ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

新型コロナ給付金と理念の問題(続)

2020-04-30 14:37:45 | 日記
コロナ禍によって、多くの人々が身体的、精神的、さらには経済的に大きな打撃を受けている。国民の経済的打撃に対処するため、政府は「新型コロナ給付金」の支給を決定した。当初は「特定の世帯に30万円」という給付方式で計画されたこの給付金が、後に(与党・公明党の横やりによって)「全国民1人当たり10万円」という方式へと変更されたことについては、きのうの本ブログでふれた通りである。

きょう問題にしたいのは、これら二つの支給方式の、その善し悪しである。念のため、もう一度確認しておこう。前者「特定の世帯に30万円」という給付方式は、「援助を必要とする困窮世帯に、必要なだけの援助を」という理念(A)から生じている。これに対して、後者「全国民1人当たり10万円」は、「援助を必要とする人にも、必要としない人にも、皆一律に一定額を支給する」という理念(B)に基づいている。

まず押さえておきたいのは、理念(A)が日本国憲法第25条の理念を前提していることである。憲法第25条は次のように述べる。

「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。」

我々国民は日々、さまざまな災禍に見舞われる恐れに晒されながら暮らしている。台風が来れば農家や、川沿いの家々が被害を受け、大きな地震が起これば、津波によって多くの人命が失われる。新型コロナウイルスの場合は、日々のテレビニュースが報じる通りである。命を失えばそれまでだが、命拾いをした人は、苦境を克服して生きていかなければならない。その場合、我々が絶望せずに生きていけるのは、災禍によって蒙った損害を、政府が補填してくれると期待できるからである。

コロナ禍によって生じた経済的損失は、政府が必ず埋め合わせをしてくれる。政府の社会保障政策によって、我々は「健康で文化的な最低限度の生活」を営むことができるのだ。そうあって欲しい。ーーこの国民の期待に応えるのが、このたび政府が実施しようとしている「新型コロナ給付金」にほかならない。

とすれば、この「新型コロナ給付金」が「援助を必要とする困窮世帯に、必要なだけの援助を」という理念(A)に基づくものであるのは、あまりにも明らかである。政府の社会保障政策の一環であるこの「新型コロナ給付金」は、その趣旨からして、「援助を必要とする人にも、必要としない人にも、皆一律に一定額を支給する」という理念(B)とはまったく無関係なのだ。

にもかかわらず、公明党は理念(B)に基づく「全国民1人当たり10万円」の給付方式に変更せよと政府に強く迫った。公明党も、また、その背後に控える創価学会の会員も、次のように考えているに違いない。「政府は、憲法が保障する国民の権利、国民の『健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を尊重し、国民の一人ひとりにそれに見合う金額を支給しなければならない」と。

おいおい、これじゃあ、働きもせず、生保(ナマポ)をもらって遊んで暮らす一部の怠け者たちとちっとも変わらないじゃないか。「働かざる者、食うべからず」という言葉を知らないのかね。働きたくても職がないというなら話は別だが、そうでなければ、人は自ら汗をかいて、真面目に自助の精神で生きていくべきなのだ。

コロナ禍で職を失ったわけでもないのに、濡れ手に粟で10万円をせしめようなんて、あまりにも虫がよすぎるぜ。
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新型コロナ給付金と理念の問題

2020-04-29 16:07:49 | 日記
コロナ禍の猛威によって、多くの人が肉体的・精神的だけでなく、経済的にも大きな打撃を受けている。この経済的ダメージに対処するのが、言うまでもなく政府に求められる役割である。客足が途絶えて、店をたたまざるを得なくなったバーや居酒屋の店主たち。観光事業を営む会社の経営不振で、首を切られた非正規雇用の社員たち。コンサートホールが休業したため、活動の場を失い、収入の道を閉ざされたミュージシャンたち。その他、さまざまな業種の人たちが悲鳴を上げている。このような人たちに対して、政府はどういう手当てを用意しようとしているのか。

経済だとか、財政だとか、金融だとか、とかくおカネのことにはからっきし疎い天邪鬼爺である。税金がどうのとか、雇用調整助成金がどうのとかと細かいことを言われてもちっとも解らないので、話を思いきり単純化して、〈「新型コロナ給付金」は、「特定の世帯に30万円」から「全国民1人当たり10万円」に変更された〉という話題にしぼり、このことの意味や善し悪しについて考えてみたい。
(以下の管見の大筋は、サイト「MONEYISM」に4月17日付で掲載された記事《「新型コロナ給付金」は、「特定の世帯に30万円」から「全国民1人当たり10万円」に。5月中に支給開始か 》によっている。)

さて、「特定の世帯に30万円」の構想は、コロナ禍に対する政府の経済対策の「目玉」として(「収入が減って苦境におかれた世帯に、一律30万円を支給する」という趣旨で)掲げられた方針だった。

それが与党・公明党の横やりで撤回され、「全国民に1人当たり10万円を給付する」という形に改められたのが、大まかな事の経緯である。この変更はどういう理由で生じたのか、また、何を意味しているのだろうか。

私が大きな問題として言挙げしたいのは、前者「特定の世帯に30万円」の構想が「援助を必要とする困窮世帯に、必要なだけの援助を」という理念(A)から生じていることである。それに対して、後者「全国民1人当たり10万円」は、「援助を必要とする人にも、必要としない人にも、皆一律に一定額を支給する」という理念(B)に基づいている。理念Aは、「幾何学的平等」の理念、これに対して理念Bは、「算術的平等」の理念と名づけることができるだろう。

前者から後者への変更は、したがって「(幾何学的平等の理念から、算術的平等の理念への)理念の変更」と言えるものだが、こうした変更はそれではなぜ行われたのか。

まず指摘できるのは、制度の分かりにくさである。前者の給付方式は、一定の基準を条件に、どの世帯が「援助を必要とする世帯」であり、どの世帯がそうでないかを振り分けようとするものだったが、この「基準」がどうにも分かりにくい。自分がこの基準を満たしているかどうかが、申請者にはとにかく解りにくかった。また、この基準を満たす世帯がホントに「(援助を必要とする)困窮世帯」に当たるかかどうかも、つまり、この基準を適用することで、ホントに困窮している世帯に援助(給付)が行き渡るかどうかも、同時に問題視された。

後者の給付方式への変更は、そうした分かりにくさを解消するためだったと言うことができる。「全国民1人当たり10万円支給」とすることで、「はたして自分は支給対象なのか?」という、基準の「分かりにくさ」は解消されるからである。

見逃してはならないのは、前者から後者への給付方式の変更が、「分かりにくさの解消」だけでなく、同時に「理念の変更」も伴っていることである。前者の給付方式には、たしかに「分かりにくい」という問題はあったが、前者を生み出した理念そのもの(幾何学的平等の理念そのもの)には、問題がなかったはずだ。

ならば、この理念はそのままにして、問題の「分かりにくさ」の部分だけを「分かりやすい」ものに変更すればよかったのだ。私が問題にしたいのは、給付方式の変更によって、その根幹にある理念がーー「援助を必要とする困窮世帯に、必要なだけの援助を」という(幾何学的平等の)理念がーーが見失われてしまったことなのである。

仄聞するところによれば、この変更をごり押しした公明党の背後には、支持団体である創価学会の強硬な突き上げがあったようだ。(公明党幹部を突き上げた)創価学会の会員たちは、こう考えたに違いない。「前者の給付方式では、自分たちは一円ももらえないかも知れない。『一律10万円支給』にすれば、自分たちも必ずもらえる。ぜひともこの支給方式に変更すべきだ!」。

カネの力は強い。理念の力なんかよりもずっと強い。地獄の沙汰もカネ次第。そうは思いたくないけど。
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パチンコより老人介護が問題だ

2020-04-28 14:12:05 | 日記
パチンコ店の「3密」も問題だが、それ以上に問題なのは老人介護施設の「3密」である。私が老人介護施設にこだわるのは、老いぼれの私自身がこの種の施設と無縁ではないからだが、それだけではない。この種の施設がどんどんクラスター化し、妖怪コロナの犠牲者を量産しつつある深刻な現状が無視できないからである。

先日も本ブログで書いたように、ヨーロッパでは老人介護施設が軒並み危機的状況に陥っている。フランスでは、(コロナ感染による)全体の死者数の4割が老人介護施設の入居者に集中しているという。

ここまで被害が深刻になる前に、日本の政府は、老人介護施設に休業を要請するなど、適切な対処をとるべきだと私は主張してきた。この「適切な対処」には、休業によって生じた損失を財政的に補填することも含まれる。

都や県といった地方自治体が老人介護施設を休業の要請対象にしないのは、それに伴う公的補償を都や県が避けようとしているからではないか、と私は勘ぐっている。年老い、心身にガタがきて、社会的弱者となった老人たち。そういう人々に介護の手を差しのべるこの種の支援施設は、社会にとって必要不可欠なインフラと言ってよい。だから行政側は、この種の施設が休業後も存続できるように、金銭の面できちんと手当すべきなのだ。

なぜパチンコ店ばかりに「休業せよ」、「休業せよ」と騒ぐのか、お役人のその感覚がちっとも理解できない天邪鬼爺である。
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パチンコ店騒動の顛末

2020-04-27 14:34:59 | 日記
きのう大阪府が「パチンコ店名さらし」を行ったことに対して、私は本ブログで自分なりの意見を開陳した。

要約すれば、「パチンコ店名さらしは、その店を宣伝する結果になって逆効果だ」ということだが、同様の意見を持ったのは、(当然のことだが)私だけではなかったようだ。何人かの芸能人が同様の意見をツイッターで公表したところ、有名人の意見とあってか、これに吉村府知事が噛みつくなど、思わぬ展開があった。

そこできょうは、こうした一連の出来事に対して、私の思うところを述べてみたい。まずは事の経緯から。
★俳優の松尾貴史(59)が4月25日、パチンコ店に客が大勢集まったとするネットニュースを引用し、「ほれみろ」とツイート。
(松尾氏は、その前にも「ギャンブル依存症の人に、『あそこ営業してまっせ』と教えてあげる事になるやも......」とツイートしていた。)

★4月26日、タレントのラサール石井(64)がこのツイートを引用して、ツイッターで大阪府の店名公表措置を批判。
「『皆さん、パチンコ屋が軒並み閉まって大変でしょう。今ならここが開いてますよお』と宣伝した結果になるの、わからんかったんかな」

★これに対し、吉村知事が同日、石井氏のツイートを報じたスポーツ紙のニュースを引用して、ツイッターで反論。
「大阪に700店舗近くパチンコ店があり、休業要請後に120店舗の開店状況と府民の苦情と専門家の意見。そこから詰めてきた結果の現在公表3店舗。ここだけ捉えて『分からんかったの?』とはお気楽な立場だよ。影響力ある立場なら『今だけはやめときましょう』位言えないのかね」

吉村知事は、要請に応じないパチンコ店名を公表したことについて、「『公表は圧力だ!』との意見もあるが、公表は義務」だと説明。その根拠として、府には、府民の命を守る責任があり、パチンコ店で感染が起きればその感染者を守る責任があることなどを挙げた。
また、ギャンブル依存症対策も同時に進める必要性も認め、こうツイートした。
「緊急事態宣言下、行政の呼びかけも関係なくパチンコ店に押しかける。一律10万円配っても一緒。パチンコの依存症問題に正面から取り組むべき。国はパチンコをギャンブルと認めず、何らの規制もない。依存症対策も正面から論じてこなかった。IRは入場制限や依存症対策を様々とる。パチンコもやるべきだ」

いかがだろうか。吉村知事の反論は、要約すれば、「府は安直に店名を曝したわけではない。状況分析のほか、府民の苦情や専門家の意見を踏まえて、さまざまに検討する努力をしている。この努力を見過ごさないで欲しい。府の目論見に同調して、『パチンコ店に行くのを止めよう』と言って欲しかった」ということである。

だが、どうなのだろう。ここからは私の意見になるが、我々(私や松尾氏、石井氏)が批判しているのは、大阪府が検討の努力を怠ったことではなく、検討に検討を重ねた結果が「これ」だったこと、つまり、逆効果になりかねない稚拙な対処だったことなのである。

繰り返す。我々は府がやらなかったと批判しているわけではない。やったことは認める。ただ、やったことがマズかった、マズいことをやったと批判しているのである。

私が驚いたのは、(ズケズケものを言うので有名な、あの)高須クリニックの高須克弥院長が、以上のような吉村府知事の反論に対して、白旗を掲げ、完全敗北の姿勢をあらわにしたことである。

吉村府知事がラサール石井の批判に反発し、「影響力ある立場なら『今だけはやめときましょう』位言えないのかね」と不快感を露骨に示したことは上に書いたが、これに対して高須院長は、「僕もそう申し上げるべきでした。反省してます。頑張っておられるのに・・・ごめんなさい。お許しください。吉村知事」と平謝りの体で、発言を撤回したというのである。

努力をした、頑張った、悪気はなかった。それだけで事が済むのなら、世話はない。この人は、政治が結果責任の世界だということを、ご存じないのだろうか。それとも、「お上」の虚勢にはめっぽう弱いということなのだろうか。
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パチンコ店と特措法

2020-04-26 11:41:29 | 日記
ほら、言ったことではない。こういうことになるのは判り切っていた。

「新型コロナウイルスの感染拡大防止のための休業要請に応じなかったとして、大阪府が店名を公表したパチンコ店の一部では、25日も営業が確認され、開店を待つ客が朝から行列を作った。(中略)
堺市内の店舗では開店1時間前の午前9時過ぎには整理券を受け取るために約150人の客が並び、従業員が間隔を空けるよう呼び掛けた。駐車場には神戸や和歌山など府外ナンバーの車も見られ、開店時には列は約300人に達した。(中略)
近くに住む散歩中の女性(79)は『遠くから来る人がウイルスを持ち込むかもしれないと思うと怖い』と話した。」
(毎日新聞2020年4月25日配信)

堺市内で営業中のパチンコ店に押しかけた300人の客は、この店が営業中だということを、どうして知ったのか。大阪府が店名を曝したからに違いない。お役所(大阪府)がこの店の宣伝に一役買ってしまったことになる。皮肉な話だ。

大阪府はなぜそんなことをしたのか。パチンコ店という「3密」の場所を潰すためである。「3密」の場所を潰すための行政措置が、さらに密度の濃い「3密」の場所を作り出してしまったのだから、とんだお笑い種である。いや、笑えない話、笑ってはならない話である。しかもこうなることは、事前に判り切っていたことなのに。

この行政措置を可能にした法的根拠は、以下の通りである。

(新型インフルエンザ等対策特別措置法第45条2項)
「特定都道府県知事は、新型インフルエンザ等緊急事態において、新型インフルエンザ等のまん延を防止し、国民の生命及び健康を保護し、並びに国民生活及び国民経済の混乱を回避するため必要があると認めるときは、新型インフルエンザ等の潜伏期間及び治癒までの期間を考慮して当該特定都道府県知事が定める期間において、学校、社会福祉施設(通所又は短期間の入所により利用されるものに限る。)、興行場(興行場法(昭和二十三年法律第百三十七号)第一条第一項に規定する興行場をいう。)その他の政令で定める多数の者が利用する施設を管理する者又は当該施設を使用して催物を開催する者(次項において「施設管理者等」という。)に対し、当該施設の使用の制限若しくは停止又は催物の開催の制限若しくは停止その他政令で定める措置を講ずるよう要請することができる。」

たしかに、この法令にはパチンコ店の「(営業)停止その他政令で定める措置を講ずるよう要請することができる」と書かれているが、パチンコ店が要請を受け入れない場合は「店名を曝すこととする」とは書かれていない。店名を曝す強行措置は、現場(大阪府)のお役人の判断によるものなのだ。大阪府のお役人は、ギャンブルなどには無縁で、パチンコ狂の心理に疎い清廉潔白な人士ばかりらしい。

ついでに言わせてもらえば、大阪府のお役人は、興行場(ギャンブル施設)を目の敵にするあまり、社会福祉施設の感染リスクには目が届かなかったらしい。この法令にはご覧の通り、適用の対象として社会福祉施設が含まれている。この種の施設が「3密」の度合いからして、非常に大きな感染リスクに晒されていることを考慮すれば、社会福祉施設、ーー特に高齢者向けの社会福祉施設は、業務停止を要請して然るべき対象だったのではないか。

妖怪コロナの脅威にあたふたするばかりで、頼みのお役所までが見境をなくしてしまっている現状がどうにも嘆かわしい。
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