舞台芸術

2020年05月26日 | 日記
旧知のKさんからのメールで、熊本県立劇場が演奏家支援の一環として無観客演奏の動画配信を始めると発表したことを知りました。
びわ湖ホールでの「リング」の最終公演が無観客で行われてライブ配信され、大きな感動と様々な形の波紋を呼んだことは記憶に新しいですが、1回きりの大イヴェントを、窮余の一策としてそのような形で行うことはやむを得ないだろうと思います。しかし、舞台芸術はあくまでも、時間空間を聴衆・観衆と共有するのが本来のあり方。動画配信が常態化することは望ましいこととは言えないでしょう。また、世界の超一流の演奏や公演がオンデマンドで楽しめる今の時代、県立劇場の試みにどれほどのニーズがあるのか、という疑問も湧きます。しかしこれは、「表現」という演奏家の切実な欲求を満たすという意味では必要な支援なのかもしれない、とも思います。演奏家の表現欲求は、おそらく本能的な欲求に近いのではないかと思うのです。表現欲求に対して何らかのはけ口を与えることは、子どもに思いきり体を動かす機会を与えるのと同じようなものかもしれません。
ただ、舞台芸術には、一般の人々には見えない面があります。音響や照明などなど舞台を裏で支える人々、トレーナーや教師たち。今、音楽や舞台芸術に関係するすべての人々が皆同じように困窮し、また不安や煩悶を抱えているのに、演奏家だけが支援の対象になることに対して、言いようのない割り切れなさを感じる人も多いでしょう。裏にいる人々は普段から、その仕事の意義どころか、その存在すら一般にはあまり認識されていません。それでも芸術を愛し、自分の仕事に誇りを持って真摯に演奏家を支えています。お客様が喜んで下さり、社会に多少なりとも貢献できているという手応えを支えに、不遇にもめげず日々の仕事に励んでいるのです。そのような人々にとって、今回のような支援が複雑な気持ちを惹起することは想像に難くありません。Kさんのメールにも、その思いがにじみ出ていました。お気持ちはよくわかります。
しからば、その心持ちをどのように切り替えればよいのか。
このような問いには明確な答えがあるわけではありませんが、1つは、自分たちの仕事に対する誇りを今一度深めることでしょうか。私達はこの仕事を心から愛している。それに、私達の仕事の大切さはわかる人にはわかっている。だから先を明るく見て、いずれ必ず戻ってくる日常に備えよう。そのように自らに言い聞かせる、というスタンスです。とはいえ、仕事も支援もない中でモチベーションを保つのは困難です。私も先月はかなり心境が低下しました。それでも不思議なもので、ヤル気の出ない冴えない気分の中でも、生徒さんたちのことを考えると、レスナー向けの情報に敏感になったり、今のうちにディクションの勉強をしておこうという気になったりしました。自分の心を救うのは結局、自分の使命に対する愛です。そして、それは必ず周りに伝わるものだと思います。その愛の発露として、時には自分の仕事の大切さを具体的に世の中にアピールしてもいいかもしれません。
ドイツのように、今回のコロナ禍に際して真っ先にフリーランスの芸術家に対する支援を打ち出すような国と比べると、この国の為政者は、どうも芸術のセンスに乏しいというか(笑)、芸術の価値が肺腑に沁みていないというか...しかしそういう人たちを選んだのも私達ですし、芸術に対する一般の人々の認識も政治家とあまり変わらないのが現実です。すっきりした答えは出ませんが、私達は皆、芸術に限らず、自分の愛するものの価値を自分の仕方で精一杯伝えていくしかないのかもしれません。むしろ、それが人生なのかもしれませんね。
この問題に関しては、おそらく他にもいろんな考え方があるでしょう。皆様のご意見を私も聞いてみたいと思います。


応援歌の思い出

2020年05月22日 | 日記
朝ドラ「エール」を毎日楽しみに見ていますが、今週のお題は早稲田大学の応援歌「紺碧の空」の成立秘話でした。
「紺碧の空」には懐かしい思い出があります。中1の秋、体育大会(うちの中学校では体育祭のことをこう呼んでいました)の練習が始まる「結団式」の日、同じ団の2,3年生と一緒に運動場の一角に集合した私達に、「黄龍団応援歌」と書かれた藁半紙が配られました。そこには第1応援歌、第2応援歌の2つの歌詞が書いてありました。そのうちの一つが「紺碧の空」だったのです。

紺碧の空 仰ぐ日輪 光輝あまねき伝統のもと すぐりし精鋭 闘志は燃えて 理想の王座を占むる者われら 黄龍 黄龍 覇者 覇者 黄龍
青春の時  望む栄光 威力敵なき精華の誇り 見よこの陣頭 歓喜あふれて 理想の王座を占むる者われら 黄龍 黄龍 覇者 覇者 黄龍

一読、この文語調の歌詞の格調高さにくぎ付けになりました。先輩たちの先唱について歌ってみて、士気を鼓舞するリズム感に痺れました。体育大会では団ごとのパネル展示、応援合戦やエールの交換など、すべてが小学校の頃とは比較にならないレベルで、運動音痴の私にとっては何もかもが眩しかったのですが、とりわけこの応援歌の記憶は強烈で、歌詞の一言一句まで今でも正確に覚えているほどです。これが実は早稲田大学の応援歌で、「早稲田」の部分に「黄龍」を代入した替え歌だと知ったのはいつ頃だったでしょうか。

中2でクラス替えがあり、今度は青龍団になりました。こちらの応援歌は明治大学の応援歌の替え歌でした。やはり「明治」に「青龍」を代入して歌うのです。

伝統の光燦たる 紫紺の旗のもと 立ちたり若人 溢るる力 栄冠目指して ゆけゆけいざゆけ 血潮の限り 青龍 青龍 青龍 栄えあれ青龍 
紅の意気は満ちたり 燃えたつ陽の如く 炎の若人 鍛えし技を示すはこの時 ゆけゆけいざゆけ 疾風(はやて)となりて 青龍 青龍 青龍 栄えあれ青龍 

これもまた血沸き肉躍る秀抜な応援歌でした。繰り返しますが、私は名にし負う運動音痴で(笑)、体育にはコンプレックスしかなく、思い出したくない思い出ばかりなのですが、中学校の体育大会の思い出だけは特別な感慨を帯びています。とりわけ、この応援歌の印象があまりにも強烈で、運動会シーズンに近隣の学校から爆竹の音が聞こえるたびに「紺碧の空」と「紫紺の旗のもと」が脳内で自動再生されるのです。

ところで、調べてみたら、明治大学のこの応援歌も古関裕而氏の作曲でした。今回の朝ドラはいつもに増して楽しいですね。
コロナが無ければ、今頃は運動会シーズン。アフターコロナに運動会は行われるのでしょうか?すべての子供たちにとって、運動会が子供時代の良き思い出となりますように。

恩送り

2020年05月16日 | 日記
熊本の声楽界の重鎮だったA先生がご逝去されました。94歳だったそうですから大往生です。
A先生には、音大受験前の半年間ひとかたならぬお世話になりました。初めて「ベルカント」という言葉を知ったのもA先生からでした。当時の熊本で、発声についてあれほど真剣に追究しておられた方はA先生をおいて他にはいらっしゃらなかったのではないかと思います。高校生の独唱コンクールに参加したのがきっかけで、審査員だったA先生を知り、弟子入りをお願いしたのが高3の夏休みで、それから毎日のように先生のお宅に通い、自分のレッスン以外の日は他の方のレッスンを聴講させて頂きました。「国立にはNさんがいるわよ。彼女の生徒はみんな素晴らしくなっているわよ。」と言われ、N先生に師事するために国立音大に進学しました。
音大入学後もプライベートな悩み事を相談したり、お宅に泊めて頂いたり、思えば随分図々しい生徒だったと思いますが、先生の懐の深さと人情味に甘えっぱなしでした。
米寿のお祝いの会でお会いした時はまだ矍鑠としていらっしゃいました。その後も何度かコンサート会場でお会いしましたが、お歳を召してもオーラを放っておられ、このように歳を重ねられたら素晴らしいなと思っていました。
ご恩を受けた方々が亡くなられるたびに「恩送り」という言葉が脳裡をよぎります。受けた恩はご本人には返せません。他の方に、次の世代にと返していく、それが残された者の務めだと心して、先生に喜んで頂けるよう精進重ねたいと思います。


発音と発声

2020年05月12日 | 日記
遠隔授業に振り回されて、自分がヴォイストレーナーであることを忘れそうになる日々に危機感を覚え、リモートレッスンを行っておられるY氏にイタリア歌曲の発音レッスンをお願いしました。Y氏も私も本領はドイツものですが、最近イタリア語のディクションにもこだわっておられる、と先日お聞きしたので。私もイタリア語は音大で日本人の先生に習っただけなので、ディクションの勉強をしたいと以前から思っていました。そこで、コロナ禍で延期になった南阿蘇のミニ・コンサートでプログラムに入れていた「Le violette」を使って、スカイプで30分の発音中心レッスンを受講しました。備忘のためここに要点を記します。皆様のお役に立てば嬉しいです。
まず、イタリア語のeとoには閉口と開口がある、という話。大抵の場合閉口ですが、時折開口のeが出てきます。「Le violette」の中では、「mezzo」(半ば、の意)のeが開口です(ちなみに、この曲には開口のoは出てきません)。開口のeについては私も前から気になっていて、どんな時に開口になるのか、何か規則があるのでしょうか、と伺ったのですが、よくわからないとのこと。ただ、開口のeは全部で10個ぐらいしかなく、mezzoとかterraのように短母音なのだそうです。
次に、冒頭の言葉「rugiadose」のgiaです。これは破擦音(破裂+摩擦)の「ヂャ」という音で、発音する時には舌が硬口蓋に当たっています。この音は「Gia il sole dal gange(陽はすでにガンジスから)」の冒頭のgiaと同じですが、この発音ができていない人が多い、つまり舌がちゃんと硬口蓋に付いていない人が多い、とY氏が仰っていました。確かに日本人は舌の弾きが弱いので、破擦音はしっかり言わないと聞こえませんね。mezzoとかgrazioseのz音も破擦音です。
一方、発音記号[z]の音は破擦音ではなく、舌が硬口蓋に付きません。カナで書けば「ザ ズィ ズ ゼ ゾ」。たとえばascoseのseは、舌はどこにも付きません。
glieという時の「l」は、私は「リキんで発音せよ」と大学で習ったのですが、Y氏によるとこれは「硬口蓋接近音」で、舌を硬口蓋の近くに持って行くが、べったりとくっつけない、のだそうです。yをひっくり返したような形の発音記号です。へえ~。
二重母音については、ドイツ語と違って2つ目の母音の方が優位なのだそう。3:7ぐらいの割合で2つ目の母音を長く発音するのだそうです(voglieの-ieとか,、grazioseの-io、violetteの-ioなど)。これは、二重母音の2つめの母音が1つめの母音の口形にひきずられるドイツ語とは対照的です。
vergognose(恥じらって、の意)の-gnoの発音は「後部歯茎音」のニョです。「ニャ ニュ ニョ」は少し鼻腔共鳴が必要です。あまり多すぎると声がぼやけますが、私は声が後ろに行き過ぎるので、鼻腔共鳴も少し練習しなければ。鼻音の時には軟口蓋を若干下げるのだそうです(私はどうも軟口蓋が常に上がっているみたいです)。mやnの音は、軟口蓋を少し下げる方が鼻腔への通路ができる、とのこと。ついでに言えば、iとuの発音は、口腔が狭い方が口の奥が開きます。
面白かったのは、eの後の単語の語頭に「二重子音現象」というものが生じる、という話。e sgridateというフレーズがあるのですが、これは「エッ ズグリダーテ」という感じに、語頭のsが促音化するのだそうです。che son も「ケ ッソン」という感じにsが詰まるとのこと。
他には、破裂音をはっきり発音することも注意されました。tropp'anbizioseというフレーズのppはしっかり破裂させる。破裂音は6つあるそうです。
イタリア歌曲集の巻末にイタリア語の発音規則が載っていて、それを見ながら手探りでイタリア古典歌曲を歌っていた高校時代の記憶が蘇りました。そういえばこういう説明が載っていましたよね。やっとつながってきました。