あれはもう四日も前なので遥か昔の出来事ではありますが岩手県は宮古市の「崎山貝塚・縄文の森ミュージアム」を訪ねたわけであります。
入館料200円 見る価値大有りです!!!
いや、あまり大きく無い市営の施設なので展示物は比較的少なくこじんまりとした印象は否めないのですが縄文前期から後期の2500年も続いた崎山貝塚からの出土品は興味深いものでありました。
海の街らしい展示です
んっ? どこかで見た雰囲気が無きにしも非ず・・・ああ、あれは我が郷土の里浜貝塚の丸木舟の漁師だ、と思いましたが、まっ、いいでしょう。
あれです、縄文時代の疑問の1つに「縄文人の外洋航海」があるわけです。
いや、丸木舟がたくさん出土しているのは知っているし、それを操って沿岸で漁をしていたのは間違いないと自分も思うわけです。
しかし、丸木舟でどこまでの航海ができたのか、そこが疑問なんであります。
いや、多少船と航海の知識があるばかりにどーにも謎が多く分からないのであります。
あれです、外洋航海の話に必ず出てくるのが黒潮に乗って、なんですけれども、乗って流れてくるのは有りだとしても航海と言うからには戻る事もできたわけであります。
しかし、昭和の焼玉エンジンの船なら、潮と風向きによっては遡るのも難儀したほどの黒潮をどうやって遡ったかが自分には思いつかないのであります。
帆をあげたか人力で漕いだか・・・と言っても数夜を超える航海だと水や食料はどうした?
丸木舟にそんな積載ができるとは思えないが、いや、丸木舟を連結して食料を積む船、水を積んだ船、そして漕ぎ手の交代要員が乗る船とやる方法も考えましたが、やっぱし自分の中では謎のままであります。
鹿角製疑似鉤
なんとぉ・・・鹿角製擬似鉤には興奮しました。
いや、縄文人がこれを「角」ツノと呼んでいたかどーか、多分違うと思いますが現在の日本ではツノと呼ぶ擬似鉤があるわけです。
まっ、ツノは今時としては古い道具ではありますが自分も使ったことがあるわけでして、元は縄文時代に遡ると思うと胸が熱くなります、なんちゃって。
で、ここで頂いたパンフレットに丸木舟製作の技術ってのがありまして縄文時代の丸木舟の解説が丁寧にされているわけです。
で、興味深いのは、丸木舟の底が焦げたものが出土し、それは船底を火で焼いて削ったから、とあるわけです。
いやいや、自分はフィリピンはミンダナオ島の海辺の寒村で丸太を焼いて削り出して作る丸木舟を見ていたので驚かないわけであります。
で、もう一つ・・・7500年前の日本最古の丸木舟が千葉県で発掘され、船尾には焦げ跡が確認されたとあるわけです。
私ゃこれについても一言あって、その焦げ跡はカマドだと思うのであります。
なんとなれば、フィリピンで夜通しの航海をする船は船尾にカマドを設え簡単な煮炊きをするのであります。
もしも、縄文人が夜を越えての長距離航海をしたとするなら船尾に木灰を使ったカマドを設え燠火を蓄えドングリなどを煮て食ったと思うのであります。
それの名残が船尾の焦げ跡と思うんですが、まっ、いいでしょう。
いや、魚は刺身で食えるので日干しか生で食ったと思いますが、なんちゃって。
あれです、自分が縄文時代にのめり込むのはどんな本を読んでも全てが仮説であり、実際は謎だらけでなんとでも言えるところであります。
私ゃ反論に対して既に切り札を思いついてあります・・・んじゃ、見て来たのか? と。
大きなヒスイの玉は糸魚川産だそうです
いや、日本海側の糸魚川原産のヒスイが太平洋側の宮古までどーやって運ばれたのか、ここが一番想像の楽しみであります。
で、直線距離で450キロ・・・陸路は難儀なので海路で運ばれたであろうとの解説でありますが、これにも異議ありです。
あれです、アマゾンと宅急便の関係のように注文者がいて出荷され、配送経路に乗って届くってなものでは無く、たぶん原石を持った人か一家がなんらかの理由で旅に出てたどり着いた先が宮古市であり、しかも一代で辿り着いたとは限らず、何代かの手を経てもたらされたとは考えられないのでありましょうか?
だとすると海路よりも断然陸路の方が線が濃いと思うし、自然だと思うんでありますが、まっ、いいでしょう。
おおっと、ほんとーはヒスイの穴の話で締めようと思っていたんですが時間になってしまいました。
では、皆様と自分の明日がそこそこ良い日でありますように願いまして、おやすみなさい、と。