糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

似て非なるもの

2015-06-19 | 雑想

 戦争法案が国会で本格的に論議されています。

 党首討論でも特別委員会質疑でも、安倍首相のへどもどした語り口にはいらだちを感じていますが、国民世論の反対の声が高まるなかで、強がってみせていても、安倍首相本人が一番いらだっているのかもしれません。いや、いらだちを通り過ぎ、今や不安なのではないでしょうか。

 

 「今の状況が戦前に似ている」というご意見を、ネット上で目にすることがあります。日本が、国民の知らないうちに深刻なまでに戦争の深みにはまっていく頃のようだということなのでしょうか。

 確かに、私もそう感じたことはありました。もっと前に。小泉氏が首相になったときでした。異様に高い支持率もあり、自民党内にとどまらず、他の野党も追随、マスコミまでも異様に持ち上げる雰囲気に、「大政翼賛会」ができたころの情勢って、こんな雰囲気だったのだろうかと思いました。

 今は、まさに「海外で戦争できる国」になるのかどうかが問われている情勢です。権力を掌握している一握りの少数派によって、この国のあり方が大きく変えられようとしているときです。

 しかし、当時とは決定的に違うことがあります。社会の仕組みです。この社会の仕組みが違うことが、当時とは大きな違いを作っています。

 戦前、日本は絶対主義的天皇制であったことは、中学校までの授業で教わっていると思います。選挙制度があり、内閣、国会もありましたが、全ては「天皇の許す範囲」でのこと。教育の現場でも、子どもたちは天皇を「現人神」だと教えられ、当時の憲法にも、「神聖にしておかすべからず」と明記されていた存在でした。

 当時国民がもっていた自由は、「天皇の許す範囲」にとどまりました。国民は天皇に仕える「臣民」にすぎませんでした。

 

 敗戦後、日本は国民が主権者となって国をつくる民主主義の国になりました。紆余曲折を経て、選挙制度などに新たな問題を抱え込んだりはしていますが、国民のもっている自由は、戦前の制限されたものとは全く違います。

 

 決定的な違いは、まさにここです。

 国民は、自分たちの自由を享受して育ち、国民主権、民主主義をまがりなりにも経験しているということなんです。

 戦前なら、「御上の言うことだから」で終わっていたことでしょう。何しろ主権者は国民ではありませんでしたから。しかし、国民主権の国で安倍首相の所行が許されるはずがないことを、現在の国民は知っています。

 

 「戦争をしない」と誓った国で、主権者としてこの国に生まれ育った国民にとって、安倍自民・公明政権がやろうとしていることはルール無用の暴挙であり、この国の主人公である国民に対する反乱=クーデターであると言っても過言ではありません。何しろ国のカタチを変えるおこないです。

 

 改憲という過程を経ることが難しいと思うと、「解釈」の変更だけで進めようとする無理がすでに露呈し、破綻しています。それでもなお、安倍政権はゴリ押しを進めています。「国会では多数だから」と思っているかもしれません。「とにかく戦争できる国への道筋をつけておけば、あとはどうにでもできる」というのが、安倍首相の狙いでしょう。

 

 しかし、強引に押せば押すほど、国民との矛盾は深まります。今まさにそういう状況ではないでしょうか。戦争を知らない多数の国民が「戦争したくない」と願っています。世論調査でも明らかですし、一頃は見向きもされなかったデモや集会に、老若男女を問わず、多くの国民が集まり、声をあげています。

 安倍政権を世論で包囲して孤立させ、断念させることが今の日本でできること。この声と運動を、「国民の声を無視すれば、自民党、公明党の今後の存続すら危うくなる」と思い知らせるほどに大きくすることが、いま大切なことだと思います。

 

 勇気を持って、声をあげましょう。一人で声をあげるのはなかなか度胸のいることです。一人が難しくても、私たちがいます。集会やデモも各地で行われています。そこに参加することも大切な「意思表示」です。

 この意思表示こそが、安倍の反乱を鎮圧し、私たちの命を守るための手段となります。何かの機会に、そういう集まりがあることを知ったときには、ぜひご参加ください。

 

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿