夜になって暫く経っていると言うのに、ナンだか眠くならなくて困っている。
しかし、夜がいつまでも選るなら良いのだが、寝ないままでも朝は来る。
寝ても居ないのに朝になってしまう、これが困る。
一晩くらい寝なくても、と、言うは易し、現実は眠し。
眠れない時の本と言うのがある。
鈴木大拙なんかは何遍読んでも新鮮で眠くなるのだが、今夜は効き目が出ない。
それよりも良く解らない表現がいつにも増して難解に思え嫌になる。
坊主の説教は有難いのだろうけれども、如何せん即効性に欠けるのが難点だ。
お浄土の話は有難いと思うけれども、未だ生きていて、たぶん明日も夜は明ける。
そう言えば、お念仏を唱えようと思った時には未だ口にしなくてもすくわれるんだそうだ。
他力と言うのは便利なものです。
しかし、親鸞は念仏もうさんと思ったらすくわれると言うけれど、大勢の人の心が解るのかな?
師匠の法然の考えよりもまた一歩他力に踏み込んだんだな。
鈴木大拙はしきりに名号と書くんだけれども、南無阿弥陀仏だけが名号では無いらしい。
でも、南無阿弥陀仏と唱えるだけでお浄土に行けると決まったら安心して死ねる。
それ、本当だと思う? 安心して死ねるってどこか変だ。
高名な禅宗の坊主の遺偈に「死にたく無い、死にたく無い」と言うのがあるらしい。
先週は歎異抄を読んでみた。
解らないなりに自分の解釈で親鸞と向き合ってみた。
悪人正機説の部分は偉い人達が散々に考え抜き議論した所だが、ちゃんと読めば直ぐに解る。
悪人とか善人を娑婆の価値基準で捉えると難しくなると思うな。
人殺しは悪いと言う単純な善悪の話では答えは出ないんだな。
戦争で沢山人を殺したら勲章をもらえるように、娑婆の善悪は仏様は興味ないんだな。
でも、善人がすくわれるのなら悪人はなおさらと言うのは解釈の違いじゃないと思う。
親鸞の教えは「他力」を言うんだから生き様も他力であるはずなんだな。
生き様も仏様の計らいなのだから人殺しも泥棒も火付けも人生すべてが他力だったんだな。
だから仏様はどんな人もすくうんだろうと思ったんだが、違うかな?
こう言う事を考える時に娑婆の物差しがとても邪魔で社会的制裁が出てく来て面倒になる。
しかし、それも他力と考えれば意外と簡単にあきらめがつく。
社会的制裁を加える人も他力の人生を歩んでいて、それが仏様から頂いた生き様なんだろう。
だとすれば、例えば、絞首刑になる囚人と執行官も仏の縁と言う事になる。
特別恨みっこも無いし、お浄土ではきっと仲良しなのだ。
娑婆は仮住まいみたいなものでお浄土にこそ落ち着くべきなのだ。
なぁ~んてな、読んで知った知識を解ったように並べてみても浄土に行く自分の姿は未だ見えない。
残念な事に、娑婆の誰もお浄土を知らないのは致命的だ。
見ていないのだから信じろと言われても難しい。
そう言えば、お浄土は広い所らしく、南無阿弥陀仏を唱えなくても成仏はするんだけれど、お浄土のすみっこに行くんだって。
念仏もうさんとする心が起きなかった凡夫でも仏様はすくって下さるんだけれども、お浄土のすみっこなんだと書いてあった。
そう言うのを読んだら臍曲りはお念仏を唱えず、念仏もうさんとも思わないでいてみようかと思う。
弥陀の本願を疑うなんて、これ以上の悪は無さそうなのでおっさんはやっぱし浄土の隅っこだな。
未だ眠く無いんだけど どーしましょう?
しかし、夜がいつまでも選るなら良いのだが、寝ないままでも朝は来る。
寝ても居ないのに朝になってしまう、これが困る。
一晩くらい寝なくても、と、言うは易し、現実は眠し。
眠れない時の本と言うのがある。
鈴木大拙なんかは何遍読んでも新鮮で眠くなるのだが、今夜は効き目が出ない。
それよりも良く解らない表現がいつにも増して難解に思え嫌になる。
坊主の説教は有難いのだろうけれども、如何せん即効性に欠けるのが難点だ。
お浄土の話は有難いと思うけれども、未だ生きていて、たぶん明日も夜は明ける。
そう言えば、お念仏を唱えようと思った時には未だ口にしなくてもすくわれるんだそうだ。
他力と言うのは便利なものです。
しかし、親鸞は念仏もうさんと思ったらすくわれると言うけれど、大勢の人の心が解るのかな?
師匠の法然の考えよりもまた一歩他力に踏み込んだんだな。
鈴木大拙はしきりに名号と書くんだけれども、南無阿弥陀仏だけが名号では無いらしい。
でも、南無阿弥陀仏と唱えるだけでお浄土に行けると決まったら安心して死ねる。
それ、本当だと思う? 安心して死ねるってどこか変だ。
高名な禅宗の坊主の遺偈に「死にたく無い、死にたく無い」と言うのがあるらしい。
先週は歎異抄を読んでみた。
解らないなりに自分の解釈で親鸞と向き合ってみた。
悪人正機説の部分は偉い人達が散々に考え抜き議論した所だが、ちゃんと読めば直ぐに解る。
悪人とか善人を娑婆の価値基準で捉えると難しくなると思うな。
人殺しは悪いと言う単純な善悪の話では答えは出ないんだな。
戦争で沢山人を殺したら勲章をもらえるように、娑婆の善悪は仏様は興味ないんだな。
でも、善人がすくわれるのなら悪人はなおさらと言うのは解釈の違いじゃないと思う。
親鸞の教えは「他力」を言うんだから生き様も他力であるはずなんだな。
生き様も仏様の計らいなのだから人殺しも泥棒も火付けも人生すべてが他力だったんだな。
だから仏様はどんな人もすくうんだろうと思ったんだが、違うかな?
こう言う事を考える時に娑婆の物差しがとても邪魔で社会的制裁が出てく来て面倒になる。
しかし、それも他力と考えれば意外と簡単にあきらめがつく。
社会的制裁を加える人も他力の人生を歩んでいて、それが仏様から頂いた生き様なんだろう。
だとすれば、例えば、絞首刑になる囚人と執行官も仏の縁と言う事になる。
特別恨みっこも無いし、お浄土ではきっと仲良しなのだ。
娑婆は仮住まいみたいなものでお浄土にこそ落ち着くべきなのだ。
なぁ~んてな、読んで知った知識を解ったように並べてみても浄土に行く自分の姿は未だ見えない。
残念な事に、娑婆の誰もお浄土を知らないのは致命的だ。
見ていないのだから信じろと言われても難しい。
そう言えば、お浄土は広い所らしく、南無阿弥陀仏を唱えなくても成仏はするんだけれど、お浄土のすみっこに行くんだって。
念仏もうさんとする心が起きなかった凡夫でも仏様はすくって下さるんだけれども、お浄土のすみっこなんだと書いてあった。
そう言うのを読んだら臍曲りはお念仏を唱えず、念仏もうさんとも思わないでいてみようかと思う。
弥陀の本願を疑うなんて、これ以上の悪は無さそうなのでおっさんはやっぱし浄土の隅っこだな。
未だ眠く無いんだけど どーしましょう?
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