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自ら開拓する土地をもとめて明治十九年の早春に、渡辺と宮崎濁卑とともに帯広から十勝川をさかのぼった。宮崎は道庁の開墾事業の帯広地域の担当で、またアイヌたちへの営農指導を熱心に担っていた。
十勝川から上陸し、空を覆うほどの密林をかきわけトクサ原を踏みしめて、傾斜の山を登った。標高百二十八メートルの然別オチルシに呼吸を整えながら立ちつくした。梢の向こうに十勝川左岸に広がるシブサラ(西士狩)の草原地帯を発見した。
「この地の開墾こそわれらの手で!」重太郎は叫んだ。
重太郎らの西士狩開墾の始動は、その年の六月二十三日だった。
重太郎に妻常盤、渡辺、アイヌの雇い人が同行した。この日持参したもの、樽三個、シナ縄三把、芋一俵、飯米一斗、干しサケ、鍋、鍬など。川を遡り生い茂る草原をかき分け、目的地に着くと、小宴会を開き酒を酌み交わして前途を祝った。
約一週間、小屋造りに費やした後で、およそ五十歩開墾に着手した。重太郎は、シブサラに移住するつもりでいたが、妻常盤が身ごもっていたので、通い出作として当分は帯広にとどまることにした。
↑小説用のために銃太郎は重太郎に。荒唐無稽な虚構は避けているが、
創作の自由さをとりいれた。歴史記録は逸脱していない自負がある。
小説の自由さは隠された事実の「真実を描くことにある」。(よしだ)