ことのは

2020年06月28日 | 日記
歌は言葉と音楽のマリッジだと言われます。メロディが心の底から湧き上がってくる時、言葉が媒介になる時とそうでない時があるとは思いますが、私は子供の頃、詩を読むと自然とメロディが浮かんできたものでした。
昨日、T先生のお宅に弔問に行きました。T先生に誘われて俳句を始めてから優に10年以上経ちますが、無手勝流なのであまり上達はしていません。それでも、自分の人生に俳句が加わったことにとても感謝しています。
毎日を小春のような人と居て
愛妻家だったT先生の句です。先生の戒名に「小春」が入っていました。ご一緒した嘗てのゼミ仲間も私も、この句のことをよく覚えていました。奥様としみじみと語らう中に、T先生の幼少期のご苦労、その苦労に磨かれた先生の人格の高潔さ、そして、長じてよき伴侶に恵まれ、公私ともに頗る充実していた先生の人生が改めて惻々と胸に迫ってきました。

先月亡くなられた旧師A先生も、卓越した声楽家である一方、文筆を能くされました。先日、新聞に掲載された追悼記事の末尾に、先生が詠まれた短歌が紹介されていました。
秋をうたいうたいこぼれて萩まろびまろび散るなり音符のごとく
この美しい抒情的写生に触れ、こみ上げる涙を抑えきれませんでした。中村草田男の「葡萄食ふ一語一語の如くにて」という含蓄深い句も連想され、人間らしい生を支える詩心というものの貴さを改めて思いました。

学恩

2020年06月17日 | 日記
博士課程の頃大変お世話になったT先生が、数年来の闘病の末、昨日お亡くなりになったとの報が届きました。
留学から帰って、次に進むべき道に迷っていた時、ふと手に取った『ケア論の射程』という論文集に収められたT先生の論文に触れ、これだ!とスイッチが入ったのがご縁の始まりでした。
T先生の研究室で1年間準備をして、音楽やドイツ文学とは畑違いの倫理学に進んだ私。T先生の研究室にはいつも数名の学生さんがいて、いろんな人が出入りして、楽しく勉強できる場所でした。哲学の下地がほぼゼロに等しい私を、博論の副査として、主査のO先生とともに温かく根気よく導いて下さいました。精力的に次々と論文を発表され、文理横断のエキサイティングな研究会をいくつも主宰され、その旺盛な研究意欲には圧倒されるばかりでした。「僕、学生を鍛えるのが好きなんだよ」と仰って、学生のために様々な哲学書の読書会を開催して下さって、そんな学びの機会がどれほど有難かったことか。
人生を愉しむ達人でもありました。どんなにお忙しくても、必ず夏休みには「海洋調査」(海釣り)に行かれましたし、連休には山登りにご一緒させて頂いたこともありました。沖縄に集中講義に行かれる時も、数人のゼミ生と一緒に連れて行って頂き、楽しい時間を過ごしました。句会にも誘って頂き、私の趣味に俳句が加わりました。
共著で『自然のスピリチュアリティ』という論文を書かせて頂いたこともありました。今年出版された『生と死をめぐるディスクール』に載せて頂いた学術エッセイは、その論文をベースにして加筆したものです。
30代も半ばを過ぎてからの学究生活は迷いと苦労の連続でしたが、今思えば何と豊かな時間だったことかと思います。師に恵まれることは、人生の最も大きな幸せの一つではないでしょうか。
仏教に造詣の深い先生でした。きっと従容と赴かれたことだろうと思います。
あの驚嘆すべき包容力、懐の深さに救われた日々を思うと、涙を抑えきれません。
心からの感謝とともにご冥福をお祈りします。