よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

八代妙見祭りへ(熊本県八代市)

2016-11-25 19:39:47 | JR九州ウオーキング

11/23は熊本・八代で行われた「妙見祭りウオーク」に参加しました。

「妙見祭り」は、九州三大祭りの一つで、九州南部を代表する祭礼行事として、約380年も続くお祭りです。神事行列では、神輿や笠鉾、獅子、亀蛇、花奴、木馬、神馬、飾馬など40の出し物が

八代神社(妙見宮)へお上りします。一番の人気者は「ガメ」と呼ばれる亀蛇(きだ)で、全長3m、幅2.5m、全体の重さが100kg以上もあります。八代駅前、八代神社近くの砥崎河原などでは、

各団体による演舞が行われます。

この妙見祭りは、今年登録される予定のユネスコ無形文化遺産「山・鉾・屋台」33件の一つに入っています。

新八代駅では、妙見祭りの「亀蛇(がめ)」が展示されていました。

    

9:50 八代駅に到着。駅前会場では、神幸行列が始まっていました。

  

人が多く身動きできない状態でしたが、妙見祭りの八代神社(妙見宮)へ向かいました。

   

途中、妙見祭の山車「菊慈童」に遭遇。

  

妙見宮は、1730年(享保15年)に書かれた『妙見宮実紀』によれば、795年(延暦14年)、横岳頂上に上宮を創祀。1160年(永暦元年)、中宮を建立。1186年(文治2年)に、後鳥羽天皇の勅願で、

検校散位(けんぎょうさんみ)大江朝臣隆房により下宮が創建された。1870年(明治3年)までは妙見宮と呼ばれた。妙見神とは、北極星・北斗七星の象徴である。神道と仏教の両部の宮寺で、

広く崇敬を受け、八代、下益城、芦北三郡の一の宮として栄えた。1871年(明治4年)、神仏分離令により、天之御中主神、国常立尊を祭神とし、社名を八代神社と改められ、県社となった。(ウィキペディアより抜粋)

今日はお祭りでお祓いを受ける方の行列が長く続いています。

   

砥崎河原会場は、12:30から開演開始ですが、すでに見物客の方が座って待っています。開演までまだ時間があるのでウオーキングコースを歩きます。

  

宗覚寺は、西南戦争で薩軍の本陣があった場所です。宗覚寺の先には、後醍醐天皇皇子「懐良(かねなが)親王」の墓陵があります。宮内庁の管轄です。

  

  

妙見中宮跡

   

水無川 川の水がきれいで初夏にはホタルが飛び交うそうです。

  

11時半。砥崎河原に着きました。12時半からの開演にはまだ時間がありますが、今の所、席も空いていますので開演までここで座って待つことにします。

12時15分。開会の挨拶です。最初は、獅子舞です。

  

  

 獅子の動画 https://youtu.be/cz0E-xW7ZGU    

それから「花奴」、「木馬」と続きます。

  

  

鉄砲は、甲子園でも活躍した「秀岳館高校運動部」の生徒です。

  

  

山車は、妙見宮に行く途中に出会った「菊慈堂」です。

  

神馬(馬追い)は八代高校OBの方です。

  

馬追いの動画  https://youtu.be/we5pacS4PCI    

出し物は全部で40ぐらいあるそうです。メインの「亀蛇」は、最後の方。見たかったのですが、そろそろ帰らないとゴール受付時間に間に合いません。

砥崎河原からゴールの新八代駅までは約5km。

  

新八代駅の手前に「八代よかとこ物産館」があります。ここのレストランには「トマトラーメン」があります。どんな味か食べてみたくなりました。

スープの色からして濃いめの味かなと思いましたが、あっさりしていて、美味しいです。スープまで飲んで完食しました。

ゴールの新八代駅には15時丁度に到着。15:40の新幹線さくらで博多に戻りました。

  

 

 

 

 

 

 

 


大興善寺の紅葉2016(佐賀県基山町)

2016-11-22 17:10:21 | 自然観察

11/21(月)今日も紅葉を求め、佐賀県基山町にある「大興善寺」に行ってきました。

この大興善寺は、11/27のJR九州ウオーキングのコースにも入っています。

大興善寺は、別名「つつじ寺」と呼ばれ、春には境内に沢山のツツジが咲き乱れます。

また、秋の紅葉も隠れたスポットです。

   

 

パンフみたいな構図をマネして撮ってみました。

  

  

入園料(500円)を払い中へ入ります。

  

  

ツツジもきれいですけど、紅葉も素晴らしいですね。ちょっと早い気もしますが・・・・・・・・

  

  

  

再び境内へ。

  

  

このあと。太宰府の「光明禅寺」に行ってきました。このお寺は、太宰府天満宮の横に位置し、石庭の紅葉が見所です。

  

  

 

石庭と紅葉の組み合わせもいいですね。

 


速報!福岡近辺の紅葉2016「九年庵」(佐賀県神埼市)

2016-11-18 04:48:58 | 自然観察

11/17(木)佐賀県神埼市にある「九年庵(くねんあん)」の紅葉。

九年庵・国の名勝指定(平成7年) 佐賀の大実業家、伊丹弥太郎が明治25年に造った別荘と明治33年から9年の歳月をかけて築いた6,800㎡の庭園。 別荘は入母屋葦葺の屋根に杉腰張りの土壁、

竹格子の連小窓や真竹を用いた周りの濡縁など、野趣に富む外観を持ち、材質、色感、意匠、構造などのすべてに、細心かつ充分な吟味が加えられ、茶室と書院の様式を折衷した近世和風の数奇屋建築です。

 庭園は広く、多くのツツジやモミジ類などが植栽されており、四季を通して美しい景色を描き出しています。また、庭一面に広がるコケはまるでじゅうたんを敷き詰めたかのように錯覚してしまいます。

 九年庵は平成7年2月に国の名勝の指定を受け、毎年春の新緑の時期と秋の紅葉の時期に一般公開をしています。(神埼市観光協会HPより)

秋の公開は、11/15~11/23までの9日間。

混雑するだろうと思い、朝8時に自宅を出発。9時九年庵に到着。然し、もうツアー客を乗せた貸切バスが何台も何台も駐車場に停まっていました。

美化協力金300円を払い入園します。

 

    

入ると、「紅」が眼に飛びこんできます。今日は天気もいいし、絶好の紅葉狩りです。

  

この九年庵のもみじは、約130本あるそうです。

  

  

  

  

  

  

  

  

隣の「仁比山公園」にも行ってきました。仁比山公園は、春は桜、秋は紅葉で有名です。

  

  

  

   

約1時間の紅葉見学でしたが、久しぶりに綺麗な紅葉を見ることが出来ました。

今度の週末は、紅葉見学の人で多いでしょうね。また、11/26 JR九州ウオーキングでは、神埼駅から九年庵までのウオーキングが企画されています。

 

 

 

 

  

 

 

 


速報!福岡近辺の紅葉2016 「雷山千如寺(らいざんせんにょじ)」(福岡県糸島市)

2016-11-17 18:41:43 | 自然観察

今年の紅葉はどうかな?と思い、福岡近辺の紅葉を探しに行ってきました。

11/16(水)雷山千如寺(福岡県糸島市)

我が家から千如寺までは、普通ですと、車で30分ぐらいです。午後1時に我が家を出発。

ところが千如寺まであと4~500mの所で渋滞に巻き込まれました。約30分ぐらいノロノロ運転でようやく千如寺に到着。

駐車場を見ると、団体客でしょうか、貸切バスがたくさん停まっています。入山料を払い境内へ。

境内にある「大楓」は、天然記念物に指定されています。

いろんな所からの写真をアップしましたのでご覧ください。

     

  

  

  

    

  

  

    

 

 

 


誕生日ウオーク「宗像大社~鐘崎漁港」(福岡県宗像市)

2016-11-16 11:10:26 | JR九州ウオーキング

11月12日は、私の〇〇歳の誕生日。この歳になると自分が今年いくつになるかわからなくなってしまいます。(笑)

さて、この日は、誕生日祝いを兼ね、JR九州ウオーキング「宗像大社大国宝展と菊花展、さつき松原を巡るウオーキング」に参加しました。

8:36 JR東郷駅スタート。

15分ぐらい歩くと右側に「いせきんぐ宗像」があります。何かケーキ屋さんみたいな名称ですので何かな?と思い中に入ると、弥生時代中期の遺跡「田熊石畑遺跡」です。

この遺跡が歴史公園になっています。

  

この遺跡は、宗像市内を流れる釣川の中流域に面する微高地上(標高12m)にいとなまれた弥生時代中期前半(紀元前2世紀)頃を中心とする集落遺跡です。

平成20年(2008)、宗像市教育委員会による発掘調査が行われた結果、日本の国の成り立ちを知るために重要な遺跡として平成22年2月22日に国史跡の指定を受け、

平成27年4月に宗像市田熊石畑遺跡歴史公園、愛称「いせきんぐ宗像」としてオープンしました。

遺跡からは、有力者の集団墓である区画墓(くかくぼ・埴丘墓)や貯蔵穴(ちょぞうけつ・地下式の穴蔵)とそれを守る溝をめぐらした環濠(かんごう)、倉庫と考えられる高床の掘立柱建物(ほったてばしらたてもの)、

堅穴住居などが見つかり、豊かな宗像の弥生文化があきらかになりました。

なかでも弥生人の権威を示す武器形青銅器が、わずか6基の木棺墓(もっかんぼ)から計15点出土し、北部九州でも有数の有力集団が眠る区画墓の一角であることがわかりました。

平成27年に世界文化遺産国内推進を受けた「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺跡群」の成立前夜に誕生した宗像人(むなかたびと)のルーツといえます。(観光パンフより抜粋)

宗像人のルーツというと、古代海人族として活躍した「胸形(宗像)一族」ではないでしょうか????

いせきんぐ宗像から約1時間で「宗像大社」に到着しました。

宗像大社は天照大神の三柱の御子神をおまつりしています。三女神のお名前は 田心姫神(たごりひめのかみ)、湍津姫神(たぎつひめのかみ)、 市杵島姫神(いちきしまひめのかみ)と申し上げ、

田心姫神は 沖津宮(おきつぐう)、湍津姫神は 中津宮(なかつぐう)、市杵島姫神は 辺津宮 (へつぐう)におまつりされており、この三宮を総称して「宗像大社」と申します。

ここ宗像の地は、中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にありました。 日本最古の歴史書といわれる「日本書紀」には、

「歴代天皇のまつりごとを助け、丁重な祭祀を受けられよ」との 神勅(しんちょく)(天照大神のお言葉)により、三女神がこの宗像の地に降りられ、おまつりされるようになったことが記されています。(宗像大社HPより)

沖津宮がここから約50kmの玄界灘に浮かぶ「沖ノ島」、中津宮が神湊から約6,5kmの海上の大島に鎮座しています。辺津宮がこの地宗像大社に鎮座しています。

宗像大社から見れば大島、沖ノ島まで一直線でつながっています。その直線の先が韓国です。

ここ宗像大社では、第二宮(沖津宮)、第三宮(中津宮)としてこれらのお宮をお祀りしています。

  

  

このあと、「高宮祭場」に向かいます。

宗像大社は「降臨の地」と伝えられ、沖ノ島と並び、宗像大社境内で最も神聖な場所の一つです。神籬(ひもろぎ)(樹木)を依代(よりしろ)としており、社殿が建立される以前の神社祭祀(庭上祭祀)を継承する

全国でも稀な静寂に抱かれた祈りの空間です。

  

三宮の中でも沖ノ島は、宗像大社の神職が交代でたった一人常駐勤務(10日間ごとの交代)し、今日も女人禁制や毎朝海に入っての禊(みそぎ)、一木一草一石たりとも持ち出せない、島で起こったことは口外しない

などの掟や禁忌によって厳重に守られている神聖な島です。

その沖ノ島では四世紀末から約六百年間にわたり国家規模の禁忌がおこなわれ、二十三ヵ所の禁忌跡が確認されるとともに八万点にも及ぶ神宝(すべて国宝)が出土しています。

また現在全国津々浦々の神社で行われている祭祀は、社殿で行われていますが、この沖ノ島の祭祀跡から天上より依代(磐坂、神籬)に神様を降臨願うという神社祭祀の原点が実証されています。

       

宗像大社では「菊花展」が開かれていました。

   

  

菊花展を見ていると珍しい菊も展示されています。

  

 

入口には、麻生副総理の曽祖父「麻生太吉氏」寄進の大鳥居があります。

  

宗像大社の横には、「海の道むなかた」があります。宗像大社にはもう何回も来ていますが、海の道むなかたの中に入るのは初めてです。

常設展示では、玄界灘を縦横無尽に活躍した宗像人の足跡をたどることができます。3Dシアターでは、世界遺産登録を目指す中心遺跡「沖ノ島」の神秘的な世界を音と映像でリアルな体験をすることができました。

   

宗像大社から約1時間で「道の駅むなかた」に到着。この道の駅は、2014年度九州道の駅お薦めランキングで見事第一位を獲得しています。

ただこの時間に行くとお目当ての品物はなくなっていると思い、パスしました。

道の駅むなかたを過ぎると「さつき松原」に入ります。遊歩道になっており、左側の海を見ながらのウオーキングです。

海岸線約5キロにわたり、樹齢200年の黒松林がゆるやかに弧を描いて続いています。海の青と白い砂が美しい海岸線は玄海国定公園に指定され、県内でも有数の景勝地として知られています。

伊勢の二見浜、日向の小戸浜と並び、日本三浜のひとつに数えられる保有林でもあります。1602年に黒田長政が植林を始めたといわれ、田畑の防風、防砂林として植えられました。

近年では、玄海さつき松原保存会を中心に、小中学生や老人クラブなども参加して、植林や下草刈りなど、市民一体となって、この美しい松原を守ろうとがんばっているそうです。

  

この海岸線を歩いていると本当に気持ちがいいです。大島には、私が若いころ丁度大島フェリーターミナルの工事が行われており、何回か行きました。

その年の忘年会もここ大島で行いました。お魚が美味しかった思い出があります。

さつき松原を過ぎると「鐘崎」の町に入りました。

  

12:19 鐘の岬活魚センターにゴールしました。コースマップでは、13kmと書いてありますが、万歩計などを見ると15kmぐらいです。

  

スタート時にいただいた活魚センターの商品券(@500X2)を使い、今晩の誕生日鍋パーティの為、天然の鯛を購入しました。

またおもてなしの「うどん」がサービスで出されました。

帰りは、ここから東郷駅まで無料のシャトルバスが用意されていました。

   

今日は、天気も良くまた景色も最高で素晴らしい誕生日ウオークになりました。

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

 

 

 

 

 


子供の頃の思い出「富山の薬売り」

2016-11-05 15:49:07 | 旅行

子供の頃の思い出と言えば、「越中富山の薬売り」でしょう。置き薬と言って薬を置いておき、使った分だけ代金を支払う・・・・・・

そして、私達子供へのお土産は、「紙風船」でした。確か、昭和30年ごろだったかな・・・・・・・

    

折角富山に来たのだから、富山の薬売りの歴史を見てみようと思いました

富山城は天文12年(1543)にこの地に築かれ、その後何人かの武将がこの城を支配していました。寛永16年(1639)富山藩が成立し、加賀より前田家が入城しました。

明治4年(1871)富山県が設置されるまでの約230年間、富山前田家が13代にわたりこの城を領有しました。

富山城の「千歳御門」は、富山藩10代藩主前田利保が隠居所として造営した千歳御殿の正門で嘉永2年(1849)に建築されました。

総欅造りの三間薬医門で屋根は切妻造本瓦葺、桁行6M,梁間1,8Mです。同一の建物としては「東大の赤門」として有名な加賀屋敷御守殿門ですので、いわば、東大の赤門の親戚です。

  

さて、話を戻します。富山藩第二代藩主前田正甫(まさとし)は、富山売薬の基礎を築いた人です。元禄3年(1690)、正甫が参勤交代で江戸城に登城した折、とある大名が激しい腹痛を訴えました。

そこで懐中に常備していた「反魂丹」をすすめた所、たちどころに治りました。その様子を見た諸大名は、「反魂丹」の効能に驚き、自分の領内での販売を求めるようになった為、正甫の命で諸国に

行商させたのが富山売薬の始まりです。正甫は、富山売薬を広めたお殿様として市民の間から親しまれています。

     

江戸時代の富山売薬は、富山藩の統制下にありました。全国に販路を広げ、売薬人たちは行商先の国・地域別に仲間組を作り、行商の人数を決めるとともに、示談と呼ばれる取り決めを定めて

お互いの利益の維持を図っていました。売薬で利益を得た町人はいましたが、利益を他の資本に投じることは禁じられていました。また行商人は、薬以外の物を扱うこと、旅先から商品を仕入れて

くること、旅先で居住することなども禁じられていました。

明治に入るとこれらの束縛が外れて商売が自由にできるようになり、売薬業者は、金融機関を始め、水力発電、鉄道、各種製造業など幅広く進出しました。

また、売薬業者自身も製薬会社を設立しました。その代表格が「廣貫堂」です。

富山市梅沢町には、「廣貫堂資料館」があります。この資料館では、歴史・文化的にも価値の高い古文書や当時の薬売りが使った珍しい品々を展示されています。

   

  

  

富山の薬売りの特徴は、「先用後利(せんようこうり)」という、品物を先に預けて使用してもらい使った分だけ代金を後から回収して利益とするという意味ですが、この顧客の利便性を考えた

販売方式は富山売薬を支える精神ともなっています。

富山の売薬さんは、柳行李を包んだ大きな風呂敷を背中に担いだ独特の井手達で全国を行商しました。旅立ちは、主に春秋の年に2回が標準で、この時期は出稼ぎから帰る時期、あるいは、収穫の

時期に当たり、各家々に現金収入があるころだからです。

先用後利の販売システムを支え、売薬さんの行商に最も重要なものが「懸場帳(かけばちょう)」。この帳面には、訪問した年月日、配置した薬の種類と数、売上金額、回収状況や家族構成、健康状態などが

記せられ、現代版「顧客管理台帳」なるものです。

明治以降、西洋医学や薬学が取り入れられると、和漢薬は一時壊滅の危機にさらされました。富山売薬は生き残りをかけ西洋医学の研究に取り組みました。

廣貫堂では、後継者の育成に力を入れ、明治26年(1893)、富山市も補助金300円を基に、薬業者の寄付により、最初の薬学校「共立薬学校」が設立されました。

この薬学校は、県立、官立を経て、富山医科薬科大学となり、その後統合により現在の富山大学薬学部となっています。

  

廣貫堂では、来館記念としてドリンク剤をいただきました。

    

続いて市内安養坊にある「富山市売薬資料館」に行ってきました。

   

館内は、撮影禁止の為、写真がありませんが、ここでは、富山売薬の歴史、また薬業出身の御三家「密田氏」の密田家土蔵も公開されています。

※富山薬業御三家:密田家、中田家、金岡家

密田家は、能登の出身で、寛文2年(1662)富山古寺町へ出て能登屋と称し、のちに売薬業を営みました。当主は代々林蔵を名乗っていました。6代林蔵は、富山売薬薩摩組の中心として活躍しました。

7代林蔵の時、金融業(質屋)に携わりました。9代林蔵は、越中売薬の近代化を企てて仲間と株式会社「廣貫堂」を設立しました。明治11年(1878)に富山第百二十三国立銀行の副頭取となり、

10代林蔵は富山貯蓄銀行を創立しました。また金岡又左衛門と協力して富山で初めて水力電気を起こした密田孝吉は、分家の長男でした。

中田家は、般若村茶ノ木(現砺波市)の出身と言われ、富山で初めて薬種店を開業しました。5代三郎右衛門が富山藩2代藩主正甫公の御用商人となり、妙薬の奇応丸や熊参丸を創りました。

6代清兵衛から代々清兵衛を名乗り、14代清兵衛が富山第百二十三国立銀行の副頭取になり、15代清兵衛は、密田家9代林蔵の5男徳次郎が中田家に入り襲名して家業を継ぎました。

彼は先代のあと、十二銀行(明治17年(1884)金沢の国立十二銀行と富山の第百十二銀行が合併)の頭取となり、昭和18年には統合した北陸銀行の初代頭取に就任しました。

長男の勇吉が16代清兵衛を襲名し北陸銀行の頭取に就任、4男の孝吉が富山県知事を務めました。

金岡家は、江戸末期より新庄町で、金剛寺屋と呼ばれる薬種屋を営んでいました。金岡又左衛門(初代)は、初め政界を目指しましたが、のちに密田孝吉の助力を得て、電力事業に打ち込み、

成功の後は、鉄道・紡績・育英事業などに力を注ぎました。2代目又左衛門は、経済界で活躍し、現在の富山第一銀行の基をつくりました。3代目又左衛門は、薬学を修め、製薬会社、金融機関の

トップとして活躍する傍ら、富山女子短期大学理事長を務めるなど教育界に足跡を残しました。現在金岡家の家業は3代又左衛門の係累により、富山国際大学、富山短期大学、

株式会社インテック、株式会社チューリップテレビ、富山第一銀行などの経営に幅広く活躍しています。(以上参考資料は、廣貫堂資料室、富山市売薬資料館、商工とやまH20年6月号から抜粋しました)

  

資料館から帰る時、お土産に「紙風船」をいただきました。

 

 


山国かかしワールド2016(大分県中津市山国町)

2016-11-02 18:12:01 | お祭り

昨年も行きましたが、今年も大分中津市山国町で「かかしワールド」が10/23から開かれました。

稲刈りを終えた田畑に山国町の人口を上回る数の案山子が展示されています。尚、ここの案山子は、顔が書いてありません。

【みにコスモス園】  三郷小学校の生徒と地元の方が作った案山子です。

  

  

中には名画を思わせる作品が・・・・・・・

  

【子供サミット】 「手をつなごう世界の子供たち」というテーマで世界各地の子供の姿が描かれています。中には、ノーベル平和賞マララ・ユスフザイさんの姿もあります。

   

   

【あざみ村】 「耶馬溪鉄道沿線」

耶馬溪鉄道は、かつて大分交通が中津駅から山国町守実(もりざね)温泉まで営業していた私鉄です。昭和50年(1975)廃止されました。

その沿線風景を案山子にしています。なかなか面白いです。

 

  

 

  

【道の駅やまくに】

   

 

【つや姫村】 「時計が止まって50年」

ここは、毎年面白い案山子が展示されています。

  

  

  

   

 

  

 

  

  

【駅前ランド】

 

  

  

 

【ひらおの村】 テーマは、「昭和の大家族」

  

  

  

【こいこい村】  農村風景

  

  

  

 【小屋川ランド】 テーマ「なんでんかんでん」(なんでもかんでも)

   

 

特殊なものとしては、明治19年(1886年)九州で初めての献体解剖がこの山国町で行われたことを案山子で表現していました。

  

    

【猿飛村】 テーマ「こどもたち」

  

  

この猿飛には、国指定天然記念物の「猿飛甌穴(おうけつ)群」があります。 

山国川の清流と河床一帯に広がる変朽安山岩、小さな石ころの三位一体で生まれた自然の造形物。長い年月をかけ、自然の渓流が造りあげた大小無数の甌穴が峡底に広がっています。

「猿飛」という名前は、その昔、山猿が現れて岩から岩を飛び回っていたことから名付けられました。国指定天然記念物。下流に名勝「魔林峡」や「念仏橋」があります。

紅葉祭りがあるそうですが、紅葉には、まだ早い様です。

  

 

 

 【毛谷村】  最後は毛谷村です。テーマは「昔話」。

  

  

 

  

山国町の案山子を見て廻りましたが、やはり人の数よりも案山子の数の方が多い様でした。

然し、毎年毎年面白い作品があり、目を楽しませていただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


黒部立山アルペンルートの紅葉

2016-11-01 16:47:13 | 旅行

10/24(月) 氷見でのキトキトウオーキングのあと、黒部立山の紅葉が見たく富山市に向かいました。

紅葉の時期でもありますし、立山駅に向かいホテルを6時に出発。立山駅には6:50到着。

   

立山駅は、標高475m。これから室堂の2450mを通り黒部ダム1455mまで約2時間かけて行きます。

  

  

  

   

   

  

午前9時黒部湖到着。

  

黒部ダムは、その建設は世紀の大事業として語り継がれ、中でも破砕帯との格闘は石原裕次郎主演の映画「黒部の太陽」に描かれた事でも有名です。

昭和31年から始まったダム建設には当時の金額で513億の巨費が投じられ、延べ1,000万人もの人手により、実に7年の歳月を経て完成しました。(黒部ダムHPより)

   

人造湖である「黒部湖」には、真っ赤な紅葉が見られました。放水ショーは、先週で終わっていて見ることができませんでした。

  

朝が早かったので空気も澄んで、正に快晴の天気、立山連峰の山々が綺麗に見えます。

レストハウスでは、黒部ダムカレーをいただきました。御飯がダムの形をしています。

   

観光客の方が扇沢の方から来られました。ども外国の方が多いようです。

これから立山駅に戻りますが、途中の光景を見るため、ゆっくり戻りたいと思います。

黒部平】  左手に遠く鹿島槍ヶ岳が見えます。

【室堂】  室堂(むろどう)とは、修験者が宿泊したり祈祷を行ったりする堂であり、山岳信仰や神奈備がある神体山では建立されることが多い。またはそこから派生した地名です。

ちょっと室堂内を探索したいと思います。

     

立山玉殿の湧水は、雄山直下の地下水で、立山トンネル開通と共にその一部が湧出したものです。室堂平には立山玉殿の湧水給水場があり、多くの登山客、観光客に愛飲されています。

また、全国名水百選にも選ばれました。標高2450mでの湧水は国内に例が無く、「立山玉殿の湧水」は日本国内で市販されている水の中では一番標高の高い場所(室堂平、標高2450m)で採水された水です。

   

ターミナル内に入ると「さらさら汁」というものが販売されていました。天正12年(1584)厳冬。戦国武将佐々成政(富山城主)が敢行した「立山ザラ峠越え」に由来した地元料理を現代風にアレンジしたそうです。

中には、白玉団子、つくね、などが入っていて醤油味でした。

  

雄大な山々を身近で見るのは、生まれて初めての経験です。

  

  

ミクリガ池】は、立山火山の水蒸気爆発によって出来た凹地に水がたまった池です。プランクトンなどはいますが、魚はいない貧栄養型の湖沼です。

みくりは、御厨と書き神様の食物を調理する所です。

素晴らしい光景ですね。

  

先を歩くと「みくりが池温泉」がありました。ここは、日本で一番の高所にある温泉です。あたりには地獄谷からの硫黄の匂いが立ち込めています。

タオルも持ってないのでどうしようかと思い、フロントに聞きましたらタオルだけ売っていました。

浴槽は2つあり、右の浴槽は少し熱めの湯です。熱いお湯はあまり好きではありませんが、折角ですので入りましたが、3分持ちませんでした。(笑)

然し、本当にいいお湯でした。時間があればもう少し入りたかったのですが・・・・・・・・

  

入湯記念にコースターをいただきました。

  

立山の地獄谷は、今でも火山系のガスが発生しています。散策路の脇には立ち入り禁止のロープが張られていました。

    

山崎圏谷(カール)】は、氷河によって山腹が削られて出来たものでカール(圏谷)と呼ばれています。

  

黒部立山アルペンルートは、初めて行きましたが、ホント素晴らしい所です。今から雪の季節になりますがこのあたりもたくさんの雪が積もるでしょう。

室堂からバスで美女平へ、美女平からケーブルカーで立山駅に戻ってきました。

今日は、朝6時前から行動を起こしましたが、早く行って正解でした。