たまにはぼそっと

ふと思いついたことをボソッと書いてみます。

姫路城

2009-02-24 05:23:28 | Weblog
明後日、姫路城に行くので、参考資料を集めてみました。

まず、歴史からです。

1333 赤松則村(円心)、護良親王の命により挙兵。京に兵をすすめる途中、姫山に砦(とりで)を築く。

1580 羽柴秀吉の中国攻略のため、黒田考高、城を秀吉に献上。
秀吉、3層の天守閣を築く。
翌年完成。

1601 池田輝政、城の大改築を始める。
9年後完成。

1617 池田光政、鳥取城へ移る。
本多忠政、姫路城主に。
三の丸、西の丸、そのほかを増築

1956 天守閣、国費により8か年計画で解体修理着工(昭和の大修理)。

1964 天守閣群の全工事終了。

1993 ユネスコの世界文化遺産に指定。


大天守の高さも、のせておきます。

姫山(標高45.6m)、石垣が14.85m、建物が31.5mで合計海抜92m
■心柱の大きさ
東西に2本、高さ24.6m、根元直径95cm、末口42cm

どのような、巨木だったのでしょうか?非常に心ひかれます。
でも、修理のときにどこかの柱は取り替えられてるようです。



そして、おいらが興味があったのは、壁が白いという事。
このような理由です。

安土・桃山時代までの多くの城郭は鎧下見板張でした。
塗籠造は寝殿造りの塗籠に始まったもので、防火・耐火のために土蔵などを塗籠にしたのです。
姫路城も、築城の頃に普及していた火縄銃の射撃によって延焼しないように、白漆喰塗籠造が採用されました。

なるほどね。

これから下は、順路に沿って見学するようなので、
確認しながら、見ていくと面白いでしょうね。画像がそうです。




姫路城の大きな特徴の一つは、敵を簡単に天守に近づけない迷路のような縄張り(道順)と、
敵を攻め込む仕掛けが随所に施されていることです。

まず菱の門をくぐると、道が3つに分かれており、
真っ直ぐ行くといの門、左は西の丸へ行く上り坂、右手は行き止まりのように見えます。

ここで迷っている敵を、正面からは本隊が、西の丸の狭間からは銃が狙い、
行き止まりに見えた右手の石垣から兵士が飛び出して、敵を挟み撃ちにし、三国堀へと追い落とします。


続いていの門をくぐると、遠回りになるろの門へまっすぐに誘導され、
ろの門を抜けると右側の多くの狭間から狙い撃ちできます。

そして続くはの門を抜けると、道が天守閣とは逆方向へUターンしてしまいます。
そしてにの門は、直角に曲がっていて進みにくく、いざというとき埋めてしまえる埋門です。

本丸の入り口になるほの門も埋めることができます。

そして本丸に到達しても、すぐに道が分かれへの門、ちの門へと進ませますが、
本当は油壁の裏の水の一門が近道です。

しかし続く水の二門、水の三門は下り坂で、攻め上がろうとしている敵に、城外へ出てしまうかのような錯角を思わせます。

このように、姫路城は攻める敵の状態や心理にも効果的に考え抜かれた仕掛けがたくさんあるのです。



播州皿屋敷の舞台が、ここのようです。

城内の上山里丸と呼ばれる広場にある「お菊井戸」が、有名な「播州皿屋敷」に出てくる井戸だといわれています。
永正年間のこと、城主小寺則職の執権青山鉄山が城の乗っ取りを計画。
これに気づいた忠臣の衣笠元信は、愛妾のお菊を青山家に女中として送り込み、陰謀を暴きます。
しかし、努力のかいもなく、青山一家のクーデターは成功。
それでもお菊は青山家に残り、龍野に逃れた元信に情報を送っていましたが、
ついに町坪弾四郎に気づかれてしまい、それを盾に結婚を迫られます。
しかし、お菊はどうしても首を縦に振りません。
腹を立てた弾四郎は家宝の皿10枚のうち1枚を隠し、お菊の不始末として責め殺して井戸に投げ込みました。
それからというもの毎夜、「1枚、2枚…」と皿を数えるお菊の悲しげな声が井戸から聞こえるようになったといいます。
コメント (1)
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