私は佐伯啓思なる論客を高く評価している。きのうの朝日新聞で、この人が「トランプ現象と民主主義」というタイトルの論考を書いていた。なかなか興味深い論考である。以下、この論考について書いてみたい。
彼は次のように述べている。
「私が関心をもつのは、『フェイク』と民主主義の関係である。
『フェイク』とは捏造(ねつぞう)することだ。ある言説が『フェイク』か否かは、『事実』に照らせばわかるであろう。だが、何でも事実によって検証できるわけではない。(中略)
ここで問題となっているのは『事実』ではなく『価値』だからである。客観的事項ではなく、主観的意見の対立なのである。」
たとえば、トランプ米元大統領は「中国からの輸入が米国経済に打撃を与えている」と主張し、「移民が米国労働者の仕事を奪っている」とも主張する。だが、このトランプの主張は「事実」によって容易に検証できるものではないし、そもそもここでは「事実」かどうかは問題ではない。
トランプやその支持者からすれば、重要なのは事実ではなく、「アメリカ・ファースト」や「米国を強くする」という価値なのである。この価値こそが彼らにとっては決定的に重要なのであり、「事実」は問題ではないのである。
以上のような佐伯氏の見解に私が感じたのは、ニーチェの思想、とくにそのパースペクティビズム(遠近法主義)との類縁性である。このパースペクティビズムの思想からすれば、どんな主張も主張者に固有の観点からする事物の「解釈」にほかならず、普遍的な「真理」などは存在しない。当然、客観的な「事実」などは存在しない、ということになるだろう。
こうした一種の真理相対主義からすれば、「何を言ってもOK!」ということになるから、これは不毛な喧々諤々の罵詈雑言を誘発する危険な思想と言えなくもない。
だが、「絶対的な真理は存在しない」ということになれば、我々は自分の意見に固執するのではなく、他者の意見にも謙虚に耳を傾けなければならないということになる。真理相対主義は一種の寛容主義に道を拓くものであり、その点で私はこれを評価したいのである。
議論の蒸し返しになるから、書きたくはないのだが、最後に一言だけ申し添えれば、上述したことは「ショーヘイと違法賭博問題」についても言えるのではないだろうか。
彼は次のように述べている。
「私が関心をもつのは、『フェイク』と民主主義の関係である。
『フェイク』とは捏造(ねつぞう)することだ。ある言説が『フェイク』か否かは、『事実』に照らせばわかるであろう。だが、何でも事実によって検証できるわけではない。(中略)
ここで問題となっているのは『事実』ではなく『価値』だからである。客観的事項ではなく、主観的意見の対立なのである。」
たとえば、トランプ米元大統領は「中国からの輸入が米国経済に打撃を与えている」と主張し、「移民が米国労働者の仕事を奪っている」とも主張する。だが、このトランプの主張は「事実」によって容易に検証できるものではないし、そもそもここでは「事実」かどうかは問題ではない。
トランプやその支持者からすれば、重要なのは事実ではなく、「アメリカ・ファースト」や「米国を強くする」という価値なのである。この価値こそが彼らにとっては決定的に重要なのであり、「事実」は問題ではないのである。
以上のような佐伯氏の見解に私が感じたのは、ニーチェの思想、とくにそのパースペクティビズム(遠近法主義)との類縁性である。このパースペクティビズムの思想からすれば、どんな主張も主張者に固有の観点からする事物の「解釈」にほかならず、普遍的な「真理」などは存在しない。当然、客観的な「事実」などは存在しない、ということになるだろう。
こうした一種の真理相対主義からすれば、「何を言ってもOK!」ということになるから、これは不毛な喧々諤々の罵詈雑言を誘発する危険な思想と言えなくもない。
だが、「絶対的な真理は存在しない」ということになれば、我々は自分の意見に固執するのではなく、他者の意見にも謙虚に耳を傾けなければならないということになる。真理相対主義は一種の寛容主義に道を拓くものであり、その点で私はこれを評価したいのである。
議論の蒸し返しになるから、書きたくはないのだが、最後に一言だけ申し添えれば、上述したことは「ショーヘイと違法賭博問題」についても言えるのではないだろうか。