糸井ひろしの気まぐれ日記

日本共産党群馬県西毛地区委員会役員の日々のあれこれ

カネが政治を動かす時代を終わりに

2014-10-22 | 日記

 小渕氏が経産相を辞任した騒ぎは、私の周辺でもそれなりに騒ぎになってます。まあ、当然と言えば当然 。21日付「しんぶん赤旗」日刊紙には、小渕氏の選挙区内(群馬5区)で配られたワインが見つかり、写真入りで報道されました。

 以前にアポなしで職場へ取材にきたテレビ朝日の記者さん、一昨日には私の自宅まで来て「あれ?」なんて言ってました。私の顔と名前が一致しなかったようで。そのとき私に、「(小渕)ワインは見たことありますか?」と聞いてきました。これも地元で聞いた方が良いだろうと言っておきましたが、テレビ朝日のニュースで取り上げられたようです。うまくいったのかな?

 

 地元では小渕氏に同情的な声もあるようです。

 こういう人たちの多くが考えるのは、地元びいきもあるでしょうが、「他の議員だってやってるだろう」ということではないでしょうか。

 このことは、同情的な人にかぎったことではありません。「またか」とか、「しょーがないなあ」くらいに思い、大して気にしていない人にもあてはまるかもしれません。

 この国は、長いことカネによって政治が動かされてきました。今だってそうなんですが。でも、カネが政治を動かす時代をもう終わりにしませんか?

 

 自民党は、金権体質では折り紙付き。昔から汚職の絶えない体質でした。たまたま見つかったことが大きな事件に発展したことも数知れず。

 そういう体質の政党ですから、「ここにカネを注げば、自分たちの思い通りに政治が動く」と考える大金持ちは自民党を応援するし、政治をやろうと志す者の動機も、初めからカネ目当てだったりするんじゃないでしょうか。なんといっても企業献金も政党助成金も「歓迎」の体質の政党です。

 使い古された言葉ですが「赤信号 みんなでわたれば怖くない」といいますね。「みんながやってるから問題ない」「みんながやってるからしょうがない」では、いつまでも私たちの思いが政治に正しく反映されることはありません。何しろ「カネを持っているかどうか」が政治の行方を決めることになるんですから。連中が「怖くない」のは、みんながやってるだけでなく、主権者がそれを黙っているからです。主権者が、自分たちの権利をカネでどうこうしようということを許さなければ、彼らは怖くてしかたないでしょう。

 

 原発が地震大国日本にこれだけ増えてしまった要因には、原発を置く自治体をカネ漬けにした歴史もありました。群馬5区だって、八ッ場ダム建設を巡って村を分断したのはカネでした。巨大な企業の利権のために巨額のカネが投じられ、小さな、真摯な声はその口をふさがれてきたのです。

 

 カネが政治家(政治屋という方が適切か)を動かし、主権者国民を黙らせる。これが残念ながら自民党が長年続けてきた「政治」の性質なのだと思います。こういう人々は「国民にはカネを配れば大丈夫」だと思っています。はっきりいえば、有権者をなめているんです。

 主権者たる国民のみなさんが、「しょーがない」と思うことなく、本気で「カネが政治を動かす」歴史を終わらせようと思うこと、そのために自らが政治を見つめ、監視して、主体的に関わることが必要なのだと思います。

 

 あきらめないこと。政治を遠くの誰かのものだと思わないことが大事です。政治は、余所事ではなく、身近なあらゆるところに関わっています。民主主義、国民主権の日本なんですから、みなさんの声こそが政治を動かすようにしたい。そのために私は今ここにいるのだと、あらためて思います。

 

 


無事に?卒業しました。ので、卒業によせて

2014-10-04 | 日記

 先日、まんなかの娘(双子の片方)が無事に高校を卒業しました。定時制のフレックスで2学期制。編入などもこの時期なので、この高校では年に2回、入学式と卒業式があります。

 

 一番目の娘は「3年で卒業する」と言っておきながら、あまりの居心地の良さに、必須科目をわざと取らずにおいて4年通いました。3番目の娘は、迷いながらも先生に説得され、3年で卒業しました。今回卒業した娘は、3年で単位が取れなかっただけという...。

 

 ま、それはさておき、紆余曲折を経ながら卒業式を迎えることができたわけです。

 通常なら、卒業生の保護者は、PTA役員も保護者として出席しますが、今回は会長がどうしても出席できないとのことで、副会長の私が代理で会長席に座り、祝辞を読むことに。まあ、ゆるい運営ですので、こういうことも有りです。あ、でも親御さんはみなさん、まじめで一所懸命ですよ、もちろん。

 

 校長が式辞で、餞の言葉として「考えることをやめないでほしい」とおっしゃいました。あ、いいこと言うなあと思ったので、いただきましたw。

 

 私が祝辞で述べたのは、「なぜ考えなければならないのか、それはみなさん一人ひとりがこの国の主人公だからです」と話しました。

 この国がおかしな方向へ向かおうとしたときに、この国の行方を人任せにし、考えないでいて何もしなかった場合、それはそのことを許したことと同じことになります。

 憲法では、主人公がみなさんであること、代表者は、みなさんのもっている力を預けられているにすぎないこと、そしてその利益は、みなさんに還されることが明記されています。

 とはいえ、一人でできることはしれています。支え合わなければ、人は生きて行けません。一人ひとりの得手不得手を活かしながら生きて行くんです。

 

 みなさんの未来がどうなるかは、みなさんのこれからの生き方次第。明るく切り拓かれることを心からお祈りします。

 

・・・と話したと思います。何しろ、いつもその場でしゃべっているもんで、原稿がありませんw。

 

 式のあとは、私は仕事にもどり、夜帰宅したのですが、式の主人公である娘は、「共産党の演説みたいだった」と感想を述べ、保護者席にいた末娘(双子のもう片方)は、「先生や生徒らが『感動した』って言ってたよ」と話してくれました。

 

 「一人ひとりが主人公」という言葉が響いたのだそうです。うちの娘たちくらいの青年たちは、著しく成長する社会の姿を見たことがありません。

 卒業を前に目にした現実は就職難と先の真っ暗な社会、そして自分の未来です。そういう未来を明るく拓くのは他でもない、青年たちです。

 同時に、暗い未来を見せている私たちの責任も重い。私たちおとなだって、この国の主人公です。

 

 いろんな人がいてこその民主主義、みんなが主人公なのが民主主義です。そして、民主主義というからには、自らが主張することと同じくらい、他人の主張を聞かなければフェアではありません。

 人の意見に「見解の違い」と話を切り上げ、「指摘が当たらない」とまともに返答せず、自分の主張だけを、国民から預かっている権力をふりかざして押し通す安倍首相には、民主主義の基本が理解できていません。

 私たちの権力が、預けた先で国民を蹂躙する強権政治に使われ、主人公である私たちを苦しめています。こういう内閣を私たちの代表などと認めるわけにはいきません。即刻退場を。