地震発生から2週間。比較的被害が軽微だったので「被災地」、「被災者」という言葉が身になじみませんが、昨日、持病持ちの友人が「部屋が片付かないので車中泊を続けている(涙)」というので片付けを手伝いに行き、まさに足の踏み場もない室内の様子に2週間前の記憶が蘇りました。2人で数時間かけてかろうじて寝る場所だけは確保しましたが、まだ自宅に入ることすらできず、なすすべもなく「悪夢であってほしい」と願う人たちがすぐ近くにたくさんいるのです。熊本市内は復旧のスピードが比較的早いような気がするのですが、テレビや新聞の報道はまだまだ胸の痛む内容が多く、これから先の道のりの長さが思われます。
そんな中、昨日M先生が東京から熊本入りされました。本来は今日から阿蘇で「メサイア」の合宿をすることになっていたのですが、皆さんとても遠出のできる状況ではないので、代わりに普段練習している老健施設のホールで集中練習をすることになりました。朝から5人の方が集まられたようですが、私は疲れが出て午前中は家で休み、午後の練習の途中にお邪魔しました。昨日の片付けで埃を吸い込んだのか喉がいがらっぽく、体にもあまり力が入らないので座って聴いているだけでしたが、皆さんよく声が出てのびのびと歌っていらっしゃったのには驚き、元気が湧いてきました。素晴らしい!私はこのところ1~2人のレッスンをするだけでぐったりしているのに、M先生はまだお体が完全ではないというのに何とパワフルなんでしょう。今更ながら脱帽です。
今日の練習の最後の方で、前回練習した『感謝します』という心に沁みる讃美歌を歌いました。「感謝します 試みに遭わせ 鍛え給う主の導きを 感謝します 苦しみの中に育て給う主のみ心を しかし願う道が閉ざされた時は つまづき 心が揺れました どんな時でも あなたの約束を忘れない者として下さい / 感謝します 悲しみの時にともに泣き給う主の愛を 感謝します こぼれる涙をぬぐい給う主の憐れみを / 感謝します 試みに堪える力を下さるみ恵みを 感謝します すべてのことを最善となし給うみ心を」という訳詞がついています。苦しみの中にあっても「すべてのことを最善となし給うみ心」を信じ、感謝する心に目覚めた時、人は厳しい現実にあっても希望を持って前に進むことができる。そのメッセージが心の隅々にまで響き渡るようでした。
この曲にはドイツ語の歌詞があるそうで、M先生がそれを歌って下さいました。歌詞を頂いて読んでみると、日本語の訳詞は人間から神への呼びかけになっていますが、ドイツ語の方は神から人間へのメッセージになっているんですね。「私はお前のそばにいる。心配で押し潰されそうな時、人生が無意味に思える時、私はそこにいる。私はお前のそばにいる。たとえお前がそれを信じられなくとも、感じられなくても、私はそこにいる。/ そしてすべては私の掌の内にある。私はお前の人生のすべてを知っている。私はお前に日々何が必要か、すべて知っている。心配は要らない、私はお前を愛している。お前は私の言葉を信じられるし、私がお前をどんなふうに一歩一歩導いているかを見るだろう。/ 心配は要らない、夜眠れない時、明日は何が起こるのかと思い煩う時、お前には私がついている。心配は要らない、たとえ人がお前の力になってくれなくても、自分が無価値に思える時も、私はお前を愛している。/ おお、いつの日か、私たちが互いに相まみえる時、お前の人生の道が私へと続く一本の道であったことに気づくだろう。その時にお前は理解し、驚くだろう、すべてに意味があったと。そして見るだろう、すべては私の掌の内にあったと。」
くみさんのお葬式にドイツに行った時、オルガニストのヴォルフガングさんが「幸せな人は教会には来ないからね」と仰った言葉を思い出しました。特定の信仰の有無とは別に、人知を超えた大いなる意思、大慈悲とか博愛というものを信じられるかどうかが、人生の苦難を乗り越えるバネの強さに大いに関わっているように思います。
そんな中、昨日M先生が東京から熊本入りされました。本来は今日から阿蘇で「メサイア」の合宿をすることになっていたのですが、皆さんとても遠出のできる状況ではないので、代わりに普段練習している老健施設のホールで集中練習をすることになりました。朝から5人の方が集まられたようですが、私は疲れが出て午前中は家で休み、午後の練習の途中にお邪魔しました。昨日の片付けで埃を吸い込んだのか喉がいがらっぽく、体にもあまり力が入らないので座って聴いているだけでしたが、皆さんよく声が出てのびのびと歌っていらっしゃったのには驚き、元気が湧いてきました。素晴らしい!私はこのところ1~2人のレッスンをするだけでぐったりしているのに、M先生はまだお体が完全ではないというのに何とパワフルなんでしょう。今更ながら脱帽です。
今日の練習の最後の方で、前回練習した『感謝します』という心に沁みる讃美歌を歌いました。「感謝します 試みに遭わせ 鍛え給う主の導きを 感謝します 苦しみの中に育て給う主のみ心を しかし願う道が閉ざされた時は つまづき 心が揺れました どんな時でも あなたの約束を忘れない者として下さい / 感謝します 悲しみの時にともに泣き給う主の愛を 感謝します こぼれる涙をぬぐい給う主の憐れみを / 感謝します 試みに堪える力を下さるみ恵みを 感謝します すべてのことを最善となし給うみ心を」という訳詞がついています。苦しみの中にあっても「すべてのことを最善となし給うみ心」を信じ、感謝する心に目覚めた時、人は厳しい現実にあっても希望を持って前に進むことができる。そのメッセージが心の隅々にまで響き渡るようでした。
この曲にはドイツ語の歌詞があるそうで、M先生がそれを歌って下さいました。歌詞を頂いて読んでみると、日本語の訳詞は人間から神への呼びかけになっていますが、ドイツ語の方は神から人間へのメッセージになっているんですね。「私はお前のそばにいる。心配で押し潰されそうな時、人生が無意味に思える時、私はそこにいる。私はお前のそばにいる。たとえお前がそれを信じられなくとも、感じられなくても、私はそこにいる。/ そしてすべては私の掌の内にある。私はお前の人生のすべてを知っている。私はお前に日々何が必要か、すべて知っている。心配は要らない、私はお前を愛している。お前は私の言葉を信じられるし、私がお前をどんなふうに一歩一歩導いているかを見るだろう。/ 心配は要らない、夜眠れない時、明日は何が起こるのかと思い煩う時、お前には私がついている。心配は要らない、たとえ人がお前の力になってくれなくても、自分が無価値に思える時も、私はお前を愛している。/ おお、いつの日か、私たちが互いに相まみえる時、お前の人生の道が私へと続く一本の道であったことに気づくだろう。その時にお前は理解し、驚くだろう、すべてに意味があったと。そして見るだろう、すべては私の掌の内にあったと。」
くみさんのお葬式にドイツに行った時、オルガニストのヴォルフガングさんが「幸せな人は教会には来ないからね」と仰った言葉を思い出しました。特定の信仰の有無とは別に、人知を超えた大いなる意思、大慈悲とか博愛というものを信じられるかどうかが、人生の苦難を乗り越えるバネの強さに大いに関わっているように思います。