ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

スカ首相に物申す

2021-07-31 11:09:18 | 日記
昨夜7時のNHKニュースの時間に、またしてもスカ首相のご面相が舞い込んだ。臨時の記者会見だとか。迷惑な話である。

「見てくれ」で人を判断するのは良くないが、この人の能面のような無表情は、見ているだけで鬱陶しくなる。

これまでスカ首相は、「人流は減っている。だから(コロナ問題は)大丈夫」などと散々楽観論を振りまいてきた。オリンピックの運営に支障を来さないためだということは見え透いているが、そういう楽観論も、この人の口から出ると、訳もなく不安を抱かせる。

案の定、このところの感染爆発。さすがにスカ流の楽観論は通用しなくなった。そこで、きょうは何を言い出すかと思えば、延々と「専門家的」見解の垂れ流しである。

「全国の新規感染者数は増加を続けています。昨日の全国の感染者は、1万人を超え、本日の東京の感染者は3300人に上っております。首都圏、関西圏をはじめ、多くの地域で増加傾向が続き、これまでに経験をしたことのないスピードで感染が拡大をいたしております。大きな要因として指摘されるのが、変異株の中でも世界的に猛威をふるっているデルタ株です。4月の感染拡大の要因となったアルファ株よりも1・5倍ほど感染力が高く、東京では感染者に占める割合は7割を超えている。このように言われております。全国的にデルタ株への置き換わりが急速に進むにつれ、さらに、感染の拡大が進むことが懸念されます」云々。

延々とこんな御託を聞かされて、私は苛立ちを禁じ得なかった。我々が知りたいのは、そんなことではなく、こういう感染爆発に対して、スカ政権がどういう対応をとろうとしているか、なのだ。スカは言う。

「こうした状況を勘案し、ワクチン接種を進めながら、各地域でしっかりした対策を講じ、病床の逼迫を招かないように、緊急事態宣言、蔓延防止等重点措置のそれぞれの地域を拡大し、期限を延長する判断をいたしました。」

おいおい、またしても神頼みのワクチン様なのかい。でも、ワクチン様は全国的に不足気味で、接種の予約すらままならないという話ではないか。このワクチン不足を、政府はどうやって解消しようというのか。我々が聞きたいのは、そういうことについてなのだ。「病床の逼迫を招かないように、緊急事態宣言、蔓延防止等重点措置のそれぞれの地域を拡大し、期限を延長する判断をいたしました」というが、そんな宣言やマンボー措置が何の役にも立たなかったことは、事実が立証している。このことをスカ政権はどう総括しているのか。

スカは言う。
「これまでに経験のない新しい感染症との戦いのため、国民の皆さんには、1年半にわたり対策にご協力いただいておりますことに心より感謝申し上げます。一方で自粛の期間が長期化する中で、自粛疲れの広がりが懸念をされております。特に若い世代の方々からは『コロナが怖い病気ではない』。こうした声も聞かれます。感染対策よりも通常の生活や楽しみを優先させたいという気持ちもあると思います」

つまり、こう言いたいのだな。感染爆発が起こったのは、国民が危機感を持たなかったからだ、と。スカ首相はこの期に及んで、責任を国民に押しつけようとしているのだ。しかし、国民が危機感を持てなかったのは、あんたがオリンピックの開催に踏み切り、お祭り気分を盛り上げようとして、散々楽観論を振りまいたからではないのか。「オレ様が楽観論を振りまけば、国民はかえって不安に思い、危機感を持つはずだ」とでも思ったのかね。
そろそろアンタも退場間近だな。
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気晴らしの天才

2021-07-30 14:20:47 | 日記
野暮用が舞い込んで、忙しい。期日までに仕上げなければならない用事ができて、時間がない。・・・などと言いながら、くだらないことに時間を費やして、野暮用の処理に振り向けるべき時間を、さらに少なくする。どうやら私は、「あくせく働く仕事人間」へと自分を追い込むのが好きな性分のようだ。いわゆる貧乏性というやつだろう。

実際は「サンデー毎日」のリタイア暮らしで、時間は有り余るほどあるのに、私は、ヒマを持て余して「退屈だ」と感じたことがない。
「いかなる身分でも、気晴しができる限り幸福である。それは自己自身を考えることから心をそらしてくれる幸福である」とパスカルは言ったが、たぶん私は「気晴らし」の天才であり、「内省から心をそらす」天才なのだろう。

一昨日のことになるが、私はテレビ動画配信サービスの"paravi"に会員登録をした。2000年に放映されたテレビドラマ「オヤジぃ」を視聴するためである。田村正和が主演で頑固親父を演じるこのドラマは、面白い。掛け値なしに面白い。この「オヤジぃ」に比べれば、最近のテレビドラマはなんと平板でつまらないことか。
それに比べれば、20年前のこのドラマのほうが断然、精彩に富んでいる。話の展開が重層的で、一度見たら止められなくなる。
一昨日は"paravi"に会員登録にしてから、私は結局、明け方の5時までぶっ通しで第9話までを見てしまった。

その後の日中はリハビリ・デイサに「出勤」する予定があったが、このデイサのあいだ中、私はこっくり、こっくりと居眠りをして過ごすことになった。

私は"paravi"の営業戦略にうまく乗せられたのである。私は毎夜、テレビ動画の無料配信サービス"TVer"を見るのを日課としており、ドラマ「オヤジぃ」もこの無料サービスを通して知ったのだが、このドラマは"TVer"では第4話までしか見られない。このドラマの面白さにハマり、5話から先をどうしても見たくなった私は、ついつい有料サービスの"paravi"に会員登録をしてしまったのである。

昨夜は第10話から11話(最終話)までを見たから、当面は私が"paravi"の虜(とりこ)になることはない。しかし、「気晴らしの天才」である私のことである。"paravi"で配信されるいずれかのテレビドラマに、やがては心を奪われることになるのだろう。

あ。でも、大丈夫ですよ。C書房の編集者・Mさん、ノルマはきっちりと果たすつもりですから。どうぞご安心ください。
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「黒い雨」の責任を問う

2021-07-29 09:36:22 | 日記
広島に原爆を投下したのは、どこのどいつなのか。広島の平和記念公園にある「原爆死没者慰霊碑」には、「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」と碑文が刻まれている。この「過ち」を犯したのは、一体だれだったのか。
きのうは、この碑文をめぐる一連の論争について記したWikipediaの興味深い一節を紹介した。明記するのを忘れたが、これは2020年8月6日付でアップした本ブログの《過ちは繰り返しませぬから》というタイトルの記事である。

きょうは、その3日後に《原爆投下の責任を問う》と題して私が書いたもう一つの記事を紹介しよう。これは、Wikipedia の記述を受けて、私自身が自分のアタマで紡ぎ出した独白のようなものである。

**********************

原爆投下の責任問題に言及せよ、責任の所在をはっきりさせよ、ーーそう主張するとき、私の中にはルサンチマン(怨恨感情)が渦巻いている。ヒロシマとナガサキの市民に対する無残な仕打ちを、まるで無かったかのように忘れて、アメリカの属国になり果てた感のある今の日本の、その現状に甘んじる日本人の心情が私には理解できないし、我慢ならないのである。ルサンチマンのモンスターと化し、事あるごとに日本の戦争責任を追及して、日本の首相に謝罪を要求し続ける韓国の、あのねちねちと執拗な「引きずり根性」を、我々日本人もすこしは見倣うべきではないのか。

ヒロシマ、ナガサキへの原爆投下の責任はアメリカにある。その責任の所在をはっきりさせるべきだ、ーーそう私は考えている。否、むしろ「考えていた」と(過去形で)言うべきだろう。先日のブログ記事《過ちは繰り返しませぬから》を書く中で、私の考えは徐々に変わってきた。その変遷の様子を簡単に、自問自答風に振り返ってみよう。

原爆をヒロシマに投下したのはアメリカ軍であり、それを命じたのはアメリカ政府の首脳ではないのか?

いや、そうではない。それを行わせたのは戦争なのだ。そうでもしなければ、日本軍は負けを認めようとはしなかった。明らかに劣勢なのに、日本軍は負けを認めず、いつまでも戦争を続行しようとした。戦争を続ければ、犠牲は増す一方だ。この事態を食い止めようとすれば、アメリカ軍は止めを刺す意味で、原爆を使用せざるを得なかったのだ。
さらに言えば、原爆投下の責任はあくまでも〈戦争〉そのものにあるが、その究極的な責任はといえば、それは日本にあると言わなければならない。日本はパール・ハーバーを攻撃し、戦争を仕掛けたのだから。

でも、日本が真珠湾を攻撃したのは、英米がABCD包囲網を敷き、貿易封鎖を行って、日本を追い詰めたからではないのか。当時の国際情勢が日本を追い詰め、暴発を誘ったのだ。

それは当時、国際社会が日本の膨張主義に恐れを懐いていたからだ。ーーでも、誤解しないでもらいたいのだが、私は当時の日本を非難しようとしているわけではない。この膨張主義という奴は、なにも日本だけのものではなく、どの国も、一時はかぶれる罠のようなものだからだ。人間本性の根本にある〈力への意志〉の、そのなせる業(わざ)と言うしかない。

う〜む、ヒロシマの悲劇を引き起こしたのは、人間本性の奥底に巣食う人間の〈業(ごう)〉だ、ということになるのかな。「罪を憎んで人を憎まず」という言葉があるが、それと似ているな。ヒロシマの惨状は忌むべき「罪」だが、この罪をおかしたアメリカ人を憎むべきではない、憎むべきは人間の〈業(ごう)〉にある、と言いたいのだろう。広島原爆慰霊碑の、あの碑文はたしかに、そういう発想から書かれている。

だが、ここで私の中にもう一つ別の声が頭をもたげた。

しかしだな、そうなると、どんな犯罪もその責任を問われない、ということになるのではないか。どんな犯罪も人間の〈業〉に由来する。犯罪に駆り立てたのはその〈業〉なのだから、その責任は駆り立てられた人にはない。ーーそういうことになれば、人は何をしても責任を問われない、ということになる。この考え方には、私は納得できない。

う〜む。う〜〜む。う〜〜〜む。私の中のこの声に、今の私は返す言葉を持たない。どうやら私の思考は「出口なし」の状態に陥ったようだ。かつての夜郎自大国家・日本のように、ずど〜んと暴発しなければ良いのだが・・・。
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「黒い雨」をめぐって

2021-07-28 10:38:00 | 日記
広島への原爆投下後に「黒い雨」を浴びたと訴えた「被爆者」たち。彼ら全員を(国が認定する)「被爆者」と認めた広島高裁の判決をめぐり、スカ首相は上告を断念する考えを表明した。

この件をめぐり、きょうの朝日新聞はほぼ1面全面を使ってあれこれと記事を書き連ねているが、不思議なことに、そこには「ア」の字も「米」の字もまったく見当たらなかった。

「ア」とは「アメリカ」の「ア」であり、「米」とは「米国」の「米」である。広島に原爆を投下して、無辜の民間人多数を殺傷したのは、どこの国なのか。それは言うまでもなくアメリカである。原爆投下という残虐な行為をはたらいたのはアメリカだ、米国だ、という歴史的事実に関する記述が、きょうの朝日新聞には一言も書かれていないのだ。

朝日新聞だけではない。スカ首相もアメリカの「ア」の字を一言も発せず、他のメディアもまったく同様である。これはいったいどうしたことなのか。

私はきょうの朝餉の食卓で、妻に向かってこのことを論(あげつら)い、「ったく、おかしなことだ」と言った。
「そんなこと、分かりきったことだからよ」と妻。私はこう返した。
「分かりきったことじゃないよ。たしかに、我々の世代なら、だれでも知っていることかもしれない。でも、今の若い世代は、そんなこと、ほとんど知らないんじゃないかな。きょうのような報道をされると、アメリカが原爆を投下したという事実が、無かったことにされてしまう。」

今から50年ほど前のことになるが、広島の原爆資料館で原爆投下直後の悲惨な、あまりにも悲惨・残忍な広島の光景を見せつけられ、ショックを受けてから、私にはアメリカという国に対する強い怨恨感情(ルサンチマン)が芽生え始めた。毎年、夏の原爆記念日が来るたび、この怨恨感情はむくむくと頭をもたげる。

去年の原爆の日に、私は次のようなブログ記事を書き、自分のそうした怨恨感情に折り合いをつけたはずだった。

************************

テレビの画面には大きく原爆死没者慰霊碑が映し出され、そこに刻まれた碑文が目に入った。「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」。

この碑文を目にするとき、いつも思うのだが、この「過ち」をおかしたのは、一体だれなのか。この「過ち」とは一体何なのか。
これではまるで我々日本人が戦争という「過ち」をおかしたみたいではないか。自虐史観もここに極まった感がある。ここにいう「過ち」とは原爆投下であり、この「過ち」をおかしたのはアメリカ軍にほかならない。そうである以上、慰霊碑の碑文にはそのことを明記して、責任の所在をはっきりさせるべきではないのか。ーー私はかねてそう思ってきた。

気になったので、この碑文が慰霊碑に刻まれるに至った経緯について、ネットで調べてみた。Wikipedia に、次のような記述が見つかった。すこし長いが、そのまま転載する。

「慰霊碑の石碑前面には、『安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから』(やすらかにねむってください あやまちは くりかえしませぬから)と刻まれている。
この文章は、自身も被爆者である雑賀忠義広島大学教授(当時)が撰文・揮毫したもの。浜井信三広島市長が述べた『この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる』に準じたものであった。
この「『過ち』は誰が犯したものであるか」については、建立以前から議論があった。GHQによる占領が終了し、加害国である米国とのサンフランシスコ講和条約発効後の1952年(昭和年)8月2日、広島市議会において浜井市長は「原爆慰霊碑文の『過ち』とは戦争という人類の破滅と文明の破壊を意味している」と答弁している。
また同年8月10日付の中国新聞には『碑文は原爆投下の責任を明確にしていない』『あくまで原爆を投下したのは米国であるから、『過ちは繰返させませんから』とすべきだ』との投書が掲載された。これにはすぐに複数の反論の投書があり、『広く人類全体の誓い』であるとの意見が寄せられた。浜井市長も『誰のせいでこうなったかの詮索ではなく、こんなひどいことは人間の世界にふたたびあってはならない』と、主語は人類全体とする現在の広島市の見解に通じる主張がなされている。」

いや〜、天邪鬼爺が考えるようなことは、もうとっくの昔に言われていたんだね。これを受け、毅然と応える平和主義者の面々も、なかなかどうして立派なものだ。Wikipedia のこうした記述こそ、碑文の傍らにでも添えられるべきだと爺は思うのだが、いかがだろうか。
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五輪開催と選手たちの健闘は

2021-07-27 11:28:40 | 日記
ネットの森の一角で、火の手があがった。火を付けたのは、蓮舫議員(立民)のツイートである。蓮舫議員はこうツイートした。「堀米雄斗選手、素晴らしいです!ワクワクしました!」

堀米雄斗選手は、五輪の新種目・スケートボード競技で金メダルを獲得した若きホープである。そんなニューフェイスの健闘を称えることが物議を醸したのは、蓮舫議員がそれまで五輪の開催に反対の意見を表明していたからである。蓮舫議員のツイート投稿に対して、「2日前まで反対してたのに」などと批判的なコメントが殺到したという。

私が見たネット記事には、大阪市・松井一郎市長の(ありきたりな)蓮舫批判と、
前新潟県知事で弁護士の米山隆一氏が示した(瞠目すべき)蓮舫擁護の見解とが紹介されていた。

松井氏の批判は「蓮舫さん、オリンピックが開催されなければ、選手の皆さんが健闘する場所が無かったんですがね!」というもので、これは取るに足りない。

ここで読者に紹介したいのは、米山氏による鮮やかな蓮舫擁護の言説である。米山氏は「別段オリンピックに反対したって、始まった以上、健闘した選手を称えて何が悪いのか、反対した者は選手を称えるなというのかと思います」と述べた上で、こう書いている。

「こういうのって、選手の頑張りとか、夢とかを人質に取って、政府のやる事への反対を事実上封じようとするもので、隠然とした全体主義なんだと思います。オリンピック・パラリンピックが終わればいよいよ選挙ですが、この隠れた全体主義に、誤魔化されてはいけません」

私が感心したのは、この(「全体主義」云々の)見解であり、これに対してはことさら付け加えるべきことはない。ただ、他人の意見を紹介するだけというのもアレなので、以下、私の考えをちょっとだけ付け加えておこう。

私もそうだが、蓮舫議員が反対したのは、「五輪を開催すること」それ自体ではなく、「妖怪コロナが猛威を振るうこの状況下で、ビッグイベントを開催すること」だった。
「選手が全力を尽くして戦うこと」と「五輪開催」は、たしかに切り離せないが、しかし、「五輪」と「コロナが猛威を振るう状況下での開催」は、切り離すことができる。というより、(国民の命の保全を考えれば)この二つはむしろ断じて切り離さなければいけないことなのである。コロナ禍が終息した状況での五輪開催なら、蓮舫議員もこれに反対はしないだろう。もちろん、私だって反対しない。

*野暮用が入ったため、これから数日間は本ブログを更新する時間がとれないかもしれません。とれるかもしれません。まあ、状況次第で臨機応変に、ということで。
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