裕嗣君のブログ

ラグビー応援そして闘病生活
愛ネコ、ハッピー命

慶應病院に入院

2006年11月27日 | ラグビー
心臓カテーテル造影検査のため、1週間ほど慶應病院に入院することになりました。
今年4回目の入院です。今年は散々な年になってしまいましたが、この入院を最後に、来年は健康増進に邁進したいと思います。
ラグビーの早慶戦は、健闘むなしく残念な結果に終わりましたが、まだ大学選手権があります。12月9日には法政大学とジュニア選手権の入れ替え戦もあります。
まだまだ年末にむかって頑張ってもらわないといけません。
先週の早慶戦のあと、慶應ラグビーノーサイド倶楽部の懇親会がありました。慶應蹴球部OB会の黄黒会から会長以下4名の臨席もあり、楽しい会でした。
青井会長、吉田理事長そして元慶應蹴球部監督の黒沢氏からいろいろな話が聞けて勉強になりました。今度は全慶明のあとに懇親会があるそうです。その時には慶應蹴球部監督とキャプテンが参加してくれるそうです。これも楽しみです。

ラグビー早慶戦

2006年11月22日 | ラグビー
明日11月23日はいよいよ秩父宮でラグビーの早慶戦が行われます。
今年は早大の力が抜きん出ているとはいえ、去年ほど差はありません。慶大、明大帝京大の力の差もなくなり、思ったとおりの接戦になりました。
明日万が一慶応が早稲田に勝てば慶応の対抗戦優勝が決まります。可能性が低い事は確かですが、何とか早稲田に喰らいつき1点差でもいいから勝利して欲しいと思います。バックスは互角でしょう。フォワードがどこまで踏ん張れるか。小柄なプロップ磯辺君に期待します。後半出場が予想される1年生、広畑君の頑張りにも期待しましょう。ロックに入った宮崎有生君も明治戦にも増して頑張ってください。
あとはベストメンバーです。山田君の走りに期待大です。大きな試合でこそ力を発揮してくれると思います。
明日負けると、大学選手権でも早稲田と当たる可能性が高くなります。もし負けても、今年の慶応は違うというところを見せてください。青貫主将よろしくお願いします。
明日はが予想されます。気温も低く肌寒い天気になりそうです。
重装備で応援しないといけませんね。
夜は慶応ノーサイド倶楽部の懇親会があります。始めてですが参加することに決めました。またいろいろな人達との出会いがあると思います。
勝っても負けてもノーサイドの精神で両チームを讃えたいと思います。

昭和42年の世相

2006年11月21日 | ラグビー
いよいよ昭和42年です。私も高校3年生になりました。本当はクラブを引退して、受験勉強のさなかといいたのですが、我々の代は高校3年のインター杯予選までクラブを続けました。インター杯の東京都予選は惜しくも3位(2位までが全国大会出場)。それも最後のセットが15-13と本当にあと一歩でした。しかも私ともう一人のエーススパイカー二人は10月の国体予選までバレーボールを続けました。
受験勉強にも集中できず、この時点で浪人を覚悟してました。
夜は勉強の時間ですが、この頃ラジオが我々の年代を呼び込みます。「オールナイトニッポン」「パックインミュージック」という深夜放送がスタートしたのがこの年なのです。
オールナイトニッポンの主題歌はこの時から変わっていません。パーソナリティーはカメアンドアンコー。カメこと亀淵昭信は例のホリエモン騒動でライブドアがニッポン放送株を買い占めた時の社長です。実は高校の先輩でもあります。
この年の10月ファッションモデル、ツィッギーが来日。日本の女性はミニスカートに。ひざ上30cmが一世を風靡しました。
外国映画では「俺達に明日はない」バークバカラッダのボサノバの主題歌は今でも心に残っています。そして「卒業」ダスティン・ホフマンとキャサリン・ロス最後のクライマックスシーンは忘れられません。007は2度死ぬでは日本の浜美枝が出演しました。
この年に誕生したもの「リカちゃん人形」、男性用整髪料「MG5」森永「チョコフレーク」シャープの「電卓」JCBが初の国際カードを発行しています。
この年の流行語は「アングラ」「核家族」「ハプニング」「フーテン族」そして大橋巨泉の「ボイン」。
漫画では「天才バカボン」「モーレツあ太郎」「ルパン3世」、学生援護会から「日刊アルバイトニュースが出たのもこの年です。
テレビでは、「トッポ・ジージョ」「ちゃこねえちゃん」九重佑三子の「コメットさん」青島幸男の「意地悪ばあさん」、それに「ウルトラセブン」海外物ではなんといっても「スパイ大作戦」そして「逃亡者」これは見ていてイライラしたな。
芳村真理司会の「夜のヒットスタジオ」もこの年スタート。
CMでは「大きいことはいいことだ」の山本直純、王貞治の「ナボナはお菓子のホームラン王です」ブリジストンの「どこまでも行こう」は良く口ずさんだ。
「アングラ」という言葉が流行になり、寺山修司の「天井桟敷」、唐十郎の「状況劇場」などが出現。
歌の世界はあまりに多くて書ききれないが、インパクトがあったのはフォーク・クルーセダーズの「帰ってきた酔っ払い」これがラジオに流れた翌日の教室が騒然としたことを覚えている。君こそ我が命(水原弘)夜霧よ今夜もありがとう(石原裕次郎)小指の思い出(伊東ゆかり)レコード大賞のブルー・シャトー(ブルー・コメッツ)世界は二人のために(佐良直美)など今でも口ずさめる曲がいっぱいある。

昭和41年の世相

2006年11月20日 | ラグビー
ブログ3日間お休みしてしまいました。めまいの原因を探るため、24時間心電図を行いましたが、その結果精密検査をするようすすめられ慶応病院の循環器内科へ。その結果、またまさかの検査入院ということに。これで今年4回目の入院になってしまう。11月23日にラグビーの早慶戦があり、そのあと新しく入った慶應ラグビーノーサイド倶楽部の懇親会もあるため、入院は11月27日以降にさせてもらうことにしたけれど、本人にとってはすごいショック。頚椎炎が直り、無呼吸症候群の結果も判明し、一応病院関係は落着いたので一服というところだったのにガックリ。落ち込んでブログを書く気力が無くなってしまった。
今朝起きたら、寒気はするし、腰は痛いしどうも風邪をひいたみたい。外は雨が降っているし、暗い気持ちのまま会社へ。月曜日の雨の日はお決まりの電車の送れ。
もうがっくり。会社にも遅刻。会議では責められるし、いいところないよ。
なんて落ち込んでばかりいても仕方ないのでブログを再開。


せっかく先週から一生懸命昭和戦後史を勉強したのに、中断してしまって。
さて昭和41年になると時代も大きく動き出します。政治も文化も経済も。この年は正解では「黒い霧事件」が発生。官僚、政治家の不祥事が次々に発覚。いわゆる黒い霧解散が行われます。
そしてこの年の重大ニュースとしては航空機の相次ぐ墜落があげられます。2月には全日空機が羽田で墜落3月4,5日と2日連続でカナダ太平洋航空機、BOAC機が相次いで墜落。この時のショックは今も鮮明に覚えている。そして11月にまたしても全日空機が松山沖に墜落。この時全日空はかなりダメージを受けたと思う。この時以来、航空機の事故は日航に移っていく。
航空機関係の話題としてはもう一つ東京国際空港として新飛行場が成田に建設されることが決定された。このあといわゆる「成田闘争」が始まることになる。
もう一つの重大ニュースは「ビートルズの来日」。我々の世代にはこれは大事件でした。
この年を境に日本でもグループサウンズが本格化。ワイルドワンズ(思い出の渚)スパイダーズ(夕日は泣いている)などが一成を風靡した。
加山雄三サウンズ「君といつまでも」「お嫁においで」森山良子「この広い野原いっぱい」「今日の日はさようなら」ブラザースフォー「若者たち」「星に祈りを」他にもヒット曲がいっぱい。千昌夫「星影のワルツ」城卓也「骨まで愛して」美川憲一「柳ヶ瀬ブルース」青江三奈「恍惚のブルース」マイク真木「バラが咲いた」山本リンダ「困っちゃうな」荒木一郎「空に星があるように」黒沢明とロスプリモス「ラブユー東京」そしてレコード大賞は橋幸夫「霧氷」まさにフォーク、歌謡曲、グループサウンズ、ポップスと歌の世界も一気に幅が膨らんだ。
テレビも人気作品いっぱいだ。大河ドラマ「源義経」朝の連続テレビは樫山文江「おはなはん」桂小金治「アフタヌーンショー」内藤洋子「氷点」大川橋蔵「銭形平次」漫画「ウルトラマン」「おそ松くん」「鉄腕アトム」、他に「これが青春だ」「題名のない音楽会」外国ドラマでは「奥様は魔女」など。
この年のヒット商品「即席ラーメン、明星チャルメラ」「ママレモン」「ポッキー」発売もこの年。亀田製菓の「柿ピー」「ツイスターゲーム」もこの年に発売。
映画では国内では「白い巨塔」「紀ノ川」国外では「男と女」「戦争と平和」アカデミー賞は「わが命つきるとも」
そして「いざなぎ景気」と言われたのがこの年でした。そんな昭和41年でした。

昭和40年からの世相

2006年11月16日 | ラグビー
昭和40年は私が高校生になった年です。この頃から世の中の変化も早くなって行きます。この年アメリカが北爆(北ベトナム)を開始。ベトナム戦争がいよいよ本格化します。日本でもベ平連が結成され始めてのデモ行進が行われました。
いわゆるワイドショーがテレビで始まったのがこの年。小川宏ショー、木島則夫のアフタヌーンショー。スタジオ102、そしてはじめてのテレビナイトショー「11PM」が登場します。テレビ男の週刊誌みたいな番組で長い間お世話になりました。大橋巨泉、藤本義一の軽妙なトークとマージャン、競馬、釣りなど新しいテレビのスタイルとして画期的でした。
またテレビ漫画ではおばけのQ太郎、ジャングル大帝、青春とはなんだ。ザ・ガードマンもこの年にスタート
映画では何といっても「サウンドオブ・ミュージック」。この映画は何度も見ました。ジュリー・アンドリュースの英語の発音がきれいで、ずいぶん単語や構文を覚えさせてもらいました。私の頃はジュリー・アンドリュース、もう少し若い年代はカーペンターズにお世話になったんじゃないかな。カーペンターズの英語もきれいで受験勉強にはもってこいの英語じゃなかったかな。あとはエリザベステイラーの「いそしぎ」主題歌が有名でジャズの定番になってます。メリーポピンズ、ドクトルジバコ、007ゴールドフィンガーなどはこの年の作品。日本映画では「赤ひげ」「東京オリンピック」「飢餓海峡」など。
音楽の世界ではベンチャーズが大ヒットとなり、エレキギターが大流行。エレキを持つ子は不良とみなされ、パッシングも起きている。歌謡曲では涙の連絡船、まつの木小唄、菅原洋一の知りたくないの。また加山雄三の君といつまでももこの年の発売。
ファッションでは男姓はアイビールック。女性はミニスカートが人気に。
事件では伊豆大島の大火38年に起きた吉展ちゃん事件で最悪の解決。死体で発見され、犯人の小原保が逮捕された。
また東京農大のワンダーフォーゲル部の暴行事件で死亡者が出、「しごき」という言葉が流行語になった。その他「期待される人間像・マジメ人間」などが流行語になっている。
朝永振一郎がノーベル物理学賞をとった。そして今の皇太子殿下「礼宮殿下」が誕生している。
誕生といえばカセットテープレコーダー(アイワ)アイスノン、オロナミンC、テフロン加工のフライパンなどが生まれている。
またピンク映画が盛んになり、「ブルーフィルム」問い言葉が生まれた。そしてフィーリングという言葉が流行した。
スポーツでは第1回ドラフト会議が開催されジャイアンツは堀内恒夫投手を指名。競馬ではシンザンが5冠馬に、そして南海の野村が三冠王になっている。
このように昭和40年代になるといろいろな出来事があり一遍には書ききれない。
私も興味あるので、これからは1年ごとに書いていってみたいと思う。

相次ぐ若者の自殺

2006年11月15日 | ラグビー
最近小中学生の自殺があとを絶たない。昨日まで昭和30年代を振り返ってみて、なぜ今自殺が増えたのか考えてみたい。
「いじめ」が自殺の原因と言われているが、我々が小学生だった、昭和30年代もいじめは間違いなくあった。ただ中学生やましたや小学生が自殺するなど聞いたことがない。
私は幼稚園から大学まで私立で育ったので、当時の公立校の状況はよくわからないが、やはり自殺という話はあまり聞いた事がない。
私の姉の友人が東大に進み、自分の希望する専門学部に進むことができず、それに絶望して飛び込み自殺をしたということがあったが、それは私には大変ショックな出来事だった。私の感覚では東大に進学したことで充分価値があると思っていたのに、そこまで思い込むことが信じられなかった。
昭和30年代は皆生きることに一生懸命だったのではないだろうか。生きるために何をするか必死に頑張っていたのではないか。自分から命を絶つことなど、あまりにももったいない。
坂本九の「上を向いて歩こう」は台風被害でショックを受けた子供達を励ますために、皆上を向いてあるこうというメッセージだった。
戦後で皆貧乏だった。だからもっと夢を持って上を向いて歩く。それは奇麗事ではなく、生きていくために必要不可欠だったのだ。
現在の社会に夢はあるのか?格差社会というが、それは自分を客観的に見ているにすぎない。どんなに貧しくても、辛くても幸せに生きることはできる。どんなに豊かで自由があっても、幸せに生きれないこともある。自分が、自分の人生をどう考えるか。自分なりに幸せと夢を持っていく。それがとても重要ではないか。上昇志向も夢もない人間が、ゲームにはまり、パソコンに向かって蓄財に励む。お金を稼ぐことがステータスであり、成金がセレブとかカリスマといってもてはやされる。やっぱりこの世の中、どこかおかしい。安部総理が「美しい国」とかいっているが、美しい自然を破壊してきたのは彼ら政治家であり、小役人どもではないか。裏金、賄賂、インサイダー取引、恐喝まがいの金貸し。そうやって蓄財した連中が偉いと評価される世の中。絶対におかしい。
自殺する校長達。あいつらには気概というものはないのか。全く役に立たない小役人だ。
そんな時代の子供達にどんな夢を持てというのか。豊かに生きると言う意味をもう一度、はっきり見直す必要がある。村上ファンドもホリエモンも全然心が豊かでない。ズル賢いだけだ。その辺のところを大人達がしっかり見極めないと、子供達はどう生きていっていいのかわからないのだろうか。
どんな世代にもいじめはあった。陰湿ないじめもあった。それを肯定はしないが、簡単に自殺する。それがなぜかを考えるほうが先だ。いじめをなくすなんて不可能だ。人間3人集まれば派閥ができると言われているんだから。

昭和30年代後半の世相

2006年11月14日 | ラグビー
さて昨日の続き。昭和30年代後半の世相をみてみよう。昭和36年のレコード大賞はフランク永井の「君恋し」。坂本九の「上を向いて歩こう」植木等の「スーダラ節」映画は「ウエストサイドストーリー」。ナタリーウッドが可愛かった。日本映画では「名もなく貧しく美しく」三船敏郎の「用心棒」
テレビでは「夢であいましょう」「若い季節」「シャボン玉ホリデー」「七人の刑事」
そして相撲では大鵬と柏戸が横綱に同時昇進。「巨人・大鵬・卵焼き」という言葉がはやった。
この年は社会党委員長の浅沼稲次郎氏が刺殺されるという事件がおきている。
シームレスストッキングの誕生、歌声喫茶、ホンコンシャツが流行。
37年の歌は「いつでも夢を」ジェリー藤尾の「遠くへ行きたい」倍賞千恵子の「下町の太陽」中尾ミエの「可愛いベイビー」
テレビでは「ベンケーシー」「コンバット」「てなもんや三度笠」「シャープさん・フラットさん」クレージーキャッツの人気が沸騰し「無責任時代」という言葉がはやった。
この年はタレント議員という言葉が登場、漫画では赤塚不二男の「おそまつくん」が大ヒット。
38年には「鉄腕アトム」「鉄人28号」「エイトマン」といったテレビ漫画に人気が集まる。映画は「アラビアのロレンス」「007は殺しの番号」「天国と地獄」「日本昆虫記」
この年アメリカのケネディー大統領が暗殺されている。ボーリングが流行し
「流通革命」「かっこいい」「番長」そして「ハッスル」が流行語になっている。
そして30年代最後の39年はなんと言っても「東京オリンピック」新幹線の開業、高速道路の開業、建築ラッシュで東京はすっかり変貌してしまった。ある意味では、この年で本当に戦後が終わったのではないだろうか。
この年にはやった歌は「愛と死を見つめて」「柔」「アンコ椿は恋の花」テレビは「ひょっこりひょうたん島」に「七人の孫」
私もこの年中学3年生。子供から大人へ変わる時。当時の東京教育大学付属駒場高校の体育館に大松監督率いる女子バレーボールチームが練習にきていた。その時当時のオリンピク優勝メンバーからサインをもらったことが、私が高校から本格的にバレーボールに打ち込むきっかけになったと思う。河西、宮本、半田、谷田、磯辺ら懐かしい名前だ。もう一人の名前が思い出せない。私は控えで東洋紡にいた近藤選手が個人的に好きで、今もその当時の写真を持っている。
政治では池田勇人総理が引退し、佐藤栄作へ。ベトナム戦争が激化。
オリンピックの影響で「おれについてこい」「ウルトラC」またトップレス、みゆき族等が流行語になった。ノースリーブが流行し、エポック社の野球盤が登場した。

早足で日本の昭和30年代を見てきたが、今でも甦るものばかりである。また今度は40年代も調べて見たいと思う。私の40年代は早い。高校生から大学生。そして社会人になり昭和49年には結婚。それまで25年。それからもう32年たってしまった。
今まさにIT時代。アナログからデジタルへ。これからの歴史はまさにその言葉がぴったりだと思う。

昭和30年代の映画と歌謡曲

2006年11月14日 | ラグビー
30年代の世相を調べていて、この年代の映画と歌謡曲をもう少し掘り下げてみたくなりました。まず映画から。昭和30年ジェームスディーンのエデンの東、理由なき反抗、わんわん物語り。
31年 太陽の季節、八十日間世界一周、ジャイアンツ
32年 青い山脈、赤胴鈴之助、少年探偵団、それから戦場に架ける橋
33年 氷壁
34年 ベンハー、北北西に進路を取れ、アニメの眠れる森の美女
35年 日曜はだめよ、アパートの鍵貸します、オーシャンと十一人の仲間、サイコ
36年 ウエストサイドストーリー、ティファニーで朝食を、ナバロンの要塞、101匹ワンちゃん大行進、用心棒
37年 アラビアのロレンス、奇跡の人、世界残酷物語、ニッポン無責任時代
38年 座頭市、大脱走、シャレード、伊豆の踊り子、五番町夕霧楼
39年 鉄腕アトム、モスラ対ゴジラ、メリーポピンズ、マイフェアーレディー、007ゴールドフィンガー
40年 サウンドオブミュージック、コレクター、ドクトルジバゴ、網走番外地

洋楽
1950年代
オンリーユー、慕情、禁じられた遊び、ビーパップルーラ、ケセラセラ、煙が目にしみる、エデンの東、第三の男
1960年代
ロコモーション、アイドルを探せ、男が女を愛するとき、サーフィンUSA、悲しき雨音、ダイヤモンドヘッド、ヘイ・ポーラ、プリーズミスターポストマン、恋の片道切符

歌謡曲
昭和30年から40年代
美しい十代、二人の銀座、星のフラメンコ、ゆうべの秘密、逢いたくて逢いたくて、ひなげしの花、てんとう虫のサンバ、京都の恋、涙の太陽、水色の手紙、恋の季節、夜明けのスキャット、恋の奴隷、黄色いサクランボ、空に太陽のある限り、さらば涙といおう、私の彼は左利き。

1958年から61年はウエスタンカーニバル、それから歌ののヒットパレード。この時代は外国の曲のリメイクが多い。

まだまだいっぱいあると思うけど、懐かしい映画や歌ばっかり。
洋楽は映画の主題歌が多い。マントバーニーとかミッチミラーとか大オーケストラが多かったみたいです。

こんなのを書き出すときりがないですね。 

昭和30年代の世相

2006年11月13日 | ラグビー
自分の青春時代の音楽を振り返っているうちに、昭和30年代の世相が知りたくなりました。物心ついたのが昭和30年頃からです。20年代はもう覚えていません。
昭和30ねんから38年まではとにかくゆっくり時が流れていたと思います。戦後の混乱もおさまり(昭和31年の経済白書で「もはや戦後ではない」と公式に書かれています)東京オリンピックが開催された昭和39年までの時代は、自分にとってなんだか空白のような気がするのです。
いろいろ調べてみました。
今日は昭和30年から35年までを書いてみたいと思います。
まず政治の話からはいると昭和30年に今の自民党が結党されました。いわゆる「55年体制」といわれる所以です。この年トヨペットクラウンが発売されています。またポロシャツが流行。東芝から電気釜、東京電気工業(今のソニー)からトランジスターラジオが発売され、家電の時代がスタートしました。
流行語として、ノイローゼ、下品、最低などという言葉がのってます。
流行歌としては菅原都々子の「月がとっても青いから」そして島倉千代子が「この世の花」でデビューしています。息が長い歌手ですね。
映画では「エデンの東」が公開されています。テレビでは「私の秘密」「サザエさん」
昭和31年は石原慎太郎の時代。太陽族、慎太郎刈りが流行。漫画で「鉄腕アトム」「鉄人28号」が始まりました。テレビでは「チロリン村とくるみの木」「お笑い三人組」映画では「ビルマの竪琴」東海道線が全線電化されたのもこの年です。東海道新幹線ができたのが昭和39年なのでこんなに遅いとは思いませんでした。また南極観測船「宗谷」が東京を出発。翌年昭和基地が開設されています。
昭和32年はフランク永井の「有楽町であいましょう」がヒット。よろめき、ストレス、グラマーなどが流行語になっています。プロレスで力道山が活躍しましたがこの年の暮れに刺殺されてしまいました。100円玉の発行。東海村の原子炉、NHKのFM放送の開始もこの年です。「名犬ラッシー」「ルーシーショー」「私だけが知っている」などのテレビが人気となりました。
昭和33年は中原一郎の「おーい中村君」松山恵子の「だから言ったじゃないの」がヒット。いかす、しびれる、ハイティーン、ローティーン、団地族、ながら族等が流行語になっています。フラフープがはやったのもこの年。「楢山節考」「鉄道員」「老人と海」等の映画が放映されました。テレビでは「ロッテ歌のアルバム」「月光仮面」「バス通り裏」など。ウエスタンカーニバルの第1回が開催され、東京タワーの完工、スバル360の発売、日清即席チキンラーメンの発売などがありました。
昭和34年は水原弘の「黒い花びら」が第1回レコード大賞。ペギー葉山の「南国土佐をあとにして」がヒット。
そしてこの年今の平成天皇がご成婚。テレビが一気に普及しました。
映画では「人間の条件」「にあんちゃん」テレビでは「少年ジェット」「ローハイド」「ザ・ヒットパレー」また少年サンデーが発刊されたのもこの年。日産からブルーバードが発売されました。
そして昭和35年。なんといっても新安保条約の批准。安保反対運動に560万人が参加。東大生の樺美智子さんが亡くなりました。
インスタントコーヒー、コカコーラが日本でも発売され、「家付き、カー付、ばばあ抜き」などという言葉がはやりました。和田弘とマヒナスターズの「誰よりも君を愛す」がレコード大賞・橋幸夫の「潮来笠」がヒット。テレビでは「少年探偵団」「ブーフーウー」「ララミー牧場」「サンセット77」映画ではアランドロンの「太陽がいっぱい」
そしてアメリカではケネディーが大統領に。日本でも岸伸介から池田勇人に総理大臣が変わり「高度成長・所得倍増」が政策としてかかげられ、日本も更に新しい社会に変貌して行きます。
駆け足で昭和30年から35年まで見てみましたが、娯楽といえば映画にテレビ。歌は歌謡曲のみで、まだポップスやフォークは登場しません。
ここに出てきたものがすべてわかるのが怖い。最近のことは良く覚えていないのに昔のことは良く覚えている。次は昭和36年から39年まで行きます。

木枯らし一番

2006年11月12日 | ラグビー
昨日とうって変わって素晴らしい天気になりました。ただ風が強く今日に寒さを感じるようになりました。
お昼前、テニスに行く途中雪を被った富士山が綺麗に見えました。もう11月も半ば。本当に時間のたつのが早いです。
お昼過ぎには風も止んでテニスには絶好の天気になりました。
テニスは最近の3週間で13連敗。それも一方的に負ける試合ばかりで自信を失っていました。今日も1試合目強敵だったので14連敗を覚悟しましたが、開き直って力が抜けたのか、ほとんどミスなしの試合ができました。
やっと連敗から脱出。次の試合も勝って、何となく試合感が戻ってきたような気がします。3試合目はマッチポイントをつかんだものの逆転負け。でも接戦だったので満足です。病気してテニスに復帰したものの、なかなか本来のテニスができなかったのが、どうにか普通にテニスができるような気がしてきました。
来年になったらまた試合にも出てみようかなと思っています。
先週まで、自信がなくてそんなこと口にだして言えなかったけど、今日のようなテニスができると欲が出てきます。
ところで最近は飲酒運転の取り締まりが厳しくなって、テニスクラブでのビールの販売も中止になってしまいました。確かに飲酒運転は絶対やってはいけないことですが、正直テニスの後のビール一杯が飲みたくてテニスしていたのも事実です。
テニスが終わって皆で持ち寄ったつまみを肴にビールを飲んで、そのまま飲み会へというのがこれまでのパターンでしたが、それも今だから言えること。良く今まで事故もなく来たと思います。でも飲み会が無くなると会員相互の交流の場がなくなってしまい、すごく寂しいものです。そこで第2、第4土曜日はみんな電車かバスでクラブに来ることになりました。
やっぱりテニスのあとの一杯は止められませんよね。

昨日の続きになりますが、昭和30年代前半の出来事が思い出せません。もちろん個人的なことはわかるけど、日本にとってどんな時代だったのか調べてみたくなりました。昭和35年、いわゆる60年安保の時はまだ小学生で一生懸命中学受験の勉強をしていました。山手線に101型というカナリヤ色の新型電車が走り出し、戦後の貧しさからやっと抜け出した頃のように思います。
きっと戦後の大きなエネルギーが爆発する寸前の時代だったのでしょう。