じじい日記

日々の雑感と戯言を綴っております

インプットとアウトプット

2020-07-06 12:51:59 | 日々の雑感
いや、便所の落書きにも劣る私のブログではありますが、こんなモノでも記する当人はけっこう考えながら捻り出しているわけであります。

で、捻り出すといえば文字通りアレであり、ナニな訳ですが、気張っても出ないときは出ないもんでして、そんな時の心境はクソッタレ、であります。

で、クソッタレは食べないと出ないのが道理なんですが、ブログなどのアウトプットも一緒で、インプットが無いと出るモノも無いのであります。

誰が言ったか忘れましたが、全ての創作は所詮模倣である、なんてことを聞いたんですが、インプットって刺激が創作に結びついて花が咲くとしても、その種は他所から持ってこないといけない・・・いや、私がボンクラだから真っ新からの想像ができず模倣になるのかも知れないので断言できませんけど、でも自分はインプットが無いとアウトプットも無く、だから働いているよりも遊んでいる時の方がいろんな事が脳みそ内に沸くのであります。

いや、小説家や俳人や詩人も大御所は皆して旅ばかりしているのは、やっぱしインプットを求めてでは無いかと思うんであります。
ついでに言うと、旅先での刺激を倍加して強いインパクトを求めると色恋沙汰に持ち込み、そして敢えて問題をややこしくし、強烈なアウトプットを得ていた、なんて思うんであります。

もっと言うと強烈で新鮮なアウトプットを求めて行き詰まると大概の人は死んでしまうわけでして、だから芸術家は自 殺するんでありましょう・・・と、思いますが、私ゃそこまで思い詰めた事がないので想像であります。

で、インプットの邪道として薬物やアルコールがあって、今時だと音楽関係の人や・・・あっ、スポーツ選手も居ますけどね、まっ、いいでしょう。

で、古くはポン中が居たしアル中は時代を超えて共通でして、そんなことを鑑みると脳みそに刺激が来るもんならなんでも良さそうな感じであります。
自分の場合はその刺激を「危険」に求めた事があったんですが、年をとるにつれ、放っておいても先は短いと察し命根性が意地汚くなり今は安全な生き方を旨としているわけであります。

しかし、安全で安定した生活はインプットが薄味でして、年々人格も丸くなり、ブログに書くことも棘がなくなり詰まらんものになっていると思うんであります・・・へっ、素より詰まらんだろう、ですか? そーですね、反論できません。

で、何を言いたいのかといいますと・・・旅に出たい、であります。

本など読んで受ける刺激もインプットには違いないんですが、それで出てくるアウトプットは模倣というよりもパクリでして、あんまし潔いものではないと思う今日この頃・・・大雨の地方の皆様は早めのジタバタをを心がけてくださいよ。

いや、井原西鶴の続きを読んでいたら書きたい事がたくさん浮かんだんですが、所詮は西鶴の脳みその方が何枚も上なんで自分ごときが屁理屈捏ねても恥を書くばかり・・・ああ、謙虚になったともいえますかね? なんちゃって。

で、やはりこの遣る瀬ないモヤモヤの救いは旅の宿にしか無いと思うんであります。

おっとぉ・・・立民の政策宣伝カーなんてのが煩く通っていくではありませんか・・・岡本敦子と名乗ってますが、これは解散があるのかな?
しかし、こんな山奥のタヌキとイノシシの方が多く住んでいる団地で騒いでいずに都会へ出た方が良いと思うんですけど、まっ、いいでしょう。

嗚呼、旅に出たい・・・いやいや、ジジイの好きな海外の場末の飲み屋で若い娘を相手に酒など飲めれば幸せ至極ですけれども、近所の温泉でも良いんであります。
が、しかし・・・インプットを得るには先に行ったように幾つかの条件が揃わないとダメなんですが、今の私の身の上には矢切の渡しのような話は皆無ですし、さざんかの宿も無縁であります。

私ゃ韓国モノは大概毛嫌いしているんですが桂銀淑と趙 容弼だけは捨て難いのであります。
桂銀淑の「すずめのなみだ」とか趙 容弼の「想いで迷子」なんてのは国籍無関係で演歌の真髄を貫くものとして聞くわけであります・・・まっ、優れた作詞と作曲の賜物とも言えますが。

と、いう事で、私ゃインプットしないと枯れそうでして、旅に飢えているんであります。
とは申しましても、このご時世ですから、私の愛用する大江戸温泉物語や伊藤園チェーンの格安では危険もありそうですし、何よりも温泉に入ってまったりしたからって強いインプットなど有る筈も無く・・・やっぱしこーなったら薬物ですかね?

あっ・・・支離滅裂を羅列している間にバイトに行く時刻が迫ってました。

んじゃ、とても嫌ですが行ってきますんで。

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不活性化の私

2020-07-06 08:00:53 | 日々の雑感
いや、今日もバイトなんですが午後2時半からの勤務でして、言ってみれば半日休みみたいなもんなんですが、今のところ空いた時間を有効に使おうと言う意識は働かずPCの前に腰を落ち着けてしまった次第であります。

たぶん、動きたく無いんでしょうね・・・夏になって植木屋が忙しくなると身体に現れる痒いポツポツも出始めているので身体的戦闘能力も落ちていると思われ、気持ちが制御に入ったのでありましょう。

あれです・・・身体も酷使してきましたが商売道具も同様でして、草刈機やチェンソーの手入れなどは早急に必要なんですが今日は手をつける気になりませぬ。
そして、庭と畑の草取りもそろそろ限界点なんですがこれもやる気が起きません。

まっ、理由の一つに梅雨空の不穏な空気というのも有るんでしょう・・・低気圧には滅法弱い私でありまして、淀んだ曇り空は私の活力を吸い取るのであります。

と、いうことで、久しぶりに朝からパソコンの前に座り込んでは見ましたが・・・やることと言えばニュース記事を徘徊することとブログしか無い訳であります。
で、ブログを書くったってこのところはバイトと植木屋の仕事ばかりでして面白いネタもない訳です。
ネタもないのにブログに手をつけると言うと、他に頼らざるを得ないんですが、そうなるとやっぱしニュース記事を引っ張り出して如何にもな事を宣うしかない訳であります。

そんなわけでニュースのまとめサイトを物色してきたんですがどーもイマイチ決め手に欠ける記事ばかりでして、トップニュースの緑のたぬきおばさん当選記事も自分にはとてもインパクトの薄いものなわけであります。

もっとも宮城県民の自分は東京都知事選はほとんど無縁でして、当選という分かりきっていた結果ではネタにならずであります。
さりとて、ニュースを無理くり掘り下げて宇都宮氏と山本太郎君の結果を分析しても栓無きこと・・・と、いうよりも自分にはそんな力量も情報もないし。

で、次に目立つニュースはというと九州の豪雨災害なんですが、私は災害ニュースは苦手なんであります。
見聞きするのも苦手ですし、ブログに取り上げるのはもっと苦手であります。
私の文章力では下手に扱うと誤解されるし、そもそも、過去の自分の被災の経験からも当事者はそんな言葉を拾っている余裕は無く、見るのは外野ばかり、と思うのであります。

さて、徹底的に暇な時には読書に逃げるわけですが、コロナでバイトがなかった時、暇つぶしにと幾冊かの本を買ったのであります。
しかし、程なくしてバイトも始まり植木屋も忙しくあまり読み進んでいません。
今読んでいるのは井原西鶴の日本永代蔵なんですが、原文でもさして難ないのではありますが、意味の怪しい単語がちょくちょく現れるたびに辞書を引くのでページがめくれないのであります。

自分の読書には得意の「斜め読み」がありまして、これは単行本を数時間で読破する技なんですが、単語の意味で閊えていてはこの技は使えないのであります。
なので普通に読んでいるんですが、まっ、面白いものであります。

それにしても、江戸の頃の銭というと「銀」なんですね。
まっ、小判は金貨ですけれども、巷で銭というと銀であったというのが日本的だなと思うんであります。
世界的には金貨が主力だったと思う時代に日本は銀・・・いぶし銀の世界であります、なんちゃって。
なんでもNHKのテレビによれば当時は世界の銀の三分の一を産出していた銀大国だそうですから、そう言う事なんでありましょう。

いやいや、黄金の国ジパングであったはず? まっ、歴史は詳しく無いので弄らないでおきます。

で、読んでいて当時の風俗や人々の意識を窺い知ると、今時と大した違いが無いと自分には思えるんであります。
いや、違う部分も相当有る・・・意識の面では江戸の人の方が大らかで開放的であったと思います。
まっ、歴史書では無く小説なんで誇張されていると思いますが、それでも今の時代よりもいろんな意味で緩かったと思えるんであります。
アメリカン・ドリームなんて言葉がありますが、日本にだってそんな事例はなんぼでもあったんだなと、今の閉塞した時代と比較しつつ行ったことも無い江戸や上方に憧れるのであります。

西鶴さんは書きました・・・「国に盗人、家に鼠、後家に入り婿いそぐまじきことなり」・・・今の時代に何の違和感もない名言であります。

で、江戸の町の描写などを読みますと、男はオトコでして、女はオンナなんであります。
大概のヘチャやムクレでも紅一点となれば華として扱われ、それは男女を区別することで女性を尊重していたのだな、なんてことを思うんであります。

いや、男女は区別も差別も無く須く等しく扱うべしと言う今の時代よりも女性は生きやすかったろうと自分は思うんですが・・・はい、そこの貴方の異議を認めます。
なんと申しましょうか、男は男らしく、女は女らしくと言う区別はそれぞれに逃げ道も用意されていて、男は男の本分を歩めば楽だったし、女は女ですから、に救いがあったわけで、単純で明快な構成は息苦しさもなかったように思うんであります。

さて、井原西鶴の文なんですが、中身の云々もさることながら、なんと申しましょうか、文字が踊るといいますか、まずなんであれ描写力が凄いと思うんであります。
いや、リズム感とかテンポっては書きたくないので言葉に詰まっておりますが、先を読みたいと思わせるのと、書かれている事柄を文字数以上に拡大して想像させる力に唸ってしまうのであります。

私ゃ暇だし面白いので引用しますと・・・「この後家、今年三十八にして小作りなる女、殊更きめごまかにして色白く、うち見には二十七、八、人の好める当流女房、跡を忘れて、またの縁にもつきかねざる風俗なりしに」・・・と、この短い行に私ゃどんだけの妄想を広げたか、それはもうみっちりと桃色風に想像した次第であります。
ええっ? 色白の後家さんは三十七か八なのに十も若く見える当流女房ですぜ・・・その後の顛末となれば、ムフフな方に期待を寄せるのが健全だと思うんですが・・・「若年の子供をあはれみ、人のうたがわぬほどに髪切って、白粉絶えて紅花の唇色さめ、男模様の着物、帯も細きを好み、才覚男にまされど、女の鍬もつかわれず、柱の根継も手細工には及びがたく、いつとなく軒もる雨にしのぶ草しげりて、不断聞くよりはかなしく」・・・と、身持ちが硬く自分が思う展開にはならなかったのであります。

いや、これは巻一の五なんですが、金持ちの後家さんの話でして、全体を要約すると・・・旦那は道楽者の美食家で不摂生でさっさと逝ったわけですが、旦那が残したのは借金でして、後家さんは魂消た、と。
で、美人で色白の後家さんは若く見えるし、すぐに後釜を見つけてムフフフ、となると思いきや、幼子のことを思って身繕いも質素で色気のないものにした、と。
しかし、所詮は女手、借金も返せず家は荒れ庭には鹿が鳴いた、と。
で、後家さんは家を売って借金を返済しようしたが五貫目の借金に対し家は売れても三貫目で、誰も買わなかった、と。
そこで後家さんは考えた・・・たのもしの入り札にして売ろう、と・・・これは一人四文でくじを買ったら誰か一人だけ家が当たるクジだったんだけれども、四文といえば丁稚の小遣いでも買える額で、なんと十二貫も集まった。
で、五貫の借金を返しても七貫残ったわけで、また裕福に暮らしたと言う顛末であります。

いや、ここで私が思ったことは二つ・・・美人の後家さんに会いたい、は別にしましても、今時のクラウドファンディングってやり方は特別新しくもないよな、でありました。
で、クラファンのことは詳しくないので深掘りしませんが、たのもし講の富くじとかって、凄い仕組みだと思うんですが、日本国では博打は政府が握っているんで正面切った手段は許されないんですね。
なので博打形式や富くじ形式はダメでクラファン的になるんだろうと思うんですが・・・ここにも、江戸の方が大らかであったなと、私ゃ思うんであります。



コメント (2)
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