3月15日、芽室町中央公民館で、チャリティー「歌謡ショー」が開催された。特別ゲストがクラウンレコード所属の明江三奈さん。地域通信記者として私は取材した。明江さんの伸びのある大人びた歌唱とその人柄にひかれた。そして記事を送った。すると花笠マネージャ-からお礼に長いも、薯とともに明江さんのCDが送られてきた。
感激した、そして送った自著の私の古い青江三奈さんのエッセイについて「青江さんはこの通りの方です」と電話で花笠さんは述べてくれた。そのエッセイを掲載します。
写真は明江三奈さん
歌はよみがえる・・・
15年前の夏、仕事をしているとラジオから青江三奈の訃報が伝えられて驚いた。
歌謡曲と呼ばれるジャンルは、今の音楽市場では決して主流ではないが、青江三奈がデビューしたころは流行歌が生活の中にあふれていた。まだ、私が少年から思春期へと色恋に目覚める年頃だった。
深夜ラジオでビートルズやポップスを聴いていた。「花のサンフランシスコ」「夢のカリフォルニア」「マサチューセッツ」などを聴きながら、テレビでは歌謡番組も華やかだった。とくに「恍惚のブルース」でデビューした青江三奈は衝撃的だった。
奥手の私は恋する気持ちを歌から学んだ。青江三奈は大人の恋を歌うおねえさまだった。かすれた、ハスキーな声で都会の憂いや大人の魅力をたっぷり歌った。「ブルーシルクの雨が降り、心がしっとり濡れていた、あとは、おぼろ…」などという川内康範の詞は刺激的だった。今は、そんな詞に性的な比喩が隠されていることが分かる。恋すると胸がときめき何か恍惚な心地になるのだと思春期の私は妄想した。「池袋の夜」「伊勢佐木町ブルース」も都会調の大人の世界だった。札幌で余裕のない生活をしながら、青江三奈のそんな曲を聴き、未来の恋人とススキノのネオン街を肩を並べてデートする日を夢見ていた。テレビに映る青江三奈のふくよかな肩を露出させたドレスが彼女の美しい腰や脚を際立たせた。ブロンドに染めた髪と大人びた顔もセクシーであった。
彼女は随分大人の女性の印象がしていたが、なんと1966年に20歳でデビューしたのだった。高校を卒業して歌の勉強をしながら、クラブでジャズを歌っていたせいか、大人の色気や落ち着きがすでに身についていた。その色気もいやらしくなかったのは、彼女の人柄であろう。仲間の歌手との会話ではサバサバとした口調で「オラさ…」とふざけていた。気のおけない親しみやすさから後輩はもちろん周りからも好かれていたらしい。気取る自分よりも相手をなごませる、これこそ大人の態度である。川内康範は愛弟子の死を悼みながら「人気が出てくると8割の歌手は態度が変ってしまう。しかし三奈は変らない2割の歌手だった」と述べていた。
20歳でデビューしたのに青江三奈はすでに成熟した大人の歌手という印象にあらためて驚くとともに、現在の日本は子ども的文化を許容している気もする。大人になりたくない子どもが増えたのか。規範とすべき大人が少なくなったのか。そんなふうに考えると日本の政治も文化も、幼さなく未熟に思えて心地悪い。あの時代は資本主義の発展段階でいうなら日本の成熟途上だったのかもしれない。青江三奈の死によって大人びた彼女や、その歌と時代もなつかしくよみがえってきた。
私は観光協会の役員をしていたころ、イベントで民謡歌手や演歌歌手などの接待をした。
すると舞台ではニコニコ笑っていた歌手が、楽屋裏で不機嫌で、関係者を怒鳴りつけていた。実行委員との集合写真を頼めば「時間ないから早く」と不機嫌に言い放つ。実際には寛いでいる時間なのに。
若いHという歌手は、地元の長老に「あんた若いのに今から天狗になっていてファンが離れるよ」と説教した。案の定、彼はマネージャーからその言動で批判され裁判沙汰になっていた。態度の悪い歌手は「あんな歌手、2度と呼ばない」と実行委員会で意見が飛び交う。その噂が広告代理店や放送関係者へと広まる。地方のイベントを軽視し見下ろしている歌手は2度と呼ばれない仕組みだ。
明江三奈さんはチャリティー歌謡ショーに8年連続招かれている。その人柄にみな惹かれて、何度でも来てほしいと地元で要請するのだと思う。網走刑務所の慰問でもむこうから要請されて明江さんは何度も訪問している。すばらしいことだ。
芸術表現は、当人の技術だけではない「人間性」がどこかでにじみでてこそ人々の共感につながると思う。抑制され、盛り上がる明江三奈さんの歌がわたしは好きだ。
私は、文章を書くときも、人と話をするときも、「上から目線ではなく、下から目線」で表現する。この手法は北海道を体現する作家、「地の音」「雪嵐」の著者小檜山博氏から学んだ。「下から目線」を常に忘れない。明江さんもそういう謙虚な愛すべき歌手だと実感した。