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つれづれなるままにパソコンに向かいて旅日記・斜読・よしなしごとを綴る

611 2004年3月のイタリア紀行最終回、サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂などを見て、無事帰国へ

2015年08月30日 | 旅行

2015.8.30  2004年イタリア紀行最終・2004-45 サン・セポルクロ教会堂 サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂 サン・テウストジョ教会堂 トッレ・ヴェラスカ サン・ナザーロ・マッジョーレ教会堂 ミラノ大学 /2015.8記
 2004年のイタリアツアーは8日間だから正味は6日間である。それでも見どころが濃縮されていたことと、日ごろの不勉強がたたり一つ一つ復習しているうち、45回分になった。1回はA5サイズ・4ページにまとめているので、1ページが30字×33行=990字だから4ページで3960字、写真は150字分ぐらいなので4~5枚の写真を挿入しているから、1回で3300字ぐらい。45回分は15万字ぐらいになる。読んでいただいた方々に感謝ともども陳謝したい。

 最終回は午後5時ホテル集合までの自由行動の続き。ミラノのドゥオーモ広場の西のトリノ通りから奥に入ってロマネスク様式風の教会堂を見つけたところから始まる。ロマネスク様式は初期の教会堂建築に用いられた。通常、郊外の静かな場所で修道僧が祈りを捧げる場として建設された。だから、ミラノの中心街にあるのは不思議な気がしないでもない。創建は1030年で、そのころ、このあたりはまだ繁華ではなかったのかも知れない。焦げ茶色のレンガ積みで、開口部は少なく、かたくなに閉じている雰囲気を感じる。

 ドゥオーモ広場に戻りトラム3番線に乗って、サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂を目指す。トラムからも巨大なレンガ壁が見えた。高さは10mもあろうか。運転手に確かめたところ頷いたので、トラムを降りる。
 このあたりは古代ローマ時代、オリーブの丘と呼ばれ、ローマ帝国の貴族たちが館を建てた高台である。
 聖ロレンツォはミラノの守護聖人アンブロジウスよりも100年ほど前のキリスト教徒で、貧しい人に施しをしたことで人気があった。まだキリスト教は迫害されていた時期で、皇帝ウァレリアヌスが教会財産を献上せよと命じたところ、貧しい人を引き連れて現れ、貧しい人こそが教会の財産と主張したことから火あぶりにされた聖人である。
 313年のキリスト教公認のあと、聖ロレンツォに捧げる教会堂の建設が計画されたようで、4世紀末~5世紀初頭に完成した。外観からも八角形平面の初期の礼拝堂建築らしいことがうかがえる。
 その後、建築技術が発展し、大勢の信徒を受け入れられる長方形平面のバシリカ教会堂が建てられていったうえ、ローマ帝国衰退後の異民族の侵入で原初的な教会堂が失われてしまった。そのため、サン・ロレンツォ・マッジョーレ聖堂は八角形の原初的な教会堂の手本となったそうで、ドナト・ブラマンテやレオナルド・ダ・ヴィンチもここに来て原初的な教会堂のつくり方を学んだそうだ。

 すぐ先に、9世紀創建、ロマネスク様式のサン・テウストジョ教会堂がある。そのそばがトラムの停車場で、ここからドゥオーモ広場に戻った。時間は3時半、まだ1時間ほど見学できる。
 500mほど先に超高層のトッレ・ヴェラスカが建っているので見に行った。ドゥオーモの屋上からも街並みから突き出たトッレ・ヴェラスカが見えるほど、背が高い。上層部は外側にせり出したデザインである。このせり出したデザインはスフォルツァ城の塔の外敵を攻撃するためのせり出しにそっくりである。歴史的なデザインを現代建築に取り込んだのかも知れない。

 ちょっと迷ったりして、残り時間が厳しくなった。サン・ナザーロ・マッジョーレ教会堂の後ろ、ミラノ大学の横を抜けてトラムの停車場を見つけ、地下鉄に乗り換え、一安心。ホテルに4時45分着。予定通り、5時にバスはホテルを出て空港へ。夜の8時過ぎに定刻通り離陸。ワインで乾杯し、イタリア2004の旅を終えた。 

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