よしだルーム

吉田政勝の文学的な日々

依田勉三の「晩成牧場跡」へ

2015-05-05 11:17:01 | 日記

↑写真はオオバナノエンレイソウ

2015年5月4日、大樹晩成の「依田勉三牧場跡」へいった。住居を覗き、丘の上で祭牛之霊にお供えし、本を捧げてお参りした。空に向かって「勉三さん~書いたぞ~」と私は叫んだ。
帰ろうとしたら車が来た。ここで意外なドラマが起こった。

依田勉三住居

住居の内部

 秋田ナンバーの車から、3人が出てきた。私は近づき
「本州からいらしたのですか?」と聞いた。50歳代のご夫妻に、夫の老母らしい人が目の前にいる。
「実は、私はこの辺に住んでいた者で、小さいころ遊んでいました」と50歳代の女性がいう。仮にAさんと言わせてもらいます。
「この場所に縁がある方ですね。じゃ、これ差し上げます」
 そう言って私は3月に刊行したばかりの「流転・依田勉三と晩成社の人々」の本をAさんに渡した。
「この本ができたので、ここに報告に来ました」と私。
「作家の方ですか?」とAさん。
「いえ、新聞や同人誌に短文を書いてきて、今は地元の新聞社の通信員をしている者です」
「いただいてよろしいですか?」とAさん。
「依田勉三さんの史実にそって描いたものです。写真も依田家末裔の協力で載せました。文字も大きめで読みやすいですよ」
「父も本を読むのが好きで、晩年このような郷土史をよく読んでおりました」
「お父さんの仏前に添えてください。きっと、亡くなったお父さんが私と引き合わせてくれたのでしょうね・・・」
 Aさんは「わっ」と歓声をあげた。いや顔を手で隠して、泣いたのだ。
 依田牧場跡地に見学に来て、その翁の生涯をつづった作者に遭い、本をもらい、予期せぬ展開で優しかった父を思い出す機会になり、思わず胸に迫ってきたのだろう。
 私はお辞儀をして、車で去った。すがすがしい心地だった。

1週間後に、Aさんから手紙が届きました。
「すぐに夢中で本を読みました。勉三がこんな苦労をした人とは知りませんでした。本当に胸が苦しくなりました・・・」と記され、生花苗で生まれ8歳から15歳まで湧洞沼で暮らした父のことが述べられていた。「本は読みやすく、わかりやすく登場人物が自分の身近に感じてなんだか嬉しくなりました・・・」と書かれてあった。


(祭牛之霊と佐藤米吉の墓)←クリックで拡大
(クリックで拡大)


流転~のラストは、昨年の5月に晩成牧場跡を歩いてるうちにひらめいた。

明治31年5月8日.
 勉三は、はがきに「無事に着いた」と函館の星、秋尾、栗山、義父政昭・民則など15人にあてて書き、陽と中戸川兄弟へは封書に記した。
 角型ちゃぶ台で手紙などを書きおえると、勉三は歩きたくなり外へ出た。
 祭牛山の丘の上へと歩いた。
 祭牛之霊と佐藤米吉の石塔に手を合わせた。視線を落とすと、緑色の葉が広がり白い花が咲いていた。オオバナノエンレイソウの大群落であった。この花は種子が芽吹いてから開花まで十年以上を要するという。それから毎年花を咲かせる。勉三は遅咲きの延齢草と晩成社を重ねるのだった。
 やや大きな菱形の三葉に、三枚の花びらが空に向けて開いていた。勉三は花を踏まぬようにサイロの建つ丘の斜面を降りていった。