ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

増税の延期ではなく

2016-05-31 15:59:32 | 日記
七不思議ではないが、不思議だと思うことが二つある。一つ目
は、北海道函館付近の山中で、小学2年生の男児が行方不明に
なっている事件である。
父親は、お仕置きのために息子を山中に置き去りにして、すこ
し経ってからその場に戻ったというが、もう息子は見当たらな
かった。神隠しにあったのでないとすれば、男児はクマに襲わ
れたか、怪我をしたかで失神して、声を出せない状態にあるの
だろう。そうであるとすれば、いまだに男児が捜索隊によって
発見されないのは不思議である。

私が不思議だと思う二つ目は、朝日新聞が相変わらず「消費増
税延期反対」を主張し続けていることである。
安倍首相が消費増税を延期した理由は、分からなくもない。い
ま消費増税をすれば、消費マインドはさらに冷え込み、消費が
さらに落ち込んで、経済の低迷状態に拍車をかけることになる。

低迷状態を抜け出そうとして、消費増税を先送りする安倍首相
の、その政治経済的判断に反対を表明する朝日の反対理由は、
大きく言って二つあるようだ。一つは、「社会保障の充実」と
いう政策が財源不足によって、実施できなくなること。もう一
つは、日本が国債の発行による借金体質から抜け出せず、国の
負債が後の世代に先送りされることである。

だが、頭を絞ってよく考えてみよう。消費増税を実施すること
により、社会保障の充実が可能になったとしても、増税の負担
によって国民の生活状態が悪化し、社会保障を必要とする人の
頭数が増えれば、社会保障の実施のために必要とされる予算額
もその分だけ増加することになり、これではイタチごっこであ
る。
また、消費増税の実施によって国の借金が減り、後の世代に先
送りされる負債の総額が減ったとしても、国民が疲弊して、子
どもの出生率が下がれば、国の負債を引き受けるべき後の世代
の人口数は減り、一人当たりの負債分担額はむしろ増えること
になる。

いずれにしても、この問題を解決する鍵は、冷え込んだ国民の
消費マインドを刺激して、活性化することにあると思うのだ
が、いかがだろうか。経済の低迷状態を抜け出すには、消費を
活性化することが急務である。だが、消費マインドが冷え込ん
でいる原因が、「金が無いから」ではなく、「買いたいものが
ないから」であるとすれば、消費増税を延期しても、それは消
費マインドを活性化することにはつながらない。

そう、我々にはもう買いたいものがないのだ。パソコンもあれ
ば、スマホもある。テレビもあるし、冷蔵庫もあれば、車もあ
る。モノは我々のまわりにあふれ返り、有り余っているほどな
のだ。これ以上、何を買えと言うのか。配偶者? 家族? で
も、そればかりは金で買えるものじゃないしなあ。・・・・・・これ
が、平均的な国民の、偽らざる現状だろう。

当ブログのきのうのエントリーを書いていて、思いついたこと
がある。目下、各メーカーが鋭意開発中の「自動車」つまり
「自動運転システム搭載自動車」が自在にあちこちを走り回れ
るように、インフラ整備をするというのはどうだろう。交差点
の信号ごとに受信・発信装置を取り付けたり、国道・県道の各
レーンの、その両脇に、はみ出し防止装置を据え付けたり、そ
のために投入される公共投資の額は、かなりの額にのぼる。そ
の工事費の大部分は、請負業者や従業員の懐にまわるだろう。

こうして自動運転システムが性能を発揮できるような環境が整
えば、老いも若きも、このシステムが搭載された「自動自動車
」を、争って買い求めるだろう。そんな商品なら、きっと私
だって欲しくなる。Windows 95以来の大変革が、たぶんその
先には待っている。
社会の姿をごっそり変えるような、それくらいの大胆な変革を
考えることが、アベノミクスには求められていると思うんです
がね、安倍さん!それから朝日さん!
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運転の未来

2016-05-30 16:40:41 | 日記
テレビで面白い話を聞いた。「車の運転を人間がすることは、
そのうち、法律で禁止される時代がくるに違いありません。」
対談でこう語っていたのは、どこかの国の、色白で聡明そうな
経済学者である。有名な学者らしいが、どこの国の人であるか
は記憶に残っていない。彼が日本の若手経済学者を相手に語っ
たのは、資本主義社会についての話だったが、この本題の話は
残念ながら私の頭に入らなかった。

ただ一つ記憶に残ったのが、冒頭に紹介した近未来予測だった
のである。

彼はAIの専門家ではないし、自動車工学の専門家でもないか
ら、この話は素人の与太話と変わらないが、自動車の、近年め
ざましい自動運転システムの進化ぶりを思い合わせれば、「な
るほど!」と、妙に納得させられた。
たしかに、人間よりも、AIの機械的な頭脳のほうが、誤りが少
なく、規則(ルール)に合致した運転には適しているに違いな
い。

この話が記憶に残ったのは、私の個人的な事情によるところが
大きい。一つは、私が高齢であることである。最近、高齢者に
よる自動車事故の報道が多くなった気がする。車の操作ミスを
したり、運転中に意識を失ったりして、何人もの歩行者を巻き
添えにしてしまうケースが、その典型だろう。心身にガタが来
た年寄りに代わって、AIを搭載した車が自動で運転してくれる
のなら、これこそまさに「自動」の車である。正真正銘の「自
動車」の誕生は、高齢の運転者にとっては、とても心強い。経
済学者が語った近未来の予測は、車を運転する高齢者にとって
も、その家族にとっても、ありがたい福音だろう。

この近未来予測が記憶に残った事情が、私にはもう一つある。
それは、私が脳卒中の後遺症に悩まされていることである。左
半身が麻痺しているために、歩行に困難をきたすのが、最大の
特徴である。杖をつけば歩くことはできるのだが、それがひど
くしんどいのである。その辛さ・苦しさが耐え難いので、この
ところ私はずっと自室に引きこもって、車イスに頼った生活を
している。「大変ですねえ」とか、「お辛いでしょうねえ」と
言ってくれる人もいるが、これでも日々の動作はだいぶ良く
なったほうで、病後しばらくリハビリ病院に入院していたとき
には、「半側空間無視」という症状らしく、左側の視野が欠け
るので、車イスの左側をよく病室のあちこちにぶつけた。
幸い、この症状は今は治ったが、こんな記憶がこびりついた身
体の私に、どうして安全運転ができると思えるだろう。運転免
許証の有効期限が切れかかっても、私は更新の手続きをせず、
事実上、運転免許を「返上」した。

運転免許証を返上することで、私はある種の自由を失った。気
が向いたときに磯場に立って、釣りをする自由を失った。自由
に釣りができない身体になってしまった私にとって、気が向く
まま釣り場に行ける自由を失うことは、さほど深刻な喪失では
なかった。けれども、車の窓越しに過ぎゆく風景を眺めたり、
磯の岩に打ち寄せる波を眺めたりすることがもう一度できるよ
うになるのなら(あ、磯に立つのは、もう無理だね)、それに
越したことはない。スマホやタブレットで目的地の場所を入力
すれば、車に搭載されたAIが、私に代わって私を釣り場まで運
んでくれるなんて・・・・・・。近い将来、そんな夢みたいなことが
実現する!私が経済学者の話に耳をそばだてたのは、そんな思
いからである。

対談のテレビ映像を反芻しながら、私は、経済学者が語る近未
来を想像してみた。想像して、私は、違和感に似た小さなわだ
かまりを感じた。私に代わって私を目的地に運んでくれる車の
シートに身をもたせ、私が眺める窓越しの風景は、コンピュー
タ・ゲームをしながら眺めるモニタの映像のようで、どこか現
実感を欠いているような、そんな気がしたのだ。

たとえば、杖をついて歩くとき。その辛さには耐え難いものが
ある。しかし、その耐え難さを、その部分だけを、肩代わりし
てくれる補助具ができたら、その補助具は、歩いている実感
を私から奪い、生きている実感をも奪ってしまうのではない
か。

VRのような希薄な空間を通り抜けて、目的地の釣り場に立っ
たときの、私の実感も同じことだろう。たとえば杖をついて、
私は渚の砂浜に立つ。室内で杖をつくのと比べれば、そこに
は、はるかに耐え難いしんどさがある。近未来のその頃には、
そのしんどさを肩代わりしてくれる夢のような補助具も、きっ
と開発されていることだろう。けれども、その夢のような装
置が私の感じる苦しさを取り除いてくれるとしたら・・・
・・・。
私は生きている実感を失って、夢のような希薄な空間を、ただ
ただ夢見心地でただよい続けるに違いない。
夢のない話だ。
夢のない話は、どう書いても、夢のある話にはならない。

そうなんだよね~。
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ヒロシマのオバマさん(その2)

2016-05-29 11:28:45 | 日記
原爆資料館を出て、平和公園の慰霊碑前に立ったオバマである
が、そのスピーチの内容は、文明論の批評家か、歴史学者が書
いた文章を聞いているようであり、また、たどたどしい同時通
訳のせいもあってか、私の頭には入りにくいものだった。
人類の誕生以来、幾度となく繰り返された戦争の、その残酷な
悲劇の一コマへとヒロシマの惨事を相対化し矮小化ようとす
る、アメリカ合衆国大統領の政治的意思だけが、ひしひしと伝
わってきた。

翌日になってネットに掲載されたスピーチ全文の日本語訳によ
ると、彼は次のように述べていた。

「私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守る手段を持た
なければなりません。しかし、我が国のように核兵器を持って
いる国は恐怖の論理から脱し、核兵器のない世界を目指す勇気
を持たなくてはいけません。」

このくだりの後半部分に注目し、「恐怖の論理から脱し」や「核
兵器のない世界を目指す勇気」といった文言だけに焦点を当てれ
ば、オバマは、今は核抑止論を放棄したように見える。とすれば
進歩だが、要注意!である。「核廃絶に熱心なあのオバマが、や
っと、やっと来てくれた!」との感激で、目を曇らせてはいけな
い。彼の十八番(おはこ)の巧妙なレトリックに幻惑されてはい
けない。

このくだりの前半と後半の順番をちょっと入れ替えただけで、
オバマの立場はがらりと逆転する。

「我が国のように核兵器を持っている国は恐怖の論理から脱
し、核兵器のない世界を目指す勇気を持たなくてはいけませ
ん。しかし、私たちが築いた国家や同盟は、私たち自身を守
る手段を持たなければなりません。」

ここでオバマが言う「自衛の手段」の何たるかが問題だろう。
それが何かを、オバマは明言していない。明言できないのだ。
「自衛の手段、それは核兵器だ」と主張すれば、オバマは従来
の核抑止論を一歩も出ていないことになる。

「自衛の手段、それは何か」を言うことができずに、その
「何かX」を「持たなければなりません」と言わざるを得な
いところに、オバマの限界があるように思われる。
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ヒロシマのオバマさん

2016-05-28 17:18:25 | 日記
オバマ大統領がきのう、アメリカの現職大統領としては初め
てになる広島訪問を実施した。岩国の米軍基地で米兵相手に
演説を行ってから、空路と陸路を使って広島平和公園に着く
までの映像を、私はテレビの実況中継で観ていた(ひまだね)。

大統領を乗せたリムジンが平和公園に到着する。姿を見せた
大統領がまず足を運んだのは、原爆資料館だった。このとき
私が感じたのは、期待感にも似た小さな胸のときめきである。
資料館の展示を見れば、オバマの認識も変わるのではない
か。--そう私は思ったのだ。私がその展示を見たのは、も
うかれこれ50年近くも前のことである。記憶は定かでないが、
それを見て、私の身体は震えた。その身体の生理的な反応だ
けは、今でもまざまざと覚えている。この資料館を修学旅行で
訪れた女子中学生の中には、吐き気に襲われて立っていられ
なくなる生徒も少なくないらしい。そんな記事を何かで読んだ
ことがある。自分の体験と照らし合わせて、妙に納得したもの
だ。

身の毛もよだつほどの、おぞましい光景……。その光景を目の
当たりにして、オバマは何をどう感じるのだろう。目を背けた
くなるほどのおぞましい光景を一瞬のうちにもたらした、核爆
弾という恐るべき兵器に対して、オバマはどういう認識を持つ
のか。

私の脳裏を過ったのは、彼の有名なプラハ演説の一節である。
オバマはこう述べていた。

「誤解しないでもらいたい。合衆国は、これらの兵器(核兵
器)が存在する限り、如何なる敵をも抑止し、同盟諸国―
―チェコ共和国を含む――の防衛を保証するために、安全か
つ効果的な兵器を保持し続ける。」

オバマは、核兵器を「安全かつ効果的な兵器」と呼び、核兵器
を廃絶するために、この兵器(核兵器)を保有し続ける意思を
表明している。明らかなように、彼はこの時点では、核抑止論
の立場に立っているのだ。核抑止論にこだわる限り、核廃絶は
実現しないだろうと私は考えている。あれから7年がたち、核
廃絶は案の定、オバマの任期中、いっこうに進展しなかった。
それどころか削減された核兵器の数は、オバマの任期中が最も
少なかった、という話もある。そういう現実を否応なく、そう
否応なく突きつけられて、核抑止論に対する自分の態度を、こ
の大統領がどう変えたのか、変えなかったのかも、私は知りた
かった。大統領の心境に、資料館での彼の見聞が何ほどかの影
響を与えたのだったら、それがどういうものかも私は知りたか
った。

オバマの現在の立場は、原爆資料館を出て、献花台に献花して
から、被爆者たちに向かって彼が行った演説によく示されてい
る。このスピーチの原稿は、彼が資料館の展示を見る前に書か
れたに違いなく、資料館での彼の見聞が反映されているとは言
い難い。しかし、これが最近のオバマの心境を示すものである
ことは確かであり、資料館での見聞が彼に多少とも感銘を与え
たのなら、彼はそれをアドリブで、スピーチに織り込むことだ
ってできるはずだ。
私が感じた期待感の中身は、およそこのようなものである。

けれども、オバマが原爆資料館で費やした時間はわずか10分!
こんな短い時間で、彼は何を見ることができただろう。この時間
の短さに対しては、それを揶揄するスレッドが、さっそくネット
の巨大国民的掲示板「2ちゃんねる」でも立てられた(「オバマ
原爆資料館出てくるの早すぎてワロタwwwwwwwwww」)。
そこに書き込まれた一つひとつの意見に、私も「禿同」する。

さてスピーチの内容であるが、これは
(つづく)
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ふたたび沖縄・ふたたび(その3)

2016-05-27 14:43:25 | 日記
原初的な裁きは、記録された文書の技術的分析によってではな
く、「生身の人間の、感情による判断」からなされたものだ、
と述べたが、これはとても大事なことだ。

沖縄の事件を、沖縄住民の裁判員によって裁くとき、それは冷
静な、理性的な裁きから程遠いものになってしまうのではない
か、とも私は述べたが、そう述べたとき、私は、裁判員に選ば
れた沖縄の住民が、この事件の犯人に対して、極刑をもって臨
むのではないか、と考えていた。私がそう考えたのは、よくよ
く反省してみれば、この私でも「極刑に処すし!」と思うほど
の激しい怒りを感じていたからである。

銘記していただきたいのだが、沖縄から遠い本土に住む私、第
三者である私が感じたこの激しい怒りこそ、生身の人間がいだ
く当然の感情と言うべきものだろう。それは言ってみれば普遍
的・人間的なものであって、沖縄の住民であるかどうかには関
係がない。

主観的な感情にも普遍性がある。そうでなければ、純文学・エ
ンタメ作品を問わず、どんな文芸作品も成り立たないだろう。
ドストエフスキーの『罪と罰』も、ユーゴーの『レ・ミゼラブ
ル』も、古今東西の、世界の人たちを感動させないだろう。

感情の普遍性に注目するにもかかわらず、私が裁きの主役をと
くに沖縄の住民に局限し,「この裁判は沖縄の住民を裁判員に
すべきだ」と主張するのは、本土の住民が裁判員になった場合
のことを考えるからである。本土の住民が裁判員になった場合
には、「こんな判決を出したら、アメリカさんがへそを曲げ
て、基地を引き払うと言い出すかも知れない・・・。そうなった
ら、日本の防衛はどうするのだ。これはマズいぞ!」とか、
「日米同盟の基礎はなんといっても友好関係だからな。これ
を維持することが日本のために大事なんだ。これを壊したら、
元も子もなくなってしまう」などと、霞が関の外務官僚張り
に、自分(本土)優先の、余計な打算を織り交ぜかねないか
らである。

さあ、どんなものでしょうか。沖縄の人たちは、お坊っちゃん
育ちのどこかの同族企業トップとは違って、一時的な感情にと
らわれて、私刑(リンチ)に走るほど、それほど短慮な人たち
ではないと、そう私は思うんですがねえ。

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