よしだルーム

吉田政勝の文学的な日々

50年前~(新聞配達少年)

2015-10-30 14:22:11 | 日記

この写真は今から50年前(昭和38年?)新聞配達少年たちと、十勝にきた「とんち教室」の出演者と某料理亭の庭園で写したもの。私は中学3年間、新聞配達をしていた。


2015年10月27日、お土産を手にその新聞販売店のオーナーに会うために
日勝峠を越えて、苫小牧を目指した。峠は雪だった。


日高側に熊の巨大なFRP像があった。左のレストランは閉鎖していた。


元新聞販売所のオーナは「養鱒場」を経営していた。
アイデアマンの社長のヒット作「たこでなし」。


調理場の前で~オーナーを撮る。


エッセイ

 文を書く営みと新聞配達はどことなく似ている。文章はことばを積み重ねて原稿が仕上がる。新聞配達もまた一軒一軒新聞を届けて達成される。
 朝刊の新聞配達は、起床するのが4時半で、眠気をおぼえながら新聞販売店に着いた。チラシ広告などを織り込んでから販売店を出る。まだ夜明け前の薄い暗いうちに、いつもの配達経路を歩きつづけて配っていると抱えた新聞の束が軽くなり、やがて配達が完了する。配り終えた達成感にひたりながら朝の光をあびて帰路につくのは心地よかった。
 就職した私は、印刷所やデザイン会社に勤めた。デザインや編集作業だったが、コツコツと小さな仕事を積み重ねて大きな成果につながる。そのことを新聞配達のアルバイトから私は学んだような気がする。仕事もその成果は、いつも小さな完成の山を一気に仕上げたときに出来上がる。どんな仕事も地味で根気を必要とするプロセスの積み重ねである。
 3年間の新聞配達で忘れられないのが芽室町が大火に見舞われたことだった。
芽室大火は1964年3月22日未明に起きた。町の中心・本通2丁目付近から出火し、強風のためにまたたく間に市街地の店舗や住宅などを焼きつくした。被災者数は八十九世帯だった。私の配達地域の一部が大火に見舞われた商店街だった。
 芽室大火を報じる一面の夕刊や朝刊を私は呆然と見入っていた。罹災にあった店舗などへは配達ができない。しばらくは住宅もない木材が焼けたような臭いが漂う商店街を素通りした。並んでいた店が消失したが、すぐ近くにプレハブの店舗兼住宅が建った。禍い転じて福となす、で復興への勢いは市街地の近代化への道でもあった。
 今でも、何かの折に自分が新聞配達をしていた区域の家屋や風景が懐かしく胸に浮かんでくる。それは庭に花咲く光景だったり、落ち葉を踏みしめてゆく秋だったり、胸まで積もった雪をかきわけてゆく姿だったりする。
 それから36年後、その配達していた新聞に、私自身がエッセイや投稿を載せてもらったり「朝の食卓」を執筆をするようになるとは想像もしていなかった。人生に紆余曲折は当然だが、やはり自らの歩みを顧みると不思議に満ちている。


つげ義春氏も泊った「山光荘」

2015-10-28 12:04:02 | 日記

「ガロ」などで人気を博したマンガ家「つげ義春」氏が、昭和42年8月10日に
松崎町の「山光荘」をおとずれた。彼が泊った部屋に私も泊った。表現者?の私だから
つげさんと同じ部屋に、女将さんはとってくれたのか。

静岡県賀茂郡松崎町「山光荘・長八の宿」0558-42-1047




窓から覗くと、そこに天才絵師「長八のこて絵」が・・・。


朝の食事はおいしかった~。

西伊豆の「長右ェ門」で海鮮料理

2015-10-23 16:52:08 | 日記

富士山を望める雲見海岸へ徒歩2分の場所にある温泉民宿「長右ェ門」。
(静岡県松崎町雲見465)電話0558-45-0846.
食事は、自船で獲ってきた魚貝類をその日のうちに食膳に。鮮度抜群です。


観光旅行の楽しみは食事です。目前でアワビや伊勢エビが動いていた♪
女将や接待の女性が実に親切です。松崎にゆくときは「長右ェ門」です。


良質の湯が湧出する雲見の温泉は天然温泉かけ流しで、大きな岩石で作られた
千貫風呂など、趣向を凝らした岩風呂です~

帯広の発展と依田勉三の功績?

2015-10-22 09:48:33 | 日記

依田勉三は「帯広の発展を意識して開拓事業をなしたわけではない」
という意見が聞かれるが、その通りだとしても、結果的には発祥地から
街づくりが始まり、帯広民衆駅も依田勉三の存在が決定づけたとも思える。


1966年に完成した「帯広民衆駅」(ホテル、駅、デパートを兼ねた施設)
全国に民衆駅をと38の候補があった。なぜ、いち早く帯広に決定したか?。
それは依田勉三の開拓した「帯広」だったからではないか。


当時の国鉄総裁は石田礼助(その父は江奈の石田房吉で三余塾に学ぶ)
依田勉三は、江奈の石田家へよく立ち寄っていた。
わんぱくの礼助にケタ外れの元気者と日記にしるしている。
松崎の偉人の一人が石田礼助である。石田総裁は勉三を崇拝していた。