ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

植松被告の思想と行動(続)

2020-01-31 16:38:50 | 日記
植松被告の考え方は、どこがどう間違っているのか。

第一に、彼の幸福観が間違っている。彼は、意思疎通の取れない障害者について、「安楽死させれば借金が減り、みんなが幸せに生活できる」と思った、と述べている。障害者は不幸の原因であり、障害者を介護する家族は皆、不幸に苦しんでいる。だから障害者を根絶やしにすればみんなが幸せになる、と彼は述べるが、この認識が正しければ、彼が障害者施設「やまゆり園」の利用者45人を殺傷した後で、被害者家族はだれもが介護の負担から解放され、幸せになったはずだ。

しかし、事実がその逆だったことは、事件後のテレビ映像が示す通りである。被害者家族は皆一様に悲嘆に暮れ、我が身を不幸のどん底に突き落とした犯人・植松に対して、激しい怒りを向けていた。植松に殺害された障害者は、その親や兄弟にとっては、唯一無二のかけがえのない存在であり、親や兄弟の心の支えだった。その意味では障害者は、彼ら家族に(幸・不幸をひっくるめた)生活の張り合いをーー言い換えれば生きがいをーー与えてくれる愛すべき存在だったのである。

第二に、暴力に訴えて問題を解決しようとする彼の考え方も、それ自体、大いに問題である。この種のテロリズムの発想は、ブーメランとなって彼自身へと折れ返り、彼自身の墓穴を掘ることになる。「問題のある奴は、抹殺すべきだ」と植松被告が主張するなら、同じ主張に則って、植松被告自身が抹殺されなければならない。「いや、俺は別だ。俺様だけはノー・プロブレムだ」と植松被告は主張するかもしれないが、この独りよがりの独善主義こそが問題の根源だと言わなければならない。

植松事件に救いがあるとするなら、彼が事件の半年前、衆院議長に宛てて、多数の障害者を殺害すると予告する手紙を送ったことである。手紙を送った狙いについて質問された植松被告は、「犯罪なので許可が必要だと思った」と答えている。衆院議長が犯罪に許可を与えたり、与えなかったりする役職だと思うのは馬鹿げているが、障害者を殺害する行為が「犯罪」に当たるという認識は、彼にはあったことになる。この認識があった点で、彼にはまっとうな判断能力があり、責任能力があったと見るべきだろう。
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植松被告の思想と行動

2020-01-30 10:40:47 | 日記
植松被告が「まっとうな思想・正当な思想」と考える、彼の犯行時の考え方、彼の犯行の動機とは、一体どういうものなのか。朝日新聞は植松被告の法廷での陳述を、次のように伝えている。

「この日は弁護側が質問した。被告の説明では、事件の1年ほど前から『社会に役立つことをしてお金を得よう』と考えた。
やまゆり園職員として働き、利用者の家族が疲れ切っていると感じていた。日本の財政が借金だらけだと知り、『重度障害者がお金と時間を奪っている』と思ったと説明。意思疎通の取れない障害者について『安楽死させれば借金が減り、みんなが幸せに生活できる』と思ったなどと述べた。
障害者を殺害すれば人の役に立ち、お金がもらえると考えたとも話した。お金がもらえる理由を問われると、『どうやって入ってくるのか考えていないが、金をもらう権利があると考えた』と答えた。」
 
この陳述からわかるのは、植松被告が「社会に役立つことをしよう」と考えて、行動を起こした、ということである。「社会に役立つことをしてお金を得よう」と考えたと彼は述べているが、金儲けの動機が先にあったわけではない。「社会に役立つこと」をすれば「金をもらう権利」を得られる、ーーそう考えたのである。

では、障害者を殺害することは、どうして「社会に役立つこと」なのか。それは、障害者の存在が社会の大きな負担になっている、--彼がそう考えたからである。植松被告は、やまゆり園職員として働く中で、障害者が家族に負担をかけ、国家財政にも負担をかけていることを、肌で感じていた。だから「(障害者を)安楽死させれば借金が減り、みんなが幸せに生活できる」と、そう思うようになったのである。

植松被告は、こうも発言している。重度障害者は「無理心中や介護殺人、難民などの問題を引き起こしている」と。難民云々の幼稚な認識には笑うしかないが、重度障害者の存在が実際に「無理心中や介護殺人」を引き起こしたケースは、なかったとは言えない。介護の現場を実体験してきた植松被告が、「重度障害者の存在は不幸の種になる」と考えたとしても、それはあながち「突飛な妄想」とか「非常識な偏見」と言えるものではないのである。

重度障害者は、社会に不幸の種をまく。だから彼らを抹殺する行為は「社会に役立つ」行為であって、それをした自分は「金をもらう権利」がある。ーーこういう主張を聞けば、だれもが身震いを感じるだろう。誤った危険思想だと思うだろう。私も同じである。だが、植松被告のこの主張は、どこがどう誤っているのか。「危険思想だ!」と決めつける前に、この問題を考えてみなければならない。

(つづく)
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ちょっと横道

2020-01-29 10:56:45 | 日記
植松被告は法廷の席で、こう主張している。自分が障害者施設の利用者45人を殺傷したのは、病的な妄想にとらわれたからではなく、まっとうな考え方に基づいて行動したからである、と。自分を犯行へと駆り立てた、この自分の考え方のまっとうさ・正当性を主張するのが、植松被告の法廷陳述の目的だったとみてよい。

では、彼が「まっとうな思想・正当な思想」と考える、彼の犯行時の考え方、彼の犯行の動機とは、一体どういうものなのか。

きょうはこの問題について論じようと思っていたが、ちょっと横道に逸れる。というのも、けさ朝日新聞の社説を読んで、「なんだ、これは!」と、唖然とさせられたからである。けさの私は、朝日の社説《気候危機対策 目前の課題を直視せよ》に対して、ひとこと文句を言いたい気持ちでいっぱいなのである。

まず、タイトルが気に食わない。「目前の課題を直視せよ」では、近視眼的な視座を奨励しているように聞こえる。だが、地球の「気候危機」を乗り越えるために必要とされるのは、むしろ「遠視眼的」な視座であり、「近視眼的」な視座は逆に排されるべきではないのか。

朝日の主張は次のようなものである。

「すでに気温上昇は1度を超えており、各地で異常気象や自然災害が起きている。実現性がはっきりしない技術革新ばかりに望みをかけ、目の前の課題に背を向けていては、気候危機を乗り越えられない。
とりわけ日本が急ぐべきは、石炭利用からの撤退と再生可能エネルギーの拡大だ。」

地球の気候危機を招いた元凶の一つは、(多量のCO2を排出する)石炭火力発電である。日本がいまだ石炭火力発電にしがみついていることが、地球環境危機対策のガンになっている。それでは日本はなぜ石炭火力発電から撤退できないでいるかといえば、そこに働いているものこそ、まさに「近視眼的」な視座からの経済の論理なのである。

目前の(短期的な)収益だけを考えれば、安価な石炭を利用する火力発電のほうが良いに決まっている。けれども、目前の収益にこだわるこの「近視眼的」な視座は、将来の危機を招く元凶になる。そうである以上、地球の気候危機を乗り越えようと思えば、我々は何よりもまずこの「近視眼的」な視座をこそ脱却しなければならないのである。

朝日の社説には、このところずっと目を通していなかった。読む気にすらならなかった。きょうはそのタイトル《気候危機対策 目前の課題を直視せよ》のあまりの酷さに釣られ、つい本文まで読んでしまった。そして案の定、ひとこと文句を言いたくなったのである。
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植松被告と責任能力(続)

2020-01-28 10:15:22 | 日記
植松被告は「自分は責任能力がある」と主張している。では、「責任能力がある」とは、どういうことなのか。このことを知るうえで、大いに参考になる記事がきょうの新聞に載っていた。

「兵庫県・淡路島の洲本市2015年3月、住民5人が刺殺された事件で、殺人罪などに問われた無職平野達彦被告(45)の控訴審判決が27日、大阪高裁であった。村山浩昭裁判長は、裁判員裁判で審理された一審・神戸地裁の死刑判決を破棄し、無期懲役を言い渡した。裁判員裁判の死刑判決が破棄され、無期懲役となったのは7件目。うち5件で無期懲役が確定している。
平野被告は事件前、乱用すると幻覚などを生じることがある向精神薬を大量に長期間服用し、精神障害による措置入院歴があった。このため一、二審とも、被告の責任能力の有無や程度が主な争点となった。村山裁判長は被告が犯行当時、心神耗弱状犯態にあったと認定した。
(死刑判決を出した)17年3月の一審判決は、被告を起訴前と起訴後にそれぞれ精神鑑定した鑑定医2人の意見を踏まえ、被告が薬の大量服用で薬剤性精神病になり、『被害者一家が電磁波兵器で攻撃してくる』という妄想を抱くようになったと指摘。だが、犯行当時は直接的に殺害を促すような幻覚・妄想の症状はなく、自分の行為が殺人罪になると認識していたなどとして、『殺害の実行に病気の影響はほとんど見られない』と結論づけた。」
 
この記事から判るように、「責任能力がある」とは「犯行当時、心神耗弱状犯態にあった」ということであり、「心神耗弱状犯態」とは、「幻覚・妄想の症状があった」ということなのである。

植松被告は「自分は責任能力がある」と主張したが、それによって彼は、「自分は犯行当時、心神耗弱状犯態にあったのではない」と主張し、「自分は犯行当時、幻覚や妄想にとらわれていたわけではない」と主張しているのである。

興味深いのは、このことと、検察側の主張とがどんぴしゃりと符合していることである。朝日新聞は植松事件について、次のように伝えている。

「弁護側は被告が事件当時、大麻精神病などの精神障害だった疑いがあり、心神喪失や耗弱の状態だったとして無罪か減刑を主張。検察側は『意思疎通できない障害者を殺す』という被告の考えは『病的な妄想ではなく特異な考え方』として、完全な責任能力があったと訴えている。」

つまり検察側も、(植松被告の陳述と同様に!)被告は犯行当時、「病的な妄想」にとらわれていたわけではないから、「完全な責任能力があった」と主張しているのである。

植松被告は、(有罪になるリスク、つまり死刑になるリスクまでおかして)こう言いたかったのだろう。「意思疎通できない障害者を殺す」という自分の考えは、病的な妄想などではなく、まっとうな思想・正当な思想なのだ、と、ーーそう言いたかったのだろう。

では、彼が「まっとうな思想・正当な思想」と考える、彼の犯行の動機とは一体どういうものなのか。

(つづく)
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植松被告と責任能力

2020-01-27 10:34:15 | 日記
きょうから(何回になるか判らないが)植松被告の謎について考えてみたい。

植松被告の謎、--それは、彼が「自分は責任能力がある」と述べたことである。前後の文脈は以下の記事が記す通りである。

「相模原市の障害者施設『津久井やまゆり園』で利用者ら45人を殺傷したとして、殺人などの罪に問われた元職員植松聖(さとし)被告(30)の第8回公判が24日、横浜地裁(青沼潔裁判長)であり、初めての被告人質問が行われた。弁護側は被告に刑事責任能力がなかったとして無罪を主張しているが、植松被告は『責任能力を争うのは間違っている。自分は責任能力があると考えています』と述べ、弁護方針に反対した。」
(朝日新聞DIGITAL 1月24日配信)

植松被告が「自分は責任能力がある」と述べたことが、なぜ謎なのか。それは、この発言が自身の有罪判決に直結するからである。

障害者施設の利用者45人を殺傷したとき、彼が心神耗弱の状態に陥っていて、責任能力がなかったとすれば、彼は罪に問われず、無罪放免となる。

殺人を犯したとき、彼に責任能力があったとすれば、彼は殺人の罪に問われ、それ相当の刑を覚悟しなければならない。殺した人数が人数だけに、死刑になる可能性もある。

それなのになぜ、彼は(よりによって法廷の場で)「自分は責任能力がある」などと述べたのか。墓穴を掘るような発言を行ったのは、一体なぜなのか。

ひょっとして彼はアホなのか。ーーかなり重度の知的障碍者なのか。けれども、そうとは断定できない理由がある。

(つづく)
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