燃えるような紅葉が鮮やかな季節に、命の炎が消えるように義母が亡くなったのが10月21日の朝だった。
出棺のとき、義母との思い出が胸に去来してきた。
2人の息子は本州勤務で、義母の身近にいる男は3女の婿である私だった。お寺参り、新得の88ケ所めぐり、広尾の港祭りなど車に義母を乗せて、あちこち連れ歩いたことが脳裏に次々と浮かんで涙が流れ落ちた。
出棺後、バスで火葬場へ向かうが、遺族や親せきではないSおばさんが乗っていた。控室では、少し早めの昼食を親戚の人々が済ませていた。私たち兄弟も片隅のテーブルで弁当を食べ始めた。
「Sおばさん、最後まで残ってくれたね」と義姉が言った。すると義弟が、
「母ちゃんがむかしSおばさんが困っているときに何度か援助したと聞いたことがある」と言い出した。
その話を要約するとこうだった。
義母は小さな町で理髪業を営んでいた。夫は事故で大怪我をして働くことができなかった。義母は5人の子供を育て、店の住み込み職人を3人ほど雇い、その職人たちの食事の世話もしていた。
その町に、一軒の鍛治屋があった。
Sおばさんの夫が経営していた。注文主が周りの農家の人々だった。農機具やその修理などで忙殺されていたと想像できる。ところが、貧しい農家相手なので、どこも支払が溜まる一方で収入が少ない。ある日、農家に集金に行ったが断われた。S家では米がないので麦だらけのご飯になった。
Sおばさんが義母と会ったときに「麦ご飯ばかりで子どもたちが食べたがらない」と困窮をもらした。
それを聞いた義母は2万円を渡し「これで子どもたちに米のご飯を食べさせなさい」と言った。50年ほど前の話だ。
義母は人に施しをかけても、それを自慢にしゃべったり、相手に負担になる言動を慎む人だったが、その援助を受けたSおばさんと家族は義母に感謝して、つい周りにその話をしていた。
火葬場の帰りのバスで、私はSおばさんの顔をさりげなく見て、頭をさげた。高齢だがにこやかな顔を向けてきた。