よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年にオールジャパン完歩目指しています。





唐津街道を行く№10(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:22:52 | 唐津街道

中州の中島橋を渡ると城下町「福岡」に入ります。
よく、福岡と博多を間違えられますが、博多は商人の町、福岡は城下町です。
明治時代、福岡の市名を福岡にするか博多にするかで投票がありました。
投票の結果、僅差で福岡になりました。
博多の名前は昭和47年政令指定都市になった時、博多区として残されました。

福岡部に入ると、街道を少しそれ、街道と平行している旧電車道に入ります。
すぐ右手には「水鏡天満宮(すいきょう)」があります。
ここは、「菅原道真が京より太宰府に左遷される道中で博多に上陸した際、四十川
(現、薬院新川)の水面に自分の姿を映された場所であるとされ、今泉に社殿が建造され、
「水鏡天満宮」「姿見天神(すがたみのてんじん)」と呼ばれた。
1612年福岡藩主黒田長政によって福岡城鬼門にあたるこの地に移住した。
福岡市の中心地「天神」は、この天満宮に由来します。また、鳥居の「天満宮」は
福岡出身の初の総理大臣「広田弘毅」が小学生の頃書いたものです」
改めて、鳥居を見てみると、とても小学生が書いたとは思えない立派な字体でした。




※写真説明 左上、中島橋からキャナル方面、右上、福岡市の中心部天神交差点
        左下、水鏡天満宮、右下、水鏡天満宮鳥居

時間は2時を過ぎました。箱崎からここまでは、そんなに距離はないんですが、
彼方此方寄り道している為か、距離以上に万歩計の数字が上がっています。
この街道歩き、1月2日にスタートしました。お正月でお昼を食べたいのに
食堂は休みでお昼に苦労しました。
然し、今回は、福岡市の中心地「天神」。家内の情報では、ビルの地下に安くて
美味しい店があるということ聞き、(家内はこの天神の某社に勤めています)
即、そこに行きました。
早速そこのお店の「おまかせ定食」を注文し、メニューを見るとグラスビールが
100円であります。唐津街道も半分を超えたし、また今日は暑いし、いろいろ
理由を考えながら二人でビールで乾杯。
babyさんがいつも言われているように歩いた後のビールは美味しいですね。

30分ぐらい休憩のあと、再び街道へ。
今日はここから20KM先の前原宿まで行きたかったのですが、
寄り道ウオークが多く、前原宿までは無理ですので、行ける所までいくように
しました。

天神の交差点から100Mぐらい行った所の証券ビルの一角に福岡民謡「黒田節」の
モデルになった「母里太兵衛」の屋敷跡があります。
この一帯は、大名町と言って、福岡藩上級武士の屋敷があったところです。
「♪酒は呑め呑め 呑むならば 日本一のこの槍を 呑みとるほどに
のむならば これぞまことの 黒田武士♪」
この黒田節には、こんな逸話が残っています。
黒田長政の使者として伏見城の滞在中の福島正則を訪ねた太兵衛は、
酒を勧められるが、酒豪で有名な太兵衛は、使者であるからと断った。
私だったら、いただきますかと言ったと思いますが、彼は仕事ということで
断り続けます。あまり断るので正則は何か太兵衛に言ったのでしょうね。
そこで正則は、大盃を出し、「これを飲み干せば好きな褒美をとらす」と
言いました。太兵衛はあまり言われるのであえて受け、大盃になみなみと
注がれた一気に飲み干すと、褒美として正則が秀吉から拝領した
名槍「日本号(ひのもと)」を所望します。
正則はしぶしぶ「武士に二言はない」といって太兵衛に「日本号」を
渡します。これが民謡の黒田節になっているんです。

赤坂門の交差点を抜けると福岡城が見えてきます。
私が殿様だったら沿道にお迎えがずらっと並んでいたのでしょうが、
私は、一市民。お迎えなどありません。(笑)
一応、殿様気分になったつもりで裁判所横の上の橋から城内に入っていきました。



※写真説明 左上、母里太兵衛屋敷跡、 右上、赤坂門の古い赤煉瓦塀
   左下、福岡城上の橋、右下、福岡城本丸入口

このあと、福岡城内にある「鴻臚館」を見学し、これより西の姪浜宿手前まで
歩きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本日の歩行距離21,5KM(寄り道が多く距離は稼いでいます)
交通費 地下鉄540円、
昼食代 おまかせ定食@880、グラスビール@100
おやつ 酒饅頭@90、蜂蜜饅頭@100

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唐津街道を行く№9(博多宿~福岡城)

2012-01-06 09:16:29 | 唐津街道

2月21日晴れ 唐津街道第4日目。
9時半、前回ゴール地の筥崎宮前に到着。
この街道も福岡市内中心部に入ってきました。
歩数計の目盛をチェックし、いざスタート。

筥崎宮の前からは、昔は一帯に松が植えられ、これが「千代の松原」と呼ばれていましたが、
今は、その面影もありません。
筥崎宮から100mぐらい行った所に道標があります。
地図ではここからが旧地名で那珂郡馬出村(まいだし)。
馬出という地名は、昔、宿場町から馬を出したのでこの地名がついたそうです。
因みにこの近くの吉塚は、筑後の豪族、星野吉実のお墓があったことから
「吉塚」とついたと何かの本に書いてありました。

馬出に入ると、右側に九大病院が見えてきます。
昔は、古い建物でしたけど、今、近代的な建物になっています。
私事ですが、子供の頃、叔母がこの馬出に住んでいて、夏休みなんか、
よく泊りがけで遊びに来ていました。九大病院の塀の前で従姉妹と遊んだことなど
今でも鮮明に覚えています。この塀当時のままでした。懐かしかったです。

その先を行くと、「日蓮上人銅像道」という石碑が建っています。
日蓮上人は、鎌倉時代、元寇で外国が攻めてくると予言しました。
このあたりは、文永の役(1274)で古戦場になったところです。
ここで街道を離れ、東公園へ。
東公園は、県庁が来る前までは、広い公園で野球場もあり、若い頃は、ここで
草野球をしたことがあります。
公園の中を歩くと「松原水」がありました。その説明文によると、
松原水は、「明治時代、博多部の井戸は水質が悪く、塩分濃度が高いため
飲用には適さず、千代付近に続く松林の千代松原の砂地から汲み上げた井戸水を
博多まで運んでいたがその水も人家の汚水で利用できなくなった。そこで明治29年
(1896)市設の井戸を設置、業者を通じて1桶(18*)1銭で売った。
この松原水と箱崎のおきゅうとは、博多の風物詩だったが、大正12年(1923)
上水道の完成で姿を消した。1900年大正天皇が皇太子時代来福した際、
この水を飲料水に御使用なられている。」

また、街道に戻り、崇福寺(そうふくじ)に到着。
このお寺の山門は、福岡城の本丸表御門が使われています。
お寺の墓地には、福岡藩黒田家のお墓もあります。
黒田家の墓地には入ることができません。
この墓地には、玄洋社(注1)、頭山満のお墓もあります。

再び街道に戻り、コースは千代の交差点へ。
街道では、ここから篠栗街道と交差しています。現在は国道201号線です。

その千代の交差点の所に「刈萱(かるかや)石堂丸地蔵尊」があります。
これは、高野山の「刈萱道心」の誕生地です。
刈萱道心のことは、浄瑠璃にもなっていますのでご存知の方もいらっしゃると思います。

この地蔵尊の道路を渡ったところの川の側に悲しい伝説の「濡衣塚」があります。
「昔々、聖武天皇(724~749)の時代、筑前守に任命された佐野近世という人物が
妻と娘の春姫を伴い、博多へ。長旅の疲れか近世の妻は異郷の地で亡くなり、
娘の春姫は、博多の毎日を泣き暮らしていました。
人々の勧めもあり、近世は再婚し、春姫の下に新しい母親が来ます。
ところが、この継母にとって春姫の存在は目障りでなりません。
ある夜、継母は一人の漁師を呼んで春姫が自分の釣り衣を盗んだと近世に
譫言(せんげん)させました。信じられないという顔の近世は、
継母に問いました。継母は何食わぬ顔で「そんなことはございますまい。
姫は寝所で寝ています。後妻の私が問えば角が立ちますので、あなたが
確かめに行ってください。」と答えました。
近世は慌てて姫の寝所に行き、灯りをともして部屋を見て、驚きの声を上げる。
寝ている姫の体の上にびっしょり濡れた衣がかかっています。
この地を預かる近世としては、怒りで気が動転し、手にした刀を寝ている姫
めがけて振り下ろしていました。
一年が経ちました。
近世は寝苦しさにうつらうつらとする中、枕元に一人の少女がたっているのに
気づきました。「濡衣の袖よりつたう涙こそ永き世までの無き名なりけり」
はっと眼を覚ました近世は、春姫が夢枕に立ち自分自身の潔白を訴えていたと
悟りました。姫のいじらしさに悔恨の涙を流した近世は肥前の松浦山で苦行積み
娘の霊を弔いました。そして博多に戻り、七堂(普賢堂、石堂、里の堂、辻の堂、
かやの堂、脇堂、瓦堂)を建立したといわれています。
また、無実の罪をかぶることで「濡衣を着る」という言葉は、この話に由来します。




※写真説明
左上、道標。ここより東糟屋郡と書いてます。左下、福岡藩黒田家墓所のある
崇福寺。右上、刈萱石堂地蔵尊、右下、濡衣塚

濡衣塚を後に、再び街道へ。
旧電車道を呉服町方面へ行きます。
その後川端へ。博多宿は、地図によれば、博多リバレーンあたりと書いてあります。
然し、リバレーンあたりは、ビルばかりで何も残っていません。
ビルを一回り廻ってみると、那珂川の側に「渡唐口跡」の石碑があります。
昔は、ここが博多の海の玄関口だったんです。
そういえば、この石碑の後には「鏡天満宮」があります。
ここは、菅原道真が、博多に最初に足を踏み入れた地点です。
博多宿は、他に見るところがないので足は福岡城に向かいます。(続く)



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唐津街道を行く№8(筥崎宮)

2012-01-06 09:10:20 | 唐津街道

先日の唐津街道3日目のゴールが筥崎宮でした。
この筥崎宮は、皆様あまりご存知ないかもしれませんが、
福岡では、お正月の三社参りには欠かせないコースです。
正月3日の玉せせり、9月12日からの放生会(福岡では「ほうじょうや」といいます)、
などのお祭りもあります。



※筥崎宮楼門、文禄3年(1594)名島城主小早川隆景造営

筥崎宮は、延長元年(923)、醍醐天皇が神勅により「敵国降伏」の
宸筆を下賜され、壮麗な御社殿を建立しました。
御祭神は、宇美町でお生まれになった「応神天皇」応神天皇のお母堂様の「神功皇后」、
神武天皇の母君の「玉依姫命」をお祀りしています。
鎌倉時代の蒙古襲来の時には、亀山上皇が祈願し、俗に言う神風が吹き、
未曾有の国難に打ち勝ちました。
こうしたことから、厄除け、勝運の神として有名です。
今年も地元のプロチームの福岡ソフトバンクホークスやJ2のアビスパ福岡などの
チームが必勝祈願に訪れています。
また、ここは、大分の宇佐、京都の石清水とともに日本の三大八幡宮とよばれています。




写真説明
左上、一の鳥居(1609年)黒田長政建立
左下、ソフトバンクホークス、アビスパ福岡の祈願絵馬、
(後の松が御神木の筥松)
右上、宸筆の「敵国降伏」右下、お潮井とり
※山笠の時には、筥崎宮前の海岸でお潮井とりをします。

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唐津街道を行く№5(畦町宿~青柳宿)

2012-01-06 08:43:32 | 唐津街道

卯建(うだつ)、バンコが残っている宿場「畦町宿」

原町宿を過ぎ、大穂に入る。橋を渡ると道が二手に分かれている。
左は川沿いの道、右手は先で大きな道に交差する。
もう一度地図を確かめ、右側の道を選んだ。
地図では、峠を下った所に「太閤水」があると書いてあるが、峠を上っても
下っても太閤水がみつからない。
民家に聞こうと思っても近くに民家がなく、ただひたすらに歩き続けた。
旧道は、福津市(旧福間町)に入った。
いくつかの峠を下った所に「太閤水」があった。
※(太閤水は、若松の所で説明していますので省略します。)
太閤水は、若松に次いで2箇所目。

月の森池の廻りを通っていくと、「許斐(このみ)窯」が見えてきた。
この先の、畦町橋を渡ると「畦町宿」です。


※写真説明 左上、太閤水、右上、月の森池
        左下、天満宮の変わった形の蘇鉄、右下、畦町宿の町並み

畦町宿は、福津市の案内板によると、
「畦町は、昔(藩政時代)筑前黒田藩が指定した27宿駅の一つであった。
慶長5年(1600)、関が原合戦後、黒田長政が筑前の国主として
入国するまでは、まだ人家も少なかったが、寛永19年(1642)、
唐津街道の整備に際し、青柳(古賀市)と赤間宿(宗像市)との間、
約4里(16km)が遠すぎるということで、当時の鳥ノ巣村と本木村の
一部を街道沿いに集め、宿駅として新たに成立したのが、畦町村である。
当時100余軒の戸数があり、480余人が住んでいた。
街道を行き交う人も多く、商家が圧倒的に多かった。
南北に通じる町並みの入口の両端には、関所のようにして、
「構口(かまえぐち)」があり、御制札所や役人詰所があった。
宿場町として栄えた畦町村も明治年代以降は宿場廃止や鉄道、国道開通
など交通路線の変革とともに宿場の機能を失った。
今では、この宿場と折りも古い家は建て替えられ、昔の家並みは少なく
なったが、「杉ぼて」や「卯建(うだつ)」など江戸時代のたたずまいが
残っている所もあり、宿場町の名残が感じられる。」



※写真説明 左上、バンコがある民家、右上、旧造り酒屋
        左下、卯建のある家、右下、旧庄屋跡。(今は石碑が建っている)

町の中を歩いてみると、民家にバンコ(縁台、ポルトガル語)があり、
今は留め金か何かで閉まっていますが、ここで将棋や碁などを
していたんでしょう。
また、左下の写真のように防火の為に隣に火がうつらないようつけた壁、
卯建(うだつ)、旧造り酒屋には、今はないけど、杉ぼてなど
懐かしく、江戸時代にタイムスリップしているような感じだった。
注)卯建(うだち)・・・梁の上に建て棟木を支える短い柱。又は江戸時代の
             民家で、建物の両側に「卯」字形に張り出した小屋根付きの
             袖壁。装飾と防火を兼ねる。
             卯建が上がらないというのは、裕福なところでないと、卯建が
             上げられなかったことから転じています。

注)石碑の高村翁(医師)は、健康保険の基になった定例医として村の医療に
  携わった方です。

懐かしい畦町宿をあとに、街道は上西郷小学校の方に向かった。
ここを左折すると青柳宿の方になるが、今日の行程はここまでとする。
ここまで26386歩(約20.6km)7時間15分


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唐津街道を行く№17(深江~唐津城ゴール)

2010-03-31 15:00:00 | 唐津街道
3/28(日)前回ゴール地のJR深江駅へ。
唐津街道も最初の予定では6日間でゴールするつもりでしたが、福岡市内に入り
寄り道が多く、7日目になってしまいました。
今日を逃すと4月からは殆ど毎週ウオーキング大会にエントリーしていますので
どうしても今日、唐津まで歩きたい。

深江駅は、自宅から車で30分ぐらいの距離ですので、乗り換えの手間を省くため
車で深江駅までいきました。駅前の駐車場に車を止め、前回行けなかった
深江の中津藩船着場、境界石を訪ね、いよいよ今日の街道歩きの始まりです。

深江神社の前を通り、猿田彦を右折、深江小学校へ。
深江小学校の桜は、今が見ごろなんでしょうか、ほぼ満開の状態です。
マルキョウの所の国道を横断し、踏み切りを渡って右へ。
しばらく歩くと【鎮懐石八幡宮(ちんかいせきはちまんぐう)】が左手に
見えてきます。

「鎮懐石八幡宮」は、その昔、神功皇后は、応神天皇を懐妊しながらこの地を通って
朝鮮半島に兵を出された時に卵形の美しい二個の意思を求めて肌身に抱き、鎮懐として
出産の延期を祈られたのであった。願いは叶って、帰国後宇美の里で応神帝を
ご安産された。そこで神功皇后が経尺の璧石(へきいし)を子負ヶ原の丘上にお手前から
排納されてより、世人は鎮懐石としてその奇魂を崇拝するようになった。(由来文から)

また、ここには、九州最古の万葉歌詞があります。
726年筑前国主(今の知事かな?)に任じられた山上憶良が
筑前の住人「建部牛麿」からこの伝説を聞いて詠んだものです。
歌碑は、安政6年(1859)6月に建てられました。


街道はこの八幡宮の上を通ります。
ちょうど、その時、水を汲みに行かれるご婦人から話しかけられた。
そのご婦人は、山登りが好きで今は足を悪くされており、山には登ってないが
よくなればまた登りたいと話された。そのご婦人がいい景色があるということで
眺めのよい所に案内された。そこは、玄界灘が良く見え、姫島(幕末、勤皇の母といわれた
野村望東尼が流罪で島流しになった所)の横には、微かではありますが、壱岐島が
見えます。また、海岸の方に眼をやれば、富士山のさった峠を思わせるようです。
(私のひとつ前のブログ「風光明媚な糸島海岸」で紹介してます)

街道はこれから下に降り国道に合流します。
ここも歩道がなく、車道の端を歩いていきます。
海からは、磯の香りが・・・・
しばらく歩くと海岸に大きな石(岩?)が見えてきます。
これが「わくどう石」です。わくどうとは、方言でヒキガエルのことを意味するそうです。
(私の所では、わくどうとは言わないけど・・・)江戸時代の旅は、病気、盗難など
不安が付きまとっており、旅を終えて無事帰れることをこのヒキガエルに託したのでしょう。
磯辺に下りてこの石を計ってみると約10mぐらいはあります。
道路標識を見ると唐津まであと20km。

街道は、大入(だいにゅう)校区に入ってきました。
JR筑肥線の駅は次の駅が「福吉」です。
「大入から福吉」とても縁起のいい駅名です。(笑)
一時はブームになりました。

大入の旧道を通り、再び国道に合流します。
福吉校区に入ってきました。ここは、福井校区と吉井校区が一緒になり「福吉」に
なりました。国道を抜け旧道に入ると旧道と平行して水路があります。
その水路の上には、各家庭用に橋が架かっています。昔はここまで船で来て
いたんでしょうか?橋の横には石の階段もあります。
昨年ウオーキングで行った玉名・高瀬川にもこんな石の階段がありました。


福吉を抜け、国道の西縄手踏切を横断すると、この街道の難所「立花峠」に
差し掛かります。最初はなだらかな道、急な峠と聞いていたけど急じゃなかったんだ
と思いながら鶯も気持ちよさそうに鳴いて、こちらも口笛で鶯に答える。
このくらいの峠だったら・・・・気分はルンルン気分。
ところが、ところが、まむし温泉の方から来た道と合流するところあたりから急勾配に
なる。上り坂が得意の私でもちょっときつい。
汗を拭き拭き、ゼエゼエいいながらの山登り。
町民グラウンドを過ぎたところあたりか、民家で甘夏、八朔、蕨などを売っている所が
あった。聞くと全部1袋100円とのこと。甘夏なんか4個ぐらい入っていたでしょうか、
買いたかったけどこれ以上荷物は多くしたくないし、蕨だったら・・・・と思い蕨を
ゲット。国産でこれだけ入って100円とは、いい買い物ですね。(笑)
そこのおばさん、おまけにと言って甘夏1個くれた。
ちょうど小腹も空いており、この甘夏は峠の見晴らしのいい所でいただきました。

立花峠は、二丈カントリークラブの所が頂上です。
そういえば、こんな山道なのに車の往来が多いなあと思ってましたが、ゴルフ場に
来られているんですね。私も若い頃ゴルフに熱中していた時期がありました。
然し、野球をやっていたからか、すぐ野球のスイングになってしまい、3回ぐらい
コースに出た後、スコアが上がらず止めてしまいました。

立花峠を降りてしばらく歩くと鹿家(しかか)に出ます。旧道は鹿家駅の裏の方を
通るんですが、トイレに」行きたくなり、このあたりはコンビ二もないし、駅だったら
トイレがあるのではないかと思い、街道からちょっとそれて駅の方に行きましたが、
この駅無人駅でトイレがなく、仕方なく公民館の方に行きますがここは、日曜日で
お休み。男だったら最悪の場合その辺でできますが、女性の場合、
そうは、いけませんね。時計を見るともうお昼に近い。
食堂かレストランを探してそこでお昼とトイレタイムにすることにします。
旧街道は、山道ですので食堂もレストランもありません。
仕方なく、国道を歩いていきます。
こんな時、ないんですよね。
2kmぐらい歩いたでしょうか、左側に「ラーどん」という食堂の看板が・・・・
地図を見ると、旧街道もこのあたりで合流しています。
ここでお昼にすることにします。
私は、ラーどんというのを食べたくラーどんと小ご飯を注文。
「ラーどん」というのは、うどんの中にうどん玉とラーメン玉が入っているものです。
スープもうどん出汁がメインなんでしょうか、思っていたよりも美味しい。
家内は、よほどお腹がすいていたんでしょうか、「ブタキムチ定食」を注文。
勿論、完食です。私もブタキムチを少し食べましたがブタの味がして美味しかったです。

30分ぐらい昼食休憩をして再びスタートです。
やはり、30分でも体が冷えているんでしょうか、すぐ立ち上がると足腰が悲鳴を
あげます。少し体をほぐしスタートしました。
街道はもうすぐ佐賀県との県境です。
思えば、今年の1月2日に北九州の若松を西に西に歩いてやっと県境まで
来ることが出来ました。ここからゴールの唐津城まではあと10kmぐらいです。
佐賀との県境は、海岸側にある「包石(つつみいし)」です。
街道は、ここから線路を渡って行くようになってますが、その道がない。
あわてて、かっちゃんさんのブログを読むとどうも道幅が1mぐらいの細い道
みたいだ。遮断機もない線路を渡ると一面畑。
えっ、これって旧街道?どっちに行くんだろう?
ここでまたまたかっちゃんさんのブログ、「坂を上る」となっている。
その坂を上ると車道に出た。
この街道歩き、河島さんの地図とかっちゃんさんのHPのブログをコピーして
持っているんですが、かっちゃんさんのブログは実に解りやすい。
今まで何回助けられたことか。

山道を超え、再び国道に合流。玉島橋を渡ると「浜崎宿」です。
浜崎も何年か前の平成の大合併で唐津市に編入になりましたが、
その昔「対州領(つしま)」だったのです。
対馬藩が朝鮮通信史を接待したからこの領地が与えられたそうです。
浜崎宿は、宿場のものが何も残っておりませんが、旧家がかなり多く見られます。
白壁、奥に長い家・・・・・


諏訪神社を抜け、再び国道へ。
このあたりが日本三大松原の「虹の松原」になります。
虹ノ松原は「総延長4781m、横幅平均448mあり、大正15年わが国最初の
史跡名勝天然記念物と防風保安林を兼ねた特別保護林に指定されました。
ここは玄界灘に面し潮風による農作物の被害がひどかったので、初代唐津藩主
寺沢志摩守広高はこの地に松を植えさせ保護育成した。その際、この松原には
自分が愛する松が7本ある。これを傷つけたものは死刑に処する。と言って
その松がどれであるかも明示しなかった。そのため松林は盗伐から守られたという。
(説明文より)


昔は「二里の松原」と呼ばれていましたがいつの間にか「虹の松原」になりました。
国道が松林の中を通っています。
唐津の名物は「松露饅頭」ですが、松露は松林の中にあるのですが、最近
松林の手入れを怠り、松露ができない状態です。
そこで唐津の方は再び松露をということで松林の管理をおこなっております。
私も子供のころは、5月ごろ松林に行って松露を採ったことがあります。
香りがよくてお吸い物には最高でした。
もうだいぶん食べていません。
松林の中には、唐津バーガーや松原おこしのお店があります。

松林の終点には唐津シーサイドホテルがあります。
ここで休憩をすることにします。
唐津城はもうすぐそこです。

唐津シーサイドホテルで休憩後、再び街道を歩き出します。
ホテルを出て国道に入ると遠くに唐津城が見えてきました。
もう少しでゴール。少し早足になってきます。
唐津城に続く道路は、唐津城の花見でしょうか、渋滞しています。
舞鶴橋、この橋を渡ると唐津城です。

唐津城は、松浦川が唐津湾に注ぐ河口の左岸の満島山に位置します。
山上に本丸が配され、その西側に二の丸、三の丸が配された連郭式の平山城です。
松浦川の右側には虹ノ松原が広がり、満島山を中心に鶴が翼を広げたように見える
から「舞鶴城」とも呼ばれています。築城には、秀吉が朝鮮征伐で造った
名護屋城の解体資材も使われています。

唐津城の石段から上がっていくと石垣で新郎・新婦が写真を撮っています。
特に、新婦さんはドレス姿、寒くないんだろうかと心配しますが、
そこは、熱々のカップル寒さなんか関係ないですね。(笑)


4時25分唐津城に到着しました。唐津城は今、桜が満開。
いかにも私達のゴールを歓迎してくれているみたいです。
すぐ、近くの人にゴールの写真をお願いします。


JRでは、北九州・若松~唐津まで約3時間で行けますが、私達はテクテク旅、
7日間かかりました。
たった133kmぐらいで大きなことを言いそうですが、
唐津街道をテクテク歩いていろんなものが見えました。
今まで知らなかったことなどこの街道旅で発見することができました。
ただ、この街道歩き、私一人では途中で放棄していたかもしれません。
一緒に歩いてくれた家内に感謝します。(途中喧嘩もしましたが)
また、この唐津街道の地図を作ってくれた河島先生、参考にさせてもらった
かっちゃんさんのブログ、改めてお礼申し上げます。有難うございました。

ゴールのあと、家内が記念に唐津焼の湯飲みかコーヒーカップが欲しい
ということで唐津市内に出かけました。
本当は、ビールで乾杯したかったのですが、深江駅まで車で来ているため
乾杯は家に帰ってからすることにしました。



この唐津街道を応援していただきました皆様本当に有難うございました。
また、機会があれば、どこかの街道に挑戦したいと思ってます。

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唐津街道を行く№15(風光明媚な糸島海岸)

2010-03-29 09:00:00 | 唐津街道
唐津街道を深江から唐津の方に行きますと
風光明媚な「糸島海岸」に出ます。

ここからは、幕末、野村望東尼が流された「姫島」や天気の良い日には、
「壱岐島」が微かではありますが、見ることができます。
私が歩いた日も見ることができました。
その糸島海岸には、面白い形をした石(岩?)があります。

【わくどう石】
「わくどう」とは、方言で「ヒキガエル」のことを意味します。
昔、街道を歩いた人が、この石を見て、無事帰れることを祈ったのでしょう。



上、わくどう石。
長さは、私の歩数で計ったのですが、約10mありました。
石というより、岩ですね。(笑)
下、どことなく、さった峠に似ていませんか?
ここに富士山を持ってきたら、さった峠ですね。(笑)

【包石(つつみいし)】



昔は、この石の上に丸い石を重ね、鼓の形をしていたので鼓石といわれ、
のちに「包石」となりました。
ここは、天正16年(1588)肥前国と筑前国の境界線の協定を締結した場所
でもあります。
日本最初の全国地図「大日本沿岸海興地図」を作成した伊能忠敬の一行も
文化9年(1812)この場所を訪れており、その測量日記の中に
古歌として記されています。
尚、平成14年この地を急襲した台風により倒壊してしまいましたが、
住民の要望や募金活動で平成16年8月復元されました。(糸島市広報より)

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唐津街道を行く№16(前原~深江)

2010-03-23 09:39:48 | 唐津街道
唐津街道も6日目になりました。本当でしたらもうゴールしていなくては
いけないのですが、私の地元の道 やたらと寄り道が多く、ゆっくりした
街道歩きになっています。尤もこの街道歩き時間の制限がありませんので
ここまで来ましたらゆっくり歩いていこうと思います。

さて、3/22祝日ですが、午前中雑用があり、それも11時ぐらいには
終わりましたので12時ごろから街道歩きに出かけました。

前回ゴールのJR前原駅に到着。
駅前の観光案内所には、平原遺跡から出土した大鏡のレプリカが
展示されていますので先ずその大鏡を見学。
「平原遺跡」は、昭和40年に発掘された遺跡で、遺跡の中からは、
日本製の内行花文鏡4枚、その他中国製の銅鏡など40枚近い鏡が
割れない状態で発掘されました。この内日本製の内行花文鏡は、直径
46,5cmもあり、日本最大の銅鏡だそうです。
観光案内所のレプリカの鏡もその大きさに合わせ46,5cmあります。
この他の出土品としては、ブレスレッド、ネックレス、勾玉などがあり、
魏志倭人伝に出てくる「伊都国」の女王のお墓ではないかとも言われています。
遺跡は、弥生時代から古墳時代のものです。



観光案内所をあとに、街道歩きの出発です。
唐津街道は、丸田池沿いです。
筒井西の信号を左に入り踏切を渡って荻浦に入ります。
荻浦に入ると左手に大きな旧家、何でも昔はお医者さんだったそうです。
その先を右回りに廻ると大きな石碑が見えてきます。
「これより東が福岡領」とかいてあるんでしょうか?
唐津街道を調べていくと、唐津街道の中には中津領、対州領が
あります。ここからは、中津領でしょうか?

街道は国道202号「赤坂」に出てきました。
いつもは車で走るこの国道、歩いてみて歩道の狭さに気づきます。
歩道は、60cmの側溝の上、ちょっと油断すると後から車が歩道すれすれに
近づきます。それでも何とか「赤坂橋」を越え、それから左折しました。
しばらく歩くと二丈町一貴山校区に入ってきます。
川の向こう側はキャベツ畑でしょうか、農家の方がキャベツの収穫をされています。

地図を見ると一貴山には、神社が多い。最初に西宮神社、それから諏訪神社、
奥に入って村社の熊野神社・・・・何か聞いたことのある神社の名前ですね。
街道を通っていて見つけた遺跡の案内、「一貴山銚子塚古墳」
私は、今まで歴史にはあまり興味がなかったのですが、街道歩きに従い、
先人が辿った道、或いは先人たちが造ったものに実際手を触れる見ると
自分が いにしえの昔に引かれていくみたいです。

この一貴山銚子塚古墳は、地元では「金の銚子が埋まっている」という伝説があり、
昭和25年に発掘調査が行われました。調べていくと糸島地区最大の前方後円墳で
古墳の中からは10面もの青銅鏡が出土しました。そのうち8面は卑弥呼の鏡とも
いわれる三角縁神獣鏡、残りの2面は内行花文鏡、方格規矩鏡という中国製です。
築造時期は4世紀後半ぐらいでこの地方を治めていた首長の墓といわれています。
尚、日本各地に銚子塚古墳というのがありますが、この古墳の形が、お酒の
お銚子に似ていたからその名がついたのではないでしょうか?
この銚子塚古墳の横には、江戸時代からの家でしょうか、風格のある家が
建っています。門の入口近くに家人がいらっしゃいましたので写真を撮らせて
くださいと頼みますと快く承諾された。
私達にどこまで行くのかと尋ねられ、深江宿、時間があれば大入まで行くと
伝えるとびっくりされていた。びっくりされたついでに北九州の若松から歩いて
来ていると言うと案の定驚かれていました。(笑)

街道は、今日のゴールの「深江宿」に入りました。


深江宿の入口には大燈籠があります。これには「太閤宿」と刻印されています。
この灯籠から入ったところに深江宿本陣があります。
今でも現存しています。
その本陣から右手に「深江神社」があります。
この神社は高祖城城主原田種直が1203年開基。
天正20年(1592)豊臣秀吉が名護屋城に在陣しているときにこの神社を参拝した。
ちょうどそのとき秀頼誕生の知らせを受けたので、この神社を秀頼公の産神と思い、
時の領主小早川隆景の命じて社殿を再興した。隆景も石の鳥居を奉納したが、
それが現在の第二の鳥居であると由来書きに書いてあります。
その社殿も現在建て直しの工事中です





時計を見るともう4時。
今から街道は、山道になりますし、一応今日の街道歩きはここまでとします。
次回こそ唐津までゴールしたいものです。
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唐津街道を行く№14(今宿~前原)

2010-03-18 17:12:33 | 唐津街道
唐津街道は、国道202号線横町信号を左に入る。
このあたりが今宿上町。町並みを見ると古い家が立ち並んでいます。
その先、筑肥線のガードを潜ると女原、徳永の町に入ってくる。
ここは、九州大学伊都キャンパスの玄関口として今、市役所によって
区画整理工事が施されています。
10年ぐらい前は、福岡大学の総合運動場だったのですが、
九大学研都市駅開業とともにショッピングセンターをキーに周辺には、
マンションが建ち並んでいます。
伊都の丘病院の横を通ると、周船寺(すせんじ)の町にはいってきます。
昔は、このあたりまで湾が入り込んでいて、ここに「主船司」といって
太宰府政庁の船舶の管理事務所が置かれていました。
その主船司が訛って「周船寺」になったそうです。
周船寺の町に入ってすぐ左側に「丸隈山古墳」があります。
5世紀前半の横穴式石室を持つ前方後円墳です。
この地方を統括していた人の墓と伝えられています。

この古墳の先には、この人を祀ったといわれている「伊覩神社」があります。
このお宮のソメイヨシノは、もう何輪か花を付けています。
日当たりがいいからでしょうか?

周船寺小学校の先を右に曲がると国道202号線に再び合流します。
ここから、糸島市に入ります。
この糸島市、今年1月1日より前原市(まえばる)と周辺の志摩町、
二丈町と合併し、新しく「糸島市」として発足しました。


街道は国道と平行しています。
街道は、前原の「産の宮」に差し掛かりました。
ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、この前原は、魏志倭人伝に
出てくる「伊都国」の中心地です。
この産の宮の近くの雷山川上流には、伊都国王がいたとされる
「平原遺跡」下流には「志登支石墓群」があります。
平原古墳では、漢鏡37面など多くの副葬品が発見されています。
志登支石墓群では、朝鮮半島で見られるような遺体を埋葬した上に
大きな上石を置くやり方で上石は花崗岩、玄武岩を使っています。
石の大きさは長さ2m、幅1,5m、厚さ60cmぐらいです。
また、志登からは、糸島の象徴の「可也山(かやさん)」(糸島富士)がきれいに
見ることが出来ます。この可也山も韓国の「伽耶(かや)」注)(日本では任那)
と発音が似ています。
昔は、大陸から渡来人がここにやってきていたのではないでしょうか?

時計を見るともう4時半を過ぎています。
予定では、3時半には、前原宿に着くはずだったんですが、地元を歩くと
いろいろ知っているものでついつい寄り道が多くなります。
折角、街道ブログを書くのであれもこれも皆さんに紹介したいからでしょうか、
一回で終わらせればいいのに、その1、その2・・・となってきます。
私って、文章のまとめ方が下手くそなんです。

そうこうするうち、今日のゴール地前原宿にやってきました。
この前原宿は、地元の有志の方たちで「前原宿研究所」というのを
作っておられます。商店街には「前原宿通り」の幟や、各店には、
屋号の下に「前原宿」と入れられています。商店街の中心地にある
時計は昔の亥の刻、酉の刻とわかる時計です。
また、本陣、脇本陣などは現存しています。






この脇本陣の綿屋は、喫茶店になっており、ちょうどコーヒーも飲みたくなり
入ってみました。この綿屋は予約すれば「街道御膳」というのを用意してくれる
そうです。3000円だったかな?
また、近くの名店街では幻のお饅頭の「くりまんじゅう」を土、日限定で
販売しているそうです。(残念ながら売り切れでした)

綿屋でしばしくつろぎ、お店の方に前原宿について質問していましたら、詳しい人を
呼んで来ると言ってそのまま帰ってこられません。
もう時間も遅くなったので諦めて帰ろうとすると、出口で若い方が待っておられます。
お名前を伺うと、何か聞いたことのある名前・・・・
もしかして「街道歩き」の項の「唐津街道」を書かれた○○さん?
○○さん「はい」という返事。実は私、今日の街道歩き予習の意味で「唐津街道」
の項を昨晩読んでいました。
イヤー感激しました。この街道歩きの際にもこの○○さんのブログも読んでいました。
私もウオーキング名刺を渡そうとしますが、今日は近場だったので
いつものDバックでなく違うDバックを持ってきていました。
名刺もあの中にはいったままです。
私もこの唐津街道ブログにしていることを伝え、アクセス先を教えました。
○○さん見たかな?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
唐津街道もあと35kmになりました。
次回は、唐津城のゴールまで寄り道をせず、完歩したいと思ってます。(笑)


※志登支石墓群  http://blog.goo.ne.jp/yokkun1949/e/f005e695158a9e8f55feb092fb71652b
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唐津街道を行く№13(生の松原~今宿)

2010-03-16 12:00:00 | 唐津街道
生の松原を抜けると、右手に博多湾が見えてきます。
この街道の中でも風光明媚なところです。
この岩場は、「長垂の含紅雲母(がんこううんも)ペグマタイト岩脈」と呼ばれ、
主に石英、長石、雲母からなる火成岩で巨晶花崗岩または鬼みかげともいいます。
このペグマタイト岩脈は、リチウム、セシウム、ウランなど珍しい70種類以上の
鉱物が入っています。この為、国の天然記念物に指定され、保全に努めましたが、
戦時中陸軍により採掘され、現在では美しい紫紅色を見ることは困難です。
今日は、大潮なんでしょうか、岩場では、ワカメ、ヒジキ、アサリを獲る人が
いました。

左側にはJR筑肥線が走っています。筑肥線は、姪浜から地下鉄と相互乗り入れ
しています。


街道は、長垂海水浴場に差し掛かりました。
この海水浴場は、私達が子供の頃、水がきれいな海水浴場として、市民の
皆様に愛されましたが、護岸工事などで今は海の家がなくなっています。
街道をそのまま真っ直ぐ行くとガソリンスタンドがあります。
そこから右手に入ると「今宿宿」です。
「今宿宿」は、前原宿から姪浜宿までが遠いということで新しくできた
宿場町です。昔は志摩郡の中心地として栄え、郡役場もおかれていました。
また、ここから海岸部に約1kmぐらい行った所の今山に黒田藩の米蔵があり、
糸島各地から年貢米が集められました。
享保年間(徳川吉宗)には、享保の飢饉がおこり、黒田藩は、この今山の
米蔵を開放しましたが、道には行き倒れなどで亡くなられた方もいたようです。
その犠牲者を祀ったのが「飢え人地蔵堂」です。


宿場の中央部に「二宮神社」があります。
この一帯が今宿宿の中心地でした。造り酒屋、瓦屋さんなどがありました。
今は、何も残っていません。
私事ですが、私の従兄の家もこのお宮のすぐ近くにあります。
昔は、何か商売でもしていたんでしょうか?
従兄といっても歳がかなり離れていて私の親父の2つ下でした。
亡くなる前に聞いておけばよかったかな・・・・




街道のはずれには「桜井道」の道標があります。
よく見てみると、「桜井神社」までの道のりが書いてあるようです。
「大明神・・・・・・」古くて読めません。

街道もここで国道202号線になります。
その国道を100mぐらい行った所に「馬つなぎ石」というのがあります。
糸島の方から物資を運ぶために馬を使っていたんでしょう。
その馬つなぎ石には、今宿のかるた愛好者が今宿の古いところに
カルタをかけて保存しています。

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唐津街道を行く№11(姪浜宿)

2010-03-16 09:30:00 | 唐津街道
今日(3月14日)唐津街道「姪浜宿~前原宿」まで約20km歩きました。

唐津街道も今日で5日目、当初の予定では、5日目には、ゴールの唐津城に
到着することにしていましたが、福岡市内に入り、寄り道が多く、予定が大幅に
狂いました。唐津城まであと55km、何とか6日目にはゴールしたいものです。

10時22分、前回ゴール地の地下鉄室見駅到着。

目の前には室見橋、この橋を渡ると私のホームグラウンドの西区です。(私、西区在住)
橋を渡るとすぐ右側に愛宕神社の鳥居が見えてきます。
愛宕神社は、イザナギの尊と天忍穂耳尊(アメノホシホミミ)を祀る鷲尾神社と
火産霊神、イザナミの尊を祀る愛宕神社が明治時代に合併してできました。
お正月には、沢山の参拝客が詰め掛けます。今では日本三大愛宕の一つに
上げられています。本殿はこの階段を登り、愛宕山の山頂にあります。
昔は、ロープウェイがあったそうですが、戦時中鉄製品供出でワイヤーロープなどを
軍に提供し、ロープウェイは、なくなりました。

この愛宕神社をまっすぐ約700mぐらい行くと、姪浜宿に到着します。


姪浜と言う地名は、神功皇后が新羅遠征から帰ってきて最初にこの浜に
上陸されました。その時水の中に落ち、着ていた下着(袙 あこめ)を濡らし
この浜で乾かしたので「あこめの浜」がなまって「姪ノ浜」→「姪浜」に
なりました。
姪浜宿は、海側が漁師の町、丘側が農家になっており、早良炭鉱が
あるころは、人口も多く、路面電車もあり、映画館も数軒ありました。
路面電車の終点には、食堂があり、子供の頃は、ここでうどんを食べるのが
楽しみでもありました。今では食堂跡にマンションが建っています。
街道沿いには私の従兄(歳がかなり離れていますけど)が八百屋を営んでいて
子供の頃、休みの時には、よく遊びに行っていました。
その地も今ではワンルームマンションになっています。



姪浜宿も最近は、街道の見直しがされ、まいづる味噌跡地を会所にし、
皆さんに街道を知ってもらおうと街道を使った町づくりが行われています。
3月27日(土)には、「見て歩き、食べ歩きガイドツアー」が開催されます。


また、姪浜宿で忘れてはならないのがお寺の数です。
調べてみますと11寺ありました。
姪浜宿は福岡城の城下の西のはずれに位置し、藩の有事の節は
お寺が陣営になっていました。
そういえば、東の端、蓮池にもお寺がたくさん会った気がします。

それと、この地には、神話で伊邪那岐尊が禊ぎをしたという
「筑紫の日向の小戸の橘の檍原」の候補地にもなっているそうです。




姪浜宿を先に進んでいきますと「生の松原」があります。
「生の松原」の地名は神功皇后が松の枝を逆さにさして戦勝を祈ったところ松の枝が根付き生き返った
という逆松の伝説にちなんで名付けられました。

この生の松原には「壱岐神社」があります。

祭神は壱岐直真根子(いきのあたりまねこ)を祀っています。
日本書紀によると武内宿禰(大和朝廷初期に活躍したという伝承上の人物。300歳まで生きたといわれている)
は、都を留守にしている間に反逆の罪を着せられました。壱岐直真根子は武内宿禰を助ける為に
身代わりとなって亡くなりました。やがて無実ということがわかりましたが壱岐直真根子が
自分の命を犠牲にしてまで武内宿禰につくしたことからここに祭神として祀られました。

またこの生の松原には「元寇防塁」があります。



13世紀にアジアからヨーロッパにまたがる巨大な帝国を作り上げたモンゴル(元)は5代目皇帝
フビライのときに日本に使者を送り通交を求めました。
日本がこれに応じなかった為文永11年(1274)10月元3万人の大軍は対馬、壱岐を襲ったあと
博多湾岸の今津、百道(ももち)、博多、箱崎などから上陸し日本軍と激しい戦闘を繰り広げた。
この時、国際交易都市博多の町は焦土と化しました。(文永の役)
鎌倉幕府は、元軍の再襲来に備え建治2年(1276)九州各地の御家人に命じて約半年間で博多湾岸の
東区香椎から西区今津までの約20kmに元寇防塁を築かせた。
この生の松原工区は肥後国が分担し、御家人達は所領田地1町につき1尺の割合で築造しました。
元寇防塁の構造は海側に高さ2.6m前後の石積みを行い陸側では土と砂を突き固めた通路を
設置するものです。
尚、弘安4年(1281)元の大軍は再び日本を攻めましたがこの元寇防塁や九州の御家人を中心とする
鎌倉武士の奮闘により上陸できませんでした。(弘安の役)      


(続く)
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