よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年10月オールジャパンカップ達成。





山陽道(西国街道)を歩く(吉備津~岡山駅)

2013-12-30 10:07:15 | 山陽道(西国街道)を歩く

12/23  7:30倉敷のホテルを出て倉敷美観地区を散策。1時間ほどでホテルに帰りチェックアウトし倉敷駅へ向かう。

山陽本線~吉備線に乗り吉備津駅9:42到着。

 岡山のことを「備前」備中」「備後」と大まかに3つに分けられていますが、これは昔岡山が吉備(黍)の国だったからです。

中央に吉備津神社がある所は、備中、それから西(一部広島・福山含む)を備後、東を備前と呼んでいます。

それぞれ吉備津神社をお祀りしています。

    

吉備津神社というと何と言っても「桃太郎伝説」ですね。この桃太郎伝説は、日本でも何か所かにありますが、吉備の国の伝説を紹介します。

  その昔、吉備の国に「温羅(うら)」という異国の王子が住みつき悪行の限りを尽くして人々に恐れられた。それを退治しにきたのが「吉備津彦命」。

温羅は鬼ノ城に籠り、吉備津彦命は吉備の中山に陣を張った。吉備津彦命の放った矢は温羅の投げた岩とぶつかっては落ち、なかなか勝負はつかない。

そこで吉備津彦命は、一度に2本の矢を射て1本を見事温羅の目に命中させた。

温羅は川を血潮で真っ赤に染めながら鯉に化けて逃げる。吉備津彦命は、鵜になってこれを追いかけ退治した。

駅から降り神社の方に歩いていると長い松並木があります。「吉備津の松並木」。まっすぐ歩くと「吉備津神社」に着きます。

吉備津神社の前には、昭和初期の「犬養 毅」元首相の銅像が建っています。歴史で習いましたがあの5.15事件で暗殺されました。犬養元首相はこの近くの庭瀬村のご出身だそうです。

また、桃太郎に出てくる「犬」(犬養健命)の遠祖にあたるそうです。

      

    

吉備津神社は、「鳴釜神事」で有名ですが、これは吉備津彦命に退治された温羅は命の夢枕に現れて「吉備津神社の竈(かまど)に埋めてくれ、その代わりに釜を鳴らして吉凶を告げるから」と言ったそうです。

これが「鳴釜神事」の始まりだそうです。釜の鳴動の音の大小により吉凶福禍を卜うそうです。

吉備津神社には本殿までの398mの長い回廊があります。本殿は「比翼入母屋造り」です。

    

    

再び街道に戻ってきました。「真金の一里塚」は国道との合流点にありました。またその先には、「国境石」があります。ここから「備前の国」です。

      

街道は国道に沿っていますが、この国道は車の行き来が激しくおまけに歩道がなく、大型車が来ると立ち止まって通過するのを待っている状態です。

五軒屋のカーブした所に「古い道標」があります。よく見ると「右みち おか山、左みち かな川津山」と書かれています。また、小松橋の所には「指さし道標」があります。

「岡山へ2里、高梁へ10里」。その先が「吉備津彦神社」です。

       

吉備津彦神社」は大化の改新を経て吉備国が備前、備中、備後に分割ののち備前一宮として崇拝されています。

境内には、「平安杉」や「安政の大燈籠」などがあります。

安政の大燈籠は6段造り、高さ11m、笠石は八畳敷で文政13年、安政4年にわたり「天下泰平」「万民豊楽」「国家安全」「五穀豊穣」を念願して奉納されました。

       

         

街道に戻ります。笹瀬川にかかる矢板大橋を渡りすぐ左折します。この辺国道180号線で車が多いです。左折すると旧道に入ります。この辺りが「矢板宿」。

デイサービスの所に「矢板本陣」の碑が建っていました。ですが矢板宿の説明文も何もありません。先を歩くと「笑塚」があります。これもどういう意味か解りませんでした。

笑塚の向えには「北向八幡宮」があります。北向きに建てられたからその名がついたのでしょうか?

     

街道は谷万成の所で国道180号線と合流します。岡山市街はもうすぐです。酒屋さんの所から斜め左に入ります。

岡山元標があり更に先に進むと「国 神社」があります。見ると長い階段が・・・・・・思い切って登ることにしました。本殿までの階段は159段。やはり途中で休憩しないと登れませんね。

この国神社には珍しい狛犬があります。ちょうど階段の真ん中に鬼を足で踏んでいる狛犬です。この神社の鳥居と階段は元禄15年につくられたそうです。

       

 国道180号線との合流する前に「京橋ちか道」の石碑があります。街道はこの先の「奉還町西口」の信号を直進します。

     

奉還町商店街」は

いまを去ること100余年、明治維新あり。廃藩置県により失職した池田藩の武士たちが手にした奉還金の使い道は、なんと自らの手で商売を始めることだった。
奉還町で最初に店を出したのは、奉還金にちなんで『奉還モチ』という餅を売り出した餅屋らしく、その後も奉還金を手にしたリストラ武士たちが次々と移住。
商いの素人たちが奉還町に集まりうどん屋やら荒物屋やら次々開店、世にも珍しい士族ばかりの商店街を出現させた。
初めは武士が出店したということでもの珍しさも手伝ってか結構繁盛していたらしいが、なにぶん商売のイロハも分からない。
頭の下げ方も分からない。刀をソロバンに代えてなれぬ手つきで弾いてみても毎月赤字続き。偉そうな物言いの武家商法でお客さんが腹を立てて帰ることもしばしば。
あまりにも売れないので材料費・手間賃なしで売ってみたりと笑えぬエピソードも多々。
ほとんどの店は撤退を余儀なくされた。現代に残る、武士の退職金である奉還金を資本に商売を始めた店の生き残りは『杉山種苗』ただ一軒。
他は戦後に開店した店がほとんどである。(奉還町商店街HPより)
 
商店街を歩いているとお寿司屋さんの店頭で「塩サバ定食」の看板がありました。私、塩サバには目がないものですぐ店の中に入りました。
焼き加減もよく大変おいしくいただきました。店主の方が私たちの格好を見て山陽道を歩くならこれをあげようといって「旧山陽道昔話」のパンフをいただきました。
街道歩きの参考にさせていただきます。
 
奉還町を抜けると「岡山駅西口に到着しました。時間は2:00.今日はここでゴールとします。
帰りの新幹線まで時間がありましたので路面電車に乗り岡山城、後楽園を散策しました。
    
 
 
今日12/23のGPS
 
 
12.21~23までのGPS
 
 
次回は、黒田官兵衛の祖父の里「長船福岡」を訪ねたいと思っています。
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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山陽道(西国街道)を歩く(清音~吉備津)

2013-12-29 19:19:18 | 山陽道(西国街道)を歩く

12/22  倉敷より8:08の伯備線で前日ゴール地清音駅へ。清音8:15着。

今日は街道歩きの前に横溝正史が戦時中疎開していた真備町岡田・金田一耕助の誕生地へ向かう。(12/25金田一耕助の誕生地に行ってきました。参照)

岡田から戻った時は、もう10:30近くなっていました。川辺橋を渡り高梁川に沿って歩き途中ワタナベ工業の所から右折するのですがどうも道を間違えたみたいです。

途中、町の人に尋ねると曲がる所を間違えたみたいです。地図を見ながらようやく山陽道に戻りました。2kmぐらいロスしました。

清音小学校近くに「藤原為定 宝篋(ほうきょう)印塔」があります。塔を建てた藤原為定という人物についてははっきりしたことが分っていません。

この塔は石灰岩を使用しており、相輪と宝殊がなくなっていますが嘉歴3年(1328)の銘文が残っています。(案内文より)

この近くに「軽部神社」あります。近くの方に場所を教えて頂き神社に行ってきました。清音小学校から約1km強あったでしょうか?

歩いていると「福山」が見えてきます。これが「太平記」に出てくる「福山の合戦跡」です。標高は300mぐらいで手軽に上れる山だそうです。元旦の初日の出を見にたくさんの方が来られるそうです。

    

 

軽部神社」は、別名「おっぱい神社」と呼ばれています。

延宝六年(1678)建立。昔、境内に垂乳根の桜と呼ばれる、枝垂れ桜があったことから、乳神様として庶民の信仰を集めました。
 安産や母乳の出を願うため乳房を型取った手作りの絵馬が数多く奉納されており、女性達の信仰を集めています。(総社市案内文より)

本殿の中を覗くとたくさんのおっぱいの絵馬があります。見ているとなんだか恥ずかしくなってきます。(笑)

    

時刻は12時近くになってきました。軽部神社から引き返し再び山陽道に戻ります。

山田池から右折すると「山手」に入ります。山手に入って一番びっくりしたことは、案内板の少ないこの山陽道でたくさんの街道案内板があることです。

街道歩く者としては本当に助かります。

    

先を進むと「山手の一里塚」があります。左、やかげ、右、おかやま。この一里塚に一里松と呼ばれ親しまれてきた大松がありましたが、昭和30年ごろ枯れたそうです。

     

吉備考古館」というのが右側にあります。今回はパスしましたが、ここには縄文土器、弥生土器、陶棺、石斧などの出土品が展示されているそうです。

総社市山手支所前に着きました。支所前には「祈り」のオブジェが・・・・・・山手村が平成17年に総社市に合併したときの記念に陶芸家児島塊太郎さんが造られました。

時刻は1時半近くになりました。お腹も減ってきましたので近くの中華そばのお店へ。私は早く食べてこの裏にある「作山(つくりやま)古墳」へ。

         

     

作山古墳は、前方後円墳で全長285m、後円部174m、高さ24m、前方部長さ110m、同幅174mの規模で全国的に見て第9位、岡山県内では全長350mの造山(つくりやま)古墳に次いで2番目です。

5世紀中ごろの築造で被葬者が吉備に君臨した大首長であることが想像されます。

再び街道に戻りました。

                        

右側に「角力取山(すもうとりやま)古墳」というのがあります。面白い名前なので行ってみました。角力取山古墳の向いにあるのが「ギリギリ山古墳

     

「角力取山古墳」は、古墳時代中期5世紀頃、沖積地に築かれた全国でも珍しい方型古墳(高さ7m、南北30m、東西37m)でかつての地域の支配者であった豪族の墓陵といわれています。

古くから古墳の西側に土俵を設け、氏神御崎神社の秋祭り最終日に奉納角力が行われ、戦前まで続いたことから「角力取山」と呼ばれています。

古墳の上にある「大松」は高さ20m、目通り周囲5m、樹齢約400年で昭和5~6年ごろまでは4本の巨木がありましたが半世紀の間に3本が枯れて老松1本になった。(以上案内板より)

また、この先には「宿寺山古墳」もありました。このあたり一帯5~6世紀にかけての古墳がたくさんあるようです。

     

宿」の地区に入ってきました。その名の通りこの辺りは宿場町として栄えていました。三宅酒造は、明治時代の酒造機具、酒造りの模様が展示されているそうです。

備中国分寺」が左側に見えてきました。備中国分寺は、2年前の瀬戸内倉敷ツーデーマーチで一度訪れていますが、何度見ても飽きませんね。

   

「備中国分寺」は国分尼寺とともに鎮護国家を祈るために天平13年(741)に聖武天皇の勅願によって建てられた宮寺です。

寺域は東西約160m、南北約180m、周囲には幅1,2m~1.3mの築地土塀がめぐらされており南門、中門、金堂、講堂、塔などの伽藍が配置されていました。

中世には廃寺となり、その後江戸時代中期に至って日照山国分寺として再興されました。

    

 更に街道を進むと岡山市に入りました。「いなり道」という道標があります。その先には「日時計」が・・・・・

          

造山(つくりやま)古墳」駐車場に着きました。先ほどの古墳も作山古墳でしたが、地元の方は、前者を「さくやま」後者を「ぞうざん」と呼んで分けているそうです。

造山古墳は、前方後円墳で5世紀初頭の築造、全長360mは岡山県下で1番、全国でも第4番の規模です。その規模から被葬者は畿内政権と肩を並べるほどの権力をもった

吉備の大王の墓と想像されています。古墳は一般公開されています。

         

矢部地区に入ってきました。ここからはまた倉敷市になります。

寶泉寺の横に「鯉喰神社」があります。何か面白い名前ですね。由来を見てみますと

吉備の国平定のため吉備津彦命(きびつひこのみこと)が来られた時、この地方の温羅(うら)が村人たちを苦しめていた。

戦を行ったがなかなか勝負がつかない。その時天より声がし、命がそれに従うと温羅はついに矢尽き刀折て自分の血で川へ鯉となって逃れた。

すぐ命は鵜となり鯉に姿を変えた温羅をこの場所で捕食した。それを祀るため村人たちはここへ「鯉喰神社」を建立した。

 

              

足守川に差し掛かりました。この橋を渡るとまた岡山市になります。

橋を渡って右の方にいくと「明治天皇惣爪御立所跡」という石碑が建っています。そこから下ると惣爪の説明がありました。

                   

       

惣爪塔跡」古来「石の釜」と呼ばれている、塔の中柱の礎石(心硬)である。長径2m、短径1,5mで上部には直径16cmの円孔をうがち更にその底に子孔があり仏舎利を納めてあったもの。

奈良時代前期この硬石の上に建っていた塔のほか、金堂、講堂、などの建物が並び一大伽藍が営まれていたことが想定される。

 

惣爪地区を過ぎしばらく歩くと「板倉」の信号があります。ここが「板倉宿」です。

      

鯉山コミュニティハウスの所が「板倉宿本陣」になります。ここには板倉宿の案内看板が立っています。

    

板倉宿は、岡山城下町の西部、東は西辛川村、南は宮内村、西は加茂村、北は立田村と接している。村内を東西に走っている旧山陽道から、松山往来が北西へ、庭瀬への道が南に分かれている交通の要地で、

近世山陽道の宿場であった。「和名抄」には賀陽郡板倉郷と記されており、その郷名が村名になったものと思われる。
 寿永2年(1183)木曽義仲の軍勢を迎え撃って敗れ、板倉川の川辺で自刃した妹尾兼康(平安物語)の墓がいまも村内に残されている。「寛永備中国絵図」では、

高885石余、うち725石余、庭瀬藩戸川氏領、160石、吉備津神社領。枝村として杉尾を記している。
 板倉宿は、備前国との国境近くにあり、隣接する宿場は東に岡山宿、西に川辺宿(現、吉備郡真備町)がある。寛文~延宝年間(1661~81)宮内村にあった本陣(中田家)を

板倉村の東方(ひがしかた)家に移して造られた宿駅である。
 「筑紫紀行」に「板倉宿町屋七、八町ありて茶屋・宿屋多し例の芸子(げいこ)・遊女ありとぞ」とあるように、江戸末期ごろは、隣の宮内とともに歓楽街としても栄えたようである。

文化3年(1806)の「旅宿軒数書上」には本陣は1軒で間数8間、畳数99畳。脇本陣は1軒で間数5間、畳数41畳。宿になれる家70軒、うち間口が2間の家53、3間の家10軒、4間の家6軒、5間の家1軒、

また宿内総家数は252戸。うち板倉184戸、宮内68戸と記している(「吉備郡誌」)。板倉宿が繁栄したのは、吉備津神社への参拝者が多かったほか、

宿場の位置が山陽道と松山往来の分かれ道の起点(真金十字路)にあり、南に行けば庭瀬陣屋町があるという交通の要地であったからである。
 宿場の東端に真金一里塚(国指定史跡)がある。道を挟んで南北一対の塚があり、北塚に松、南塚にエノキが植えてあった。現在も、塚から西にかけての地域に宿場町の面影を残している。

宿場の名物にアメがあったが、これが吉備団子のもとと考えられる。
 明治8年(1875)宮内村・川入村と合併して真金村となった。川入村は同14年分村した。同37年中国鉄道吉備線が開通し、真金駅が設置された。

現在のJR吉備線吉備津駅である。真金村は昭和4年(1929)町制をしき、同35年高松町と合併、同46年岡山市に入った。いまも昔の板倉宿場町の面影を残しており、

吉備津駅は、宿場見物の観光客や吉備津神社の参拝者でにぎわっている。   (岡山市HPより)

板倉宿を過ぎるとJR吉備線の踏切があります。街道はこれを渡るのですが今日はこの吉備津駅でゴールになりますので渡らずまっすぐ行きました。

   吉備津駅16:36着。

本日(12/22)のGPS

 

 

 

 

 

             

 

 

 

 

 

 

 

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山陽道(西国街道)を歩く(小田~清音駅)

2013-12-28 15:50:52 | 山陽道(西国街道)を歩く

)に12月はいろいろ予定があり街道歩きは出来ないかな?と思っていましたら22日の予定が中止となり、急遽山陽道を歩くことにしました。

今回は夜行バスで倉敷に行きました。福岡発21:50分、倉敷には翌日6:15分に着きました。

倉敷駅から伯備線で清音駅へ。清音駅から井原鉄道で前回ゴール地「小田」まで戻りました。小田着8:05分。

倉敷駅では、寝台特急「サンライズ出雲」を見ました。洒落たデザインの電車でした。

     

小田駅を降りると気温は2度ぐらいでしょうか?、寒いです。駐車している車のガラスにが凍っていました。

小田駅前のコンビニで朝食用の弁当を食べさあ街道歩きのスタートです。

駅前の案内板では、小田川の渡し跡というように書いてあり、小田川の方に向かうがそれらしきものがない。多分この辺りではないかと写真に撮りました。

クリーニング屋さんの所で国道486号線と合流。旧山陽道はしばらく国道を歩く。途中「備中国浅海村官蛇下座所跡」の石碑があったが、多分参勤交代の時ここで下座したということでしょうか?

折角設置されたのなら説明文も欲しかった。この下座所跡は、このあとも何回か出てきました。

      

国道を歩いているとホームセンター、スーパーなどが立ち並んでいます。道路には矢掛宿、星の里、美星(びせい)町の看板が立っています。

岡山京橋の元標は消防署の出張所の所にありました。

          

街道は東川面の所から左折、そして右折する。国道の下の所に「常夜灯」がある。この辺りが「大曲」でしょうか、案内板を見逃してしまいました。

高岡製材所の所から再び国道に合流。そして矢掛川から歩道用の栄橋を渡ります。この栄橋には「高通川徒渡り」の碑が建っています。

栄橋は幅4,5m、長さ70mの軽量鉄骨橋で現在は使用されないリベット鋲が使用されています。栄橋を渡ると「矢掛宿」に入ります。

     

    

矢掛町は、江戸時代に旧山陽道の第18番目の宿場町として栄え、参勤交代の大名が宿泊した本陣と脇本陣がともに残されています。両方が国の重要文化財であるのは全国でもここだけです。
矢掛が山陽道の宿場としてその名を見せるのは室町時代になってからです。元禄2年に作成された古文書によると東西800mの町並みを形成しており、北側に95軒、南側に102軒のt「地子」(宅地税)を
免除された屋敷があったそうです。
また、山陽道に並行する小田川に合流する星田川、美山川の結節点で豊かな水により水運も開け高瀬舟も往来する交通の要衝でもありました。
やかげ郷土美術館には、高さ16mの水見櫓もあります。
 
矢掛宿本陣の「石井家住宅は、大庄屋で酒造業も営んでいました。北向きの屋敷で間口20間(36m)、広さ約1000坪のこの町一番の規模です。
本陣施設としての「御成門」「玄関」「御座敷」をはじめ主屋の主要建物は江戸時代後期(天保~安政)にかけて再建されたものです。
嘉永6年(1853)には、薩摩から篤姫様が宿泊されています。この宿場で篤姫様は、「柚餅子(ゆべし)」を召し上がれたそうです。
私達も篤姫様に習いこの「柚餅子」を買っていただきました。美味しかったです。
 
 
 
    
 

      

石井家住宅の前はお醤油屋さん。明治42年に本家である本陣石井家から分家し本家の副業の醤油部門を引き継いで開業しました。店に入ると主人のお母さんでしょうか、手作業で醤油の栓付けをされていました。

私達は旅の途中ですが思わず醤油を買ってしましました。

       

やかげ郷土美術館の前に「矢掛観光協会」があります。中に入ってみると、皆さん食事をされていて一斉に私達の方を振り返られました。そうでしょうね、Dバックには風車、沢山のバッチ、人形などをつけていますので

「怪しいやつ?」と思われたかもしれませんね。(笑)。 実は博多から来て今、山陽道を京都まで歩いています。と伝えると協会の会長さん並びに副会長さんが「矢掛」のことを詳しく説明していただきました。

帰りには「矢掛」のストラップまでいただきました。本当に有難うございました。お陰様で旅のいい思い出になりました。

観光協会をあとにして山陽道を歩きます。

    

矢掛宿脇本陣「高草家」です。

    

 「脇本陣高草家」は宝暦6年(1756)平田屋から分家して東平田屋と称し寛政期には庭瀬藩の掛屋や藩札所元方を務める傍ら大庄屋も兼ねていた。屋敷間口は17間(約34m)、600坪の敷地です。

白壁や張瓦の堅固な建築が特徴です。裏口に通じる小路は、なまこ壁の美しさを感じることができます。

矢掛町では毎年11月第2日曜日に宿場まつりがおこなわれており、約80人の絢爛豪華な大名行列が圧巻です。

矢掛の一里塚は宿場の終わりの方にありました。その先の和田川を渡ります。

             

橋を渡ると右側に大きな石碑が見えてきます。なんだろうと近寄ってみると「郷社」と書かれています。

これは、矢掛神社が郷社になった時の記念碑でしょうか?矢掛神社は大化元年創立。本殿の天井、壁には江戸時代を含む大きな絵馬が多数残っています。

     

矢掛神社を下り旧街道を行くと国道と合流。ここに西国道と玉島道の追分があります。行部の道標があります。右玉しま道、左大坂道。

玉島は、江戸時代より物資の集積地として栄えた港町で備中松山藩や岡山藩の外港としての機能を備えていた。

しばらく進むと街道は左折。ここから国道と並行している。井原鉄道のガードを潜ると「吉備公累代の墓」があります。それから少し上った所には「下道公の墓」があります。

       

「 吉備真備」は持統9年(695)に真備町で生まれ旧氏名を下道朝臣(しもつみちあそみ)。天平18年(746)に吉備朝臣真備に改称。

吉備真備に関しては、たくさんのことがありますので全部書くことができません。ただ遣唐学問使で中国に渡り18年間唐で凄したくさんの書物を持ち帰ってきた。

また、唐から鑑真を連れてきたことなどが上げられます。

九州との係わりは、太宰少弐になったこと、新羅の侵攻に備え福岡に怡土城を造ったことなどかな?

更に街道を歩きます。国道と合流する所に「吉備大臣館」があります。その入り口には「筆塚」が。

筆塚は、矢掛町出身の書家「田中塊堂」さんが中心となって真備公の遺徳を顕彰するために建立されました。

    

 この一帯は、吉備公の居館跡と推定され「吉備真備公園」となっています。この公園は日本歴史公園百選にもえらばれているそうです。

旧山陽道の北側の平地三万平方メートルは、古代の布目瓦を出土すること等により古来から「壇の内」と呼ばれ、正二位右大臣吉備真備公の居館跡と伝承され、遺跡に指定されています。

 遣唐留学生の吉備公が天平七年(七三五)当時世界最高といわれた貴重な文物をもって帰国して以来一、二五〇年になるのを記念して、県民有志により中国西安市へ日中友交のしるしの記念碑を建立しました。

これを承けて吉備公の地元矢掛町ではこの館址に記念公園を建設いたしました。

 公園は八〇メートルの石敷参道の正面に、上下二段になった基壇を造り、古代中国で皇帝が五穀豊穣を祈った天壇の形式とし、上壇中央に総高六・四五メートルの吉備公の銅像を安置し、

周囲に絵巻石屏風、大碁盤、日時計を配置し、広場に館址亭、産湯の井戸を整備しました。また背後の林地を古代の丘として前方後円墳を形どった広場に環状列石風にオブジェを建て、

四方を守る方位石、古代風俗を示す風物石、吉備公の功績を示す歴史石を配置、周囲は森林浴を満喫できる憩いの場とし、県下唯一の古代オブジェ公園を造成いたしました。(説明文より)

    

公園内を歩いていると「囲碁発祥の地」の石碑が建っていました。吉備公が在唐中、唐の囲碁名人と対局し知恵を絞って勝った説話がありこれが日本の著作に現れる囲碁に関する最初の説話であることから

吉備公が日本における囲碁の開祖となったそうです。

時間も1時30分になりました。この公園内のうどんが美味しいと先ほどの矢掛観光協会の方から聞いていたので早速注文してみました。おいしかったです。

吉備公園を出るとすぐ「一里塚」がありました。もうこの先は倉敷市になります。

      

 倉敷市に入りました。ここは倉敷市真備(まび)町。吉備真備は「まきび」ですけど、ここの地名は「まび」です。井原鉄道の駅も「きびのまきび駅」。

歩いていると「赤鳥居」というバス停がありました。見ると左の方に赤い大きな鳥居が・・・・・・。写真を撮って拡大してみますと「穴門山神社」となっています。ここから徒歩で約2時間、山の中にあるそうです。

     

箭田(やだ)西口の信号の先、左側に「まきび公園」があります。ここにも吉備真備を祀った公園があります。

             

      

然し、考えてみれば、通信網のまだ発達していない奈良時代に岡山の地から歴史上の人物になった「吉備真備」はどのような過程で奈良の都に認められるようになったのでしょうか?

先を急ぎます。市役所支所の前を通ると前方に大きなモダンな建物があります。ここは、「真備図書館」で2000年に完成したそうです。併設して「たけのこ天文台」もあります。

タケノコは、真備町の特産品です。因みに真備町は、2005年8月に倉敷市と合併したそうです。

街道は「川辺宿」に入りました。交通量も多くおまけに歩道幅が狭く歩きにくいです。所々に「金田一耕助誕生の地」の看板があります。作家横溝正史さんは戦時中川辺から2kmぐらい入った岡田に疎開し、

この地で本陣殺人事件、八つ墓村、獄門島などの作品を書きました。

川辺交番南口から旧道へ。ここは交通量も少なく静かな街並みです。

     

「源福寺」に来ました。この源福寺の入り口がわからずウロウロしていましたら近くの方が教えてくれました。街道を歩いていると道がわからなくなったりしますのですぐ聞いたりするのですが

特に岡山の方は、親切に教えて頂けます。ありがたいです。

   

源福寺の創建は延徳2年(1490)、榎本梅屋が英厳和尚(華光寺2世)を招いて開いたのが始まりとされます。江戸時代に入ると岡田藩主伊東家歴代の菩提寺として庇護され

岡田藩6代藩主伊東長丘が30石の寺領を安堵した「寺料寄進状」が残されています。堂内には歴代藩主の位牌が安置され、境内には9代藩主伊東長裕の墓碑をはじめ6代藩主長丘の弟である伊東長煕や

8代藩主長寛の子である伊東長之など一族の墓碑が建立されています。

又、近くを流れる高梁川は度々洪水で大きな被害を出しており「明治26年大洪水供養塔」が昭和4年に建立されています(明治26年大洪水では死者200余名、365戸流出)。

源福寺の石垣は、一日一石といわれ、蟻の入る隙間もないほど精巧なものです。この石垣の苔が生えている所まで洪水が押しかけてきたそうです。

この洪水のため本陣他多くの建物が流出しました。

艮(うしとら)神社

 難しい名前の神社ですが、吉備津神社の丑寅の方向にあるから艮神社というそうです。

神社の門柱の「八雲絶唱・・・・・」は、犬養毅元首相の揮毫です。

    

 川辺宿の本陣は代々難波家でありますが、生業は醤油屋さんだったそうです。

川辺本陣は、明治26年の大洪水で流出し資料も残っていません。兵庫県豊岡市で発見された川辺本陣の間取り図を見ると矢掛本陣によく似ているそうです。

参勤交代の諸大名の川辺本陣での宿泊率はほぼ同じ40%強で2か月に1回の割合でありましたが、高梁川に橋はなく舟や徒による渡しのため

氾濫が続くとしばしば逗留を余儀なくされたことから川辺宿の賑わいは矢掛を凌いでいたのではないでしょうか。(案内文より)

  

川辺の宿場町を先に進みますと高梁川に出てきます。ここに川辺の一里塚があります。ここには江戸日本橋より180里(707km)と書かれています。

気が遠くなる距離ですね。(笑)

一里塚から左折すると高梁川に橋が架かっています。手前側が自転車、歩行者用。その左側が自動車用です。

歩道橋から高梁川を見ると本当にきれいな川です。これが明治時代氾濫したのですね。橋の中央が倉敷と総社の市境です。

橋を渡り左折し、それから右折するとJR清音駅に着きました。時間も5時近くなりました。今日はここまでにします。

       

 今日のGPSです。途中GPSが作動しませんでしたが、今日は小田宿~清瀬駅まで歩きました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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備中高松城址に行ってきました(岡山市北区)

2013-12-26 05:58:58 | 歴史

来年のNHK大河ドラマは「軍師 官兵衛」です。秀吉の参謀として活躍しました。

この備中高松では、官兵衛の策による 高松城水攻め が行われました。

山陽道歩きの途中ではありますが、この高松城址に行ってきました。

JR備中高松駅で降り高松城址まで800mです。日没時間も迫っており、急ぎ足で現地に向かいます。

   

                     

高松城は備前国に通じる平野の中心しかも松山往来(板倉宿から備中松山城)沿いの要衝のちにあり、天正10年(1582)の中国役の主戦場となった城跡として有名です。(備中松山城は高梁にあり雲海で有名です)

城は沼沢地に臨む平城(温城)で石垣を築かず土壇だけで築かれた「土城」です。城の周辺には東沼、沼田などの地名に象徴されるように沼沢が天然の外濠をなしていたのが窺われます。

縄張りは方形(一辺約50m)の土壇(本丸)を中核にして掘りを隔てて同規模の二の丸が面に並び、更に三の丸と家中屋敷とがコの字状に背後を囲む単純な形態です。

途中「舟橋」というのが史跡でありました。

         

舟橋とは

高松城は平城で三方を濠で囲まれていたがこの南手口には具足の武士がようやくすれ違う程の細い道があったが、開戦直前に八反掘を掘り外濠とした。

そこへ舟を並べて舟橋(長さ64m)となし、城内より進攻の際はこれを利用して又退くときは舟を撤去できる仕組みで、城の西北の押出式の橋と共に大きく防御の役を果たしました。

    

     

中国役とは

全国統一を目指した織田信長は西進を図り毛利方と対峙した。毛利方は備中境に境月七城(高松城、宮地山城、冠山城、加茂城、日幡城、庭瀬城、松島城)を築き備えた。

織田家の先鋒羽柴秀吉は天正4年に三万の軍勢をもって同国南東部に侵攻し境目の城を次々攻略した。

最後に攻めあぐねていた高松城周囲に約2,6kmの堤防を短期間(12日間)で築き、折からの梅雨を利用して足守川の水を引き入れ水攻めを敢行した。

籠城1か月を経て城兵が飢餓に陥った頃本能寺の変が起きた。秀吉は毛利との講和を急ぎ高松城主「清水宗治」の切腹と開城を条件に休戦を成立させ、ついに高松城を落城させた。

清水宗治は6月4日 兄 月清入道、軍監 末近信賀、家臣 難波伝兵衛、介錯 国府市介、荒木三河 とともに舟に乗り石井山秀吉陣所前に漕ぎ出て秀吉からおくられた酒肴をうけ

誓願寺をうたい、舞いおさめた。そして「浮世をば 今こそ渡れ 武士(もののふ)の名を 高松の苔に残して」と辞世を詠じ46歳で自刃した。

6日午後毛利軍が撤退したのを確認した秀吉は高松城を後にしてここから主君信長の弔い合戦のため山崎まで約200kmを5日間で駆け抜け光秀を討った。(中国大返し

       

 時間も5時近くなりあたりが暗くなり始めた。

短時間ではありましたが、黒田官兵衛の活躍の場を垣間見ることができました。

駅の近くではお正月に日本三大稲荷の一つ 最上(さいじょう)稲荷への参拝の為の準備が行われていました。

 

 

 

 

 

 

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金田一耕助の故郷を訪ねて(岡山県倉敷市真備町)

2013-12-25 05:32:35 | 日記

11/21~23まで山陽道「小田~岡山駅」まで歩きました。

途中の川辺宿で「金田一耕助の誕生地」という看板を見つけ、その誕生地に行ってきました。

           

探偵金田一耕助の生みの親 作家の横溝正史さんは、戦時中の昭和20年から約3年間、吉備郡岡田村(現倉敷市真備町岡田)に家族と疎開しました。

そこで執筆活動を行い「本陣殺人事件」「八つ墓村」「獄門島」などの作品を発表しました。

その中の本陣殺人事件では、探偵「金田一耕助」が横溝作品に初めてデビューしています。

私も案内板に沿って歩いていきたいと思います。

               

     十一月二十七日即ち一柳家で恐ろしい事件のあった翌日のことである。

     伯備線の清ー駅で降りてぶらぶらと川ー村の方へ歩いていく一人の青年がいた・・・・・・・・・・・・・・・(本陣殺人事件より)

疎開した岡田村は、江戸時代10342石の小藩でした。 郵便局の前の国道の地下道を潜ると舗装はしているものの岡田村に向かって広い道路が続いています。

丁度突き当りが岡田村役場跡です。小説では三本指の男がこの角にある食堂川田屋(本当は酒屋さん)に入りました。

   

岡田村役場跡からまっすぐ歩くと小高い丘があります。

「真備ふるさと歴史館」「大池ふるさと公園」があります。岡田藩館は小学校付近にあったそうです。

ここに「金田一耕助」の像が立っています。

    

        

岡田大池は周囲1kmもありそうな大きな溜池です。東岸には出島が浮かび弁天様が祀られています。このあたりは横溝正史の特にお気に入りの散歩コースだったようです。

「本陣殺人事件」にも小さな池が出てきますがこの大池ではないかと思われます。短編の「空蝉処女」ではそのものずばりこの大池が登場します。

正史が散歩中、池畔の竹藪の中でミステリアスな娘と出会うというストーリーです。   (案内板より )

丘を降りていくと四つ角に小さな「祠」が建っています。これが「濃茶のばあさん」です。

案内板によると、江戸時代藩家老の奥方が旅路で病に苦しんだ時、茶店の老婆が親切にその地の神社に祈願し平癒したので、帰国後奥方は祠を建てその神社を

勧請したと伝えられ、土地の人は「濃茶のばあさん」として祀り、供え物が絶えなかったという。

横溝はこの話をヒントに名作「八つ墓村」に「濃茶の尼」を登場させました。(案内板より)

            

濃茶のばあさんから左折した突き当りが横溝正史一家が疎開先です。

太平洋戦争末期の昭和20年4月、東京での戦禍を避けて真備町岡田で3年間の疎開生活を送りました。

当時軍部の圧力で探偵小説を書くことができなかった正史は、岡田地区の人たちと交わり、畑でジャガイモ作りなどに精を出しました。

然し、本格的な長編小説を書きたいと考えていた正史は、東京から運んだ蔵書を読み、地区の親しかった人達から農村の困窮、農漁民の生活などの話を聞き、作品の構想を温めました。

戦後の昭和23年(1948)、正史がこの地で書いた本格長編推理小説「本陣殺人事件」が第一回日本探偵作家クラブ長編賞(現 日本推理作家協会賞)に選ばれました。

 

まだまだ正史の岡田時代の足跡はあるのですが、あまり時間を費やすと街道歩きの予定が狂ってしまいますので疎開先を最後に伯備線清音駅に向かいました。

尚、川辺宿の本陣ですが、明治26年の大洪水ですべて流され、今は歯科医院の所に碑だけが建っています。

また、先月11/23~24にかけ、金田一耕助ミステリーツアーが行われたそうです。

         

 

 

 

 

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警固公園のイルミネーション(福岡市中央区)

2013-12-16 04:42:19 | 日記

12/14忘年会のため福岡の天神に行ってきました。

6時からの開催にはまだ時間がありましたので警固公園のイルミネーションを見てきました。

 

ここは、福岡市の繁華街のすぐそばの公園です。

まだ外は明るいですが、もう人、人、人・・・・・・・・・土曜日ですので家族連れで来られている方もおられました。

                                   

昨年はリニューアルということで公園内にスケート場、メリーゴーランドなどがありましたが、今年は公園内を電車が走っていました。

              

                       

短時間で公園内を一回りしましたが、何か昨年の方がきれいだったと感じました。

 

 

 

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「福岡検定」があるそうです

2013-12-10 22:46:48 | 日記

来年のNHK大河ドラマは「軍師 官兵衛」です。

官兵衛は、黒田官兵衛で我が福岡藩の初代藩主です。

それで、来年2月「福岡検定」の試験が行われます。

福岡検定とは、

福岡市は、都市としての魅力と博多湾に代表される美しい自然とを併せ持ち、長い歴史の中で培われた伝統・文化に恵まれた独自の個性と魅力を持つ素晴らしい都市です。
「福岡検定」とは、そのような福岡が誇る魅力の数々をより広く、より深く知っていただくことで、「福岡にはこんな良いところがあるばい!!」「福岡って実は○○って知っとった??」と思わず福岡の自慢をしてしまう、

そんな「福岡通」になっていただくために実施する検定試験です。 このホームページでは「福岡検定」試験に関する情報はもちろん、福岡の歴史や文化等をゲーム感覚で勉強したり、

福岡の魅力を紹介する動画を配信したりと、楽しみながら福岡のことを知ることができる情報を随時提供していきます。
この検定を通じて、福岡のことをもっと好きになっていただけたらと思います

                       

 福岡に生まれて〇〇年。少しは福岡のことを知っているつもりでこの検定の参考書「福岡博覧」を買って読みましたが

知らないことばかりです。あと3か月ですがしっかり勉強しないといけませんね。

 

 

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山陽道(西国街道)を歩く「神辺~小田(岡山県井原市)」

2013-12-04 17:34:07 | 山陽道(西国街道)を歩く

11/24今回の山陽道歩きも3日目。ホテルから荷物を出し駅のコインロッカーに入れ、7:46JR福塩線で前日のゴール地「神辺駅」で下車。

先ず昨日時間の都合で行けなかった「天別豊姫(あまわけとよひめ)神社」へ。祭神は、豊玉姫命、速進雄命、事代主命で豊玉姫命というと海の神様である乙姫様。

どうしてここ神辺が海の神様?という疑問が湧いてきます。調べてみますと古代この辺りまで海だったそうです。

   ,,   

境内には桜の木や銀杏の木がありお花のシーズンには花見のスポットとなるでしょう。神辺の地名は、この神が守るということで「神奈備」が変じて神辺となったそうです。

この神社が神社の山の上には昔、「神辺城」がありました。

神辺城は「道上ノ城」とも呼ばれ、元弘の乱(南北朝争乱)で戦功をあげた朝山景連が備後国守護職に任じられ、建武二年(1335年)築城したと伝えられています。

以来神辺城は備後国の守護職の居城として使われ、仁木義長・細川頼春・高師康・上杉顕能・渋川義兼・山名時義が守護となり一時期を除いて山名氏の備後支配がつづき

それぞれ守護代が居城しています。

 戦国時代には杉原理興・平賀隆宗・杉原盛重・藤井皓玄・毛利元康が、江戸時代には福島正澄(丹波)・水野勝成が入城し、この間幾度も改築が行われ福島時代に完成をみています。

 元和五年(1619年)の水野氏が福山城築城の際には、神辺城の櫓桜や門などが取り壊され移築されたといわれてます。

実に二百八十数年もの間、神辺城は備後国の中心的役割を果たしてきた城です。    (案内板より)

           

山陽道に戻ります。神辺本陣、廉塾を過ぎると「荒神社」の所に「平野一里塚」があります。高屋川にかかる橋を渡り右折。川沿いにはデニムの大きな工場があります。

国道313号線と合流する所から左折。しばらく国道沿いに歩きます。国道の右側には面白いオブジェがありました。

          

湯野口の信号で旧道に入ります。しばらく行くと「備後国分寺」があります。

天平13年(741年)聖武天皇の国分寺建立の詔により全国に国分寺が建立されました。すでに私も山口・防府、広島・西条と2つの国分寺をみてきました。

ここ神辺町下御領にも備後国分寺があります。

      

国分寺の横には「下御領八幡神社」があります。この神社に道標が建っています。右、かさおか道、左、おおさか道、もう一つの標識には、右 石州ぎんざん道、左 九州・・・と書かれています。

日吉神社へは長い階段があります。地元の方に聞きますと172段あるそうです。行ってみようかな?と思いましたが、今日はまだまだ先がありますので行きませんでした。

八丈岩入口という看板があります。御領山に八畳ぐらいの岩や奇形の岩があるそうです。ここには鬼伝説もあるそうです。 

              

この先に上領地一里塚があるのですが、道がわからなくなり近くの人に聞いてみました。少し行くとお寺があるのでそれに沿って行けばいいと教えて頂きました。

上領地一里塚は、左側と右側にありました。右のは、管茶山の漢詩の碑が建っています。読んでみますがわかりませんでした。

その横には、「四ツ堂」があります。昔、領主が旅人に休憩の場をということで建てられたそうです。その先には「上御領八幡神社」があります。

福山市東部には、彼方此方に八幡神社が祀られていますね。また気になっていたのですが、「御領」と地名ですが昔、荘園だったのでしょうか?

           

島影橋を渡ると右側に「国境の碑」が見えてきます。ここからが岡山県井原(いばら)市高屋町です。

昨年12月から歩き始めましたこの山陽道もようやく「岡山県」に入りました。西宮まではあと200km弱です。

               

高屋の町は、中国地方の子守歌発祥の地ということで町おこしを行っています。マンホールのデザインも子守歌です。

町を歩いていると昔ながらの家並みが立ち並んでいます。「駒寄せ」というのは、人馬が入ってこないようにする柵です。高屋にはよく見られました。

     

 「♪ねんねこしゃしゃりませ 寝た子の可愛さ 起きて泣くこのねんころろ つら憎さ ねんころろん ねんころろん・・・・・♪」で始まる中国地方の子守歌は、この高屋が発祥の地です。

この唄が全国に知られるようになったのは、井原市出身の声楽家上野耐之氏が昭和の初め、恩師である山田耕作に故郷の母親が唄っていた子守唄を披露したのがきっかけです。

感動した山田耕作が編曲して発表し、広く愛唱されるようになりました。

 上野耐之の生誕地がここです。今でも耐之の御子孫の方が住んでおられます。高屋の本陣は上野家でした。

今日(24日)は昼から高屋中学校で「子守歌の里音楽祭」が行われるそうです。

       

井原鉄道高屋駅にこの子守歌の碑があるということで駅の方に向かいました。駅前には美術館もあります。

        

毎年全国から6市1村から集まって全国子守歌サミットが行われているそうです。ちなみに今年は和歌山県岩出市で行われたそうです。

子守歌の碑の横には井原鉄道の各駅の紹介イラストもありました。

 

                                 

井原駅から山陽道に戻ります。法泉院の橋を過ぎしばらく行くと「出部」(いずえ)に入ります。出部が「いずえ」と読むとは、ちょっと難しいですね。

時間ももうすぐ12時です。ここは国道313号に面しておりファミレスなどがあり、少し早いですがここで昼食にします。

お腹もいっぱいになり、再びスタート。前方に「旧山陽道大曲跡」という標識があります。日葡辞書(日本語をポルトガル語で解説した辞書)によると街道で2か所大きな直角の曲がりがある所と書いています。

旧山陽道では単調な旅に変化を付けるため一里塚と共に大曲が作られた。戦乱の世には東西へ走る敵の数を調べるのに大変都合がよく、また参勤交代の時には殿様が駕籠を止め前後の行列を

眺めては長い旅をつづけたという。(案内板より)

そういえば、大きな曲がり角がありましたね。

出部(いずえ)の町中を歩きます。途中、道標がありました。「岡山元標十三里」と書いてあります。岡山まで約40kmでしょうか?

      

出部の町は、住宅地として変貌しているのでしょうか、新しい家が続いています。郵便局の所で「出部一里塚」がありました。

            

井原市の中心地に入ってきました。面白い建物の井原駅が右側に見えてきました。井原駅周辺が昔「七日市」と呼ばれていました。

七日市宿は、矢掛宿から3里、高屋まで1里12町、本陣1、脇本陣3、町屋が120軒そのうち旅籠が86軒ありました。月々定期市開かれていました。

本陣は佐藤正左衛門が務めていました。

     

先に進みますと小田川にかかる「日芳橋」があります。橋の手前を右に行くと「川越し上がり場跡」の碑があります。

それによると 「七日市は旧山陽道48次の一宿駅で小田川(旧芳井川)を控えここが定人足による歩き渡り上がり場跡です。」

昔はこの川に橋がなく歩いて渡ったのでしょう。幕末にはこの川に日芳橋が架けられました。七日市の「日」と芳井川の「芳」をとってネーミングされたそうです。

     

橋を渡ると「日芳橋の碑」が立っています。読んでみますと

安政4年(1857)山陽道七日市駅の芳井川(現小田川)に初めて大板橋が架設され、日芳橋と名付けられた。架橋以前の渡りには涼み台みたいなものを用いてこれに旅人を乗せて渡していた。

然し、この交通の要衝であり増水時には急を要する書状が滞ったため西国の大名の悩みの種となっていた。これを見た一ツ橋代官友山勝次は部下に命じて架橋を計画、両岸に石を積み上げて古い堤を補修して完成させた。

橋を渡ると左側に「松乃操酒造」という1859年創業の造り酒屋があります。また、この近くには高校女子駅伝の名門校の興譲館高校があります。

この高校の創設者は先ほどの一ツ橋代官友山勝次です。

       

 西江原町に入ります。ふと右を見ると「相田嘉三郎旧宅」の碑が・・・・・・

相田嘉三郎は、後月郡西江原村(現在の井原市西江原町)の相田家の次男として生まれ、その後、呉服商を営む伯父嘉助の養子となった。青年の頃までは家業の呉服商に励んでいたが、

養蚕・製糸の振興を計画し、養蚕の研究に取り組んだ。但馬地方から桑の苗を導入し、また養蚕が盛んであった信州から関東東北地方へ度々行って桑の作り方や蚕の飼い方などを研究し、

この地方の土地や気候に適した養蚕法を発案した。嘉三郎はこの養蚕法を印刷し、県下はもとより広島県東部から島根県西部地方にいたるまでこれを配るとともに、伝習生を養成して、

各地に派遣して指導に当たらせ、地域の養蚕普及に大きく貢献した。(いばら歴史館より)

また先に進むと「田中生誕地」というバス停が・・・・バス停より2~3軒先にその田中の生誕地がありました。

平櫛田中(1872~1979)は本名を田中倬太郎と言い、田中家から福山市今津の平櫛家に養子に入ったのち田中(でんちゅう)と称した。107歳でその生涯を閉じるまで明治、大正、昭和の三代にわたって

活躍した。岡倉天心と西山禾山に思想的な影響を受け伝統的な木彫技術と西洋の彫塑を学んだ田中の作品は観る者を引き込む緊張感と人間味あふれる創造性を持っている。

代表作は「鏡獅子」「五浦釣人」など。福山駅前には彼の作品「五浦釣人」が建てられています。

満百歳の誕生日の前に30年分の材料を買い込んだ。また「60,70は洟垂れ小僧 男ざかりは百から百から わしもこれからこれから」と言った言葉は有名です。

尚、井原市役所の横には「田中(でんちゅう)美術館」があります。今回は時間がなくいけませんでしたがいつか行ってみたいものです。

          

 中掘城址の所を左折すると「甲山(かぶとやま)八幡宮」があります。

太古神功皇后が三韓を親征され、凱旋の途中この山に玉歩を運ばれ中国地方の平和を祈念するため宝の兜を頂上に埋められたと請う。

里人はこの地に瑞垣を繞らし、この山を清浄な霊山として崇敬するようになり山の名称もこの時から甲山(かぶとやま)と呼ぶようになったと言い伝えられている。

また、一説には那須小太郎宗晴が祖命をうけ武運長久を祈るため与一が屋島の戦功を挙げた際、着用していた甲冑を頂上に埋納したとも言われている。(案内板より)

境内には、史跡の「石燈籠」もあります。

慶長9年(1604)小堀遠州政一が備中国の奉行となり領内巡視の時、大患に罹り甲山八幡宮に祈願霊験を得て、今市、木之子渡しの談議所に建立させたものと伝えられる。

また、口碑によると遠州が小田川畔の要所要所に石燈籠を設置し高瀬舟の上り下りの便を計った。その一つがこの石燈籠と言われている。

昭和13年県道拡張工事の際現在地に移された。  (案内文より)

 

橋を渡ると「今市宿」に入ります。今市宿は、筑紫紀行に「今市村 人家百軒余り茶屋宿屋あれど間の宿なり」と書かれています。七日市宿と次の矢掛宿の間の仮宿でした。

小田川が足止めされたときには重宝されたでしょう。なかなか趣のある家並みです。

     

 今市の信号の先で国道486号線と合流します。ここは小さな峠になっているのでしょうか?少し上っていきます。上った後「青木」と書いてある所を左に行きます。

井原鉄道を渡ると左側に古い大きな建物が建っています。ここが「日本綿布」。大正6年創業のデニムメーカーです。

      

 左手に井原鉄道「早雲の里荏原駅」が見えてきました。時間は14:15。今日の予定はここまででしたが時刻表を見ますとこの時間には14:41の井原行しかありません。

神辺行は15:42。あと一時間以上もありますので、次の「小田駅」まで歩くことにします。この井原鉄道は、電車の本数が少ないので前もって時刻表を調べることをお勧めします。

さて、この「早雲の里荏原駅」は、戦国大名の「北条早雲」の生誕地だそうです。街道から左手の山の方に高越城跡があります。

 この高越城で戦国時代初期の英雄、伊勢新九郎(のちの北条早雲)が生まれ、青年期を過ごしたといわれています。頂上からは井原市が一望できます。

さて、困ったことに次の矢掛宿までの地図は用意していたのですが、この矢掛までの資料を準備していませんでした。あわててタブレットでこの辺の見どころ?を探します。

      

小田宿は昔、「堀越宿」と呼ばれ、矢掛・七日市間の間の宿として賑わいました。江戸時代宿場と宿場を結ぶ街道筋にある宿駅の補助をする所を「間(あい)の宿」と呼び、本宿で常備する人馬数の

一部を負担したり荷物の付け送りをする問屋などがありました。この堀越には78軒の屋敷があったそうです。

       

            

小田駅には午後3時到着。小田駅には室町時代の歌人「正徹」の歌碑がありました。

15:34小田駅発井原鉄道で神辺へ、神辺からJR福塩線で福山。福山発17:30の新幹線「さくら」で帰ってきました。

山陽道は、矢掛の手前の小田まで歩きました。西宮まであと200km弱です。 

今日(11/24)のGPSです。

山陽道は来年1月に再開します。

 

 

 

 

 

 

 

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山陽道(西国街道)を歩く「松永~神辺(かんなべ)宿」

2013-12-01 13:39:50 | 山陽道(西国街道)を歩く

11/23福山駅発7:46で昨日のゴール地松永駅へ。。8:00から歩き出します。 松永駅の構内には松永が塩田で栄えた頃のオブジェがあります。

            

万治3年(1660)福山藩家老本庄重政が神村、柳津村沖の干拓に着手し、寛文7年(1667)塩田築調工事は完成し製塩が始まった。

この年に幕府の許可を得て「松永」と 命名した。この松永は神村の松崎の地先に造成され重政は松に因んで中国の吉祥句「松寿永年」から

土地の繁栄を祈って松永と名付けられた。

 松永の塩田の規模は、古検(水野検地)では39町6反余(約39.6ヘクタール)、元禄(げんろく)13年(1700)の備前検地では56町4反余(約56.4ヘクタール)であった。

この頃の軒数は50前後が記されている。当時としては最新の入浜(いりはま)塩田の技術によったので生産性が高かった。

販路は北国筋が中心であった。明治11年(1878)の場合、松永塩の販売高83466石余の約9割にあたる7600石余を北国筋へ積出している。

松永塩田は、昭和34年(1959)に流下式(りゅうかしき)に転換したが、翌年は廃止された。

 一方の松永の下駄は

明治10年代、塩田に潮を引き入れる入り江のそば、下駄屋の主人丸山茂助が、塩を運ぶ船の帰路の空荷に着目したところから始まった。

この片荷に山陰の雑木アブラギリを乗せて格安に仕入れ、入り江に筏(いかだ)に組んで貯木し、入用な分だけ製材して桐(きり)下駄に替えたのである。

まさに塩が松永下駄を生んだといえよう。
松永下駄が全国に普及するようになったのは、桐下駄に比べ、雑木が原料で安価であり、しかも見かけは桐下駄に似て、なおかつ強く永持ちするからであった。

そして原木の製材から下駄への小割りに至るまで、早くから機械化したことで、大量生産が可能となり、仕上げだけが手仕事だが、加工も分業化した。

これに応じて、工場が塩田の入り江の周辺に立ち並び、ついに下駄の町松永を形成したのである。
原木もアブラギリから、北海道のツブやドロノキ、さらにサハリン、中国東北部やアメリカ大陸へと広く海を越えて材木を求め、

雑木による格安の大衆下駄の生産を図り全国に売り出した。
また生産様式の変化に即して、下駄に限らず広く履物の生産へと転進したが、今も素足に履く下駄のさわやかさと解放感とに支えられて、松永下駄は多くの人に愛用されている。

 

                                                                                  (以上ひろしま文化大百科より)

松永駅そばには、「日本はきもの博物館」がありますが、残念なことに今年11/24に閉館することになったそうです。

入ってみようと思いましたが、開館時間は9:00からですので残念ながらパスしました。今でも松永には歩道には「下駄」のブロックがついています。

    

松永駅前を通り街道へ。神村の信号では交通少年団の子供たちから「頑張って」と声をかけられました。

    

2号線と松永道路が交差する所に「今伊勢宮」があります。山陽本線の線路を横切って行くと前方に長い階段が・・・・・・数えてみますと199段ありました。(他の記事によれば208段とか)

伊勢神宮をお祀りしているそうで内宮、外宮がありました。

     

再び街道に戻ります。松永バイパス手前のガソリンスタンドの所から左に曲がります。歩いていると松永バイパスの拡幅工事でしょうか橋脚工事が行われていました。

地域の集会所には神村二区と書いてありますが、ここに「金毘羅宮の常夜灯」があります。先を歩くといくつもこの常夜灯があります。大きいものもあれば小さいものも。

また、所々には「地神(ちじん)様」もあります。

           

         

調べてみますと、金毘羅信仰は一般には四国の金比羅宮、即ち金毘羅大権現を尊崇しています。

 金毘羅はインド仏教の仏教の「クンビーラ」に由来し鰐を意味し水に関係します。江戸時代になると金毘羅さんに祈願するとなんでも願いが叶えられるという信仰が

 広がり漁業者や水運関係者の尊崇を集め、また水にかかわることから農業神として信仰されました。

 「地神」は農地に宿り農作物を豊かに実らせてくれる神のこと。春・秋の社日には農作業を休み地神に感謝する祭りをした。

今は、この一帯住宅地が広がっていますが、昔は田んぼや畑が広がってこの金毘羅様や地神の信仰が広がっていたのでしょうね。

スベリ石古墳徒歩10分という看板があり行ってみますが、どこにあるかわからず断念しました。

済美中学から国道を渡ると「イコーカ山古墳」があります。案内板を見ると

赤坂の平野部の北縁部、津之郷町加屋から南に派生する丘陵の先端部に構築された古墳である。墳丘は径約10mの円墳で、外部施設として円筒埴輪を二重にめぐらせている。

内部主体は未発掘のため明らかでない。周囲はかなり削りとられているので、旧来の景観は変容しているが、南西に続く丘陵には、4基で構成される池下山古墳群が存在していた。

 なお、西裾には相輪を欠くが、室町期と考えられる宝篋印塔(ほうきょういいんとう)がある。

スベリ石古墳にしろこのあたりは昔から人が住んでいたのでしょうね。

         

山陽新幹線のガードを潜り川を渡り谷尻バス停を左折します。津之郷小学校の近くのこの川には交通安全の面白い標語が書いてあります。

川沿いに歩くと田邊寺(でんぺいじ)です。

奈良から平安時代の養老5年(721)に創建された和光寺の中心塔石が残されています。

秀吉が九州征伐に向かう途中、備後・津之郷に居住していた足利義昭とここ田邊寺で会っています。

 

    

織田信長から京都を追われた室町幕府15代将軍足利義昭は、中国の毛利家を頼ってきたのが福山の鞆の浦。その後熊野町常国寺に移ったあと、ここ津之郷に住み

やがて京都に戻っていったといわれ、天正13年(1585)~15年(1587)まで実際に居住していたそうです。ここ「惣堂神社」は祭神は猿田彦命ですが備陽六郡誌には

将軍足利義昭と載せています。かつて義昭に仕え追放後信長の許へ下った細川幽斎も九州からの帰途に立ち寄ったとも言われています。

この津之郷ですがいろいろ歴史的には見るべきものがたくさんあります。時間があればゆっくり廻りたかったです。

      

惣堂神社を下り再び山陽道に戻ります。しばらく行くと酒屋さんの角に道標があります。左 大坂、右 福山。

更に先を歩くと右側に大きな榎木があります。ここが「山手一里塚跡」。

               

街道を進みますと芦田川に差し掛かります。山陽道は国道378号線から左の脇道に入ります。

しばらく歩くと採石場があります。地図ではここを通るようになっていますが、どうも民間地みたいですので少し迂回します。

山陽自動車道郷分トンネルの所に高い岩の上に朱色の神社が見えてきます。これが「郷分八幡神社」。

その下の街道沿いには首塚があります。これは「宮入道光音の首塚」です。

志川滝山城主だった宮入道光音は天文21年(1552)毛利軍に滝山城を落とされてここで討ち取られました。その首がここに葬られました。

      

山陽自動車道のガードを潜ると右側の道へ。しばらく歩くと国道378号の大渡橋に合流。橋を渡り左折します。その先の「正善寺」から右折。

この辺りに「中津原一里塚跡」があるそうですが、探しても見つかりません。多分この辺ではないでしょうか?

新茶屋の信号を右折、芦田川支流の高屋川にかかる鶴ヶ橋を渡ります。昔はここに「鶴ヶ渡し」があったそうです。

       

 時間も13時を過ぎてきました。この間食べる所を探しましたが一向に見つかりません。

やっと見つかったのが神辺ゴルフ練習場近くのラーメン屋さん。ここで遅い昼食を食べ再び出発します。

NHKかいどうてくてく旅の原田早穂さんがゴルフの打ちっぱなしをした神辺ゴルフ練習場を通りますといよいよ神辺宿に入ります。

       

神辺宿は広島県内で唯一本陣が残っていて御子孫の方も現在住まわれています。また町並みもきれいに整備されています。

    

                           

         

神辺の本陣は、西本陣が尾道菅波家、東本陣が本荘屋菅波家が当主。残念ながら東本陣は残っていません。

西本陣を見学しているとボランティアのガイドさんが詳しく説明してくれた。

部屋数27、畳は200畳、大名と付添い70名が収容できる。宿札を見ると「筑前少将宿」「松平下野守」と主に筑前黒田藩が良く使っていたそうです。

そういえば屋根には黒田家の紋がつけられています。現在も敷地の奥に菅波家の子孫の方が生活されています。

途中、菅波歯科医院という古い建物がありましたのでこの本陣の菅波家と関係があるのかと質問すると関係ないそうです。菅波歯科医院の建物も立派だった。

西本陣の先を行くと「廉(れん)塾 菅茶山(かんちゃざん)旧宅」があります。ここでもガイドさんの説明がありました。

菅茶山は酒造業で東本陣主人も勤めた菅波樗平の長男として延享5年(1748)に安那郡川北村(現在の神辺町川北)で生まれ、19歳の時京都に遊学し天明元年(1781)頃神辺に戻り

私塾「黄葉夕陽村舎」を開いた。寛政8年(1796)に福山藩の郷校となり「神辺学問所」「廉塾」とも呼ばれた。

塾では菅茶山とともに藤井暮庵、頼山陽、北条霞亭など塾頭による四書五経を中心とした講釈がなされ寺子屋などの初等教育を修了した10~20歳代の多くの階層に渡る塾生が

2~3年にわたって学んでいます。建物の中に方円の手水鉢がありますが、

方円の手水鉢は丸と四角に掘られています。水は入れ物によってどのようにでも形が変わる。人も同様で教育によってよくも悪くもなると教えています。

       

      

            

時間も4時近くなってきました。今日は高屋まで歩く予定でしたがこの状態では夕方になってきますので今日はここまでとします。

すぐ福塩線神辺駅の時刻表を調べると4:05発があります。このまま急いで駅に行きかえしました。

4:30ごろ福山駅に到着。そのあと福山駅北口にある「福山城」に行ってきました。

      

 

今日(23日)のGPSです。

 

 

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