東京同窓会

2018年10月29日 | 日記
私の母校の中学校は同窓会活動が盛んで、熊本での大同窓会に加え、在京の方たちが立ち上げた東京同窓会が毎年開催されています。今日(正確には昨日ですが)がその日でした。今年は私たちの学年が幹事学年で、関東在住の同級生たちが1年以上かけて本当に献身的に準備にあたってくれました。私は熊本に居て何も手伝えないので、せめて枯れ木も山の賑わいで日帰り参加させてもらうことにして、東京近郊に住んでいる大学生の甥を、2本目の枯れ木(否、若木(笑))として「おばちゃんが会費を払ってあげるから」と懐柔して招集しました。彼の一つ年上の姪も「行く行く!」と大乗り気だったのですが、残念ながら寮祭と重なってしまい、大学生の教え子君も大学祭の準備でアウト。若者がほとんど来ないこの同窓会に、社交の苦手な彼が本当に来てくれるかどうか内心ドキドキでしたが、約束通り現れてくれて、おばちゃんはとても嬉しかったです。
初めて参加した東京同窓会は、上は80代から下は赤ん坊まで(子連れ参加者もいましたので)200人もの老若男女が相集う楽しい会でした。歳の近い先輩後輩たちとの再会で開会前から盛り上がり、開会するとまもなく、くまモンが会場にやってきてくまモン体操を踊っていってくれました。毎年来てくれているのだそうです。
一人だけ飛びぬけて若い甥には、皆さんが気遣って声をかけて下さいました。歓迎されていると感じたのでしょう、だんだんリラックスしてきて、30代の人たちと楽しくおしゃべりしながらご馳走でお腹を膨らませ、面白いことをやっているおじさまもいらっしゃったので、お話を聞かせてもらって喜んでいました。甥は情報工学を専攻しているのですが、その分野で働いている先輩たちからも色々話を聞き、アドヴァイスをもらっていました。
私がこの学校に赴任した年の最初の教え子たちも何人か来ていました。私と気付かなかったようですが、話しているうちに思い出したらしく、「その節は大変ご迷惑をかけました」と今更ながらの平身低頭(爆)。確かに彼らのクラスはやんちゃ揃いで、若い未経験の私はなすすべもなく授業崩壊の憂き目に遭ったのでした(-_-;)。まあ、当時は私もまったく教師の体裁をなしていませんでしたから、お互い様です。過労で入院したほどでしたが、今となってはそれも笑い話です。
途中、大抽選会というアトラクションがあり、その景品として甥の父親(すなわち私の弟)が供出した商品を私が当選者に手渡すというミッションもありました。これも楽しい仕掛けでしたね。
最後は「ハレルヤ」と校歌の大合唱。今年は何回ハレルヤを歌ったことでしょう。今日の指揮者はM先生の従姉妹さんのご子息でした。伴奏は、中学、高校、大学とずっと一緒に過ごした盟友Kさん。熊本から伴奏を弾きにきてくれました。校歌の指揮は私たちの学年の部活仲間M君。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、まだ日の高いうちに散会となりました。片付けを終え、打ち上げに繰り出す同級生たちと別れ、ピアニストKさんと私は羽田空港へ。帰り着いてほっと一息つくと、何だか今日の一日が夢の中の出来事のような気がしてきました。人間、普段は基本的に未来志向で生きていますが、たまには過去にタイムスリップして思い出を上書きするのも、一種の命の洗濯かもしれません。

秋の祈り

2018年10月26日 | 日記
昨日、近所のお寺で「秋の祈り」というイヴェントがあり、オファーを受けて歌って参りました。
ご住職がうちの生徒さんで(最近はご多忙で、レッスンにいらしていませんが)、昨年は「シューマン忌」という法要でお話と演奏をさせて頂きました。
この「秋の祈り」は、満月の夜のイヴェントとして毎年行われているのだそう。
託麻ヶ原の戦という昔の戦禍で亡くなられた諸精霊の供養が主目的です。
今回はギター伴奏で、イギリスの古謡を2曲、シューベルトの歌曲を2曲、歌わせて頂きました。
「万霊節の連祷」と「アヴェ・マリア」。どちらもカトリック色の濃い歌ですが、祈りの歌として選びました。
出し物は、歌の他に虚鐸(尺八のような楽器)、ライアー(竪琴)の二重奏、フラダンスなど。
フラダンスのダンサーは、先日お母様を亡くされたそうで、彼女の結婚に心を残して逝かれたので、ということで、
住職のお計らいで、サプライズの仏前結婚式が途中に挟み込まれました。
ご本人たちも、立ち会った皆さんも、涙々。
粋なことをなさいますね、ご住職。
近所の小学校の子ども達と保護者の方々も参加されて、境内では千本灯篭が点されました。
満月の秋の夜の風情がたちこめる、祈りのこもった、ささやかな催しでした。

校内合唱コンクール

2018年10月18日 | 日記
校内、と言っても学校の敷地内という意味ではなくなって久しい「校内合唱コンクール」。毎年この時期、今は中2の姪が通っている我が母校が、県立劇場コンサートホールを借り切って行う「文化の日」の午後の行事です。21歳になる最初の姪が中1の時から、保護者として毎年聴かせてもらっています。
12:00の保護者入場の時間より少し前に県立劇場に着いてみると、開場を待つ保護者が長蛇の列を作って並んでいます。平日の昼間だというのに、毎年1800人のホールがいっぱいになるのです。来賓としておいでになっていた恩師I先生と入り口でばったりお会いして少し立ち話をしましたが、「ほんなこつ、ここの保護者は熱心かなあ~」とつぶやいていらっしゃいました。全く同感です。しかし、もっと熱心なのは生徒たち。ホワイエにもホール内にも、各クラスの最後の練習の歌声がガンガン響いています。ホールに一歩足を踏み入れた途端、40年前にタイムスリップして涙が込み上げてきました。夢中で歌っている彼らの姿と、かつての自分たちの姿が重なり、私たちは何と幸せな中学生だったことか、そして、今目の前で一生懸命歌っている中学生たちも、何と幸せな子たちだろう、と胸が熱くなったのです。
本番です。どのクラスも、聴く態度も、歌う態度も、入退場の態度も立派。すべてに自発性が感じられます。そこに今日までの取り組みがすべて表れているようで、中学生のひたむきさに感激しきり。そして、今年は1年生が上手だったのが印象的でした。2年生の姪のクラスは、自由曲に選んだ曲が大き過ぎました。毎年思いますが、選曲ってとても大事ですね。3年生はさすがにどのクラスも完全燃焼で、風格の漂う演奏でした。
今は指揮者、伴奏者ともに男女比が半々ぐらいです。男の子の伴奏はスケールが大きくて良いのですが、歌との音量のバランスに一考の余地あり。指揮も、きちんと振っている人も多いのですが、腕を振り回し過ぎたり、身体が動き過ぎたりして、拍を刻むという基本が疎かになっている人も若干名。そんな中、素晴らしい指揮があり、思わず目を奪われました。背中に音楽がにじみ出ています。そして、指揮者の意図するところが歌声からもしっかり伝わってきます。くぎ付けになってみつめていると、奇妙な既視感が。この指揮、誰かに似ている...記憶をたどって頭が忙しく回転し始め、そしてアッと思い当たりました。中学時代のクラスメイトで、コーラス部でも一緒だったF君の指揮とそっくりなのです。いや待て、F君は指揮者じゃなかったぞ。いい声で、いつも男声の要として歌っていた。おかしいな、F君の指揮なんて、私、見たことないはず...でも、どういうわけだか、目の前の中学生の背中が、その指揮ぶりが、F君を彷彿とさせるのです。不思議なこともあるものです。
全クラスの演奏が終わり、コーラス部の演奏と3年生の全員合唱がありました。コーラス部が歌ったア・カペラ2曲は、さすがにクラス合唱とは別格。そして3年生は、課題曲の「流浪の民」と、もう一曲、合唱界では「中学校の第二校歌」と呼ばれている(つまり、合唱をする中学生なら誰でも知っている)「大地讃頌」を歌ってくれました。これは昔、私もクラス合唱の自由曲として歌いましたが、大人数で歌い上げるととても感動的です。
審査結果は、予想通り、F君の再来のような指揮者のクラスがグランプリ、そしてその指揮者君は「最優秀指揮者賞」を受賞しました。
結果発表の前、講評の先生がけっこう辛口のご意見を述べられましたが、おそらく、私が審査員でも同じことを言うだろうと思います。曰く、もう少し楽曲の構造をよく研究してアナライズし、自己満足の演奏にとどまらず、表現として昇華すること。しかし、時間のない中で工夫して練習を重ね、ここまで頑張ったことが何より素晴らしく貴いことだと思いました。
この合唱コンクールとも、姪が中3になる来年までのご縁です。長いこと楽しませてもらいました。4人の甥姪に感謝です。

2018年10月16日 | 日記
リルケの「秋」という詩をご存知でしょうか。

木の葉が散る 遠くからのように 落ちてくる
まるで 遥かな空の庭園が すがれていくかのように
いなむ身振りで 木の葉が落ちる

そして夜には 重い地球の大地が落ちる
すべての星から離れて 孤独の中へ
わたしたち 皆が落ちる この手が落ちる
そして 他の人々を見よ 万物に落下がある

だがしかし 一人の御方が
この落下を 限りなくやさしく その両手に受けとめてくださる

若い頃、独文学者の小塩節先生のご著書の中で紹介されていたこの詩を読み、一瞬にして魅了されました。
木の葉がひらひらと風に揺られて落ちていくさまを「否む身振り」と表現する詩人の感性。
万物の落下を「一者」がやさしく受け止めて下さる、という、絶対的な安心感と「おまかせ」の境地。
感動でくぎ付けになったのを覚えています。

昨日、愛読しているメルマガに、こんな記事が載っていました。                     
(前略)
特に美しいと思うのは、この晩秋の黄色の葉っぱに光があたると、辺りが突然、きらきらと金色に輝くことです。
全てが「静」となり辺りが真っ白になる冬の前に、自然はこんな風に最後の豊かな輝きを見せてくれること。
役割を終えた自然が、美しい喜びともに、黄金の光と共に放たれていく姿を見ると感動できます。
(後略)

ドイツ在住の女性のブログです。ドイツの秋の黄葉も、清澄な空気と相俟って、とても美しいです。
その光景を懐かしく思い出しながら、
「役割を終えた自然が、美しい喜びとともに、黄金の光と共に放たれていく」
という表現に深く共感しました。
自分もいつか、役割を終えた葉のように静かに散るのでしょうか。光とともに。
そうありたい、と思います。
それを、大いなる方がやさしく受け止めて下さるだろう、とリルケは言います。
神学者シュライエルマッハーの言う「無限者に対する絶対依存の感情」でしょうか。
それは、この上なく幸せな境地かもしれません。
まだ体験していないのでわかりませんが(笑)。