春は名のみの...

2017年03月26日 | 日記
桜がとんと咲きませんね(-_-;)
日脚は確実に伸びてきて気分はもう春なんですが、熊本はうすら寒い日が多いです。昨日、今日と近所の水前寺公園でイヴェントがあったのでのぞきに行こうと思っていましたが、喉がいがらっぽいのと、昼間もイマイチ暖かくなりきれないので、本番直前でもあるし、残念でしたが控えました。喉がざらつくのは多分金属アレルギーです。解体作業があちこちで進んでいますから。
昨日プログラムの入稿を終えました。別冊のプログラムノートも印刷屋さんに頼む予定でしたが、ページ数が4の倍数でないので自分でやるしかない、ということに気付き(-_-;)こういう時頼りになる後輩のM君に「50部刷って!」と頼み込み(笑)、あと150部は自力でやることにしました。冊子の印刷はページの編集がややこしくて頭が痛くなりますが、編集ができて刷り始めたら、あとはプリンターのご機嫌次第。今回はうちのプリンター君はなかなか快調で、100部はできました。あとちょっとです。最後のホチキス止めは当日お手伝いに来てくれる生徒さん達にお願いすることにしましょう。
そんなことばかりしていて、肝心の歌の練習は?と自分に突っ込みたくなりますが(笑)、水曜日から1泊で隠遁しますので、そこでしっかり切り替えます。昨日までは作業に夜中までかかっていましたから、睡眠もあまり十分には取れませんでしたが、今日からは、12時までには寝る!あ、もう11:21です。それではお休みなさい(笑)
何だかへんてこなブログになりましたが、悪しからず。
そうそう、句会で句集を出しました。年に一度ぐらいしか出席しない不良会員の私も頭数に入れて頂きまして。ご迷惑とは思いつつ、レッスンにおいでになる生徒さん方に1冊ずつもらって頂いて(押し付けて)います。俳句に興味のある方には差し上げますので、お申し付けください。


1つ終了

2017年03月20日 | 日記
熊本モーツァルト協会の設立20周年記念コンサートが、昨日無事に終わりました。
今回の場合、「無事に」という言葉には、普通とはちょっと違うニュアンスが含まれています(笑)。
このコンサートの実質上の運営責任者であったH氏は、ご高齢でもともと足がお悪い上、昨年お怪我で入院され、退院後もしばらく身動きがご不自由な生活をなさっていたりで、このコンサートの準備をお一人で切り回すのは大変だったと思います。協会にはH氏の手足になって動いて下さる方がいなかったようですから、きっとだいぶご無理をされただろうと思います。
この状況ではいろいろ漏れが出てくるのも当然で、先日ブログに書いた通り、私の二重唱の件も直前に近い時期に初めて知りましたし(私の聞き漏らしかもしれませんが)、ソロの伴奏者も、以前からH氏がお願いしてあった方が様々な事情で変更になり(私の伴奏者もです)、極めつけに、会場のホールを午前中は別の団体が使うことなっていて、リハーサルがホールでできない、ということが直前にわかったのです。練習室を借りて下さったので直前練習はできましたが、ホールでのサウンドチェックや立ち位置決め、出入りの練習ができません。調律師のS氏も、ものすごくタイトな時間で頑張って調律して下さいました。サウンドチェックをする時間がないため、やむを得ずピアノの位置決めをしながら、つまりピアノをあちこち動かして響きを確認しながら調律を続行して頂くという離れ業をして頂き、H氏から「吉田さん、「手紙の二重唱」であなたの相手役の方に使ってもらうテーブルとイスの位置を決めて下さい」と言われたため、調律中に大声で歌いながらテーブルの位置を決めたり(結局このテーブルとイスは本番では出さないことになったのですが)、また、プログラミングも事前に出演者に知らされていなかったので、当日プログラムを頂いて初めてわかりました(チラシでは3部構成と書いてあったものが、実際には2部構成でした)。また、楽屋が1階、ホールが2階、楽屋にはモニターがなく進行状況がわからない、という状況で、自分たちで時間の見当をつけて舞台袖に上がっていくわけですが、その舞台袖がどこなのか、誰も知らない(笑)のです。11人の出演者が、誘導係もドア係もいない中で何となく補い合いながら、しかし誰一人文句を言う人もいません。さすがに皆さん慣れていらっしゃいますね。
さて、肝心の演奏は...このホールで歌うのは初めてでしたが、ここは半円形の多目的ホールで反響板もないので、残響がほとんどありません。ナマの声しか聞こえないので、太い声、強い声、低い声の方に比べて、私のような綿菓子みたいな声には不利な会場だったようです。終演後、友人のIさんが気の毒がってくれました(笑)。よほど響き具合が他の方と違ったのでしょう。二重唱も、相手方の若いソプラノさんがわりと強い声でしたから、私の声はあまり聞こえなかったかもしれません。でも、私はとても楽しく歌えました。最近何度も背中を痛めたので、歌うときの上半身の使い方がわからなくなっていましたが、数日前にW先生のところに伺った時、「鼻筋の緊張と足のつま先のことだけ気を付けていれば、後は何も考えなくていいのよ、上半身は全く気にしなくていいから」と言って頂き、鼻筋の緊張、という意味がやっとわかってすごくラクになったので、その感覚をなるべくキープしたまま本番に臨むことに集中しました。今回急遽伴奏をお願いしたSさんも、もともとモーツァルトが得意なピアニストですし、気心の知れた友人ですから、ソロは気を遣わずのびのびと楽しく歌えました。デュエットの方は初めてのお手合わせでしたが、若い方と一緒に歌うと元気をもらえますね。いい声をお持ちですから、これから活躍されることでしょう。応援したいと思います。
しかし、このところの熊本の空気の汚れはひどいです。私は花粉症ではありまんが、いつものどがいがらっぽくて、吸入が欠かせません。ただでさえ更年期で声帯粘膜の粘液の分泌が減っているうえ、その粘膜にゴミがいっぱいくっつくわけですから、声帯の吸い付きが悪くて困ります。昨日も出だしの一声がひっくり返ってしまいました。10分以上のモテット全曲を歌いきって楽屋に戻り、靴を脱いでみるとスネがぱんぱん。足で相当頑張ったんですね。でも、幸い瑕疵はそれだけで、あとはモーツァルトの晴れ晴れとした曲想に乗って、心の翼を広げて飛び回る心地で歌えました。楽しかった!3楽章の長ーいゆったりとしたカンティレーナでは、会場のお客様が一心に聴いて下さっているのが伝わってきて、すごく一体感を味わえました。これぞ本番の醍醐味ですね。
さあ、これから4月1日に向けてしっかり切り替えたいと思います。

歌の思い出

2017年03月09日 | 日記
昨年入門されたKさんという知的で柔和な40代の美女がおられます。ずっと歌の道に憧れていらしたようで、毎回ノートを取りながらレッスンを受けられるほどの熱意です。そして「ああ、すごく嬉しい!声ってこんなふうに出すんですね!」といつも感激してお帰りになります。Kさんは歌の道に進んでもよかったんじゃないかと思うほどの美声なんですが、昨日レッスンに見えた時、「私、音大に行きたかったんです。でも歌で評価されたことが一度もなくて、諦めました」と仰いました。かなりの美声の持ち主で、高校時代はコーラスをやっていらしたというKさん、誰も声楽の道を勧めなかったというのがむしろ不思議な気がするぐらいですが、なんだか私の経験ともオーバーラップするなあ、と思いながら話を聞いていました。というのも、私も小さい頃から歌や音楽全般が大好きでしたが、歌で評価された経験がほとんどなかったからです。まず最初の挫折は小学生低学年の頃。児童合唱団の入団試験に落ちました。中学校でコーラス部に入りましたが、上手な友達が大勢いて私は全然ぱっとせず、声楽を始めてからも独唱のコンクールにはことごとく落選。家族や身内からも「音楽は才能の世界だから」と音大進学に反対されました。今、曲がりなりにも歌を続けていることが我ながら不思議でならない時があります。
だいぶ前になりますが、障がい者福祉サービス事業所のニューズレターに、頼まれてエッセイを寄稿したことがあります。題して「歌の思い出」。Kさんと話していて、このエッセイのことを思い出しました。少し長くなりますが、ここに転載します。

歌の思い出

歌はいいものだ。小さな声で歌っても大きな声で歌っても元気が湧いてくる。二人で歌えば心がつながるし、みんなで歌えば多少の憂さは吹き飛んでしまう。コーラスやカラオケが人気なのもむべなるかな、だ。
いい歌を聴けば心が動くと知ったのは、まだ小学校にも上がらない子どもの頃だった。父がお風呂の中で歌ってくれた「灯台守」の歌。♪凍れる月影空に冴えて...しみじみと歌いあげる父の声を聴いているうちにじーんと来た。思わず涙がこぼれてびっくり。この気持ちは何だろう。感動という言葉は知らなかったが、心に何かが起こったのはわかった。
歌が心を明るくしてくれると知ったのも、子どもの頃だった。私は食が細くて偏食もかなりひどく(今ではすっかり変わったが)、方向音痴の運動音痴で(これは全然変わらない)、みんなが楽しみにしているお弁当や外遊びの時間が苦手、いつも何となく鬱々とした子だった。ところが、母が掃除をしながら口ずさむ♪うるわしの白ユリ...とか、♪...シャロンの野ばらよ~、なんて素敵な讃美歌が聴こえてくると、不思議と霧がすーっと晴れるような気持ちになったものだ。 
余談だが、「この子は音楽が好きらしい」と思った保育園の先生が、両親に「音楽教室に通わせてみては?」と勧めて下さった。しかし、内弁慶の私は音楽教室のグループレッスンがダメで、1ヶ月で挫折した。オルガンの個人レッスンに切り替えたが、手先が不器用でちっとも上達しない。親としてはかなり期待が外れたようだったが、レッスンはともかくも続いた。
さて、小学校に上がり、入学式で初めて「校歌」なるものを聴いた。弱起で始まり、リズムに変化があり、だんだん盛り上がって終わる。歌詞も童謡や歌謡曲とは違う。未知の世界の扉が開いたような気持ちになった。1年生の途中で転校したので、この校歌を歌ったのは数回だけだったはずだが、なぜか今でも歌える。
校歌と言えば、中学校の入学式の思い出はもっと鮮烈だ。驚くなかれ校歌が混声4部合唱だったのだ。上級生の高らかな歌声に度肝を抜かれた。それだけではない。この学校では朝夕のホームルームでも各クラスで合唱をする習わしだった。毎日校内のあちこちからきれいなハーモニーが響く。体育大会でも団ごとにかっこいい応援歌を歌ったし、校内合唱コンクールにもみんなで燃えた。一年中歌に満ち溢れた環境の中で、私はだんだん歌にハマっていった。コーラス部にも入った。一日たりとも歌わずにはいられなくなった。
高校でも当然コーラス部に入った。と言うより、コーラス部に入るために高校に行った。ある時部活で、合唱用にアレンジされた九州民謡を歌うことになった。熊本民謡の「キンキラキン」、宮崎民謡の「ひえつき節」、博多民謡の「どんたくばやし」。いつも歌っている西洋音楽とは一味違う。何だか日本人の血が騒ぐ。考えてみれば、私たちは日本人なのに普段西洋の歌ばかり歌っている。ヘンと言えばヘンな話だ。でも、今の私たちには日本古来の民謡より外国の音楽の方がよっぽど身近だし。そんなことに漠然と思いを巡らせた。言うなれば歌を介して社会学的、文化学的な問題意識に目覚めたわけだ。とは言え、そんな難しいことをどう考えたらいいのかわからない。現実離れしたいろんな問いにしばしばとらわれながらも、ともかく照る日も降る日も歌い続けた高校時代だった。
歌好きが嵩じて音大の声楽科に進んだが、その後30年近くの歌との関わりは決して楽しいばかりではなかった。何の道でもそうだろうが、専門にしてしまうと苦しみの方が多くなる。自らの才能のなさに絶望し、それでも歌に執着する自分を持て余し、いっそ歌をどこかに捨ててこようと国外脱出さえした(しかし結局持ち返った)。ところが、あまりに不器用な私を見かねたミューズの神のお計らいか、40歳近くになって人生最大のエポックメイキングな出来事が起こった。現在の歌の師匠との出会いである。解剖学や生理学の講義のような科学的な説明、次々繰り出される効果抜群の発声法。自分の声じゃないみたいないい声がどんどん出てきて、我ながらびっくり。長年のストレスが一気に解消し、歌う喜びを取り戻した。ネクラで引っ込み思案で人見知りで神経過敏で自意識過剰だった私が、喜びのあまり「うーばんぎゃー」の権化のようになった。かつては桎梏だった歌が、今では逆に、この世の軛から心身を解き放つ自由の使者になったのだもの。
歌を学び始めて以来、数々の名歌に触れてきた。典雅なイタリア古典歌曲、精神性高きドイツ歌曲、情緒豊かな日本歌曲。他にもいろんなジャンルの歌が無数にある。古今東西、人間の暮らしは常にとりどりの歌に彩られている。ジャズもロックもゴスペルもシャンソンも讃美歌も流行歌も民謡も、どれもみな、人間の日々の営みの中から生まれた、ほとばしる生命力の美しい結晶である。そして、人は歌う時、目に見えない翼を拡げて広大な世界を羽ばたくことができる。これこそ人間の人間たる証であろう。わが座右の詩「うたをうたうとき」に見事に表現されているように。

うたをうたうとき
                     まど みちお

  うたをうたうとき / わたしは からだをぬぎます
  からだをぬいで / こころひとつになります
  こころひとつになって / かるがる とんでいくのです
  うたがいきたいところへ / うたよりもはやく
  そして / あとからたどりつくうたを / やさしく むかえてあげるのです
  うたをうたうとき / わたしは からだをぬぎます
  からだをぬいで / こころひとつになって / かるがる とんでいくのです