ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

新聞記事の公平中立とは何か

2021-10-31 10:33:22 | 日記


朝日新聞を槍玉にあげ、「選挙戦中は公平中立を装うので、(長ったらしい上に)一層回りくどい記事になる」と書いている人がいた。

まず、謝っておかなければならない。一昨日に続き、私は同じブログ記事を俎上にのせているのだが、べつに私は個人攻撃を行おうとしているわけではない。この記事を書いたご本人からすれば、執拗な、気狂いじみた個人攻撃のように見えるかもしれないが、これは私自身のブログ記事のネタ探しの結果であって、それ以上でも以下でもない。どうか諒とされたい。ご寛恕を乞う次第である。

さて、上記のように「公平中立」云々と書いた人であるが、この人は朝日新聞を、NHKか何かの公営言論機関と同じものと見誤っているに違いない。朝日新聞は他の新聞と同様、自らの主義主張を正しいと信じ、この信念に基づいて論説記事を書く。端から「公平中立」な記事を書こう、「公平中立」でなければならない、などとは思っていないのである。この「不公平不中立」の姿勢は、今回の衆院選に対しても貫かれている。そのことについては、後に具体的な例で示すことにしよう。

その前に言っておきたいのだが、「新聞は事実を客観的に伝えるべきだ」と思っている人がいるとしたら、この人は根本的な思い違いをしている。「客観的な事実」などあるわけはないし、「事実の客観的な報道」にしても同様である。事実はすべて、それを見る人の主観的なフィルターを通して見られ、加工をほどこされた解釈の産物なのだ。ニーチェのPerspectivism(遠近法主義)を援用するまでもない。

さて、今回、私が例として取りあげるのは、「衆院選と憲法改正」というテーマをめぐる、二つの新聞(朝日新聞と産経新聞)の論調の違いである。

長ったらしくなってはいけないので、手短に要約すると、産経新聞の論説《衆院選と憲法改正 真正面から論ずるときだ》(10月27日配信)は、次のように述べている。

「衆院選は、改正論議の絶好の機会であるはずだ。にもかかわらず、憲法改正をめぐる議論が盛り上がらないのは、野党のせいである。残念だ。憲法改正の必要性を認めない共産、社民との選挙協力をしている事情もあるのか、立憲民主党は公約で憲法改正に触れていない。この3党と、れいわ新選組は『新型コロナウイルス禍に乗じた憲法改悪に反対』する、事実上の政策合意を結んでいる。これに対して、憲法改正に前向きな姿勢なのは自民党、日本維新の会、国民民主党である。国家国民のため、各党は憲法改正に向けて議論を盛り上げてほしい。」

一方、朝日新聞はどうか。社説《衆院選 憲法 議論の土台立て直しを》(10月28日配信)は、次のように述べている。

「自民党は公約で、憲法改正に向けた取り組みのさらなる強化をうたい、具体的な4項目をあげている。4項目は『自衛隊の明記』『緊急事態対応』『参院選の合区解消』『教育の充実』である。しかし、これら4項目をめぐる議論が今まで一向に進まなかった背景を、岸田首相は直視すべきだ。安倍元首相や自民党の『改憲ありき』の態度が、野党の不信や警戒を招き、国民の理解や支持も広がらなかったことを重く受け止める必要がある。すべては自民党の責任だ。」

見れば分かるように、両紙の主張はきわめて明快で、「回りくどい」ものではない。両紙とも、改憲論議が進まない現状を認めた上で、その責任を、産経は野党のせいにし、朝日は与党のせいにしている。正反対の主張が出てくるのは、その根底に(あるいはそれ以前に)与党・野党に対する正反対の主観的な評価の前提があるからである。

自民党に対しては「あばたもえくぼ」の産経新聞、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の朝日新聞。
野党に対しては「あばたもえくぼ」の朝日新聞、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の産経新聞、といったところか。


さてさて、「公平中立」のブログ記事の筆者の爺さん、あなた様のお陰で、私・天邪鬼爺はやっとこさ2日分のブログ記事を書くことができました。お礼を申し上げます。厚かましいようですが、私の記事に対するご感想を、あなた様のブログでも、私のブログのコメント欄にでも構いませんから、二言三言お寄せいただけますと、ネタがさらに1回分増えますので、とても助かります。

まあ、お互いネタ不足に悩まされ、日々汲々とする身、互助共助の精神で行きましょうや。




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日本の快挙なのか 核廃絶決議案

2021-10-30 10:40:14 | 日記


日本が核廃絶決議案を提出し、これが国連総会で採択されたという。「核廃絶決議案」とは聞き慣れない名前だが、これがどういうものなのかーー核兵器禁止条約や、核不拡散条約(NPT)とどういう関係にあるのかーー、グーグル先生に訊いても教えてくれなかった。

これは勝手な推測だが、「核廃絶決議案」とは、その名前からして、「核兵器を廃絶すべし!」という決議を、国連に求める公式の文案であるに違いない。

では、こうした文書を日本が国連に提出したことには、どういう意味があるのか。

これも推測の域を出ないが、日本政府は、核兵器禁止条約の批准に参加しなかった自らの態度に、強い後ろめたさを感じていたのではないか。そしてこの後ろめたさーー良心の呵責ーーを埋め合わせるために、「核廃絶決議案」なるものを(言ってみればアリバイ作りの一環として)提出したのではないだろうか。

日本政府が核兵器禁止条約に参加しなかったことを受け、私はかつて本ブログで次のように書いたことがある。

「唯一の被爆国であるわが日本はといえば、奇妙なことに、この条約には参加していない。日本はアメリカの『核の傘』に頼っており、核抑止論に立脚する以上、核兵器の存在意義を全否定するこの条約に参加することはできないということだろう。日本がおかれた現状を考えれば、これは決して奇妙なことではない。」
(21/01/22 《核兵器禁止条約が発効》)

日本政府は、アメリカの「核の傘」に頼っている自らが、(核兵器の存在意義を全否定する)核兵器禁止条約に加担することは、自己矛盾を犯すことだと考えたに違いない。だが、これは自己矛盾ではないと私は考える。なぜか。

(1)アメリカの「核の傘」に頼ること、それは核兵器の個別的な使用を是認することであり、軍事的な安全保障の次元での態度決定である。
(2)一方、核兵器禁止条約に加担することは、核兵器の使用そのものの意義を否定することであり、これは、人道的な倫理の次元での態度決定である。

つまり、この二つは、異なった次元での態度決定であって、決してバッティングするものではないのである。

さて、核廃絶決議案を国連に提出した今回の日本の態度であるが、これは、(2)の「人道的な倫理の次元」での要求ーー良心の要求ーーに迫られて、日本政府がとった行動だと言えるだろう。「人道的な倫理の次元」での要求ーー良心の要求ーは、一国の政府を動かす力をたしかに持っている。

かつて私は、この「倫理の力」には懐疑的だった。だから核兵器禁止条約は、実効性を持たない理念の表明でしかない、と考えていた。だが、そうではない。そうではないことを、日本政府が自ら示したとみなければならない。

私は、自分の判断の過ちを認めるのに吝かではない。今回の日本の「核廃絶決議案」の提出には、「よくやった!」と誉めてあげたい思いがする。これは快挙と言えるのではないだろうか。



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新聞を読むのが「草臥れ」る人に

2021-10-29 12:01:15 | 日記


朝日新聞を批判するブログ記事を読んだ。私はべつに朝日新聞の回し者でも何でもないが、この記事を読んで、「どうなのだろうなあ・・・」と素朴な疑問を持った。

「朝日新聞は、(中略)批判し解説する記事が長過ぎ、草臥れて、寝てしまう。
選挙戦中は公平中立を装うので、一層回りくどい記事になる」。

これが、このブログ記事の言い分である。「批判し解説する記事」が長くなるのは仕方のないことで、朝日新聞に限らず、どの新聞にも言えること。それが「草臥れ」るから鬱陶しい、と言うのなら、そもそも言論の公器たる新聞など、読まないことだ。ネットには「Smart News」など、コンパクトに世の出来事を教えてくれるニュース・サイトはいくらでもある。それに目を通すのすら「草臥れ」ると言うのなら、テレビのワイドショーでも見てぼんやり・のほほんと過ごすことですな。

長すぎる言説は「草臥れ」て鬱陶しい、という意見は、突き詰めれば、小泉純一郎元首相張りのワンフレーズ・ポリティクスを是認し、さらに突き詰めれば、反政府デモのシュプレヒコールで充分だ、とする意見に行き着く。


思い出すのは、私が大学生だった頃のことである。世は安保反対デモや、学園紛争絡みの内ゲバで騒然としていたが、当時の若者たちはゲバ棒を担ぎ、シュプレヒコールだけを叫んでいたわけではない。マルクスの理論書や、セクト理論家の著書を読んで、理論武装に努めていた。キャンパスで、敵対するセクトの級友を相手に口角沫を飛ばし、論敵を論駁しようと必死になっていた友人たちの姿が、今では懐かしい。

半世紀前のそういう若者たちの姿を、ーーまた、長ったらしい新聞の論説記事をーー「草臥れ」て鬱陶しいとして、端からうっちゃろうとする姿勢は、精神的退廃の極みともいえ、見ていて痛々しい。見苦しい。この種の「やさぐれジジイ」は、デモに行ってシュプレヒコールを叫ぶのすら「草臥れ」ると言って突き放し、自室に引きこもったまま、虚ろな横目で世の喧騒をやり過ごすのでしょうな。そして暇を持て余せば、ブログで不平不満を「手短に」吐露したりするのでしょうな。

あ、これはご同輩のことではありませんよ。誤解なきよう。
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選択的ミドルネーム制度はいかが

2021-10-28 09:58:55 | 日記


数日後に迫った衆院選だが、「選択的夫婦別姓」の是非がその争点になっている。男性にはいまいちピンとこないが、女性にとっては、これは切実な問題であるらしい。

選択的夫婦別姓制度、つまり、「夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の姓(名字)を称することを認める制度」は、なぜ女性の強い関心の的になるのか。

好みは人それぞれである。「私は自分の旧姓のままキャリアを積んでいきたい」と思う女性もいれば、「別にィ。名前なんかに関係なく、私は私なんだから、そんなこと、どうでもいいじゃん」と思う女性もいる。「結婚したら、父や母と別の姓になるのって、縁が切れたみたいで、嫌な気がする」と思う女性もいれば、そう思わない女性もいる。

だったら、どちらでも好きにすれば良いのではないか、ということで、「夫婦が望む場合には、結婚後も夫婦がそれぞれ結婚前の姓(名字)を称することを認める」という「選択的夫婦別姓制度」が望まれることになったのだろう。

問題は、この制度を導入するための法律を提出することに賛成かどうかである。自民を除く8党は導入に前向き、自民は慎重だという。慎重ないし反対の理由は、「夫婦が別々の姓になると、家族の一体感が損なわれる」ということのようだ。この考え方にも尤もな面はあるが、この問題を考えるに当たって、私にはぜひ考慮に入れていただきたい名案がある。私がきょう本ブログで訴えたいのは、この名案についてなのである。

私の名案、それは、「夫婦が望む場合には、姓名に旧姓をミドル・ネームとして表示することを認める」というものである。たとえば、山田花子さんが鈴木三郎さんと結婚したとしよう。従来の通りなら、山田花子さんは結婚を機に「鈴木花子」さんになる。この「鈴木花子」さんは、結婚後も婚前の「山田花子」というキャリア・ネームで銀行員の仕事を続けたい、と望むかもしれない。

そこで、山田花子さんがそれを望み、夫の鈴木三郎さんもそれに同意するなら、ミドル・ネームの表示を認め、彼女が「鈴木[山田]花子」と名乗るようにしたらどうだろう、というのが、私の提案である。仕事上の取引相手は、彼女のネームプレートを見て、「ああ、この人は結婚して鈴木さんになった、あの山田花子さんなのだな」と認知するだろう。そうなれば、彼の目の前にいる女性は、そのときが初対面だったとしても、見ず知らずの赤の他人ではなく、仕事の話も円滑に進むに違いない。

また、父親の山田太郎さんや母親の山田正子さんに対しても、彼女は「ああ、自分はこの人たちの子どもなのだ」という絆の意識を持つことができるだろう。

このアイデア、我ながら名案だと思うのだが、いかがだろうか。



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衆院選 安保スルーでいいのか

2021-10-27 11:16:55 | 日記


いや〜、驚いた。あいた口が塞がらない。今度の選挙で、人は何を判断基準にして支持政党を
決めるのだろうか。

こんな記事を読んだ。
《衆院選、どの党に投票する? 選択的夫婦別姓など、ジェンダー平等の政策を比較【政党アンケート結果(1)】》
(HUFFPOST 10月26日配信)

「ハフポスト日本版と若い世代に政治や社会のニュースを発信している『NO YOUTH NO JAPAN』は、10月31日投開票の衆院選に向けて9政党(中略)にアンケートを実施しました。
このアンケートに先立ち、読者の皆さんが政治に対して『特に積極的に取り組んでほしい社会課題』(選択肢から複数回答)について尋ねました。30歳未満の若い世代の関心の上位には『ジェンダー平等(選択的夫婦別姓など)』や『妊娠・出産・子育て』があがり、自由記述からは雇用などに対する将来不安を感じていることも伺えました。」

驚いたのは、「政治が積極的に取り組んでほしい課題(U30)」の中に「外交・安全保障」の項目がなかったからである。1位から順に、「ジェンダー平等」、「新型コロナウイルス対策」、「妊娠・出産・子育て」、「格差是正・貧困問題」(以下、略)・・・とある。

どうなのだろう。ハフポスト側が差し出した問いの選択肢の中には、「外交・安全保障」の項目がなかったのだろうか。とすれば話は別で、そんなアンケートは取りあげるに値しないと言うべきだろう。

脅すつもりはないが、現今の国際情勢は「外交・安全保障」を考えないで済むほど安穏とした時代ではない。この問題をスルーした設問は、それ自体が無意味だと言わなければならない。こんな記事がある。

「同報告書(ヘリテージ財団の報告書)は、北朝鮮による日本への核攻撃の戦略について、以下のように記している。
・北朝鮮は、米国との戦闘の際に、米軍や国連軍に日本の港湾、空港、基地などを使用させないようにするため、日本に核攻撃の威嚇をかけることを戦略の1つとしている。」
(JBpress《東京も大阪も狙う北朝鮮の核ミサイル、日本がとるべき対抗措置は 米国が日本に求める「北朝鮮ミサイル基地への攻撃能力」》10月27日配信)

こうした情勢を考えれば、「外交・安全保障」は、欠かせない重要な政治的イシューだと私は信じるが、この私のような見方は、あるいは少数派なのかもしれない。別の記事(現代ビジネス《自民、立民、共産、れいわ…8党の「公約」を読み比べて見えた「決定的に重要なこと」10月26日配信》)でも、「外交・安全保障」はなぜか完全にスルーされている。

はたして有権者は、「ジェンダー平等」、「新型コロナウイルス対策」、「妊娠・出産・子育て」、「格差是正・貧困問題」など、身近な問題に対する各党の取り組み方だけを眼中において、支持政党を決めるのだろうか。

たとえば立憲民主党である。この政党について、私は先に本ブログで次のように書いたことがある。

「この政党に票を入れることには、躊躇が先に立つ。一番の理由は、この党が日本共産党と手を組んだからである。何よりも問題なのは、日本共産党が日米軍事同盟に反対し、日米安保条約を『廃棄する』と明言していることである。(中略)
日本共産党が政権の座についたら、日米軍事同盟はどうなるのか、自衛隊はどうなるのか、中国の軍事攻勢が危ぶまれる中、日本の安全保障はどうなるのか」
(10月22日《選挙に》)

この私の懸念は、自民党の懸念でもある。自民党は選挙演説で、立憲民主党と共産党との「野合」をこっぴどく非難しているが、それは、私のような安全保障上の懸念が多数派のものであり、こうした懸念の強調は大衆受けすると考えてのことだろう。

だが、上で取りあげたHUFFPOSTの記事が示すように、「外交・安全保障」のイシューがそもそも一般大衆の関心事ではないとしたら、自民党の選挙戦略は根本的に誤っていると言わなければならない。外交・安全保障上のリスクを顧みず、共産党と組んだ立憲民主党の選挙戦略のほうが正しかったことになるだろう。

さて、どちらの判断が正しいのか。結果が判明するのはもうすぐである。
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