朝日新聞を槍玉にあげ、「選挙戦中は公平中立を装うので、(長ったらしい上に)一層回りくどい記事になる」と書いている人がいた。
まず、謝っておかなければならない。一昨日に続き、私は同じブログ記事を俎上にのせているのだが、べつに私は個人攻撃を行おうとしているわけではない。この記事を書いたご本人からすれば、執拗な、気狂いじみた個人攻撃のように見えるかもしれないが、これは私自身のブログ記事のネタ探しの結果であって、それ以上でも以下でもない。どうか諒とされたい。ご寛恕を乞う次第である。
さて、上記のように「公平中立」云々と書いた人であるが、この人は朝日新聞を、NHKか何かの公営言論機関と同じものと見誤っているに違いない。朝日新聞は他の新聞と同様、自らの主義主張を正しいと信じ、この信念に基づいて論説記事を書く。端から「公平中立」な記事を書こう、「公平中立」でなければならない、などとは思っていないのである。この「不公平不中立」の姿勢は、今回の衆院選に対しても貫かれている。そのことについては、後に具体的な例で示すことにしよう。
その前に言っておきたいのだが、「新聞は事実を客観的に伝えるべきだ」と思っている人がいるとしたら、この人は根本的な思い違いをしている。「客観的な事実」などあるわけはないし、「事実の客観的な報道」にしても同様である。事実はすべて、それを見る人の主観的なフィルターを通して見られ、加工をほどこされた解釈の産物なのだ。ニーチェのPerspectivism(遠近法主義)を援用するまでもない。
さて、今回、私が例として取りあげるのは、「衆院選と憲法改正」というテーマをめぐる、二つの新聞(朝日新聞と産経新聞)の論調の違いである。
長ったらしくなってはいけないので、手短に要約すると、産経新聞の論説《衆院選と憲法改正 真正面から論ずるときだ》(10月27日配信)は、次のように述べている。
「衆院選は、改正論議の絶好の機会であるはずだ。にもかかわらず、憲法改正をめぐる議論が盛り上がらないのは、野党のせいである。残念だ。憲法改正の必要性を認めない共産、社民との選挙協力をしている事情もあるのか、立憲民主党は公約で憲法改正に触れていない。この3党と、れいわ新選組は『新型コロナウイルス禍に乗じた憲法改悪に反対』する、事実上の政策合意を結んでいる。これに対して、憲法改正に前向きな姿勢なのは自民党、日本維新の会、国民民主党である。国家国民のため、各党は憲法改正に向けて議論を盛り上げてほしい。」
一方、朝日新聞はどうか。社説《衆院選 憲法 議論の土台立て直しを》(10月28日配信)は、次のように述べている。
「自民党は公約で、憲法改正に向けた取り組みのさらなる強化をうたい、具体的な4項目をあげている。4項目は『自衛隊の明記』『緊急事態対応』『参院選の合区解消』『教育の充実』である。しかし、これら4項目をめぐる議論が今まで一向に進まなかった背景を、岸田首相は直視すべきだ。安倍元首相や自民党の『改憲ありき』の態度が、野党の不信や警戒を招き、国民の理解や支持も広がらなかったことを重く受け止める必要がある。すべては自民党の責任だ。」
見れば分かるように、両紙の主張はきわめて明快で、「回りくどい」ものではない。両紙とも、改憲論議が進まない現状を認めた上で、その責任を、産経は野党のせいにし、朝日は与党のせいにしている。正反対の主張が出てくるのは、その根底に(あるいはそれ以前に)与党・野党に対する正反対の主観的な評価の前提があるからである。
自民党に対しては「あばたもえくぼ」の産経新聞、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の朝日新聞。
野党に対しては「あばたもえくぼ」の朝日新聞、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」の産経新聞、といったところか。
さてさて、「公平中立」のブログ記事の筆者の爺さん、あなた様のお陰で、私・天邪鬼爺はやっとこさ2日分のブログ記事を書くことができました。お礼を申し上げます。厚かましいようですが、私の記事に対するご感想を、あなた様のブログでも、私のブログのコメント欄にでも構いませんから、二言三言お寄せいただけますと、ネタがさらに1回分増えますので、とても助かります。
まあ、お互いネタ不足に悩まされ、日々汲々とする身、互助共助の精神で行きましょうや。