旧知のKさんからのメールで、熊本県立劇場が演奏家支援の一環として無観客演奏の動画配信を始めると発表したことを知りました。
びわ湖ホールでの「リング」の最終公演が無観客で行われてライブ配信され、大きな感動と様々な形の波紋を呼んだことは記憶に新しいですが、1回きりの大イヴェントを、窮余の一策としてそのような形で行うことはやむを得ないだろうと思います。しかし、舞台芸術はあくまでも、時間空間を聴衆・観衆と共有するのが本来のあり方。動画配信が常態化することは望ましいこととは言えないでしょう。また、世界の超一流の演奏や公演がオンデマンドで楽しめる今の時代、県立劇場の試みにどれほどのニーズがあるのか、という疑問も湧きます。しかしこれは、「表現」という演奏家の切実な欲求を満たすという意味では必要な支援なのかもしれない、とも思います。演奏家の表現欲求は、おそらく本能的な欲求に近いのではないかと思うのです。表現欲求に対して何らかのはけ口を与えることは、子どもに思いきり体を動かす機会を与えるのと同じようなものかもしれません。
ただ、舞台芸術には、一般の人々には見えない面があります。音響や照明などなど舞台を裏で支える人々、トレーナーや教師たち。今、音楽や舞台芸術に関係するすべての人々が皆同じように困窮し、また不安や煩悶を抱えているのに、演奏家だけが支援の対象になることに対して、言いようのない割り切れなさを感じる人も多いでしょう。裏にいる人々は普段から、その仕事の意義どころか、その存在すら一般にはあまり認識されていません。それでも芸術を愛し、自分の仕事に誇りを持って真摯に演奏家を支えています。お客様が喜んで下さり、社会に多少なりとも貢献できているという手応えを支えに、不遇にもめげず日々の仕事に励んでいるのです。そのような人々にとって、今回のような支援が複雑な気持ちを惹起することは想像に難くありません。Kさんのメールにも、その思いがにじみ出ていました。お気持ちはよくわかります。
しからば、その心持ちをどのように切り替えればよいのか。
このような問いには明確な答えがあるわけではありませんが、1つは、自分たちの仕事に対する誇りを今一度深めることでしょうか。私達はこの仕事を心から愛している。それに、私達の仕事の大切さはわかる人にはわかっている。だから先を明るく見て、いずれ必ず戻ってくる日常に備えよう。そのように自らに言い聞かせる、というスタンスです。とはいえ、仕事も支援もない中でモチベーションを保つのは困難です。私も先月はかなり心境が低下しました。それでも不思議なもので、ヤル気の出ない冴えない気分の中でも、生徒さんたちのことを考えると、レスナー向けの情報に敏感になったり、今のうちにディクションの勉強をしておこうという気になったりしました。自分の心を救うのは結局、自分の使命に対する愛です。そして、それは必ず周りに伝わるものだと思います。その愛の発露として、時には自分の仕事の大切さを具体的に世の中にアピールしてもいいかもしれません。
ドイツのように、今回のコロナ禍に際して真っ先にフリーランスの芸術家に対する支援を打ち出すような国と比べると、この国の為政者は、どうも芸術のセンスに乏しいというか(笑)、芸術の価値が肺腑に沁みていないというか...しかしそういう人たちを選んだのも私達ですし、芸術に対する一般の人々の認識も政治家とあまり変わらないのが現実です。すっきりした答えは出ませんが、私達は皆、芸術に限らず、自分の愛するものの価値を自分の仕方で精一杯伝えていくしかないのかもしれません。むしろ、それが人生なのかもしれませんね。
この問題に関しては、おそらく他にもいろんな考え方があるでしょう。皆様のご意見を私も聞いてみたいと思います。
びわ湖ホールでの「リング」の最終公演が無観客で行われてライブ配信され、大きな感動と様々な形の波紋を呼んだことは記憶に新しいですが、1回きりの大イヴェントを、窮余の一策としてそのような形で行うことはやむを得ないだろうと思います。しかし、舞台芸術はあくまでも、時間空間を聴衆・観衆と共有するのが本来のあり方。動画配信が常態化することは望ましいこととは言えないでしょう。また、世界の超一流の演奏や公演がオンデマンドで楽しめる今の時代、県立劇場の試みにどれほどのニーズがあるのか、という疑問も湧きます。しかしこれは、「表現」という演奏家の切実な欲求を満たすという意味では必要な支援なのかもしれない、とも思います。演奏家の表現欲求は、おそらく本能的な欲求に近いのではないかと思うのです。表現欲求に対して何らかのはけ口を与えることは、子どもに思いきり体を動かす機会を与えるのと同じようなものかもしれません。
ただ、舞台芸術には、一般の人々には見えない面があります。音響や照明などなど舞台を裏で支える人々、トレーナーや教師たち。今、音楽や舞台芸術に関係するすべての人々が皆同じように困窮し、また不安や煩悶を抱えているのに、演奏家だけが支援の対象になることに対して、言いようのない割り切れなさを感じる人も多いでしょう。裏にいる人々は普段から、その仕事の意義どころか、その存在すら一般にはあまり認識されていません。それでも芸術を愛し、自分の仕事に誇りを持って真摯に演奏家を支えています。お客様が喜んで下さり、社会に多少なりとも貢献できているという手応えを支えに、不遇にもめげず日々の仕事に励んでいるのです。そのような人々にとって、今回のような支援が複雑な気持ちを惹起することは想像に難くありません。Kさんのメールにも、その思いがにじみ出ていました。お気持ちはよくわかります。
しからば、その心持ちをどのように切り替えればよいのか。
このような問いには明確な答えがあるわけではありませんが、1つは、自分たちの仕事に対する誇りを今一度深めることでしょうか。私達はこの仕事を心から愛している。それに、私達の仕事の大切さはわかる人にはわかっている。だから先を明るく見て、いずれ必ず戻ってくる日常に備えよう。そのように自らに言い聞かせる、というスタンスです。とはいえ、仕事も支援もない中でモチベーションを保つのは困難です。私も先月はかなり心境が低下しました。それでも不思議なもので、ヤル気の出ない冴えない気分の中でも、生徒さんたちのことを考えると、レスナー向けの情報に敏感になったり、今のうちにディクションの勉強をしておこうという気になったりしました。自分の心を救うのは結局、自分の使命に対する愛です。そして、それは必ず周りに伝わるものだと思います。その愛の発露として、時には自分の仕事の大切さを具体的に世の中にアピールしてもいいかもしれません。
ドイツのように、今回のコロナ禍に際して真っ先にフリーランスの芸術家に対する支援を打ち出すような国と比べると、この国の為政者は、どうも芸術のセンスに乏しいというか(笑)、芸術の価値が肺腑に沁みていないというか...しかしそういう人たちを選んだのも私達ですし、芸術に対する一般の人々の認識も政治家とあまり変わらないのが現実です。すっきりした答えは出ませんが、私達は皆、芸術に限らず、自分の愛するものの価値を自分の仕方で精一杯伝えていくしかないのかもしれません。むしろ、それが人生なのかもしれませんね。
この問題に関しては、おそらく他にもいろんな考え方があるでしょう。皆様のご意見を私も聞いてみたいと思います。