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1986年建築学会賞作品賞の眉山ホールは都市のような多様体としての建築を目指すも解体された

2017年06月14日 | 旅行

1986 眉山ホール(静岡精華学園研修センター) 長谷川逸子 1984 静岡市
 日本建築学会は創立100年を迎える(1986年時点)。恒例の建築学会賞は、これを記念した100周年記念文化賞12件、例年1名の大賞を10名に授与など、大盤振舞と言われるほどの多数授与となった。
 作品賞は、伊東豊雄(シルバーハット)、木島安史(球泉洞森林館)、そして長谷川逸子(眉山ホール)の3氏である。100年の節目の作品賞として見るならば、(作品賞該当なしの年もあったのだから、)いっそのこと新人、中堅、長老おりまぜて10名ぐらいに大盤を振舞っても良かったのではと思われる顔ぶれである、と言ったら言いすぎであろうか。

 日本建築学会賞が行われ始めたのは、現在とは少し形式が異なっているが昭和12年からで、以来、現在までの50年の間、論文賞・業績賞・作品賞全て含めても、女性の受貧者は林雅子氏と今回の長谷川逸子氏のわずか2名である。それだけ建築の分野が女性に解放されていなかったことの反映であろう。言い換えれば、最近の女性の表だった活躍ぶりは目覚しいものがあり、その意味で長谷川氏の受賞は時代を反映していると思う。
 ただし、私個人の意見としては、全ての場所、全ての機会に女性が男性と等しく並ばねばならないとする考え方には、必ずしも賛成できない。男性と女性とでは、性質が基本的に異なる。種が違うとも言える。建築設計の大きなファクターとなる発想の仕方や感性の違いに顕著にうかがうことができよう。意味を履き違えて全ての人に全ての機会を均等に与えることは、新たな選別を促しかねない。
 無論、一律に女性あるいは男性を捉えたり、一方的に門戸を閉じてしまうことは誤りである。要は、それぞれの人が、それぞれの持ち味を最大限に生かせることにおいて、平等で、均等であることが大事なことである。
 もっとも、長い間の女性蔑視を含めた差別思想を打ち壊すには、多少誇張的であった方がいいと思う。眉山ホールを、女性の今後の大いなる活躍を期待したものと考えれば100年の節目に時機を得ている、と思う。

 訪れたのは2月の午後遅く。眉山ホールは、精華学園の4階から見下ろすと、自分の長くのびた影が民家の窓に届いており一瞬、罪の意識でハッとするほどゴチャゴチャと建てづまった町並みの中にある。「周辺の既存のまちの軟らかさと強いコントラストを見せる」幾何学形態の集積を、長谷川氏は「自然のアナロジカルな記号群」となって我々に樹海のごとく、山のごとく呼び掛ける、と解説するのだが、その無機的な形の構成、テクスチャ、色あいは、自然をたとえるならば、人を寄せつけない、冷たい自然の相としか見えない。およそ自然を幾何学的な形の遊戯でたとえることが可能なのであろうか。

 氏はまた、「都市のような多様体としての建築」であり、「アジア的都市と連続していると感じる」そうだが、アジア諸国全般に見られる貧困と開発と、人種と文化、近代と未開の際立った混沌の中で、為政者に搾取され続け、時には真先に見すてられ、それでもしたたかに生きんとする民衆のエネルギーが創りだした都市を意味するのだろうか。それとも、為政者と資本に操作される幻想の都市であろうか。
 突然と、戦後のありあわせの半端な材料を何とかつなぎあわせたバラックの下の自由の喜びよりも悲惨な生活に疲れきった人々が、スチール写真の如く思いだされた。
 この作品は、物質文化の中で、自然の限りない慈しみに甘え続ける現代人への警鐘を発信しようとしているのかもしれない。とすれば、建築と都市に隠れた自然と人を問い直し、我々の建築へ向かう姿勢を正す暗喩を、これからの100年、発信し続けて欲しいと思う。(1986見学)

余談1 斬新なデザインの茶室で茶道部の女子高生がお茶を点てていた。斬新なデザインと制服姿の女子高生に違和感はなかった。
余談2 竣工5年?後に眉山ホールは解体された。理由は不明である。

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