よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
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西国街道を歩く(大山崎~京都・東寺)その1

2014-11-30 15:57:54 | 西国街道を歩く

11/23天王山登山から下山し、今日の西国街道歩きを開始します。

10:00JR山崎駅スタート。山崎駅の横には、「妙義庵(みょうきあん)」があります。室町時代に僧「春嶽」が開山したといわれています。千利休が建てたとされる茶室「待庵」は、当時の様子を示す二畳の茶室です。

利休の山崎屋敷から移築したものと言われています。 拝観は、1か月前から申し込まなくてはいけませんので中には入ることができませんでした。

  

街道に戻ります。しばらく歩くと右側に阪急大山崎駅があります。駅前には、ハイキング姿の方が見られます。天王山に行かれるのでしょうか?

名神高速ガード手前右側が「大山崎町役場」。小泉川を渡ると、「長岡京市」に入ります。長岡京市 人口約80000人。

  

「長岡京市」というと、「平安京」の前の「長岡京」をイメージしますが、継体12年(518)、継体天皇が筒城宮(京田辺市あたり)から、この地「弟国(おとくに)」に遷都されました。

この弟国も20年で終わり、都は、ヤマトの方に移りました。弟国が今の「乙訓」になったのでしょうか? 大山崎町、長岡京市、向日市が「乙訓」と呼ばれています。

長岡京市のマンホールは、タケノコ、竹をイメージしています。長岡京は、竹林が多く、「かぐや姫」伝説発祥の地とも言われています。

京都縦貫道の下が「調子八角」交差点です。最近できたのでしょうか、道幅が広く「これが西国道?」と思うぐらいです。

調子八角交差点は、西国街道と丹波街道の交差する地点です。

        

 

 調子八角交差点の所に「馬ノ池」「馬乗池」があります。

平安時代の終わり頃。関白のお供で四天王寺参りの途中、近衛府の役人下野(しもづけ)武正がこの池のほとりで馬からドサッと落ちた。あわてて馬にまたがり、素知らぬ顔をして大阪に向かった。

ところが、大阪から帰る途中、この池のほとりまで来ると、落馬を見ていた関白が、「ここだ。ここだ。武正のところだ」と言って冷やかした。
武正は「そうでございます」と即座に答え、ニヤリと笑った。武正は機転をきかして「関白殿は、ここが武正の所だとおっしゃった。わしの領地だ」といい、池の一帯をそっくり自らの領地にしたという。

池はこの話に因んで、馬から落ちて乗った所として「馬乗り池」、のちに「馬ノ池」と呼ばれるようになったといわれる。(長岡市観光協会HPより)

ここの馬の像は、友好都市、中国の寧波市から寄贈されたものです。

どうも「調子八角」という名が気になり、調べましたら、下野家は、聖徳太子の愛馬「調子号」の世話をしていたそうです。聖徳太子に気に入られ、「調子」と名乗るよう言われたそうです。

「八角」は、このあたりに「八角堂」があったのではないでしょうか?

  

先に進みます。調子1丁目に、国登録有形文化財に指定されている「中野家住宅」があります。

中野家住宅がある地域は、近郊の農村での商品経済の普及・発展に伴い、17世紀前半頃に茶屋町が形成された。中野家の居住開始時期は不明だが、街道沿いの茶屋として商いを行っていたと考えられている。

2010年9月に「国土の歴史的景観に寄与している」として、国登録有形文化財になった。

 同住宅には江戸末期に建てられた主屋と土蔵があり、1951年の主屋改修時に茶室が設けられた。主屋は間口の広い敷地形状に近郊農家の特徴を、格子の表構えや間取りには町家としての特徴を併せ持っているという。

この住宅は、今年(2014)9月、市に無償で寄贈されたそうです。

   

立命館中、高から斜め左に入り、片泓(かたふけ)交差点に出ます。このあたりが「神足(こうたり)」になります。ちょっと読みにくい地名が出てきますね。(笑)

与市兵衛の墓」があります。

与市兵衛(元赤穂藩士萱野三平の義父)が、三平を赤穂浪士の一員に入れるために娘を祇園に身売りした帰りに、ここで斧定九朗なる浪人に殺害されました。
そのことをいたんで、ここに供養塔として建てられたのが「与市兵衛の墓」だそうです。この周辺はかって「横山峠」と呼ばれ、

人形浄瑠璃や歌舞伎芝居の仮名手本忠臣蔵(五段目『山崎街道』の場)によって知られるゆかりの場だそうです。(案内板より)

そういえば、箕面で「萱野三平」の生家を見てきましたね。こんなことがあったとは、知りませんでした。

  

西国街道は、神足2丁目で左に折れます。「神足商店街」と書かれています。道路には、一面石畳が敷かれています。

今は、「神足ふれあい町家」になっていますが、国登録有形文化財の「旧石田家住宅」があります。

この住宅は、店舗と住まいを兼ねた町家で町家独特の風情をもち、古い街道筋の面影を今に伝えています。規模が大きく、江戸時代末期の町家基準となるものとして平成12年12月、国の登録有形文化財となりました。

西国街道に東面して建つ切妻造で三面に庇を廻しています。表構えに格子と出格子を並べ、大屋根下の白壁に二か所の虫籠窓(むしこまど)を開いています。

玄関を入ると、通り庭が奥に続き、煙出しや六寸角の大黒柱、繊細な細工を施した座敷などが残されています。

町家独特の風情を持つこの住宅は、神足村の旧家、岡本家一族の商家で、江戸時代には。「紙屋」の屋号で和紙などを商っていたそうです。

長岡京市が平成15年、お茶の小売業をしていた「石田家」から購入し、神足ふれあい町家として整備したものです。(案内板より)

  

中に入ってみると、今は、食事もできるようになっています。今日(23日)は、仕出しの注文が入っているのでしょうか、皆さん忙しく働かれていました。

  

街道に戻ります。右側にはJR長岡京駅です。街灯には、「長岡京ガラシャ祭」の幟が立っています。

明智光秀の娘、玉(後のガラシャ夫人)が、細川忠興に嫁いだ城が長岡京・勝龍寺城です。

  

 街道は、小畑川沿いに出ます。川沿いには、「西国街道」の看板があります。さらに進むと、「一文橋」があります。この橋を渡ると「向日市」になります。

一文橋は、室町時代に造られた有料の橋です。大雨のたびに流され、その架け替え費用のため、通行人から一文を取りはじめたのが橋名の由来と言われています。

橋の高欄には、一文銭がデザインされています。

  

向日市に入りました。向日市は、人口約54000人。向日市の歴史と文化は、原始古代にさかのぼって古く、その栄光は、延暦3年(西暦784年)から延暦13年(西暦794年)にかけての宮都「長岡京」の時代において

一段と多彩となり、政治・経済・文化の中心地として栄えました。

中世に入ると、各地に荘園が登場し、向日神社を共通の氏神として村相互の連帯を深めていき、江戸時代になると西国街道沿いに商店が建ち並び、乙訓郡内の商業の中心地として繁栄しました。

その後も、京都と大阪を結ぶ交通の要衝として発展し、明治22年には物集女、寺戸、森本、鶏冠井、上植野の各村と向日町が合併して向日町となり、昭和30年代後半からの人口急増期を経て

昭和47年10月1日、京都府内9番目の都市として市制を施行し、現在の向日市が誕生しました。(向日市HPより)

        

向日市上植野下川原地区に入りました。旧家が立ち並んでいます。

言い伝えによると、豊臣秀吉が小畑川の流域を西に移し、道路を拡張整備すると同時に堤防を築いた。この時出来た広い河川敷が後世、農地化、宅地化され、それが地名に残ったとされています。

  

先に進みます。地図を見てみると、街道の右側に「長岡宮跡」があります。

今から1200年以上も前、日本の都の中心がここ向日市にありました。

桓武天皇は、延暦3年(西暦784年)に平城京から乙訓郡(向日市、長岡京市、大山崎町、京都市の一部)に都を遷しました。それが長岡京で、東西4.3キロ、南北5.3キロで平城京よりも大きく、ほぼ平安京に匹敵する規模の都でした。

長岡京は京都盆地の南西部にあたる丘陵地帯にあり、付近には桂川、宇治川、木津川、淀川などの大河川が流れ、水陸交通の至便な地でした。

長岡京は、延暦13年(西暦794年)に平安京に遷都されるまでのわずか10年間でしたが、日本の歴史上、重要な時代を築いた都で、その政治・文化の中心が向日市にありました。(向日市HPより)

 向日市には、大極殿がありました。

    

   

だが、この長岡京は、桓武天皇の側近、藤原種継、天皇の弟、早良親王、皇后など近親者の死去、日照りによる飢饉、疫病の流行、伊勢神宮正殿の放火、皇太子の発病など様々な変事が起こったことから

陰陽師に占わせたところ、早良親王の怨霊によるものとの結果が出て、御霊を鎮める儀式を行うが、その直後の2度の大雨によって川が氾濫し大きな被害を被ったことから、和気清麻呂の建議もあって

延暦13年(794)、平安京に遷都された。

街道に戻ります。「石塔寺」は、桓武天皇の側近「藤原種継」が暗殺された所。また、土佐国から帰途についた紀貫之が京に入る前、休息をとった「島坂」もこの寺周辺です。

「五辻」には、道標」があります。その横には、「五辻の常夜灯」が立っています。幕末の慶応元年(1865)五月、柳谷観音へ参拝するみ講の一つである京都の千眼講によって建てられた石灯篭です。

   

五辻交差点の先には、「向日神社」。

平安時代の「延喜式神名張」(927年成立)の山城国乙訓郡の部分に「山城国乙訓郡向神社」と記されている格式の高い古社で、神社の伝承によると養老2年(718)に建てられたと伝えられています。

200m続く桜並木の参道を登ると、天保年間(1830~44)に整備された社殿が立ち並びます。本殿は、室町時代中期に建立された国指定重要文化財。明治神宮のモデルにもなったそうです。

祭神は、向日(むかし)神、火雷神(ほのいかずち)、玉依姫命(たまよりひめのみこと)、神武天皇。

  

歩いていると、最近建てられたのでしょうか、道標があります。右 西国街道、中 あたご道、左 たんば道。

この道標の横には、京都府の文化財に指定されている「須田家住宅」があります。江戸時代初期の元和2年(1616)から明治30年代まで「松葉屋」の屋号で醤油の製造販売をしていた旧家です。

当主は、代々久兵衛を名乗り、向日町上之町の組頭などの町役人をつとめ、指導的な役割を担ってきました。バンコ(縁台)もあります。

江戸初期には、松葉屋や旅籠の「富永屋」などたくさんの商家が立ち並んでいたそうです。今でも歩いていると旧家が目につきます。

街道は、斜め右に折れ、寺戸町梅ノ木へ出ます。

  

  

梅ノ木は、昔、この一帯が有名な梅林であったため、この地名がつきました。地元に伝わるご詠歌にも「ありがたや だいにち(大日如来)さまの おすがたが うめのこかげに おわします」とあります。

4本の道標があります。「灰方地蔵」「ほうぼだい院観世音」「桓武天皇陵」「官幣中社大原野神社」・・・・・・

  

JR向日町駅に着きました。駅前には、「かぐや姫時計」があります。

街道は、JR東海道本線沿いに続きます。建材屋さんの所から地下道を通ります。地下道を上がったら京都市南区です。ゴールの東寺まで約6km。

何とか、3時までには、ゴールできそうです。

     

その2完結篇に続く

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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西国街道番外編「天王山登山」(京都府乙訓郡大山崎町)

2014-11-28 06:52:18 | 西国街道を歩く

11/23  「天王山」というと、明智光秀と羽柴秀吉の山崎の戦で天下分け目の戦いということで有名ですが、気軽に行けるハイキングコースとしても人気スポットです。

この日、街道歩きの前に登ってみることにしました。標高270m

  

7時55分JR山崎駅をスタート。登山口には、紅葉の紅葉がまぶしいぐらいきれいです。

 

  

急な坂を登ると真っ赤に染まった紅葉が出迎えてくれます。ここは、「宝積寺(ほうしゃくじ)」です。

宝積寺は、奈良時代に聖武天皇が勅願し、高僧行基が開山したと伝えられ、古い歴史をもつ寺院です。本尊十一面観音は鎌倉時代の作で重要文化財。

  

 

さすが、京都の紅葉ですね。見とれてしまいます。寺の中の登山道を通り再び登り始めます。私たちが登ったのは、車も登れる登山道。「車なんか来ないよね」と思っていたら後ろから4WDの車が私達を追い越して行った。

登ってから約40分。「十七烈士の墓」に着きました。

留米藩士、尊皇攘夷派の活動家である真木和泉守は、脱藩浪士を率いて、この禁門の変の長州軍側に参加、長州軍の京入りにあわせて、300名が船に分乗、淀川を上り6月24日に高槻に上陸し、

25日に山崎の天王山、離宮八幡宮、大念寺、宝積寺 などに布陣します。
 
翌月の7月19日、京都の蛤御門の辺りで、ついに「禁門の変」が発生します。
山崎に陣どった真木和泉守、久坂玄瑞等も向日町、物集女、桂方面に出撃しますが敗退。長州軍は総くずれとなり、残兵200人をまとめて退却しますが、会津藩、新選組等の幕府軍の追撃を受けます。

真木和泉らは、敗軍に長州に落ちのびて再挙を期すように告げると、真木以下、十七名は天王山に踏みとどまり、金の烏帽子に錦の直垂、水干の衣を着て、鉄砲を撃ち、殿軍(しんがり)をつとめます。

こうして、一戦交えた後、陣屋に退却し最後は火をかけて全員割腹自刃しました。(大山崎町観光HPより)

 お墓の上には、「三社宮」があります。三社宮とは、天照大神、月読大神、蛭子神です。

  

三社宮を過ぎると「酒解(さけとき)神社」があります。平安時代に成った延喜式神明帳に記載されている古社で、本殿(江戸時代)の南側に神興庫(鎌倉時代)があり、切妻造、本瓦葺の板倉造で我が国板倉造中、

最古の建造物です。重要文化財に指定。

天王山登山道には、天王山の戦いの案内板が、陶板でできています。全部で6枚。イラストも描かれとてもわかりやすいです。

  

酒解神社から100m、ついに天王山頂上に着きました。秀吉は、天王山の戦いで勝利するとこの山頂に「山崎城」を築きました。しかし、大坂築城が本格化すると、山崎城は取り壊されました。

  

 

しばし休憩の後、下山することにします。

展望台からは、三川(木津川、宇治川、桂川)合流している所が見えると聞いていましたが、眼下を見てみるとモヤがあり、はっきりと見ることができませんでした。

この大山崎から三川が淀川に流れていくそうです。

展望台の所に、「旗立松」があります。天正11年(1582)6月13日、天王山の合戦の時、羽柴秀吉の士気を高めるため、千成瓢箪の大旗を山上の松の樹に高く掲げた。

それによって戦局に変化が起こり、羽柴軍に勝利を導いたといわれており、以来誰いうとなく旗立松の呼び名が起こりました。

  

下山途中、「山崎聖天」がありました。創建は古く、平安時代に寛平法皇の開基と伝えられている。その後、江戸時代初期に、摂津勝尾寺の僧、木食以空が中興開山しました。

観音と合わせ祀る観喜夫は、現世利益で多くの信仰を集めています。

  

    

9時50分JR山崎駅に到着。これから西国街道に出発します。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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西国街道を歩く(茨木~大山崎町)その2

2014-11-27 14:21:25 | 西国街道を歩く

(その1から)昼食の後、再び街道歩きに出発。

芥川の手前に「橋詰地蔵尊」「神峯山寺道標」があります。案内板によると、原盆地東方の山中、神峯山寺(かぶさんじ)本尊・毘沙門天は、商売繁盛や勝負事にご利益があるとされ、江戸時代には、商人の町大坂から

多くの参詣者が押し寄せました。この道標は、豪商鴻池家の一族、赤松由水が淀川河港・三島江からの参詣道に設けた16基のうちの1基で享和元年(1801)の建立です。

橋詰地蔵尊は、芥川宿の西口に位置し、悪霊や疫病の侵入から宿場を守る道祖神の役目も果たしていました。

  

また、橋を渡ると別なお地蔵さんがあります。これは、子安地蔵尊と言って「子宝・子育て」にご利益があるとされています。

 

先へ進みます。左側に「教宗寺」があります。高槻市のHPによれば、同寺の先祖である田淵久兵衛教宗が、親鸞上人の弟子となって弘安10年(1287年)、自宅を寺院に改めたのが創始と伝わる。境内には花崗岩の自然石をくり抜いて作られた石槽があり、府の有形文化財に指定されている。

この石槽は、花崗岩からできた自然石を彫り込んだもので深さは、約32cm、長さ1.8m、幅1.1mと現代のお風呂にも匹敵するくらいの大きさです。

  

街道は、左にカーブしています。曲がった所に「芥川一里塚」があります。その横には、「芥川宿」の説明板もありました。

芥川宿は、2丁に渡って町並みが連なっていました。大名が使う本陣に加え、天保期(19世紀前半)には、旅籠33軒、家屋数253軒を数えました。幕末の文久3年(1863)8月には、政変に敗れて

長州に逃げる途中の三条実美ら七卿も宿泊したそうです。本陣は、教宗寺近くにありました。

一里塚のすぐ先の商店街の所に「芥川仇討の辻」があります。芥川宿の仇討とは300年程前、石見国吉永城下で二人の若侍が美しい稚児の争奪を巡る争いで邪推からもう一人の藩士を江戸表で殺してしまった。

その子息助三郎という若者は京で剣客につき剣術を学び諸国を遍歴すること二年半。敵が芥川宿の旅籠に入る姿を見、宿を立ち去るところを不倶戴天の敵を討ち取り本懐を遂げた。

討たれた敵(八之丞)は自分は討たれて当然であると言う書状を懐に忍ばせていた。

  

  

街道は、高槻の中心部に入りました。駅前には、デパートや大きなマンションが建っています。駅前の交差点の左側には、「上宮(じょうきゅう)天満宮」があります。

菅原道真(すがわらのみちざね、904年没)をまつる上宮天満宮は、大宰府に次いで2番目につくられたという古い由緒を伝えています。
縁起によれば、道真の霊を鎮めるため、正暦4年(993)に九州・大宰府に赴いた天皇の使い(勅使)が、帰途この地で急に牛車が動かなくなる異変にあい、

調べたところ菅原氏の祖先とされる野見宿弥(のみのすくね)ゆかりの地であることを知って、ここに道真公を祀ったそうです。

   

高槻駅前を過ぎると、関西大学高槻キャンパスがあります。このあたりは、区画整理が行われたのでしょうか、歩道も広くとても歩きやすい。

「能因法師の碑」があります。能因法師は、平安中期の歌人、中古三十六歌仙の一人です、俗名、橘 永(ながやす)、女流歌人「伊勢」の作風に慕いつつ、藤原長能に和歌を学び、剃髪して摂津古曾郡に住み、古曾部入道と称す。

奥州行脚を試みた。歌集に「能因集」他に私撰「玄々集」がある。ここから北の方の高槻市古曾部にお墓があるそうです。

  

街道を歩いていると、やたら選挙用のポスターが目につきます。選挙まであと3週間ぐらいですね。

今歩いている街道は、西京高槻線(県道67号線)です。安満(あま)の町に入ってきました。

磐手杜神社があります。磐手杜神社は、安満山の南西麓にあり、桧尾川に面してもとは安満神社といいました。
12世紀頃に春日神社に改めて、タケミカヅチノミコト・フツヌシノミコトなどを祭神とし、明治44年(1911)に現在の社名になりました。春日を冠したのは、当時安満一帯が奈良春日神社の荘園となって、

村の鎮守に春日大名神を勧請(かんじょう)したためとみられています。
建久6年(1195)、後鳥羽天皇がこの地を訪れた当時、社殿は壮大で美しかったが、天正年間に高山氏の兵火によって焼失し、元和8年(1622)になって現在の社殿が建てられたと伝えられています。
社頭の森は磐手の杜と呼ばれ、歌枕として名高く、毎年1月15日には、氏子がそろって参詣し粥占いの神事を行い、その年の穀物の豊凶を占います。

また、毎年5月5日には、稚児が乗った三頭の馬が神輿とともに神社を巡る「神輿渡御神事(通称:馬祭)」が行われます。五穀豊穣と村の安寧を願う農耕儀礼として、

村の神事祭礼を担ってきた宮座が中心となり、伝統の祭りを守り伝えています。 (高槻市HPより)

桧尾川橋の高欄には、神興渡御神事(馬祭)のオブジェが付けられています。

  

梶原の町に入ってきました。「畑山神社」があります。元は、高槻最古の寺の一つ「梶原寺」があった場所です。そこに元亀年中(1570年ごろ)に創建され、永福寺と称しました。慶長年中の火災で

焼失しましたが、村民協議により再建され、明治元年の神仏分離令により「畑山神社」に改めました。神社の横には、「かえで公園」という児童公園があります。

  

更に進むと、「一乗寺」、「梶原の一里塚」があります。文化元年発行の「浪華講定宿帳」には、「一里塚前茶屋平七」とあり、当地周辺に旅籠があったそうです。

一里塚横のお地蔵さんは、度重なる水害から守り継がれてきたので「水あがりの地蔵さん」と呼ばれているそうです。

  

島本町(大阪府三嶋郡島本町)に入ってきました。大阪府の北東部にあり、木津川・宇治川・桂川が合流する淀川右岸に位置し、全体の約7割を山岳丘陵地が占め、

丹波山地先端の天王山南側の平坦地に市街地を構成しています。
 東は淀川を隔て、枚方市、京都府八幡市と相対し、南および西は高槻市、北は京都市および京都府長岡京市、大山崎町に隣接。

狭い平坦地には、国道171号、東海道新幹線、阪急京都線、JR東海道本線、名神高速道路の主要幹線が通っています。
 また、大阪・京都の中間で交通の便もよく、豊かな緑や水という良好な生活環境から、衛星都市のベッドタウンとして発展を遂げています。(島本町HPより)

人口は約30000人。島本町のマンホールは、水無瀬川を飛びかう蛍と町の花ヤマブキ、町の木クスノキをデザインしています。

    

島本というと、やはり、JR島本駅横にある「桜井駅跡」ですね。古代律令制度の駅家の跡。大正2年に国の指定になりました。

  

桜井駅跡は、楠木正成が子正行と親子訣別の地です。戦前の小学校の唱歌には、この「大楠公の歌」がありました。(私は、戦後の教育を受けましたので習ってはいませんが、だいたいわかります)

           ♪  1.青葉茂れる桜井の 里のわたりの夕まぐれ

               木の下陰に駒とめて 世の行く末をつくづくと

               忍ぶ鎧の袖の上に 散るは涙かはた露か

              2.正成涙を打ち払い 我が子正行呼び寄せて

               父は、兵庫に赴かん 彼方の浦で討ち死にせん

               汝はここまで来つれども とくとく帰れ故郷へ  ♪

この歌詞は、15番まであり1番から6番までが「桜井の訣別」、7,8番が「敵軍襲来」、9番から15番までが「湊川の奮戦」に分けられています。

「太平記」によると、「桜井の別れ」のあらましは次の通り。

建武三年五月(1336年6月)、九州で劣勢を挽回して山陽道を怒濤の如く東上してきた足利尊氏の数十万の軍勢に対し、その20分の1ほどの軍勢しか持たない朝廷方は上を下への大騒ぎとなった。

新田義貞を総大将とする朝廷方は兵庫に陣を敷いていたが、正成は義貞の器量を疑い、今の状況で尊氏方の軍勢を迎撃することは困難なので、尊氏と和睦するか、またはいったん都を捨てて比叡山に上り、

空になった都に足利軍を誘い込んだ後、これを兵糧攻めにするべきだと後醍醐帝に進言したが、いずれも聞き入れられなかった。そこで正成は死を覚悟し、湊川の戦場に赴くことになった。

その途中、桜井の駅にさしかかった頃、正成は数え11歳の嫡子・正行を呼び寄せて「お前を故郷の河内へ帰す」と告げた。「最期まで父上と共に」と懇願する正行に対し、正成は「お前を帰すのは、

自分が討死にしたあとのことを考えてのことだ。帝のために、お前は身命を惜しみ、忠義の心を失わず、一族朗党一人でも生き残るようにして、いつの日か必ず朝敵を滅せ」と諭し、

形見にかつて帝より下賜された菊水の紋が入った短刀を授け、今生の別れを告げた。なお、訣別に際して桜井村の坂口八幡宮に菊水の旗と上差しの矢一交が納められ、矢納神社の通称で呼ばれた。(wikipediaより)

  

桜井駅跡から先を進みます。

左側に道標があります。柳谷、西之宮、京と読めます。ガードの下には、タケノコをデザインしたバリカーがあります。ここもタケノコの産地でしょうか?

   

水無瀬神宮の鳥居があります。ちょっと中に入ってみます。

水無瀬神宮では、後鳥羽天皇(ごとばてんのう)・土御門天皇(つちみかどてんのう)・順徳天皇(じゅんとくてんのう)が祭られています。後鳥羽上皇がこの地に水無瀬殿を造営し、

水無瀬離宮と称されていたものを、承久の乱で隠岐に流されそこで崩御した後鳥羽上皇の遺勅に基づき、1240年(仁治元年)、藤原信成・親成親子が離宮の旧跡に御影堂を建立し、

上皇を祀ったことに始まります。最初は「法華堂」と称されていたが、室町中期1494年(明応3年)、後土御門天皇から、水無瀬宮の神号を賜ったそうです。
さらに、1873年(明治6年)に官幣中社に、1939年(昭和14年)に官幣大社に列格し、現在の水無瀬神宮と改称されました。(島本町HPより)

あとでわかったのですが、門には、石川五右衛門の手形というのが残っています。また、境内の「離宮の水」は、日本名水百選にえらばれているそうです。

 

  

サントリーの山崎工場が見えてきました。国境まであと少しです。時間は、4時近くなってきました。福岡ではあまり感じられませんが、日が沈むのが早いようです。4時半までには、今日のゴール地「山崎駅」に着きたいのですが・・・・・

   

関大明神社があります。ここは、山崎の関の跡と言われ、関守神または、辻神を祀ったのが、起こりではないかといわれているそうです。この関所は、当時、交通の要であり、時には朝廷から兵を派遣し守らせたそうです。

然し、平安時代初めには、この関所は、廃止されたそうです。

関大明神社の横は、京都との国境です。

   

京都に入りました!

 山陽道、西国街道の最終地「京都」です。国境には、「これより山城国」と書かれています。京都府乙訓(おとくに)郡大山崎町です。

  

山崎駅前には、「離宮八幡宮」があります。  

離宮八幡宮は、石清水八幡宮の元社にあたり、八幡大神を祭神とする神社です。貞観元年(859年)に清和天皇が、神託により国家安泰のため宇佐神宮から分霊し平安京の守護神として奉安することとし、

その時に九州に使わされた大安寺の僧行教が帰途山崎の津(当時の淀川水運の拠点港)で神降山に霊光を見、その地より石清水の湧いたのを帰京後天皇に奏上したところ、

国家鎮護のため清和天皇の勅命により「石清水八幡宮」が建立されたのが始まりとされています。その後、嵯峨天皇の離宮「河陽(かや)離宮」跡であったので社名を離宮八幡宮とし

離宮八幡宮が成立しました。しかし、離宮八幡宮の創建については、諸説あり、石清水八幡宮と同時に成立したとは考えらないという説や、離宮八幡宮は南北朝時代から室町時代初め頃に成立したとみる説もあります。

午後4時、今日の最終目的地「JR山崎駅」に着きました。

今晩、「街道歩きの師匠」Yさんと待ち合わせのため、JR山崎駅から、今夜の宿泊地「大阪」に向け、帰途を急ぎました。

 

11/22のGPS

  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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西国街道を歩く(茨木~大山崎町)その1

2014-11-26 05:21:56 | 西国街道を歩く

11/22 博多発6:05の新幹線で西国街道歩きに出発しました。始発の新幹線ですが、今年最後の3連休とあって自由席は、博多から満員状態でした。

新大阪から東海道本線で茨木へ。茨木から阪急バスで前回ゴール地「宿川原」まで行きました。

9:30 GPSのスイッチを入れスタートします。今日、明日と歩いて、いよいよ西国街道もゴールを迎えます。今回もDバックの後ろには「山陽道、西国街道歩いています」のプレートをつけています。

また、神奈川・藤沢のKさんから頂いた「鶴岡八幡宮」のお守りが道中の安全を見守ってくれます。

   

郡山宿から約1kmの所に「中河原道標」があります。「東 大津11里、京都7里、八幡5里、山崎2里10町、芥川1里10町」「南 堺9里、住吉7里、大坂5里、吹田3里」「西 姫路23里、神戸11里、池田3里、箕面2里」

この「中河原」は、茨木市内を東西に走る「西国街道」と南北に走る「亀岡街道」が交差する所です。

この地には、唯一茨木の合戦となった元亀2年(1577)の白井河原の戦いで武勲をたて戦国大名として4万400石の所領をもつ茨木城主「中川清秀」の生誕地です。

  

幣久良(てくら)橋を渡ります。ちょっと読みにくいですね。渡った先に「白井河原合戦跡」の碑があります。

    

白井河原合戦

茨木方を支持する和田伊賀守惟柾政と池田方の荒木攝津守村重・中川瀬兵衛ら池田二十一人衆の対立となり、元亀2年(1571)8月、ついにこの白井河原で激突しました。

この時、和田勢500余騎、池田勢2500余騎が相対しましたが、和田勢は、まだ戦列が整っていませんでした。そこで部下の一人「高利平大夫(郡 兵大夫)」が時間稼ぎをしようとしましたが、

その計略が見破られたため、主君惟政に「多勢に無勢、これでは勝目は無い。大将は強いだけが能ではなく、可をみて進み、不可を見て退き、無事をもって利をはかるのが名将なのである」と進言しましたが、

惟政は、これを聞き入れず、後続軍の到着を待たずに200余騎の少数で突撃しましたが、この時惟政は、池田方の武将「中川瀬兵衛」に討ち取られました。主君を失った和田、茨木の郎党たちは、

「主を討たれてどうして生き残れようか」と切って出て討ち死にしたので「白井河原は、名のみにして唐紅いの流れとなる」ほど赤い血に染まったそうです。(案内板より)

  

地図を見ると、この先に「耳原(みのはら)公園」があります。ちょっと休憩に寄ってみました。敷地は45000㎡で、公園内には桜や楓などいろいろな樹が植えられています。

池の方を見ると、真っ赤に紅葉した桜がまるでキャンパスに書いたようです。

街道に出ると、「鼻摺古墳」「将軍塚」の案内板があります。街道から少し外れますが、折角ですので行ってみました。

鼻摺古墳は、耳原公園のすぐ近くにありましたが、案内板の所は、草が茂って見にくくなっています。

  

 「将軍塚古墳」にも行ってきました。

  

入口に立つと、「大織冠(だいしょっかん)神社」と書かれています。大織冠とは、大化3年(647年)に制定された十三階冠位より664年の二十六階冠位までの最高の位階(後の正一位)です。

今までただ一人に授けられたので藤原鎌足を意味しています。説明板を見ると、藤原鎌足の墓所と書かれています。藤原鎌足というと、中大兄皇子と一緒に大化の改新を行った人物として知られています。

この大化の改新が7世紀の大化元年(645)です。この将軍塚古墳が出来たのが、古墳時代後期(6世紀後半)。藤原鎌足の墓とするならば、大化の改新には、鎌足はいなかったことになります。

何か、歴史のミステリーですね。

将軍塚を後に再び街道に戻ろうとしますが、私の地図には、将軍塚が載っていません。ちょっと道に迷ってしまいました。そこで道行く年配の方に聞くと丁寧に教えていただき、また、曲がる所まで一緒に行っていただきました。

その方は、私のDバックの後ろのゼッケンを見て、「頑張って!」と声を掛けていただきました。街道を歩いているとこのようなご親切には、本当にありがたく思います。

また、自転車でツーリング中の方や、車から声を掛けられる方・・・・・・・いろんな方から励ましのお言葉をいただいています。本当にありがたいです。

教えていただいた、道順を行くと、西国街道に出ました。

安養寺、法華寺、阿為神社旅所を通っていきます。

  

お旅所の先の名神高速ガード近くに道標がありました。ちょっと見にくくて何が書いてあるかわかりません。名神のガードを潜ると西国街道の案内板が立っています。

  

太田の街中を通ると、太田東芝町という町名があります。ここには東芝大阪工場がありましたが、2008年に閉鎖され現在開発工事中です。

更に先に進むと、「太田茶臼山古墳(継体天皇藍野陵)」があります。

   

 茶臼山古墳は、紀元後5世紀頃に造られた大きな前方後円墳で、一説に第26代継体天皇陵(けいたいてんのうりょう)であるともいわれています。
現在も古墳の周囲の濠(ほり)には魚が泳ぎ、墳丘には緑が生い茂っています。 

私事ではありますが、今年9月福井市に行ったとき、足羽神社で継体天皇の像を見てきました。応神天皇五世皇孫で越前の治水事業を行い、平野を開き諸産業を興された男大迹王(すおのみこと)が越前から第26代天皇として即位され

発たれる時に「末永くこの国の守り神とならん」と自ら生き御霊を鎮めて旅立たれました。それより継体天皇が主祭神として祀られています。(写真は、福井市足羽山の継体天皇像。2014.9月撮影)

    

「藍野大学」を過ぎると、高槻市に入ってきます。高槻市のマンホールは、市の花「卯の花」と市の木「ケヤキ」それと景勝地「摂津峡の春」がデザインされています。

高槻市は、大阪と京都のちょうど真ん中に位置し、人口約36万人。今年の大河ドラマ「軍師 官兵衛」に登場するキリシタン大名「高山右近」が高槻城主として君臨していた所です。

氷室1丁目には、道標がありました。大きいのと小さいのがあります。大きい方は、右、芥川、山崎、京都 。左、豊川、池田。小さいのは、惣持寺、妙見道。

   

道標の先、左側へ入った所に「今城塚(いましろつか)古墳」があります。

史跡今城塚古墳は、三島平野のほぼ中央に位置し、淀川流域では最大級の前方後円墳です。西向きの墳丘の周囲には二重の濠がめぐり、総長約350メートル・総幅約340メートルをはかり、

日本最大の家形埴輪や精緻な武人埴輪が発見されています。

今城塚古墳は、531年に没した第26代継体天皇の真の陵墓と考えられ、古墳時代の大王陵としては唯一、淀川流域に築かれた古墳です。今後の整備・公開に向けて平成9年から確認調査を行っており、

古墳の規模をはじめ、のちの城砦や地震による変形の様子など、貴重な成果が得られています。なかでも平成13・14年度の調査 で北側内堤からみつかった埴輪祭祀区(はにわさいしく)は、

大王陵での埴輪祭祀の実態を示すものとして大きな注目を集めています。

 

なお今城塚という名称は、戦国時代に城砦として利用されたことに由来し、江戸時代の絵図などにも今城陵(いまきのみささぎ)などと記されています。(高槻市HPより)

 

先ほどの茨木市でも「継体天皇陵」がありましたが、どちらが本当かわかりませんが、いずれにしてもこの北摂地区(茨木、高槻など)には、大小たくさんの古墳があり、古墳時代には、有力な豪族を中心にした「ムラ」があったのでしょう。

 

  

時間は、お昼を廻りました。今日は、朝早かったのでお腹もすいてきましたのでここでお昼にします。   (その2へ続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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今津干潟を歩く(福岡市西区)

2014-11-21 09:07:52 | ウォーキング

福岡市内には、東区に「和白干潟」、西区に「今津干潟」があります。どちらも野鳥の宝庫です。

11/20は、「今津干潟」を歩いてきました。今津干潟は、瑞梅寺(ずいばいじ)川」の河口で今津湾に面しています。

この日は、干潮の時間でたくさんの鳥たちがいました。

  

  

「ハマシギ」もいましたが、近づくと逃げられてしまいました。

遠くを見ると、絶滅危惧種の「クロツラヘラサギ」がいます。クロツラヘラサギは、「サギ」という名前がついていますが、コウノトリ目トキ科で、サギは、コウノトリ目サギ科です。

大きなシャモジみたいな口ばしが特徴です。いつもは、十数羽いるのですが、この日は、4羽しか見られませんでした。

  

堤防の所を見ると、江戸時代の年号が入っている「墓石」があります。見ると、「宝暦」「明和」などです。

   

どうしてここにあるかわかりませんが、昭和30年後半から40年代初めにかけ、この地の墓地がなくなり、納骨堂に集約された時の墓石みたいです。

私の個人的な推測ですが、古い墓石は、地に還る、海に還るという意味でおかれたのでしょうか?

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福岡市中心部の紅葉「松風園」「友泉亭」

2014-11-20 08:58:36 | ウォーキング

福岡市でも紅葉の便りが聞こえるようになりました。

昨日(11/19)は、福岡市中心部の紅葉を歩いてみてきました。

「松風園」 (福岡市中央区平尾3丁目)

「松風園」とは、昭和20年代に建設された茶室と日本庭園を有する公園です。 かつて福岡を代表する百貨店として人気を博した「福岡玉屋」の
創業者・田中丸善八翁の邸宅「松風荘」の跡地を新しく整備し、 平成19年に「松風園」として開園。
田中丸家が愛用した茶室「松風庵」は、当時のままの状態で保存されています。 「松風園」は、福岡市の繁華街・天神から南に広がる高級住宅街・浄水エリアに位置し、
茶道をはじめ、さまざまなイベントが開催される場所として、 庭園鑑賞ができる公園として親しまれています。

入園料は、100円 シルバー手帳を提示すれば無料です。今月シルバー手帳を手にしたので初めてこれを提示しました。園内では、結婚式のプロモーションの撮影が行われていました。

  

  

  

 紅葉は、7分ぐらいでしょうか、今週末から来週初めにかけてが見ごろでしょう。侘助椿ももう少しで花を咲かせるでしょう。

「山荘公園」 (福岡市中央区平尾5丁目)

高杉晋作や平野国臣などの勤王の志士たちを庇護した「野村望東尼(のむらぼうとうに)の山荘です。

   

「友泉亭(ゆうせんてい)」 (福岡市城南区友泉亭1番)

入園料は、200円。ここでもシルバー手帳が役に立ち、無料で入ることができました。

友泉亭公園は、黒田藩六代藩主「黒田継高公」が宝暦4年(1754)に別館(別荘)として設けた由緒ある「友泉亭」を、福岡市で初めて池泉回遊式純日本庭園として整備したものです。

平成10年には、福岡市指定名勝となり、奥ゆかしき日本の美を漂わせる歴史公園として今日親しまれています。

「友泉亭」とは、久世三位源通夏卿が、「世に堪へぬ 暑さも知らず 湧き出づる 泉を友と むすぶ庵は」と詠じた歌の意をとって名づけられたものです。(観光パンフより)

  

  

  

  

全般的に見て、福岡市市街地の紅葉は、6~7分というところでしょうか、来週ぐらいが、一番の見ごろではないでしょうか?

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油山市民の森の紅葉(福岡市南区)

2014-11-16 07:17:33 | ウォーキング

11/13

新聞を見ていると、油山市民の森の紅葉が見ごろだと書いてあり、早速行ってきました。

油山は、福岡市西南部に位置し、私の母校も近くにありますので、運転免許を取ったころは、よくドライブに行っていました。

「油山」は、6世紀ごろ、インドから渡来した清賀上人が油山観音で日本で初めて、椿の実からツバキ油を精製したことに由来します。

  

 油山市民の森の紅葉の名所は、吊り橋の所にある「紅葉谷」。吊り橋の上から見る紅葉が綺麗です。

  

  

  

余りにも紅葉の美しさに見とれていました。

ふと、見ると「油山山頂」の矢印が・・・・・・・・・・・・・。

まだ油山の頂上には、登ったことがありません。私もウオーカーの端くれ。めらめらと「よしっ、登ってやろう!」という意欲が湧いてきます。

登っていると、階段が多く、初めのうちは、口笛を吹きながら気持ちよく登っていましたが、だんだんきつくなり、20段登っては、休み、10段登っては休みと止まっている時間の方が多くなりました。

30~40分かけてやっと山頂に来ました。山頂には、温度計が置いてあり、見ると気温5℃。平地では、13℃ぐらいでしたので’7~8℃も低いです。

山頂からは、玄界灘が見渡せます。

   

10分ぐらい休憩の後、下山しました。

途中、「シロヨメナ」「「キンエノコロ」などの野草を見つけました。

   

 

 

 

   

 

  

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デジブック 『福岡糸島 紅葉の名所』(福岡県糸島市雷山)

2014-11-14 20:12:05 | デジブック

福岡県糸島市にある「雷山千如寺(らいざんせんにょじ)」の紅葉です。

これをデジブックにしました。

こちらです。 

 

 

デジブック 『福岡糸島 紅葉の名所』

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ついにゴールの日が・・・・・・・・・・・・・・

2014-11-12 05:00:00 | 日記

 2012年12月に下関をスタートした「山陽道、西国街道歩き」ですが、今度の3連休の23日15:00ごろ、京都・東寺五重塔にゴール予定です。

思い起こせば、山口、広島両県の峠越えには、泣かされましたが、今となっては、いい思い出です。

ゴールは嬉しいような少しさみしい様な気持ちです。

もう 下のカードも準備しました。(笑)

 

   

 

 

 

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デジブック 『福岡マラソン応援風景』

2014-11-11 05:00:00 | デジブック

2014.11.09に行われました「第1回福岡マラソン」

25km地点にカメラを設置し、ランナー、応援風景を撮ってみました。

ちょっと、長くなりましたが、ご覧ください。

こちらです。

 

デジブック 『福岡マラソン応援風景』

 

尚、このマラソンの動画をyoutubuにて公開しています、

こちらです。

http://youtu.be/27n4cHI2PV4

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