ささやんの天邪鬼 座右の迷言

世にはばかる名言をまな板にのせて、迷言を吐くエッセイ風のブログです。

大相撲、トランプ、バリアフリー

2019-05-26 11:27:45 | 日記
私は大相撲をテレビでしか見たことがない。だから観戦の事情がどうなのかは分からないのだが、次の記事を読んで腹立たしい気持ちをおさえることができなかった。
《安倍首相がトランプ接待で「大相撲の伝統」破壊! 天皇にもしない升席に椅子用意、スリッパで土俵に》(リテラ5月25日配信)

きのう来日したトランプ米大統領は、国技館の升席で、用意された椅子に座って大相撲を観戦するのだろう。そのことをこの記事は問題にしているようだが、でも、なぜそれがいけないのか。升席で椅子に座る行為が「大相撲の伝統」を破壊する行為だからなのか。

よく分からないが、升席とは板敷きか畳敷きかの桟敷席で、ふつう観客は、胡座でもかきながら声援を送ったりするのだろう。では、それができない人間はどうすれば良いのか。病気のため、怪我のため、あるいは老化のために胡座(あぐら)座りができなくなってしまった人は、一体どうすればいいのか。

「バリアフリー」の機運が高まっても、「伝統」を背負う大相撲という「国技」の観客席は、この令(うるわ)しい思いやりの精神を、頑として拒否しているのだろうか。舶来の「バリアフリー」の精神よりも、日本古来の伝統のほうを大事にせよ、ーーそう叫んでいるのは、あるいは「リテラ」なるアナクロ・サイトだけなのかも知れない。「升席で洋式の椅子に座るなど、天皇陛下ですらなさらなかったことだ、けしからん!」ということなのだろう。(天皇陛下も、皇居では洋式の椅子にお座りになっているようだけれどね)。

私自身のことを書こう。私は脳卒中の後遺症で半身不随になり、車椅子の生活を余儀なくされている。洋式の椅子でなければ立ち居できないので、畳敷きの和室はすべてフローリングにリフォームした。寝床も、当然(手すりの付いた)ベッドである。

私の父は亡くなって、我が家が代々檀家をつとめる田舎の古刹に埋葬されている。義父と義母も亡くなり、こちらは(義母の意思に従って)埋葬の場所を、出来たばかりの近代的霊園にした。

困るのは、何回忌などの法事のときである。父の法事は、お堂もお墓も車椅子ではアプローチできないので、私は出席を断念するしかないのである。義父と義母が葬られている近代的霊園の方は、完全バリアフリーになっているので、私は車椅子で何度か法事に出席した。

父が葬られている田舎の古めかしいお寺は、もう少し何とかならないのだろうか。ちょっとでもバリアフリーの配慮をしてくれたら、私でも法事に出席できるようになるのになあ・・・。

常日頃、そんなことを考えているところに、「リテラ」のあの大相撲記事である。これにはホントに腹が立った。「リテラ」の編集者さんよ、リベラルを気取るのなら、権力批判もいいけど、もうちょっと弱者への配慮があってもいいと思うのだけどね。

聞くところによれば、釣り船も、今は車椅子の障害者が乗り込めるようになっているとか。これは一部の特殊な例だろうが、時代は明らかに「バリアフリー」の方向に向かっている。旧態依然のお寺も、国技館も、何とかして欲しいところだ。「リテラ」もね。
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ウーマン村本の首相批判は

2019-05-25 11:46:25 | 日記
夜、いつものように眠りにつく前、スマホでニュースサイト SmartNews を覗いた。次の記事が目に止まった。《ウーマン村本、安倍首相と芸能人との交流を批判》。

安倍首相は参院選に向けて、自分を宣伝しようと芸能人を利用している。安倍首相から会食に誘われても、芸能人は誘いに乗ってはいけない。芸能人は政治家の宣伝に利用されるな、ーーウーマンラッシュアワーの村本某が、ツイッターにそう書き込んだという(日刊スポーツ5月24日配信)。

なるほど、もっともな意見ではある。しかし私は、そこに新鮮味を感じなかった。だれもが感づいている見え見えのパフォーマンスを、言葉にして公言したに過ぎない。一番槍の手柄とでも言おうか。あるいは、これがお笑い芸人の投稿だという点に意外性があるのだろうか。

(国民の受けとり方の一例をあげよう。安倍首相から会食に誘われ、大喜びで首相との自撮り写真をアップした高畑充希の instagram に、こんな投稿意見が寄せられている。
「悪政を繰り返し国民を繰り返し苦しめる安倍。仕事とはいえ会食大変でしたね。開かなければならない予算委員会を拒否し続け会食やゴルフ三昧の総理です。どうか真実に目を。」
一般国民をなめてはいけない。
まじめな安倍批判サイト「リテラ」は、首相のこうしたパフォーマンスを「弱者には見向きもせず、芸能人との会食PRに精を出す欺瞞」と揶揄している。)

ウー村本の首相批判に新鮮味はないが、それより私の心をざわつかせたのは、関連記事としてあげられていた次の2つの記事のタイトルである。《江川紹子氏「こいつ何様」ウーマン村本の福島発言に》、《たけし「失礼な若手がいっぱい」最近の芸人に嘆き》。

江川紹子といえば、オウム真理教事件で名を売ったジャーナリストである。また、たけしはだれもが知るお笑い芸能界の大御所。この二人がこぞって非難しているとあれば、ウーマン村本はよほどヤバい人物なのだろう。彼の発言を真に受けてはいけないぞ、すこし距離をおかなければ、ーー私はそう思ったのだった。

眠い目をこすりながら、私はさっそくこれらの記事に目を通した。なんのことはない、前者は、フクシマ原発事故に関するウー村本の発言をターゲットにしたものであり、彼の人格を非難したものではなかった。後者は、そもそもウー村本に向けられた発言ではなかった。

関連記事のこうした取りあげ方に、私は悪意に似た作為的なものを感じないわけにはいかなかった。あげられた関連記事は、2つとも「日刊スポーツ」の記事である。このスポーツ紙はウー村本に悪い印象を与えることで、安倍政権を擁護しようとしているのだろうか。それとも、安倍政権への批判をニュースに取りあげた負い目から、政権に目をつけられないよう、あえて政権擁護のポーズをとる必要があったのだろうか、と私は勘ぐった。しかしネットで調べると、「日刊スポーツ」は「朝日新聞系」とある。政権擁護の作為に「日刊スポーツ」の意図が働いているとみるのは難しそうだ。

とすれば、ニュースサイト SmartNews の意図がそこに働いているのか。私は眠れない夜、SmartNews のほかに、Yahoo!ニュース、dmenu ニュース、ニュースパス、グノシーなどにも目を通す。「ニュースサイトだから客観的、そこに作為はない」とみるのはヤバいぞ、気をつけなければーーそう思わされた夜だった。
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麻生大臣の「費用対効果」発言は

2019-05-24 10:56:40 | 日記
科学の進歩はめざましい。かつて不治の病と言われたガンは、今では薬で治せるようになり、白血病も同様である。

問題は、新開発されたその治療薬の、アッと驚くお値段である。ガンの治療薬オプジーボは年間で3800万円、(使用例が増えた)最近では1450万円まで下がったというが、それでも一般庶民の手に届く値段ではない。白血病の治療薬キムリアの場合は3349万円というから、これも同様である。

科学の進歩とともに、命は金で買えるものになった。金持ちは科学の恩恵にあずかれるが、貧乏人はそうはいかない。ーーこの不平等な状況を是正しようとして生まれたのが、日本の医療保険制度である。白血病の治療薬キムリアはこのほど医療保険の適用対象になり、60万円ほどの自己負担額で済むことになった。やれやれ。

だが、これで一件落着とはいかないのが、この問題の難しいところである。高額な医薬品を保険適用にすれば、その分だけ国家の財政に負担がかかることになる。国家財政の原資は、言うまでもなく国民が支払う税金である。高い税金に喘ぎながらかつかつ暮らす一般庶民は、この現状を前にして、割り切れない思いを懐くことだろう。

麻生財務大臣が次のように述べたという。
「そういう薬が出てくるのは良いことなんだと思いますけど、高額の医療をやって存命期間が何年ですっていうと、だいたい数カ月。そのためにその数千万の金が必要なんですかってよく言われる話ですけど」

麻生大臣のこの発言がネットの言論界に物議を醸している。失言暴言大臣がまたまたトンデモ発言をした、という扱いだが、思うにこの発言は、これまでの失言暴言とは明らかに次元を異にしている。国家財政を預かる側の立場からすれば、医療制度の改革は「費用対効果を考えて進めていくべきだ」ということになる。これはある意味、理の当然である

麻生大臣の発言に対しては、「人の命に費用対効果なんてあるのか」という意見もあるようだが、国家財政を悪化させないよう、医療保険費の膨張に何らかの歯止めをかける必要があることは否定できない。そういう財務大臣の立場からすれば、保険適用の是非を判断する場合に「費用対効果」の基準を持ち込んではいけないとしたら、では、それ以外にもっと適切な基準があるのかを考えなければならないことになる。そんな都合のよい基準など、ないと私は思っている。「医療の現場に費用対効果の基準を持ち込むなど、もってのほか」と主張する人は、高い税金に喘ぎながら暮らす一般庶民の苦労がわからない人なのだ。結構なご身分だよな。

今回に限って言えば、麻生大臣はトンデモ大臣ではなく、「庶民の味方」であるように思える。失言・暴言の前科があるからといって、ただ叩けば良いというものではないと思うよ。
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アベ外交の実態はいかに

2019-05-23 11:36:46 | 日記
NHKのテレビ番組「歴史秘話ヒストリア」を見た。「日米和親条約」交渉の舞台裏がテーマである。「日米和親条約」といえば、これまでは軍事力を背景にして結ばれた対米不平等条約として語られてきたが、実際はそうではなく、対等かつ沈着な交渉の成果だったという。

ペリーを相手に交渉に当たったのは、江戸幕府に仕える儒学者の林大学頭。今でいえば外務事務次官といったところだろう。
このテレビ番組を見ながら、私は考えた。外交交渉は事務方の(裏方としての)苦労・努力に負うところが大きい。それは今でも変わらないのではないか。そうした裏の部分に光を当てれば、表から見るのとは違った交渉の意外な実像が見えてくるのではないか。

私の脳裏をよぎったのは、トランプ米大統領と、我がアベ首相との間の外交交渉である。アベ首相は「アメリカのポチ」と揶揄されることが多いが、ホントにそうなのだろうか。ディール上手のトランプ大統領に押し切られ、何から何まで呑まされているのだろうか。

誤解のないように断っておくが、私はべつにアベ首相を擁護しようとしているわけではない。アベ首相がトランプ大統領の言いなりになって、高額の軍備品を買わされていることは、まぎれもない事実である。私とてそれを否定するつもりはない。

ただ、貿易問題をめぐる日米交渉の裏には、米側の執拗な要求を退けようとする、日本側外務官僚の涙ぐましい地道な努力があるのではないか。その部分に光を当てれば、「ポチ」という言葉では汲み尽くせない交渉の別の姿が見えてくるのではないか、と私は思うのである。

外交関連の文書がはたして何年後に公開されるのか、まだはっきり決まっていないようだが、アベ・トランプ会談の実態が「歴史秘話」として語られる日は、そう遠くないように思える。
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山尾議員の提言をめぐって

2019-05-22 14:59:03 | 日記
立憲民主党の山尾志桜里議員が、こんな発言をしている。
「野党は憲法論議から逃げずに、きちんと応じるべきです。」
(産経ニュース 5月22日配信《山尾志桜里・立憲民主党衆院議員 野党は改憲論議から逃げるな》)

至極もっともな意見である。憲法は国の形を決める基本的な設計図だ。こんな大事なイシューについては、どれだけ議論を重ねても少なすぎることはない。「改憲などもってのほか」と考えるのは勝手だが、だからといって「論憲も避けるべきだ」と考えるとしたら、それは誤っている。異論、反論があれば、議論は大いに戦わせるべきなのだ。「護憲」のために必死で耳をふさぎ、頬かぶりをして、憲法論議から逃げようとするのであれば、それは勘違いもはなはだしい。

ところが、驚いたことに、この山尾氏の発言が立憲民主党の党内では異彩を放ち、党組織の結束を乱すリスク要因になっているのだという(zakzak5月11日配信《山尾志桜里氏、憲法発言で立民内で異彩 結束乱すリスクも》)。

立憲民主党の内部にはどうやら「臭いものに蓋」の悪臭が充満し、この党の体質はどんより澱みきってしまっているらしい。
「最近、活躍の場がないから存在感を示したいのだろう。目立ちたがり屋は困る。」
 山尾氏の最近の発言について、立憲民主党の幹部は苦虫をかみつぶしたような表情でこう語ったという(同前)。どんだけ〜?!
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