じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

アッパーピサン へ No.10

2013-12-16 15:19:06 | ネパール旅日記 2013

 11月14日 木曜日 快晴

 今日は休養日でローピサン(3200m)の村からアッパーピサン(3400m)へ遊びに行くなどして体力の回復に努める。
そう言う事になっているのだが、実際は休養日と言うよりも荷揚げ日で、ナラバードルとナーランはキャンプ道具一式とクライミング装備を担いでベースキャンプへ荷揚げに行くのだった。
そうと知っていれば休養日などにあてず、高度順化を少しでも進める為に自分も上に登ってみたのだが。
荷揚げに行くと知ったのは二人が歩き出した姿を見た時で既に遅かった。

 昨晩は酷い目に遇った。
隣の部屋のフランス人がいつまでも話していて、フランス語は一言も理解できないが、低い声がかえって耳の底に響き寝付かれなかった。
しかも、明け方トイレに行った時にフランス人の片割れの眼鏡が、自分がトイレの戸を閉めようとしている瞬間に何やらもごもご言いながら、人を押し退けて入って行く暴挙を仕出かした。
いくら緊急事態だとしても先客を追い出してと言うのはやり過ぎだろうと思うが、トイレットペーパーを握り締めた顔が必死の形相だったので譲ってしまった。
自分らが居るのは三階で、トイレは二階にも一階にも有るのだからそちらへ行けば済む事なのでそちらへ廻った。

 朝飯を食べた後もダイニングでのんびりとお茶を飲み出発して行くトレッカーを見送った。
彼らの行動パターンは結構忙しい事が分かった。
まず、朝起きると先にパッキングやトイレを済ませ、荷物を持ってダイニングにやって来る。
そして、朝食を食べ終えるとのんびりせずにさっさと出発して行く。
自分は山小屋を使った縦走でも自炊が前提なのでパッキングは一番最後だ。
ましてやテント泊では何もかも終わった後でないとテントは仕舞えないのでパッキングは最後にしか出来ない。
その癖がついているのでどうしても食事が先でパッキングはすべてが終わってからになってしまう。
しかし、朝のネパール時間の洗礼を何度か受け、場合に因ってはパッキングを先に済ませる事も覚えたが。
ああ、彼らもそれが故の行動パターンなのかも知れない。
もう一つ深読みすると、陽が昇る前には起きない事にしているので朝は忙しいのかも知れない。

 フランス組はベシサハールへ向かって下りて行ったが、ガイドによるとチャメからジープに乗るらしいので明後日にはカトマンズに着けるだろう。
ポーターが三人、それぞれに荷物を山のように背負っていた。
ドルジにチュルーイーストはキャンプが長いのかと訊くと、大した事は無いと言う。
二人のクライミング道具にしては多過ぎないかと言うと、キッチンテントとパーソナルテントとガイドやポーターのテントを分けて持つとあの量になるんじゃないかと言った。
我が隊はクライマーが一人だが、あれに比べたら相当コンパクトに収められた装備に見えるが、その理由は翌日ベースキャンプに登って判明した。

 ピサンの村は東側が開けていて、予想に反して朝の日当りは悪く無かった。
9時前にはすっかり陽が登り、風も収まって温かく感じるようになっていた。

 ドルジがアッパーピサンの寺を見に行こうと言うので出かけた。
チベット仏教の事は良く知らないが、チベット仏教と日本仏教は大乗で、特に日本の真言と似ているのだと、河口慧海の本で読んだ記憶が有った。

 昨夜泊まったアメリカ人トレッカーのガイドが寺の説明をしていたのを聞いていたら、1996年にダライラマがやって来たとの事だった。
その後いくつかの寺を廻ったのだが、どこの村の寺でも一度や二度はダライラマの訪問を受けているようで、来てもらうと寺の格が上がるのでお布施を準備して招くようだった。

 アッパーピサンまでは標高差で200mある。
200メールを一気に登る石段が続いていて、人も牛もロバも犬もそれを上り下りしている。
ローピサンは川沿いで、橋を渡ってアッパーピサンの学校へ通う子供が歩いて行く。
標高が3000mを超している事もあって息は直ぐに上がり、自分は7~8歳の子供とすら同じ早さでは登れなかった。

 ドルジが、高度順化だからゆっくり行こうと声を掛ける。
200mの標高差でも高度純化に効き目があるのかと問うと、やらないよりはやった方が良いし、どうせ暇だから、と、癪に触ることを言う。

 自分の少ない知識では、3400m程度で上り下りしていても、明日の4200mへの順化の役には立たないと思うのだったが、確かに、他にする事く暇だった。

 アッパーピサンはローピサンよりも旧い村で石積みの家々の軒下を回廊のように道が巡り、これが本当のアンナプルナ街道だったのだろうと思わせる味わい深い道だった。
実際にアッパーピサンからは山廻りの道が暫く伸びていてGhyaru(3670m)の村などを経てManangで合流する。
ピサンピークアタックの後この道を行かないかと提案したのだが、ナーランがこのルートはキツいと大反対をして話しは流れた。
それもそうだ、自分はいざとなったら荷物を全部ナーランとドルジに押し付けて空身で逃げ切れるが、それの煽りを食うのはナーランだから敢えてキツい道を選ぶなんてとんでもない事だ。
 
 村からはピサンピークは見えなくなっていた。
アッパーピサンはすでにピサンピークの山懷の中なのだ。
ピサンピークと言うと何やら小さなピークを乗り越すような感じも受けるが、3400mの裾野に村を抱いて、村まで登ってもその先が見えない大きな山なのだ。
ピサンの村を通り過ぎHumudeに向かう時に振り返るとピサンピークの全容が見えるが、その姿は正しくヒマラヤの6000m峰と言える威容を保っている。

 ドルジの案内で寺の境内に入った。
自分は山門をくぐる時に手を合わせて入ったのだが、その時、住職と目が会ったら住職も手を合わせて応えてくれたのが嬉しかった。

 正面へ進むと賽銭箱が置かれていた。
日本の寺のように賽銭箱で行き止まりにはなっていなくて、本堂に上がる石段の脇にそれとなく置いてあり、英語で寄付を募る訳が書かれてあった。
自分が100ルピーを入れるとドルジもまた100ルピーを入れた。
彼は本当に熱心な仏教徒なのだ。
しかし、どう言う訳か行く先々で宿での勘定を水増しするなどして小銭をくすねるのだ。
チベット仏教と日本仏教は大乗であり、色々な面で緩いとは思うのだが、自分の都合で喜捨を取って良いとは教えていないと思うのだが。

 賽銭箱に寄付を入れると紅茶を一杯ごちそうしてくれる事になっているようで、住職が大きなポットから注いでくれたのを有り難く頂いた。
たった200mの登りだったが、それでも喉が渇いていたのか、甘い紅茶はとても美味かった。

 寺の中にはネパール語の念仏を静かなメロディーに乗せて唱えている音楽が流れていた。
音楽に乗せて唱えられる念仏をドルジに訊くと「オーマニーペネホン」と言っていると教えてくれた。
だが、他の人が言っているのを訊くと違うようでも有り、所詮他国の言葉で良く分からないのだが住職に尋ねると、オム・マニ・ペメ・フム、「Om・Mani・ Pedme・Hum」で、チベット仏教で一番多く 唱えられる最強のマントラ(真言)だと教えてくれた。
これを聞いて以後は自分も「マニ」を回す時に「オーマニーペネホン」と唱える事にした。

 「マニ」とは、マニの石盤ならマントラ(経文)を石に掘ったり書き付けたもので、マニ車なら、円筒形の銅板にマントラを掘ったり描いたり、または経文が筒の中に納められている。
マニ石は梵字のマントラを彫り込んだ石を何百枚、何千枚、時には何万枚と重ねたり、大岩全部に彫り込んだりしてある。
マニ車は寺のある村なら大抵はあるが、長い塀のようになって並んでいるのが元々の形のような気がした。
旧いマニ車の数を数えてみたら108だった。
マニ車を一回廻すとお経を一度読んだのと同じ功徳があるとされ、ドルジはマニを見つけるとオーマニーペネホンを早口で唱えながら必ず廻して行く。
自分も真似してやるのだが、素手でマニを回した後は手が真っ黒になるのだった。
村により手入れや回し具合に差があるのだろうか、仏教に対する思い入れの違いを感じた。
マニ車には独特の雰囲気と威厳が有るので異教徒の欧米人が触れられる雰囲気ではないのか、戯れに回す姿もほとんど見なかった。

 寺の中は他のアジアの寺院のそれとあまり違わず、矢鱈と金ぴかが目立ち荘厳な雰囲気とは言い難く、自分にはとても軽く感じられた。
ダライラマの相当若い頃の写真が印象的であった。

 寺以外に見る物も無いアッパーピサンの村から、迷路のような石の回廊を抜け急な石段を下って行った。
殆ど下り切ろうと言う所に学校があったので立ち寄ってみた。
先生が居たので挨拶をして教室に顔を突っ込み授業を覗き見ると、そこには6~7才から10才位までと思しき子供が7名座っていた。
黒板には何も書かれていず、学年の違う子供らのようで、それぞれに自分の勉強をしているようだった。
子供らは自分に気付くとナマステーと挨拶してくれたので、ナマステーと返した。
先生に招き入れられたがどうせ間が持たなくなる事が分かっているので日本語で「ありがとう、さようなら」と言って立ち去った。

 プライマリースクールの斜向かいにホテルがあって大きなザックが置かれていた。
ザックには傷だらけのスノーバーが括り付けてあり、一目見てピサンピークへアタックして来た人のものだろうと思った。
ドルジも同じ事を思ったらしく話しを聞いて来ると言って宿の中へ入って行った。
暫くして戻って来たドルジが、アメリカ人の男がガイドとアタックしたが登り切れなかったようだといつに無く神妙な顔で話した。
たぶん山の状況を聞いたのだが、それが相当良く無い話しだったのだろう。
登頂成功の話しが一つも無い中で、根拠の無かった自信が一気に萎えていった。

 昼頃になると風が強くなった。
これは山風で冷たくは無いのたが、何か、妙な匂いとともに細かい藁屑を含んでいるのだった。
それは、この風が道端で乾燥した馬糞や驢馬の糞を土埃と一緒に巻き上げるからなのだ。

 アンナプルナ街道は、馬糞が風に舞うどことなく藁の匂いがする道だった。

 昼飯を食べ、三階の日当りの良い物干し場の椅子に腰掛け、ジンジャーティーを飲みながら道で遊ぶ子供らを見ていた。
すると、スノーバーをザックに刺して歩いて来る白人の男性が見えた。
大柄で屈強そうな若い男だった。
彼奴が登れなかったのか? あの身体で登れなかったのかと驚くとともに、殆ど消え掛かっていた登頂の自信は完全に消え失せた。

 あの若さで、あの身体で登れなかったのかと思うと、どう考えても自分の歳と体力で登れる気はしなくなった。
心無しかしょんぼりとベシサハールへ向かう男の後ろ姿を見送って「余計なものを見ちまった」と呟いてしまった。

 この日の宿は静かだった。
来週が投票日でいよいよ国中の交通機関が止まったらしく、トレッカーの数も減っているのだろう。
自分の他にはカナダのカップルが一組だけだった。

 荷揚げに行った二人が帰って来たのは2時半を過ぎていた。
地図の読みでは標高差1000m、距離にして2.5キロ程度とそんなに時間が掛かるとは思えないのだが、意外と遅かった。
それだけ厳しいと言う事かと、消えかかった自信にとどめを刺された。

 夕食の時にドルジに昼間見たスノーバーを持った男の話しをした。
相変わらず能天気な返事をするドルジで、自分にもスノーバーを一本記念に持って帰れと言い出した。
自分が、そう言う話しじゃ無くて、あんな若い強そうな奴が登れないなんて、俺たちに勝ち目は無いんじゃないかと言うと、大声で得意の「ノープロブレム」を発して、ガイドが違うから大丈夫だと言い切った。
その時、英語が苦手で何時もは何も言わないナラバードルが、「チーム、チーム」と言って笑った。
この時、こんな良い奴らと登れる事に真底感謝をした。

 しかし、登頂の後は最大の揉め事が待っていて、ドルジと言うかネパール人の強かさを思い知るのだが。

 この宿のスープヌードルは普通のインスタントラーメンで安心して食べられた。
明日の為に燃料を補給しなければと、フライドエッグにスープヌードルとガーリックライスを頼んだ。
そして、取って置きの「にこにこのり」も半分だけ食べた。
残りは明日の朝、マルコメのアサリの味噌汁とともに食べるのだ。

 7時半、昨日よりも随分気温が上がっているようで余り寒さを感じる事無く寝袋に入った。

 



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