結実したものですよ。お疲れ様、おれ(笑)。

 

 思えば昨年の5月に、総選挙の小選挙区候補にまつりあげられて以来、選挙続きでした。

 昨年末まで総選挙、終わったと思ったら前橋市議選のお手伝いにどっぷり浸かり、春には榛東村議選のお手伝いをしつつ、やれ参院選だと思っていたら、6月には都議選のお手伝いで東京通い。

 

 いやあ、大変な時期だったなあと、あらためて思います。

 

 また、議席が増えたからと言って、のぼせ上がってはいられません。安倍首相は憲法の改定の狙いを緩めたわけではありません。むしろ、憲法をめぐる問題はこれからが正念場。

 

 平和と民主主義、命とくらしを守る政党として、これからの日本共産党の活動のいかんが重要です。


個人と政党

2013-07-20 | 雑想

 町を移動していて目にするポスター。「あれ?知らない候補者だな」と思ってよく見ると、比例候補のポスターでした。

 

 参院選の比例代表選挙は、政党名でも個人名でも、有効票となります。だからなのでしょう、比例候補のポスターも多い。個人を売り込んで少しでも多くの票を獲得したいという考えなのかもしれません。

 

 が、たとえば原発の再稼働を進める、あるいはそれに賛成する政党に所属している候補者が、「党が何を言っても私は反対です」という候補者がいた場合、原発の再稼働に反対している人が、「個人としては良いことを言う」「個人の人柄が良い」という理由で投票したとします。その候補者が当選した場合、この議員はその後どうするでしょうか?

 

 こんな話、昨年の総選挙のときにずいぶんあったと思いますが。

 

 消費税増税やTPPへの参加を巡って党内が割れ、結局その党から離れて新しい政党を立ち上げたり、あるいはその政党の政策を変えられないまま、考えをひるがえしたり。

 

 党の分裂にしても、その議員の所属政党が変わるにしても、結局残ったのは「消費税増税」「TPP参加推進」ではないでしょうか?

 

 「党が何を言っているか知らないけど、私は」という候補者は、結局有権者か所属政党か、どちらかを裏切ることになるんです。どちらを裏切っても、結局国民の思いを裏切る行為ですよ。その人個人は悪人でなくとも、こういう候補者を私は信じることができません。また、こういう候補者を擁立して平気な政党もおかしいと思いますよ。

 何を言おうと、党の議席になってしまえば、あとはこっちのもの、という政党の考えも見え隠れして好きになれません。いや、もっとも私は自分の考えでもって日本共産党に籍を置いているのですから、他党を好き嫌いで話してもしょうがないんですが。

 

 党内で自由にものが言えるということと、党の政策とは違うことを公に自由に言うこととは、問題が全く違いますので、そのあたり誤解のないよう。

 もっとも、全党あげてウソをついている政党は論外ですけどね。

 

 


人の個性ってなんでしょ

2013-07-18 | 雑想

 昨日は「学校評議員会」なるものの会議に出席しました。PTAの会長はこの「学校評議員」に自動的になるのだそうで、一昨年前に会長をやったときにもやっぱりやりました。

 要するに、県下の高校がやることになっているのだそうで、「羅針盤」を持ち、それを裏付ける「目標」等をもって、それが達成できたかどうかを、地域や教職員、PTAなどが「評価」するもののようです。

 

 さて、それもそれなんですが、この集りの中で、他の出席者の発言に、妙に気になったことがあったので、ちょっと考えたくなりました。

 「高校を出て社会に出る子は特に、社会人としてのルールやマナーを身につけてほしい」「家庭の親では不十分。学校でそういった指導をしてほしい」という言葉でした。

 ここでのルールやマナーというのは、社会性という言葉であらわせるかなと思います。「慣習」とも言えるかもしれません。

 

 さて、うちの子が通う高校は定時制です。いろんな事情を抱えながら入学した子が多く、進学をめざす子ももちろんいますが、就職希望率も、全日制普通科高校より高いかと思います。

 

 最近の企業は「コミュニケーション力」を求めていると言います。そういう風潮のなか、ことさらに「ルール」や「マナー」が強調されているように思うのですが、それって、どうなんでしょう?

 

 内気で自分のことが上手に表現できない人は、もう就職は無理?型にはまった物言いや立ち居振る舞いができなければNG?

 

 「いや、そこまでは...」と多くの方が思うかもしれませんが、面接の指導などを見ると、きっとそう感じますよ。就職を希望している人びとにとって、面接とは、「人間そのものを量られる」ほどの重要性を持っています。なにしろ、面接へたどりつくことすら、今の社会は大変ですから。

 

 でも、じゃあ面接にすらたどり着けなかった人びとは人間として何かが足りないのでしょうか?面接でちょっとした言葉遣いや所作で失敗した人は、何か欠けてるのでしょうか?

 

 人を不快にさせないのは、ルールやマナーを完璧に身につけることではないと思うのですが。そして、人を不快にさせないためにどうすればいいかは、社会性が育つ中で身につくものではないですかね?誰かのお仕着せでルールやマナーが形成されていくものでもないと思います。

 

 それができるためには、社会がもっと柔軟で、深い懐を持っていなければならないんですが、残念ながら今はそうではありません。誰かのお仕着せ的な価値観によって社会の常識まで左右されているのが現実です。じゃあ、「今はこうだから仕方ない」のか?

 

 社会を構成している一人一人が、自ら持っている力をきちんと発揮することで、社会のあり方なんて変えられます。絶対不変の社会なんてありえません。

 私は「だれもがいていい社会」が好きです。

 

 

 

 

 そんな話をカミさんにしたら、「あなたはそのあたり、突き抜けちゃったもんね」と言われました。

 

 


めまぐるしくすぎゆく日々

2013-07-13 | 雑想

 今回の参院選からインターネットを利用した選挙活動が解禁になっています。普段メディアからほとんど無視されている日本共産党にとって、これは貴重な分野です。

 '90年代半ば、カミさんによって我が家にMacintoshの導入が強行されました。高かったなあ、あの頃は何もかもが。ちょうどパソコン通信からインターネットへ、通信手段が移行するころで、爆発的に広がる少し前と記憶しています。

 したがって、我が家のインターネットデビューは少しだけ早かったのではないかと思っています。

 当時、私はパソコンが嫌いでした。食わず嫌いだったといえばそれまでですが、ちょっとしたきっかけでパソコン(ずっと我が家はMacです)を使い始めてからドはまり。インターネットの環境も、技術の進歩にことごとく食らいついてきたわけです。

 で、小さな町工場で働きながら、小さな町工場ならではの苦渋を感じていた当時、インターネットという環境に多大な可能性を見いだしました。

 自ら情報を発信し、ビジネスにつなげることができると感じたのです。自社製品を開発して販売できると。しかし、現実は甘くありませんでした。テレビCMのようにお金をかけなくても確かに商売はできますが、利益を上げるために必要なのはお金でした。結局他の媒体を使うとか、高額な広告バナーを使うとか、そんなことが求められ、そんな資金がなければ、当時の環境では広がりをつくることが困難でした。

 

 思いついたのが早すぎたかな(苦笑)。今では割とあたり前の環境になっているインターネット。それなりに影響力もありますよね。

 

 自ら情報を発信し、双方向で情報や思いを即時にやり取りできるインターネット。それだけに、情報を発信する側の責任も重くなります。

 

 「ネット選挙」もいいですが、個人的には、毎日がめまぐるしく過ぎ去り、ブログの更新もままならないという、せっかくの環境を活かせない現実があったりします。とほほ。