その豚は帯広でいつから飼われたか?。
鈴木銃太郎日記では、明治18年4月23日に大津から帯広へゆく川舟で「豚4頭、山羊2頭積んでいた」との記述あり。銃太郎の乗った舟は転覆し、あわや溺れるところであった。豚などは「恙(つつが)なかりき」とある。
豚は当時(明治28年春)私の処では最初より単独で飼育しました」渡辺かね談話。
「開墾(開拓)の初めは豚と一つ鍋」の句ができたのは、カネの家で豚を飼い始めた、同年4月24日以降だと推察する。カネ証言では、豚は最初渡辺家で飼っていた、依田家では後だという。明治19年には勉三はオイカマナイ移住するのである。銃太郎と勝は芽室開拓に向かうのが明治19年である。3人が揃うのが明治18年の春が濃厚ではないか。
ちなみに豚は明治17年の秋に、釧路の中戸川平太郎牧場から勉三が安く購入して大津まで歩いてひっぱってきた。汗だくになった、と茂岩の田口秀正に勉三は苦笑しながら語っていたと記録がある。
十勝川が凍ったので、大津の知り合いに豚を預けて、翌年の4月23日に鈴木銃太郎が丸木舟で運んだことになる。