よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年10月オールジャパンカップ達成。





山陽道(西国街道)を歩く36日目(三宮〜西宮)15.4km

2014-07-27 07:20:27 | 山陽道(西国街道)を歩く

7月19日からの3連休で山陽道を歩きました。山陽道も今回が最終日。張り切って歩こうと思っています。

    

博多発6:05の新幹線で新神戸へ。新神戸からは地下鉄で三宮に行けるのですが、街道の前に北野異人館に立ち寄りました。北野異人館は、幕末・明治以降の日本において欧米人が居住するために住宅として建設した西洋館です。

時々小雨が降る中、オランダ坂を上り、「うろこ館」」へ。朝が早いのかまだ開門になってなく外から写真におさめました。

     

  

異人館から三宮に降りていくとスタバコーヒーやコンビニなどのお店が地域に合ったように作られています。

更に下っていくとダルビッシュのポスターが掲げられています。ここは、「ダルビッシュ記念館」で昨年11月に開館しました。

ダルビッシュの背番号から11月11日11時11分にオープンしたそうです。

その反対側には、おしゃれな「コーヒー館」が建っています。ここは「にしむら珈琲店」。

入ってみようと店の近くまで来ましたがまだ開店準備中でした。また歩道には、きれいな花が植えられていました。

  

  

三宮駅前の山陽道(西国街道)にやってきました。前回ゴール地、雲井通6丁目に行きGPSをセットし歩き始めます。

 

神戸市内の街道は、生田筋から芦屋打出まで、内陸部を進む大名行列に利用された「本街道」と海岸沿いを進む庶民の生活道路として利用された「浜街道」がありますが、私は、本街道の方を歩きます。

歩いていると各所に「西国街道」の案内板が立っていて、とてもわかりやすいです。

新生田川の雲井橋を渡ると、吾妻地区に、「大安亭市場」があります。

大安亭と言う変わった名称は本来、三宮のセンター街の東の続きとして戦前にあった「小野中道商店街」に大安亭と言う名前の浪花節寄席小屋がありここにちなんで名付けられました。
 「小野中道商店街」は戦前には三宮の表通として存在し、そごうをはじめ、呉服、時計、履物などの老舗が軒を競い、付近では、映画館「大黒館」や、浪花節寄席「大安亭」で、映画や漫才などが気軽に楽しめるとあって、神戸の中心として連日大変なにぎわいでした。
 その大安亭の付近にあったのが大安亭市場でしたが太平洋戦争末期の空襲でほとんどの店舗が焼失してしまいました。戦後しばらくGHQがこの地域一帯を接収したために再建できなくなってしまい幾人かの店主はあたらしい場所を求め現在 大安亭市場がある場所に三々五々新しく出店することとなりました。
 ですから当時は新しくできたと言う意味で新大安亭市場と言う名前で呼ばれていました。そして、いつしかこの新も取れて元の大安亭市場と言う名前に戻りました。 (大安亭HPより)

  

   

   

大安亭には、狸の「ロダン」にまつわる民話「ロダンのたぬき」があります。ここでは省略しますが、若し民話を知りたい方がいらっしゃいましたら「ロダンのたぬき」で検索してください。

街道を進みます。この街道は三宮からまっすぐな道ですが、西国街道の案内板が随所に立っています。

街道を歩く者としては大変助かります。

     

都賀川の大石橋にやってきました。川幅はそんなに広くなく穏やかに流れていますが、2008年(平成20年)には、都賀川水難事故が発生しています。7月28日突如の集中豪雨で水遊びなどで都賀川や河川敷に居た16人が急激な水位上昇によって流され、うち11人は救助されましたが、小学生2人、保育園児1人を含む5人が犠牲になりました。         その教訓か、急激な水位上昇には、回転灯で警告するようになっています。

  

街道は、新在家駅を通り「御影」に入ってきました。御影は、花崗岩の別名御影石の語源となった場所です。

海岸部は、江戸以降栄えた灘の酒(注1)「灘五郷」の一つの御影郷で白鶴、菊正宗、剣菱の造り酒屋があります。

また、御影は澤之井という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映しだしたことから御影の名の起こりだそうです。

(注1)灘五郷:今津郷(西宮市)、魚崎郷(東灘区)、御影郷(東灘区)、西郷(灘区)、下灘郷(中央区)

 

 新神戸に着いたときは、小雨が降っていましたが、いつの間にか夏の太陽が顔をのぞかせていました。

とにかく暑いです。御影の信号の所にコンビニがありましたのですごそこへ入りました。昔の人はお茶屋さんで休憩していましたが、現代ではコンビニがお茶屋さんになっています。飲み物、アイスを買いしばらく休憩します。

ふと、コンビニの前を見ると「処女塚」の碑が建っています。興味津々でその「処女塚」へ。

   

 処女塚(おとめづか)古墳は、4世紀前半に築かれたと思われる前方後方墳で全長70m、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mで昭和60年に遺跡公園として整備された。平成5年(1993)には、魏から卑弥呼に贈ったとされる三角神獣鏡が7面発掘されています。

また、平安時代中期の「大和物語」の中に「処女塚伝説」が記されています。

それによると、昔々この辺りに一人の美しい乙女、菟原処女(うないおとめ)が住んでおり、二人の若者が求婚し、生田川の水鳥を弓矢で射抜く勝負をするも決着がつかず、思い悩んだ乙女がとうとう生田川に身を投げた。それを知った二人の若者も後を追ったという悲しい話である。若く儚い三人の死を憐れんだ親族が菟原処女の墓を造った。それが「処女塚」でその墓を挟むように東西2kmの地点に2つの求女塚(もとめづか)を造った。それが西求女塚古墳東求女塚古墳である。

その後の調査でこの3つの古墳の中では、西求女古墳が3世紀中期で一番古い古墳で実際には、同じ時期ではなかったそうです。

古墳の際には、湊川の戦で敗れた新田義貞を逃がすためにこの地で討ち死にした小山田高家の石碑も建っています。

  

石屋川の西国橋を渡ります。この辺りが「東灘区」でしょうか、付近には、高いマンションが立ち並んでいます。

御影小学校近くに「徳川道起点」の案内板がありました。

徳川道は、江戸末期(慶応3)幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や

武士との衝突を避けるために作られた迂回路です。そのコースは、西国道と分かれ当時の徳井、平野、高羽、八幡、篠原の各村を経て、杣谷を通り、杣谷峠、森林植物園、鈴蘭台、明石大蔵谷までの8里27町9間(34km)でした。

  

御影小学校の裏手には、一里塚橋があります。この辺りは以前、字一里塚と呼ばれていました。東西に通っていた西国街道に一里塚が設けられていたのでつけられた地名です。今は、塚もなくわずかにこの橋がその名を留めています。

御影中学の所には、「街道松」が残っています。

街道は、2号線に合流しました。2号線住吉郵便局の反対側には、「本住吉神社」があります。

境内では茅の輪くぐりがあり、私たちも矢印の通りに廻ってきました。

 

 本住吉神社は、

社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。

延喜式神名帳には記載されていない。古くから「本住吉」と称してきたが、明治初年の『神社調査明細書』には「住吉神社」と記載された。神社側からの申請により、明治38年(1908年)に「本住吉神社」に復称した。社殿は1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、現在の社殿はその後復興したものである。(ウイキペディアより)

本住吉神社の先の交差点には、「有馬道」の碑が建てられています。

    

  

更に進むと、東灘区役所近くの歩道に何かしらモニュメントがあります。案内板を探しますが、見つけられませんでした。

東灘区役所では、「震災慰霊碑 祈りと復興」のモニュメントがありました。

阪神・淡路大震災では、東灘区の被害も大きく、倒壊家屋26000棟、死者1471名の尊い命が失われました。

今では、あの震災がうそみたいに周りには、近代的なビル、マンションが立ち並んでいます。

  

住吉橋を渡り、甲南町5丁目を左折すると「花松くび地蔵(くび地蔵)」があります。

案内板をみると、かつて諸大名や旅人が西国街道を往来していた頃、首から上の病気に霊験あらたかだったという「花松地蔵」と呼ばれる地蔵尊があった。大正6年地域の人々によって建立されたもので、すでにあった花松地蔵にまとめ、「花松くび地蔵」と名づけられた。

私達もここで住所と名前を言い、祈願しました。

  

花松くび地蔵の前をまっすぐ進み幼稚園の所を斜め左に進むと「三王神社(さんのうじんじゃ)」があります。また、摂津本山駅近くの2号線沿いに「国道地蔵尊」があります。

  

 国道地蔵尊は、昭和7年(1931)、交通安全の守護として建立されましたが、平成7年(1995)1月17日午前5時46分突発した阪神淡路大震災で倒壊しました。東灘区は、被害が甚大で倒壊家屋2万6千棟、犠牲者1500人を数える状況でした。復興へ3年余りにして、市街地修復の兆しが現れるに及び、国道地蔵尊再建の発願が起こり、平成10年8月再建を遂行しました。偏に、国道交通安全、地域住民の安寧和平を願い、併せて交通事故、震災犠牲者万霊の供養を祈念しています。  (案内文より抜粋)

時間は、お昼を廻りました。それにしても暑いです。歩く前にコンビニで氷のペットボトルを買っていましたが、それも溶けてなくなりました。どこかで補充と思っていましたら、道路の右側にスーパーがありましたのでそこに寄り道します。店内の冷房にあたり、しばし休憩。買い物客の方が私のDバックの後ろに付けている「博多~京に向かって歩いています」のプラカードをジロジロ見ていかれます。中には「頑張って!」と声をかけてくれる方もいらっしゃいました。 三宮からここまで約10k。予定では時速5kmぐらいで歩くことにしていましたが、暑さで時速3kぐらいしか歩いていません。 ペットボトル5本ぐらい補充し再び歩き出します。

  

稲荷神社の赤鳥居の前を過ぎると芦屋市に入りました。2号線芦屋川にかかる「業平橋」を通り、茶屋之町北信号から  旧道に入ります。

     

   

阪神電鉄打出駅近くには、阿保(あぼ)親王廟の石碑が建っています。阿保親王は、平城天皇の皇子で在原業平の父君   です。時間も1時半を過ぎました。どこか昼食を食べる所を探しますが。芦屋というとオシャレなお店を想像するのですが、   こんな暑い時は、冷たいざるそば、冷麺などがいいのですね。(笑) とにかく食べる所を探し、駅前の商店街へ入りました。 うどん屋さんや冷麺屋などなく、喫茶店がありましたのでそこでランチをいただきました。                       食べ終わり、店の方にお願いして冷たい水をペットボトル2本ほど補充していただきました。

  

先に進みます。打出町の阪神電鉄の踏切を超え、街道は、阪神高速に沿っていきます。高速芦屋ICの所から西宮市になります。夙川を渡り、香櫨園駅を通り、

  

            西宮神社へゴールしました!

  

 

  

西宮神社は、お正月の福男選びの開門神事で有名です。                                私達も山陽道踏破のお礼に本殿に進みました。ゴールしたからでしょうか、歩行中は降らなかった雨がポツリポツリと降ってきました。神様からのお祝いのシャワーでしょうか?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

平成24年(2012)12月から始めたこの「旧山陽道」36日目でゴールしました。                       歩いた距離は、約550km。最初は、青春18きっぷを利用しましたが、広島県近くになったら有給を使い、 3連休を取りながら歩きました。

これからは、西国街道として、京を目指します。京都ゴールは、11月を予定しています。ブログ上で応援していただいた皆様無事西宮にゴールすることができました。本当に有難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

<script type="text/javascript" src="&lt;a href=">// " charset="UTF-8"> // ]]></script>

 

 

コメント (18)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く(須磨~三ノ宮)35日目

2014-04-14 11:19:55 | 山陽道(西国街道)を歩く

4/06 JR三ノ宮駅から昨日のゴール須磨駅へ。JR須磨駅8:17到着。

昨日は山陽電鉄で帰ったのですが、運賃は@330。これに対しJRは@180 距離にもよりますが運賃があまりにも違いすぎます。

さて、今日も街道を歩きます。2号線を千守の信号に向かっていくと左側に「村上帝社」があります。

平安期の末期、太政大臣藤原師長は、琵琶の名人だったが、さらに奥義を極めたいと入唐の忠をもってこの須磨の地にきました。

ところが村上天皇と梨壺御女の神霊が現れ琵琶の奥義を伝えたので入唐を思いとどまり帰京した。

一説に龍宮から師長に捧げた琵琶の明記を埋めた所であると伝えられている。

街道は、千守の信号から斜め左に行かなくてはならなかったが、道を間違え「綱敷天満宮」まで来てしまいました。

綱敷天満宮は、大宰府へ左遷された菅原道真が風波を避けて須磨に上陸した時、美しい松の木の下に地元の漁師たちが作った漁網の大綱を巻いた円座で休息された。

道真の死後、このことに因んで創建された。須磨の天神さんとも呼ばれている。春には境内の梅林で綺麗な梅が咲く。

   

天満宮を見て、「千守」の信号まで戻ります。山陽電鉄のガードを潜り、「現光寺」に着きました。

「現光寺」は源氏物語の主人公光源氏の住居跡と伝えられ、昔は「源氏寺」と呼ばれていた。境内には、松尾芭蕉や正岡子規の句碑がある。寺の近くには、「藩架(ませがき)」とかヤグラという

字名が残されたことにより、古代の須磨の関跡とも言われている。

   

街道へ戻ります。山陽電鉄「須磨寺駅」には、「平 重衡(しげひら)とらわれの松跡」があります。

「平重衡」(平清盛の五男)は、生田の森の副将軍だったが、敗走の途中追われて、味方の船にも乗れず、馬も失い、自害を覚悟しようとしたところ、此の地で捕まった。

源氏の捕虜となり、土地の人が哀れに思い名物の濁り酒をすすめたところ、重衡はたいそう喜んで「ささほろや波ここもとを打ちすぎて須磨でのむこそ濁り酒なれ」の句を詠んだ。

のち、鎌倉へ送られ処刑された。

  

ここで街道から離れ「須磨寺」へ寄り道します。

須磨寺は、福祥寺が正式な名称です。真言宗須磨寺派の大本山。和田岬の海中から引き上げられ会下山の寺に祀られていた「聖観音像」が仁和2年(886)現在の場所に

祀ったのが始まりです。それよりも源平ゆかりの寺として有名です。ちょうど桜が満開でした。

  

   

境内には、源平合戦のものが祀られています。「源平の庭」では、平敦盛と熊谷次郎直実 戦いの場面が再現されていました。

  

本堂に行くと、「敦盛首洗い池」や「源義経腰掛の松」「敦盛首塚」などがあります。

  

一の谷の戦いで悲哀として歌われているのが「青葉の笛」。

一番は、平 敦盛のこと。二番は、平 忠度のことです。

      一   一の谷の軍(いくさ)破れ  討たれし平家の  公達あわれ

          暁寒き  須磨の嵐に 聞こえしはこれか  青葉の笛

 

     二    更くる夜半に  門を敲(たた)き  我が師に託せし 言の葉あわれ

          今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは 「花や今宵」の歌    

一、  平敦盛は、清盛の弟経盛の末子。

 一ノ谷の戦いに参加。源氏側の奇襲を受け、平氏側が劣勢になると、騎馬で海上の船に逃げようとした敦盛を、敵将を探していた熊谷直実が

「敵に後ろを見せるのは卑怯でありましょう、お戻りなされ」と呼び止める。敦盛が取って返すと、直実は敦盛を馬から組み落とし、首を斬ろうと甲を上げると、

我が子直家と同じ年頃の美しい若者の顔を見て躊躇する。直実は敦盛を助けようと名を尋ねるが、

敦盛は「お前のためには良い敵だ、名乗らずとも首を取って人に尋ねよ。すみやかに首を取れ」と答え、直実は涙ながらに敦盛の首を切った。

首をとって身分を調べると兜の裏から出てきたのが「小枝」という笛。夜毎嵐のように聞こえていた笛の音は、この方のものだったのか!!

その時、直実は世の儚さを怨み敦盛の菩提を弔うため出家した。(一部ウィキペディアより引用)

二、 平忠度は平忠盛の六男。

歌人としても優れており藤原俊成に師事した。平家一門と都落ちした後、6人の従者と都へ戻り俊成の屋敷に赴き、門を敲いて師匠に面会を求め、自分の歌が百余首おさめられた巻物を俊成に託した。

『千載和歌集』に撰者・俊成は朝敵となった忠度の名を憚り「故郷の花」という題で詠まれた歌を一首のみ詠み人知らずとして掲載している。

『千載和歌集』以降の勅撰和歌集に11首が入集。なお、『新勅撰和歌集』以後は晴れて薩摩守忠度として掲載されている。

源頼朝討伐の富士川の戦い、源義仲討伐の倶利伽羅峠の戦い等に出陣。一ノ谷の戦いで、源氏方の岡部忠澄と戦い41歳で討死。平家物語によると源氏に紛れる作戦をとっていたが、

源氏の多くが付けていないお歯黒を付けていたので見破られて討たれた。その時箙(えびら)に結びつけられたふみを解いてみると、「旅宿の花」という題で一首の歌が詠まれていた。

         行(ゆき)くれて 木(こ)の下かげをやどとせば 花や今宵のあるじならまし

千載和歌集に、詠み人知らずとして掲載されている歌は、

         さざ波や 志賀の都は 荒れにし 昔ながらの山桜かな

 

     

この「青葉の笛」は明治39年に尋常小学校の唱歌として教科書に載せられました。

私が学生の頃はこの歌は、教科書には載っていませんでしたが、初めてこの歌を聞いたのは中学の歴史の時間ちょうどこの「一の谷戦い」で

歴史の先生が歌ってくれました。何か悲しい歌で心に浸みこみました。(女の先生だったからかな?)

尚、この「青葉の笛」はこの須磨寺にあるそうです。

 

再び街道に戻ります。

天神町に「菅の井」があります。大宰府へ左遷された菅原道真が須磨で休息されたとき際に、須磨の旧家「前田家」から井戸の水を汲んで差し上げた。

道真公は、たいそう喜び自画像を前田家に与えたそうです。

前田家ではその井戸を「菅の井」と名付けた。その水で銘酒「菅の井」を造り毎年太宰府天満宮に献上したと伝えられています。

  

今日の天気予報では、10時ごろから雨が降り出し、午前中は雨。昼からは上がるとのこと。その雨が降ってきました。

ガード下に行き、Dバックから合羽を取り出します。

妙法寺川にやってきました。ここには川沿いに桜が植えられています。雨でなければお花見の方でいっぱいでしょう。

    

長田区に入りました。

平成7年(1995)1月17日5時46分淡路島北部を震源とするマグニチュード7.3の地震が発生しました。この長田区では火災が発生し多くの方が亡くなられました。

あれから19年、町を見るとモダンな家が立ち並び、また道路も整備され一見新しい住宅地みたいな感じです。

歩いていると私のDバックの「博多から旧山陽道を京に向けて歩いています」を見て、自転車で来られた70代の男性の方が声をかけてきました。

「僕もリタイアしたら、あなたたちみたいに歩いて全国を廻りたかった・・・・・。しかしあの地震がね・・・・・・いまだに借金を背負っているからそれもできない・・・・でも君たちを見ていると元気が出てきた」

その言葉を聞いた時、何かグッとくるものがありました。定年後の楽しみとして始めたこの「街道歩き」。歩きたくても歩けない方もいらっしゃいます。

生意気な言い方ですが、そういう方に「元気」を与えていればいいのですが・・・・・・・

「元気」といえば、やはりこれでしょう。鉄人28号です。

ビルのまちに ガオー  夜のハイウエーにガオー  ダダダダダーンとたまがくる  バババババーンと破裂する  ビューンと飛んでく鉄人28号

阪神淡路大震災の復興シンボルとして2009年(平成21年)9月30日に完成しました。鉄人28号の高さは15.6mです。自転車の方と比べてください。

 

  

新長田駅に来ると雨が強くなりました。しばし商業施設に入り雨宿りをします。

雨も小降りになった所で再び街道に合流します。

西代の交差点から高架橋の下を通ると左側に「蓮の池跡」があります。

昭和6年まで、ここには「蓮の池」という四町二反(約4ha)の大きな池がありました。奈良時代に周辺の田に農業用水を供給する「ため池」として作られ、僧「行基」が作ったと

言い伝えがあります。池が完成したとき「蓮の花が美しく咲いているという極楽浄土の池のようにこの池にも蓮の花が咲き乱れ、この水で人々が豊かになるように」と願って

行基は一株の蓮の花を池に投げ入れたといわれています。

また、この辺りは西国街道にあたり、南北両側に「大路通」という町名があります。この町名の由来は西国街道だといわれています。

古代(律令時代)には、街道の重要性、利用頻度などから大路、中路、小路に分けられ、そのうち山陽道は唯一大路でした。

山陽道は、道幅が9~12mだったといわれ、西国街道と呼ばれる頃には、幅3~6mぐらいだったそうです。

現在の中央幹線は、道幅50mです。昔ながらの言い方をすれば「超大路」ですね。

    

新湊川を渡ります。今回は、行きませんでしたが、長田神社はこの左の奥にあります。

新湊川橋を渡った所に「平知章之碑」があります。寿永3年(1184)源平一の谷合戦で討ち死にした「平通盛」、源氏の「木村源吾重章」、同じく「猪俣小平太則綱」らの碑が

この西国街道に面してあった。

   

国道28号線一番町交差点が、長田区と兵庫区の区境です。街道はこの交差点から斜め右に入ります。

「兵庫」という地名の意味は、天智天皇の治世に、兵の武器の倉庫(つわものの蔵)があったことが由来。

因みに「神戸」は、生田神社の神戸(かんべ)(神社に所属してその経済を支えた)が由来だそうです。

兵庫駅前を通り、柳原の信号を斜め左に入ると蛭子(ひるこ)神社の北側に「柳原惣門跡」があります。

西国街道を通って兵庫の町に出入りする場所、即ち西の柳原口と東の港口には惣門が設けられました。門前には高札所があり番所が置かれていました。

周辺には旅籠が立ち並び駕籠屋が列をなすほどでした。当時の人口は2万人ほどだったそうです。 

   

兵庫宿」はその昔「福原京」。江戸時代には西宮と大蔵谷(明石)の間の宿場町として賑わいました。神明町には、本陣(井筒屋)があり、その南側には、脇本陣など4軒ありました。

その本陣を探しますが、分らず、街道を歩いた先輩方のブログの写真を見ると確かこの辺りだと思います。

  

本陣跡から少し脇道にそれると能福寺に「兵庫大仏」、「平清盛公墓所」「滝善三郎正信碑」があります。

    

  

平清盛公墓所」は、平清盛が京都で荼毘にふされたときこの寺の住職円実法眼が遺骨を持ち帰り、寺領内に葬りました。

兵庫大仏」は、日本三大大仏(奈良の大仏、鎌倉の大仏)の一つで身丈11m、重量60t、蓮台高3m、台座高4m、総高18mあります。

兵庫開港以来、急速に増えたキリスト教信者に危機感を抱いた仏教徒らが仏教のシンボルと言われる大仏を建立したといわれています。

明治23年(1891)豪商南条荘兵衛の寄進により建立されました。当時の大仏は、座高が8.5m。

昭和19年(1944)太平洋戦争下、金属回収令で国に」供出されましたが、平成3年(1991)再建されました。

滝善三郎正信碑」は、開港間もない神戸で起きた外国との紛争で発足後最初の外交問題で苦境に立たされた明治新政府を救い、

日本が外国に植民化されるのを未然に防いだのが神戸事件の滝善三郎正信の切腹であった。
 慶応4年(1868年)1月11日、三宮神社付近で西宮警備の命を受けた備前藩士の行列を横切った外国人を傷つけたのが発端となり、

衝突が起こり、神戸事件として国際問題になったのである。  備前藩では滝善三郎正信(32歳)を責任者として同年2月9日、各国代表者立ち会いのもと永福寺で

切腹させ事件の解決を図ったとされている。これで一応の解決をみたのであるが、市民は滝善三郎を事件の犠牲者として哀れみ、永福寺に慰霊碑を建てた。

永福寺は、昭和20年の神戸大空襲で焼失したが、昭和44年百回忌にあたり、慰霊碑が能福寺に移された。

   

岡方惣会所」は、

徳川時代、兵庫津の行政機構は全域を三分し、岡方、南浜、北浜とした。 これを三方(みかた)と称し、大阪奉行支配であった。三方には、それぞれ惣会所があり、

名主が総代や年寄などを指揮して行政を行っていた。岡方は浜に接しない町々を含めて総称し、 岡方惣会所をここに設けていた。

札場の辻跡」(又は、高札場)  

幕府の布達等を掲示する場所で、兵庫には、ここ(南仲町)と東西の惣門、来迎寺の4ヶ所にありました。

写真の左側には、道標がありますが、半分以上土に埋っていて読めません。

古代大輪田泊の石椋(いわくら)」 

大輪田泊は平安時代の初めに律令国家の管理のもと造営された泊(港)です。承知3年(831)には、当時の中国や東アジアの最新情報を取り入れるための

遣唐使船が暴風雨を避けるため入港していました。「石椋(いわくら)」は、石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設であったと考えられます。

 

港の方にやってきました。ここが旧兵庫津です。その昔、廻船問屋の高田嘉兵衛」がここで活躍していました。

嘉兵衛は、津名郡志本村(現:兵庫県洲本市五色町)に生まれ、22歳の時、西出町廻船問屋「堺屋嘉兵衛」のもとに身を寄せ、持ち前の勇気と努力によって、わずか4年後には

千五百石の辰悦丸を建造し、船持ち船頭となった。やがて廻船問屋として独立し、蝦夷地(北海道)の開発、日露間の紛争の解決などに活躍し、兵庫津の繁栄に尽くしました。

竹尾稲荷神社には、「顕彰碑」が、西出町には、「高田嘉兵衛本店の地」があります。

    

街道に戻ります。この辺りは阪神高速道があり、横断歩道は、七宮の信号から渡ります。

信号の手前、「えびす八幡神社」の所に「湊口惣門所跡」があります。

案内板によれば、「西国往還に設けた兵庫の出入り口の惣門」とあります。
また、「兵庫の惣門は天正年間、池田信輝が織田信長の命によって花隈城を攻略し、その功によって兵庫を直し城を築く」とも書かれています。

   

街道は、湊町公園から右折。しばらく歩くとJR神戸駅が見えてきます。神戸駅は東海道本線の終点、山陽本線の起点です。

相生町の古い瓦煎餅屋さんの向い側には「湊川神社」があります。折角ですのでここに立ち寄ります。

  

 湊川神社は湊川の戦いで敗れた楠木正成を祀った神社である。門を入って右に正成の墓があり、本殿の西側付近は正成自害の場とされる。元々は小さな塚だったものを、

江戸時代の初めに尼崎藩主青山幸利(あおやまよしとし)が墓標とし、17世紀末には徳川光圀(水戸黄門)が「嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)」と

刻んだ石碑を立てました。幕末には倒幕志士の尊王のシンボルとなり、王政復古後、伊藤博文らの請願によって1872(明治5)年に神社が創建されました。

地元では、「楠公さん(なんこうさん)」の名で親しまれています。

再び街道へ。神戸駅のガードを潜ると、右側にD51のSLが展示されています。そして元町商店街の前には、「兵庫県里程元標」があります。

    

案内板によれば

旅は道づれ世は情けというが昔の旅人たちにとって唯一の道しるべは里程標でありこれによって明日への旅の希望を抱かせる心の糧ともなったのである。
兵庫県の里程元標は元相生橋の西詰に在ったが昭和6年10月国鉄高架線の完成により相生橋の撤去と共に取り除かれ保存されていたのであり

往時を偲ぶよすがとしてここに移転復活したものである。    文:及川英雄
(元の所在地より西へ約150米移す)
昭和35年年5月吉日

街道は、元町商店街に入っていきます。途中、右側に走人(はしうど)神社」があります。境内には「筆塚」がありました。

   

ちょっと回り道して南京町の中華街へ。中国か台湾の人でしょうか、周りには中国語があふれていました。

豚饅頭の「老祥記」には長い行列ができていました。他にもユーハイム「ミートパイ」やコロッケの「森谷商店」などにも行列です。

並んで買いましたけど、やはり美味しいですね。

   

街道は、大丸の前も通ります。ここに来ると人が多く、急に立ち止まったりされますので普段のスピードでは歩けません。

  

三宮神社」、祭神は、湍津姫命(たきつひめのみこと)。旧神戸村の氏神様です。境内には、神戸事件(滝善三郎正信)の碑が建っています。

生田神社」は創建は3世紀頃と伝えられる長い歴史がある神社で、祭神は稚日女尊(わかひるめのみこと)。西暦201年に神功皇后が三韓外征の帰途に神戸港で船が進まなくなったため、

神占を行ったところ、稚日女尊が現れたと日本書紀に記されている。境内の松尾神社にある杉の木に向かい、恋愛成就の願い事をすると願いが叶うとのいい伝えから「縁結びの神様」としても親しまれています。

生田の神を守る家、神戸(かんべ)が由来となって神戸という地名が生まれました。生田は元々は活田であり、活き活きとした生命力溢れる場所という意味です。

近年はアスリートやアーティストの参拝も多く、神戸中心市街地に位置することから訪れる参拝客も多数です。

 

  

三宮駅のガードを越えると「西国街道」の石碑が建っています。時間は15:25。山陽道・西宮までは、あと約18km。

次回は山陽道のゴールです。

 

  

今日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く(西明石~須磨)その2

2014-04-11 19:58:14 | 山陽道(西国街道)を歩く

その1からの続きです。

2号線山田橋を渡り、その先を斜め右に入っていきます。左側に「舞子六神社」があります。

元禄2年(1689)播州明石郡山田村にて創建。祭神は、「伊邪那岐命」、「伊邪那美命」、「天照皇大神」、「素戔鳴尊」、「月夜見大神」、「蛭子大神」の六社。

「ひがし橋」というのがあります。この橋、橋の欄干はありますが、川がありません。

  

明石海峡大橋の下にきました。

明石藩舞子台場跡(舞子砲台跡)があります。これは、幕末に外国船の侵攻に備えて、文久3年(1863)に幕府の命を受け勝 鱗太郎(海舟)の指導のもと、明石藩が

築造した砲台場です。対岸の淡路島にある徳島藩松帆台場と協力して、明石海峡を通過する外国船を挟み撃ちにしたと考えられます。

明石海峡大橋は、全長3.911m、中央支間1.991mの世界最長のつり橋です。1998年(平成10)供用が開始されました。

建設当初は、全長3.910m、中央支間1.990mであったが、1995年(平成7年)の阪神淡路大震災による地盤のズレが生じ、図らずとも全長が1m伸張することになった。

  

明石海峡大橋の側は、舞子公園になっています。この中には、「孫文記念館」、カネボウの中興の祖「武藤 山治邸」などがあります。

また、明治天皇は舞子の地がお気に入りで行幸は7回にもなります。ここには、明治天皇の歌碑がありました。

  はりまがた 舞子の浜に 旅寝して 見し夜こひしき 月の影かな

  あしたつの 舞子の浜の 松原は 千代をやしなう  処なりけり

  はりまがた 舞子の浜の 浜松の かげに遊びし 春惜しぞ思ふ

   

  

舞子公園を出て左側を見ると神戸牛のお店があります。実は昨夜、折角神戸に来たのだから神戸牛が食べたいと思い、三ノ宮近くのお店を探しましたが、それぞれコースで

1万円以上します。これに飲み物などを含めると15000円ぐらいになります。ちょっと予算オーバーですね。

現在1時20分。ランチだったら少しぐらい安いのでは?と思い店の中へ。店には団体の方がおられ店の方が忙しそうにされています。待つこと20分ようやく店内へ案内されました。

この店はしゃぶしゃぶがメインみたいでどのコースにもしゃぶしゃぶが付いています。思い切って舞子ランチを注文しました。

やはり本場の神戸牛です。柔らかくとても美味しかったです。プチ贅沢しました。

   

お腹もいっぱいになった所で、再び街道へ出発します。

垂水駅の先には「海(わたつみ) 神社」があります。

今から千八百年前くらいの昔、神功皇后(ジングウコウゴウ)が三韓よりの帰路、暴風雨のため、どうしても御座船を進めることができなくなりました。

皇后御みずから綿津見三神をお祭りになり、御祈願されましたところ、たちどころに風波がおさまり御無事に都へ御還りになりました。

その時神功皇后が綿津見三神をお祭りになったところに御社を建て、御神徳を仰いだのが鎮座の由来であります。(海 神社HPより)

福田川にかかる「福田橋」を渡ります。この橋は、大正15年建設の橋です。

  

 街道は2号線を歩きます。塩屋駅近くの「菅公橋」では、工事が行われ、迂回します。

後ろからジョギングで来られた方が私のDバックの「博多から・・・・・・」を見て声をかけて頂きました。

  

須磨区に入りました。ここには「境川」と言って小さい川があります。ここが攝津と播磨の国境になります。

   

 須磨浦公園に入りました、入って左側には「敦盛塚」があります。

このあたりは、源平一の谷合戦場として知られ寿永3年(1184)2月7日、当時16歳の「平 敦盛」が「熊谷次郎直実」によって首を討たれ

それを供養するためにこの塔を建立したという伝承から「敦盛塚」と呼ばれるようになりました。

  

この須磨浦公園は桜の名所で約3000本の桜があります。また、この「敦盛塚」に因み、須磨浦一帯の桜を「敦盛桜」とも呼ばれています。

昨日は、姫路城の桜を鑑賞しましたが、この須磨浦公園の桜も今が満開です。夜にはライトアップされるそうです。

  

   

公園の中央には、「みどりの塔」があります。

1995年(平成7年)1月17日、阪神・淡路大震災で塔の横にあった「地球」のモニュメントが落下したそうです。

  

源平 戦(いくさ)の濱の碑

源氏、平家の一の谷の戦いは、この辺りが主戦場でした。山手に陣を敷いた平家は、赤旗で周囲を埋め尽くしたが、「源義経」の鵯越えの奇襲によって敗走した。

    

17:20山陽電鉄「須磨駅」到着。明日はこの駅から出発します。

今日のGPS

 

 

 

 

 

  

コメント (6)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く(西明石~須磨)その1

2014-04-10 21:33:42 | 山陽道(西国街道)を歩く

4/05 三宮のホテルから新快速で前回ゴール地「西明石駅」へ。西明石駅構内で西国街道のパンフをゲット。

8:30このパンフを見ながら街道歩きスタートです。

西明石駅から山陽道が分らず、近所の人に聞きやっと街道に入りました。この辺りも新幹線の駅ができたりしてすっかり変わったそうです。

葬祭場あたりから左折します。「和坂」と書いてありますが、これは「かにがさか」と読むそうです。難しい読み方ですね。

    

 この一帯、昔は山に囲まれ険しい坂道で坂の上には狐が住み、坂の下の池には蟹が住みそれぞれ旅人を困らせていた。

ある時、狐と蟹は、この坂の勢力争いをする。勢力争いに勝った蟹は、以前にも益して旅人を困らせた。

そこへ諸国を巡行していた、弘法大師が通りかかり蟹を封じ込めた。蟹を封じ込めた場所が、「蟹塚」、蟹が出没していた坂を「蟹和坂」と呼ばれていたが

いつしか「蟹和坂」の蟹がとれ、「和坂」と呼ばれるようになった。

明石市のパンフには、公園の一角に「蟹塚」の石碑があると書いてますが、探してみても見当たりません。通りかかりの方に聞いても知らないとの返事。

多分この倒れた石碑ではないでしょうか?

王子小学校の所に「王子公園」があります。公園内を見てみると石碑に「夏の歳時記園」と書いてあり、横には「山上憶良」の歌碑があります。

  妹が見し  あふちの花は  散りぬべし  わが泣く涙  いまだ干なくに

  (妻のながめた あふち(せんだん)の花は 今頃はもう散ってしまったことだろう 私の涙はまだ乾いていないのに)

公園の先には、「十輪寺」。ここには「太閤さん縁の木」があります。

秀吉が戦勝祈願で手植した杉の苗木が高さ25mほどになり、この付近の名物となった。昭和20年の戦火で本堂及び境内の全てが焼失した。

その時焼けた杉の幹がこれです。

    

十輪寺の先を左折すると山陽電鉄のガードを潜ります。この右側が山陽電鉄「西新町駅」。

南王子の信号を左折すると、県道に合流。大観橋を渡ります。右側を見ると海が見えてきます。久しぶりの海です。

その先には、明石港があります。ここから淡路島行の高速船が出ています。淡路島の岩屋まで13分です。いつか行ってみたいですね。

  

  

本町商店街を過ぎ、鍛治屋町交差点の所に「道標」が建っています。「ひだり 大坂道、みぎ ひめぢ道」。

  

近くを見ると「玉子焼」の看板が・・・・・・・時間は10:30でまだお腹は空いていませんが、匂いにつられ店内へ。

一皿20個入り。家内と一緒にこれをいただきます。これで明石焼き(玉子焼き)は3回目。なにかクセになりそうです。

店内には、美味しそうな「タコのおでん」。明石と言えば「タコ」ですね。早速注文しました。

柔らかく味もよく浸みこみ、まさに絶品です。

   

 明石市の街道パンフには、この辺りに「ラジオ塔」があると書いてます。どんなものかわからず通行中の方に聞いてみますが、皆さん「わからない」とのこと。

地図を見ながら、そのあたりをしらみつぶしに探してみますと、ありました!

中崎公園内にそのラジオ塔がありました。見てみると古めかしく「塔オヂラ」「市石明」と書いてます。

ラジオの送信塔かな?と思いましたがアンテナも建っておらず、案内板もありません。

ネットで調べてみますと昭和初期まだラジオが高価で普及していない頃、公園や寺院などにこのような「ラジオ塔」を設置したそうです。

戦後テレビが普及し始めたころの「街頭テレビ」みたいなものですね。

    

先を進むと「忠度公園」があります。ここには、「冬の歳時記園」があります。前述の丸山公園では、夏の歳時記園でした。

柿本人麻呂の歌碑があります。

 白真弓  石辺の山の  常盤なる  命なれやも  恋ひつつをらむ  

(石辺の山にある岩のように 永久に続く命なら いつか逢えるかもしれないと 恋しく過ごしもできようが 常盤(永久)ではない命なので ただ恋しく思っているだけではいられない)

 

裁判所を過ぎると、天文館みたいな交番があります。これが子午線交番。その横には、「大日本中央標準時子午線通過地標識」があります。

明治17年(1884)ワシントンで万国子午線会議において世界の標準時の取り決めがあった。日本では、この決定に基づき明治21年(1888)1月1日から東経135度子午線時刻を日本標準時として使用することになった。

当時、一般民衆は日本標準時が明石郡内を通過していることを知らなかったのでこの重要性に気付いた明石郡小学校の先生方が給料を割いて建設費を負担し、明治43年(1910)にこの標識を設置した。

   

ここには、道標や花壇がありました。

     

ここで少し街道を離れ、「人丸神社」「明石天文科学館」に行ってみます。山陽電鉄「人丸前駅」を過ぎると右側に「馬塚」の案内板が立っています。

平 経盛の子である平 経正(敦盛の兄)の馬を埋めたそうです。

  

明石天文科学館は、東経135度の日本標準時子午線の真上に建つ「時と宇宙をテーマ」とする博物館です。1960年に建てられました。高さは54m。

天文科学館に通じる歩道には、星座の説明版もありました。山陽本線や山陽電鉄の車窓からも見える建物で明石のランドマークにもなっています。

天文科学館の横には、「人丸神社」があります。

人丸神社は柿本大明神とも称される「柿本人麻呂朝臣」を祀っています。祭神は歌道の神としての信仰を集め学問文芸の神、また「人麻呂」を「人生まる」(人うまる)と解し、安産の神、

江戸時代からは、「火止まる」と解し、火防の神としての信仰もありました。(ウィキペディアより)

神社からは、遠くですが、明石海峡大橋も見られます。

  

  

人丸神社から再び街道に戻ります。山陽電鉄のガード下には、「両馬川旧跡」があります。嘉永3年(1184)一の谷の戦いのあと、平忠度が岡部六弥太に追いつかれ二人の馬が川を挟んで

戦ったので両馬川という名前が付いたそうです。

街道は、大蔵町に入ります。明石宿は、西の大久保と東の大蔵に宿場があったそうです。

大蔵院」があります。嘉吉元年(1441)赤松祐尚は大蔵谷に陣を構えたが、居城を三木城に移すとき陣屋の跡を寺院とした。

ここの墓地には、赤松祐尚夫妻の墓があり夫妻の法名「見江院」「大蔵院」が山号と寺名になっています。

   

大蔵院の先には、稲爪神社があります。

神社の由緒は、推古天皇の時代に不死身の鉄人を大将とした三韓(高句麗・百済・新羅)の軍勢が日本に攻めてきたが、九州では退治できなかった。
四国の伊予の役人、小千益躬が退治せよという命令を受け、一族の守り神「三嶋大明神」に祈ると、神様が現れ、「鉄人の弱みは、鎧兜で守られていない足の裏だから、これを矢で射よ」と言われた。
 益躬は、降参したふりをして、朝廷へ向かう先導役となった。明石の浜で鉄人達が休息をした時、空が突然曇り、稲妻がおき、おどろいた馬から鉄人が落ち、足の裏を見せた。益躬は弓矢で足裏を射て鉄人達はほろんだ。
 この矢を【鬼ざしの矢】という。益躬は、神の現れたこの地へお社を建て、守護神三嶋大明神を奉って「稲妻神社」と名づけ、後に名前は稲爪神社と変わった。

稲爪神社から東に八百メートルの大蔵八幡町の八幡神社[元小千(越智)神社]に稲爪神社創建者の益射は祀られている。

ここで疑問が生じます。私達が学校で習ったのは、神功皇后が「三韓征伐」に北部九州から出発し勝利をおさめ凱旋したということ。

三韓から攻められたということは、習っていません。

   

   

大蔵海岸に通じる道路があります。案内板に沿って大蔵海岸に行ってみます。2号線のガードの横には、明石市マダプトプログラムということで三寿会いきいきクラブの皆さんが

綺麗な花を植えています。

 大蔵海岸と言えば、2001年花火大会の帰る途中、歩道橋で群衆雪崩現象が起き、258名の死傷者が出るという惨事が起こりました。

またその年の12月、大蔵海岸で砂浜陥没死亡事故がありました。こんなきれいな海岸で悲惨な事故が起こったのですね。

この事故以降、花火大会は中止されたそうです。

大蔵海岸の反対側には、明石海峡大橋が聳えています。向こう側が淡路島ですね。

再び街道に戻ります。

大蔵八幡町には、旧家が残っています。このあたりに本陣があったはずなんですが、わかりませんでした。

明石宿は、西の大久保と東の大蔵八幡にあり、大蔵宿には、宝永元年(1704)には、屋敷294、人口1781人、本陣1、旅籠60があり、その繁栄は明治末期まで続いたそうです。

  

穂蓼(ほだて)八幡宮は、前述の稲爪神社と同じ「小千益躬」を祀っています。

   

街道は、2号線と合流。しばらく行くと「神戸市」に入ります。

  

                                                                                                                                              (続く)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く(加古川~西明石)

2014-03-31 17:52:34 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/22 JR神戸線 姫路発7:55新快速で昨日ゴール地の加古川駅へ。加古川には8:05到着。やはり新快速は早いですね。

電車の本数も頻繁にありますので、本当に便利です。(一年前は、1時間に1本の岩徳線に乗っていたっけ・・・・・)

加古川駅前には、加古川のグルメ「カツメシ」のオブジェがありました。

戦後間もないころ加古川駅前商店街にあった「いろは食堂」で考案された 洋皿にご飯を盛り、牛カツをのせ、独特のタレをかけ、箸で食べるスタイルは気軽に食べれる洋食として

親しまれました。今では加古川周辺で100店舗以上で食べられます。

  

さて、今日は街道歩きをする前に「鶴林寺(かくりんじ)」に行ってみようと思います。駅構内の案内所で鶴林寺のパンフを探しますが見当たりません。

また、駅前のバスの時間を見ますが、始発は、10時頃のバスしかありません。仕方なく歩いていくことにします。歩くこと約20分、鶴林寺に到着。

「鶴林寺」は聖徳太子が16歳の時(589年)秦河勝に命じて建てた。仏教を広めるための道場が「四天王寺聖霊院」と称されたのがこの寺の始まりです。

国宝、重要文化財が数多くあり寺宝200余点を蔵し、播磨の法隆寺と言われています。

    

    

   

鶴林寺周辺は、公園になっており、桜の名所でもあります。見ごろは、4月初旬~中旬でしょうか?

鶴林寺から歩いて昨日のゴール地加古川駅に帰ってきました。時間は10:00になっています。

加古川駅の歩道橋は、面白い形をしています。真ん中のタワーは何を意味しているのでしょうか?

商店街を抜け、街道に入ります。町並みを見ると結納屋さんが目につきます。確か、商店街でもありましたし、やはり高砂市に近いからでしょうか?

  

左側に「胴切り地蔵」があります。

参勤交代の行列を横切った人が侍に斬られたが、不思議なことに本人は無事で、この地蔵の胴が切られ、この像が身代わりになってくれたと思い、それ以後

信心するようになったという伝承があります。

龍泉寺五輪塔

境内の西南隅に立っており、水輪は花崗岩製、他は竜山製。本来この塔は、現在地より約西100mの山陽道沿いにあり、昭和10年ごろ、拡幅工事の為現在地に移された。

康永3年(南北朝)の銘が記されている。

    

 先に行くと、野口町に入ります。「おりいの清水」があります。

昔、瀬戸内海を行く船がここで水を汲んだことが記されている。この井戸は、折井の水、織井水、細田の清水とも言われその前の坂を「おりい坂」と呼ばれています。

宝篋印塔(ほうきょういんとう)

宝篋印塔とは、宝篋印阿羅尼を納める塔、後に供養塔、墓碑塔として建てられました。ここの宝篋印塔は、昔から和泉式部の墓と伝えられいます。

和泉式部は、平安時代の女流歌人で各地に伝承が伝わっています。

  

野口村道路元標の先には「教信寺」があります。

平安時代前期の僧 沙弥教信がこの野口に庵を造りました。念仏を唱えながら仏の教えを説き、お百姓の手伝いをし、草鞋を作って貧しい人に与えたり、旅をする年寄りの荷物を運んだり、

大勢の人を助けたことから「荷送り上人」や「阿弥陀丸」とも呼ばれました。庶民仏教の普及に努めた庵跡に建てたのが「教信寺」です。

本堂の前には、大きな桜の木がありました。満開になれば綺麗でしょうね。また、入り口の前に、「西国街道」の石碑が建っていました。

野口神社」は、慶安4年(1651)社殿が、寛文6年(1666)鳥居が建てられました。山王五社宮(五社大明神、五社神宮寺)として約250年、社僧12代により栄えました。

明治になり政府は「神仏判然令」を出して神と仏を厳然と区別しました。

その結果神宮寺は撤去され、社名も五社宮から野口神社に改称されました。

  

    

大型マンション、大型ショッピングセンター、などを過ぎ、「東加古川駅」を通過します。

西谷八幡神社」 御祭神は誉田別命(ほんだわけのみこと)、つまり第15代応神天皇です。

かつて広い野であった西谷を高畑村と新在家村が開発をめぐって争っていました。奉行に委ねても折り合いがつかず、加古新町の長老である澤 才兵衛に意見を求めた所、

「新在家なら『東谷』であろう。高畑から見て西にあるので『西谷』は高畑の土地に相違なし」と釈明しました。

延宝7年(1679)高畑村が開発してできた村が西谷新町となり、澤 才兵衛が自らの村から勧請したのが西谷八幡神社です。

  

先へ進みます。高畑の信号の所に「長松寺(ちょうしょうじ)」があります。ここには道元禅師が若いころ宋にて修行したときの「天童山老典座和尚と若き日の道元禅師」の

石像があります。仏教体の言葉で書かれていますので内容がわかりません。

  

 五社大神、土山薬師を過ぎ、平岡東小学校を過ぎると「明石市」に入ってきました。明石市のマンホールは子午線が描かれています。

    

清水新田の宝篋印塔」があります。

江戸時代、この辺りは、西国街道があり、往来する人が数多く、旅の途中で命を落とすことも珍しくなく、行き倒れとなった人を供養し、地域に災いが生じないように清水新田の人々が

此の地に宝篋印塔を建立した。以前は現在の位置から約30m東北東にあり、幾方と場所や形を変えてきたようですが、老朽化が進み、倒壊寸前の状態だったので現在の財産区墓地に移された。

   

瀬戸川を渡ると、右側に明石市給水塔が見えてきます。

    

清水神社には、県指定文化財の「清水のオクワハン」があります。毎年田植え後の日曜日、伊勢講の講親4人が桑の木で作った小さな鍬「オクワハン」と御幣を持って水田を歩き、

今後の稲作の無事を祈るそうです。

  

魚住の町には、たくさんの「溜池」があります。

調べてみると、明石、高砂、加古川、播磨、神戸西区の一部に溜池があります。

瀬戸内海沿岸で一年間を通じて降水量が少ない地域でもあります。一昨日でも私は太子町で雨に遭いましたが、明石にお住いのブログ友達 Kちゃんの所は全然降らなかったそうです。

また、山からの湧水は、冷たいので冷たい水は稲作には適さず、一旦溜池でためることにより水温を上げることも考えられます。

そういえば、播磨地方は、山田錦の本場ですね。

  

明石市にはコミュニティバス「TACOバス」があります。明石というと「タコ」だからTACOバスなんでしょうか?

「大山寺道」の道標を行くと、「金ヶ崎神社」です。金ヶ崎神社は元は黒石神社と呼ばれていたそうです。

     

大池東の交差点で2号線と合流。左側にはコカコーラ、富士通の工場が立ち並んでいます。どういう種類の桜かわかりませんが、満開の桜がありました。

兵庫県はまだソメイヨシノの開花宣言はされていませんが・・・・・・・(3/28開花宣言されました)

大久保西の信号を右折。街道は2号線と並行して走っています。左側には「大久保駅」があります。

   

 時間も14:00を過ぎました。お昼はまだでしたので大久保駅前の喫茶店に入りました。喫茶店のママさんは「博多から歩いている・・・・」のプラカードを見てびっくりされていました。(笑)

30分ぐらい休憩し再びスタート。右側に「明治天皇大久保御小休止建物」と書かれた洋館が建っています。

昔は、大変モダンな建物だったでしょうが、今は誰も住んでないみたいです。ここが「安藤家」です。

安藤家は、大久保宿の本陣でした。今でも街道沿いに大きな建物が建っています。

   

  

15:40今日のゴール「西明石駅」到着。

明石というと「明石焼き」ですね。西明石駅の方に聞きますと、明石焼きのお店は、隣の「明石駅」に沢山あるとのこと。

電車に乗り明石駅へ。入ったお店は、ガードの下にありました。

初めて食べる「明石焼き」はタレを付けて頂きます。一口食べてみますと何か卵焼き感覚。中からは大きなタコが出てきました。美味です!!くせになりそうです。

    

次回は、桜の姫路城も訪ねてみたいです。

今日のGPSですが、途中GPSが間違った方向を示していました。

3/21~23のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く「播磨高岡~加古川」

2014-03-28 22:44:17 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/22 姫路の朝は寒いです。スマートフォンの温度を見ると1℃。

昨晩食事に姫路駅周辺に行きましたが、町の大河ドラマ「軍師 官兵衛」のキャンペーンは凄いです。いたるところに官兵衛の幟旗が立っています。官兵衛の「あんまん」もあります。

姫路は官兵衛の生まれた町ですね。

      

今日は昨日廻れなかった人丸神社、稲岡神社などを廻り加古川に向かおうと思っています。

姫路駅発8:02の姫新線で播磨高岡駅へ。

姫路駅ではICカードでタッチして構内に入ったのですが、ここ姫新線ではICカードが使えないのですね。

高岡駅からバスで「青山出屋敷」へ。今日はここから歩きます。

初めに行ったのが柿本人麻呂を祀った「人丸神社」。

   

歌碑には「あおやまや あさかげ沼の こがくれに  あはんとすれど あふよしもなし」と書かれています。

柿本人麻呂が播磨守だったころこの地に遊行して数か月過ごした。離れて暮らす妻を愛でみて懐かしんで詠んだとされています。

人丸神社を降りると「稲岡神社」があります。

永禄12年(1569)西播磨守護代赤松政秀と姫路・黒田官兵衛の戦い「青山の戦い」の舞台になった所です。

この戦で亡くなった方をこの神社で祀っているそうです。

   

先に進みますと「播磨仙人了空翁生誕地」の石碑がある「教専寺」があります。

夢前川(ゆめさき)の手前には、五角形の道標が立っています。安政2年の作で「左 備前、九州、金毘羅、宮嶋」 「すぐ 姫路、大坂、京、江戸往来」と書かれています。

  

夢前川に差し掛かります。夢前川って何かロマンチックなネーミングですね。昔はこの川も戦場だったのでしょうね。

今では大きな橋ができていますが、江戸時代ここも渡しがあったのでしょうか?対岸には、常夜燈がありました。

  

橋を渡ると「下手野」に入ります。下手野の公民館の前には「西国街道」の石碑が建っています。兵庫県に入ると「山陽道」がいつの間にか「西国道」になっています。

空は真っ青です。民家の山茱萸の黄色と空の青がとてもマッチしています。

    

街道から少し入り込みますが、「船越神社」があります。ここは黒田官兵衛の「土器山(かわらけやま)の戦い」の場所でもありました。

大河ドラマの影響でしょうか、案内板も地元の自治会の方で新調されています。また、陣地跡の地図は手書きです。

    

説明文によれば

 永禄12年(1569)黒田官兵衛孝高は播州姫路城を攻略せんとする龍野藩主赤松下野守政秀を迎え撃つために此処土器山に布陣した。

時に官兵衛は24歳、正室幸圓(こうえん)は17歳のときのことである。

龍野城を出た赤松軍勢は龍野街道(旧山陽道)一路に青山桜峠にさしかかり、はるか東に望む姫路城を手中に治めんと意気を挙げ菅生川を渡りたむろした。

官兵衛は元来御着城小寺政職(まさもと)の家臣にあらずといえども旗下に属せしかば、其職を勤めんと官兵衛の父「職隆(もとたか)」の立場や義理、恩義をわきまえ、赤松政秀をむかえ打った。

官兵衛の胸中では何より姫路城中で生まれ育った郷愁の念が深く刻み込まれていった。それ故に何が何でも姫路城を指一本も他人にふれさせたくなかった。

此処土器山東方一里足らずに姫路城を控えての防戦。敵方より味方の不意を窺って襲来(おそいきた)り、急に囲い込むという戦法が功じて勝利する。

姫路城をこよなく愛した官兵衛の功績を賛美して史蹟とする。(下手野自治会)

官兵衛はこの戦いで家臣母里武兵衛などを失っています。

街道は、下手野東信号で2号線と合流し、今宿西から左折し旧道に入っていきます。

    

車橋の碑」があります。説明文によれば

池田輝政が姫路城築城の際、石材や木材を車で運んだことから車橋や車門の付いたといわれる。碑が川から離れた所に建立された訳は謎。

一方、付近の水路にかかる橋の欄干が車輪に似ていたことから碑が建立された説もある。

  

地内(じない)という町に来ました。右側に大きなお寺があります。「本徳寺」です。

元和4年(1618)城主本多忠政が東本願寺(大谷派)の実如の要請により姫路に東本願寺の中心になる寺を造るため、もと池田家の組屋敷百間四方を寄進して建てました。

播磨における真宗大谷派の拠点となる寺です。

 

 

左側に姫路城の石垣が見えてきました。姫路城はすぐそこです。

船場川を渡ると「船場八景」の看板が見えてきます。江戸時代庶民が作った和歌から選出したものだそうです。

この中の「みどり橋」を通りました。

  

みどり橋を渡ると飲食街です。更に先に進むと「西二階商店街」に差し掛かります。ここが姫路で一番の繁華街。江戸時代には、本陣もありました。

商店街は、「軍師 官兵衛」の幟や垂れ幕などがたくさん掲げられています。私の地元「福岡」より凄いです。デパートには「官兵衛グッツ」売り場が特設されています。

  

    

商店街には、姫路ゆかりの人物や場所等の案内板が付けられています。

    

  

商店街でタイ焼きやさんを見つけましたので一つ買ってみました。タイ焼きに羽根までついて美味しかったです。

 

大手前通りを左折すると、国宝「姫路城」が見えてきます。姫路城は現在平成の大改装中。来年の今頃には、リニューアルされた姫路城がお目見えします。

   

   

姫路城の桜は、まだまだ蕾の段階でした。ネットで調べてみると28~29日ごろ開花予定だそうです。

姫路城に隣接する「護国神社」では、結婚式が行われるのでしょうか、鳥居に赤いじゅうたんが敷かれていました。

東光中学校の「外京口門跡」を通り、市川で2号線と合流します。

  

市川を渡るとすぐ右折、山脇を過ぎ、西御着には、「山陽道一里塚」があります。この一里塚、兵庫県に入り初めて見ます。

市街化の影響で昔の一里塚も無くなってきたのでしょうか?説明文には「次の一里塚は東が高砂市豆崎、西が姫路市下手崎」となっています。

新幹線、山陽本線のガードを潜ると「御着」に入ります。

    

  

御着城は、天川城ともいい、東西約227m、南北約214mの地域に此処を流れる天川の水面より約5mの丘地を城域としその本丸、二の丸は何れも約109m四方にあったので

御着茶臼山城とも呼ぶ。

初代城主加賀守小寺藤兵門尉政隆は村上天皇の第7子具平親王を祖とする赤松族宇野家末葉小寺豊職の子で永正16年御着に築城して之に移ったが、享禄3年浦上村宗に攻められ討死した。

政隆の子則職は政隆の歿後御着城に移り住み、その後は則職の子政職(まさもと)が之を守った。

その頃羽柴秀吉に攻められ政職一族の精兵は秀吉軍勢と一時辰巳の谷に退陣させ奮戦したが衆寡敵せず、遂に天正6年7月落城した。小寺城主は此地に三代に亘り64年間居城した。

政職の子久兵衛政則は城域御着を流れる天川の辺に住んだのでその名をとって小寺の姓を改め、天川久兵衛と名乗り大庄屋を勤めた。

天川久兵衛の子孫は代々此地に家系を継ぎ天川藤三に及びその一女みをは、龍野藩主脇坂家より眞雄を迎え、藤三の次代を継ぐ。眞雄の子、保を経てその長男、誠は太平洋戦争に戦歿し、

道子長男天川洋介は家計を継いで現在に至る。  昭和41年4月  (案内板より)

今でも、御着の町には、「天川」姓の住居多くが見られます。

町では「みくにの官兵衛まつり」が行われていました。小学生のボランティアガイドがそれぞれ御着の史跡を紹介するというものです。

今日はその模様を地元のテレビ局が取材していました。

 

  

  

  

この時代、御着城の方が姫路城よりも規模が大きかったそうです。

私、この日もDバックに「博多から~」のプラカードをぶら下げていましたので御着の方が丁寧に説明していただきました。

姫路市東出張所は、御着城を模して造られたそうです。

  

御着の町並みは、昔のままのたたずまいが残っています。

    

御着を出ると別所町に入ります。池にはレンコン畑でしょうか、ハスの枯れた茎が見えてきます。左側には「弁慶地蔵」があります。

弁慶の母は、福居村(別所)の生まれで山廼井といい、父は熊野神社別当であるという。書写山に預けられた弁慶が京からの途中、福居村庄屋の娘玉苗と一夜を共にしたのが

この地蔵堂であると伝えられている。

六騎塚」は、「太平記」巻十六によれば延元元年(1336)足利尊氏が大軍を率いて九州から東上してくるのを備後守範長が迎え撃ったが、戦いに敗れ最後に主従6騎となり、

阿弥陀宿の辻堂で自害したという。

 

   

高砂市に入ってきました。高砂市のマンホールは、松が描かれています。豆橋の歩道橋を渡り山陽線のガードに差し掛かります。

曽根駅高架の下には4基の道標があります。

   

街道は、2号線魚橋西を交差し再び旧道に出ます。左側に「正蓮寺」があります。正蓮寺は工事中で中に入れませんが、ここは、「月の沙漠」「お山の杉の子」を作曲した「佐々木 英(すぐる)」の生誕地です。

明治25年に阿弥陀町魚橋に生まれ、阿弥陀尋常小学校、姫路師範学校を卒業。しばらく郷里の小学校で教鞭をとった後、援助を得て東京音楽学校(現東京芸大)に入学。卒業後、

浜松師範学校の教諭になったが、大正11年に作曲家を志して上京、翌年「月の砂漠」を作曲して童謡作曲家としての地位を確立した。作曲のほか、青い鳥児童合唱団を主宰するなど、

一生を音楽活動に捧げ、その功績には特筆するものがあります。入口の碑は森繁久弥さんの筆です。

  

正蓮寺の先には、登録有形文化財になっている「土田家住宅旧魚橋郵便局舎」があります。

土田邸を改造して明治7年12月6日業務開始した。開設された当時兵庫県印南郡阿弥陀村と呼ばれていた。

印南郡の中央部に位置しており、印南郡役所が所在し、旧山陽道が村の中央を東西に貫通していた。

街道は、魚川橋を通り、2号線のガードを潜っていきます。

  

ガードを通りしばらく行くと山片蟠桃(ばんとう)が幼年期を過ごした家や結婚記念に寄進した生田神社の常夜灯があります。

山片蟠桃は、幼時から大坂の両替商である升屋に仕え、若くして番頭となり手腕をふるい傾いていた経営を軌道に乗せた。また財政破たんした仙台藩に建議した。

  

JR宝殿駅より加古川市に入ります。

宝殿駅には、結婚式で謡われる謡曲の「高砂」のモニュメント「尉(じょう)と姥(うば)」があります。

     

平津の交差点で2号線に合流、加古川を渡ります。渡ってすぐ左折、そのまま直進します。

加古川の寺家(じげ)商店街が見えてきました。このあたりが「加古川宿」です。寺院がこのあたり莫大な領地を所有していたことからこの名がついたそうです。

ここ加古川でも「官兵衛」ゆかりの地です。官兵衛の正室「光(てる)」が加古川・志方城主櫛橋家の出です。

本陣跡には、新しい家が建っていました。

  

   

   

17:00今日のゴール加古川駅に到着しました。駅周辺を見てみるとブログ友達ちゅうさんお薦めの「えきそば」があり食べてみることにしました。

中華めんに和風だしのミスマッチですが、なかなか美味しかったです。

帰りは、宿泊ホテルの姫路まで新快速で帰りましたが、たった10分で姫路に着きました。朝から何時間もかけて加古川まで歩いてきましたが、やはり電車は早いですね・・・・・・・・

 今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (8)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く(有年~播磨高岡)兵庫県

2014-03-26 08:22:33 | 山陽道(西国街道)を歩く

3/21博多発始発(6:05)の新幹線で岡山(7:48)へ。岡山から山陽本線で前回ゴール地の有年駅へ。有年駅9:15着。今回もDバックに「博多から・・・・」のプラカードを付けています。

有年駅は、工事中でホームから改札口まで少し距離がありました。

有年駅は、1890年に山陽線開通の面影を残してる駅舎でしたが、近代的な駅舎に変わろうとしています。

       

駅前から旧道沿ってに歩きます。角に「有年村道路元標」が建っています。横には「兵庫県」の文字が・・・・

旧道を歩くと2号線に合流します。ただこの国道、歩道がなく道路の端を歩きますが、休日というのに大型トラックが激しく往来しています。トラックに巻き込まれそうで怖いです。

     

「相生市若狭野」に入ってきました。相生市は、ペーロンの街です。相生市のペーロンは大正11年(1922)長崎出身の造船所作業員が紹介したのが始まりです。

今では5月の末ごろに相生港まつりとしてペーロン祭りが行われています。

    

 若狭野町からは、2号線を離れ旧道に入ります。

若狭野天満神社、円立寺を過ぎ、入野の信号で再び2号線に合流。

  

   

山陽線、新幹線のガードを抜け、神姫バス車庫裏を通ると「JR相生駅」に出てきます。

相生市は、人口約3万人、駅前は駐車場やホテルがありますが、市の中心は駅から約2kmの港の方にあります。

時間も11時半になりました。今日は朝が早かったのでお腹もすいてきました。休憩を兼ねここでお昼にします。

駅の南口に「狐塚古墳群」「陸(くが)天神社お旅所」の石碑が建っています。その横の公園には、西国道の道標(是より左あかほ城下道、是より右さいこくみち)があります。

  

 鮎帰川を渡ると大きな「ミモザ」の花が咲いています。その近くにはモニュメントが・・・・・

これは、生命の循環といって植物の種から発芽、成長し花を咲かせ実をつけていく・・・・永遠に続いていく生命の循環を市の花「椿」で表現しています。

   

街道は、たつの市揖保川町原に入ります。この辺りが「片島宿」です。片島宿は、隣の正條宿との間宿で元禄時代は「原八軒」と呼ばれていましたが、徐々に発展し「原八丁」と呼ばれるようになりました。

今でも国道から離れているせいか、旧家が立ち並んでいます。

    

 

竜野駅の向え側に大きな神社が建っています。興味津々で神社に入ってみると、ここは「神戸(かんべ)神社」です。

御祭神は、大己貴命、少彦名命。

秋例祭が菜しわずの祭といわれるのは、弘法大師が全国行脚の途次に菜を所望されたのを地元の方が固辞したため以後秋祭りの碑に菜を食べたものは、腹痛をおこすという伝承との習合によるもので

当神社を「なくわずの宮」ともいう。神社には他に石神さんもありました。

  

再び街道に戻ります。JR竜野駅前には、「ジェニオ広場」という円形の噴水がありました。

    

 片島宿から約1kmぐらいの所に「正條宿」があります。本陣は「井口家」。明治18年(1885年)明治天皇がご巡行されたときこの井口家で休憩されています。

その時の石碑が建っています。 揖斐川郵便局の横路には「道標」があります。(右、ひ免ぢ かうべ、左、た津の 山さき)

  

先に進むと「揖斐川」です。昔はここに「正條の渡し」がありました。近世の山陽道はたつの市揖保町から揖保川を渡り, 揖保川町原を通って 相生市那波野に抜ける道で,現在も町道としてつかわれています。

この山陽道で揖保川を渡る時には渡し船が使われていました。

「地水(ふだんの水の量)二文、中水八文、備水(大水のとき)十六文」という渡し賃を記した川札があったといいます。

ここでは数隻の高瀬舟が待機していたそうですが、大名行列にもなると舟が足りず、対岸の揖保村や真砂村から借りたといわれています。室津道と山陽道とが交わるこの地は,

交通の要所となり,かなりのにぎわいであったと想像できます。明治初期まで高瀬舟はあり乗客を待っていたそうです。(たつの市教育委員会社会科副読本編集委員会より)

  

 童謡「夕焼け小焼け」の作詞家「三木露風」は、今は、たつの市になっていますが、旧龍野町揖保の出身です。

マンホールや歩道のコンクリート蓋には「赤とんぼ」が描かれています。

三木露風は、5歳の時両親が離婚しその後、祖父によって養育されました。幼い露風には、子守奉公の姐やが彼を負ぶって子守しました。

♪おわれていたのは いつの日か♪ この歌詞、私は追われていたのは・・・・・と思っていましたら、背中に負われていたのは・・・・・なんですね。

揖保郵便局の近くには、「揖保村」の元標があります。時代と共に埋もれていき現在はようやく「揖保村」と読めるぐらいです。

 

      

庄屋弥右衛門賞彰功碑を通り、林田川を渡ります。渡ったらすぐ右折。太子町「鵤宿(いかるが)に入ってきます。

太子町は、聖徳太子と大変かかわりのある町、歓迎看板の下に聖徳太子のイラストが描いてあります。

空を見るとなんだか怪しくなり、雨がポツリポツリしてきました。急遽コンビニへ雨宿りします。

  

   

太子町を歩いていると、左側と右側に大きな工場が見えてきます。ここが「神戸燐寸(マッチ)」です。すぐ近くには大きなお醤油屋さんもあります。

斑鳩寺(いかるが)の門前に成立した鵤宿は、本陣があるだけで人馬の継立てはしない宿場でした。

  

斑鳩寺は、常夜灯の所から約400mぐらい行った所にあります。同じ「いかるが」でも宿場は「鵤」、お寺は「斑鳩」・・・・何か使い分けが難しそうです。 

伝承によれば、606年(推古天皇14年)、聖徳太子がが推古天皇から播磨国揖保郡の土地360町歩を賜り、大和国斑鳩から移住し当地を斑鳩荘(鵤荘)と命名、伽藍を建立した、とされ、これを斑鳩寺の始まりと伝える。

606年、聖徳太子が推古天皇に法華経を講義して、播磨国の水田を賜ったことは史実と認められ、その縁で当地に斑鳩寺が建てられたものと思われる。

長らく大寺院であったが、室町時代後期の1541年(天文10年)、守護大名である赤松氏・山名氏の戦禍を受け、灰燼に帰した。後に、播磨を地盤とする赤松氏等が発願し、

徐々に復興していったとされる。また復興を機に、従来法隆寺支院であったのを天台宗へ改めた。

聖徳太子の生誕地奈良県明日香村の橘あ寺と、墓所の大阪府太子町の叡福寺を結んだライン延長上に、この兵庫県太子町の斑鳩寺が位置する。(ウキペディアより)

  

  

鵤宿の本陣は、太子町役場付近にあったそうです。

再び街道に戻ります。東南口のバス停から国道179号線と合流します。又空模様が怪しくなってきました。

どこか雨宿りする所はないかな?と探していると前方に大型家電店があります。とりあえずそこへ入ります。大型家電店は消費税増税前だからでしょうか、お客様が多いです。

15分ぐらい雨宿りをして再び出発。

太田小学校の所に「鵤荘傍示石」があります。

案内板によれば

当地は聖徳太子が推古天皇から賜ったという法隆寺領播国鵤荘の故地である。鵤荘では、その境界を明示するために傍示石を置いていたが、法隆寺にある嘉歴4年(1329)の

鵤荘絵図には12か所に傍示石が描かれている。現在傍示石と考えられる石は、県指定文化財4ヶ所、参考地5ヶ所が知られ、これらは荘園の傍示というだけでなく

条里制との関連の上でも重要視されている。

これらの石は、聖徳太子の投げ石8大使が自分の領地の境界を決めるために檀特山の上から投げた石)と言い伝えられている。

  

時間はもう5時になろうとしています。今日の予定はこれから「山田峠」を越え播磨高岡までですが、関西は九州よりも日の入りが30分ぐらい早いので少し急ぎます。

行基菩薩作の「太田地蔵尊」があります。

行基は、奈良東大寺の大仏を建立したことで知られています。また各地に道や端、池などを造り人のために働きました。

黒岡神社」は秋に五穀豊穣と郷土の繁栄を願って江戸時代末期から伝えられた沼田獅子舞が奉納され田中地区の屋台が練り出します。

   

「題目碑」を通り再び国道と合流します。

「山田」の信号より「山田峠」に入ります。新幹線のガードの所で道に迷ってしまいました。散々迷った挙句、近くに農作業をされている方がおられましたので道を聞きました。

私達は少し行きすぎていたみたいです。

山田峠は思ったほどきつくなく、ただ頂上付近はちょっと肌寒さを感じました。

  

  

山田峠を越えると姫路市に入ります。

時間も5時半近くになっています。これから人丸神社、稲岡神社などを廻る予定ですが、日が暮れますのでここは明日廻ろうと思い、播磨高岡駅を目指して歩きます。

急ぎ足で歩いたせいか、播磨高岡駅には、6時12分に到着。6時17分の姫新線で今夜の宿の姫路駅に向かいました。

  

 

今日のGPS

 

 

 

 

 

 

 

コメント (14)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く「三石宿〜有年(うね)宿」兵庫県に入ります

2014-01-11 14:47:11 | 山陽道(西国街道)を歩く

1/04 車を相生駅に置き山陽本線で昨日ゴール地「三石駅」へ。三石駅9:58着。

今日は、三石から船坂峠を越え兵庫県との県境の有年(うね)宿まで歩く予定です。

山陽本線と並行している旧道を進むと左の丘の上に「三石一里塚跡」があります。駅前にも一里塚がありましたがそれとは別かな?

先に進むと踏切があります。これから電車は、「船坂トンネル」です。旧街道は2号線と合流ししばらく行くと「梨ヶ原」の看板を左折します。

    

船坂峠に入りました。峠ということでしんどいのでは?と思っていましたが、そんなに急な峠でなく登っていくとすぐに頂上に着きました。

                    兵庫県に入りました!

岡山に入って9日目。やっと兵庫県に到着です。

     

船坂峠を下ると赤穂郡上郡町梨ヶ原です。

兵庫県に入ると山陽道が「西国街道」に名前を変えます。

   

梨ヶ原宿は三石宿・有年(うね)宿間の「間(あい)の宿」の休憩所で宿屋や茶店がありました。明治18年明治天皇がここに来られた時の記念碑も建っています。

       

船坂神社」があります。中に入ってみますと備前焼の狛犬や子供を連れている狛犬、玉を転がしている狛犬があります。

    

また本殿に入ると赤穂浪士47士の絵馬が奉納されています。ここ梨ヶ原は赤穂郡ですね。赤穂と言えば「赤穂浪士」です。

   

梨ヶ原集落の東の入り口に「有年」の標示があります。本来はこの街道これから「有年峠」という所を通るのですが、街道を歩いた先輩方のブログを見ていますと、イノシシが多いため柵があったり

またイノシシ駆除為3月末までハンターがいるから音のするものを持っていく・・・・・などと書かれています。家内と有年峠を通るか、2号線を通るか話し合った結果、安全な2号線を行くことにしました。

   

国道2号線は最初は歩道がなく道路の端を歩きましたが、車の往来が激しく怖いです。落地神社を過ぎると「鯰峠」に差し掛かります。昔は有年峠だけでしたが明治16年に山を切り崩してこの道路を造ったそうです。

昔はこんなに広くはなかったのでしょう。今は歩道もあり安心して歩けます。峠の頂上から「赤穂市」に入ります。

「西有年」に入りました。有年峠を通った街道はこのあたりに出てきます。橋を渡り「大避(おおさけ)神社」の所から2号線と別れ旧道に入ります。

大避神社は、大避大神(秦 河勝)をお祀りしている神社です。本家は赤穂市坂越にあります。また、赤穂市の巡回バスの名前が「ゆらのすけ」というのも面白いですね。

大避神社の先に歴史の案内の碑が立っています。もう消えかかってわかりずらいですが、「西有年宮東遺跡」です。

案内板の横には「平安時代末から鎌倉時代頃の掘立柱建物跡がたくさん見つかった。いっしょに壺や皿などの土器も出土した。」と書いてあります。

私、「宮東遺跡」というのを知りませんでしたのでネットで調べましたが、全国にあるのですね(埼玉、会津・・・・・)。大避神社に関係するものでしょうか?

とその時、消防車と救急車のサイレンの音・・・・・何事かな?と思って消防車の方を見ると国道で軽自動車が転倒しています。もし私達が大避神社に行かずにそのまま国道を歩いていたらこの事故に遭遇していたかも

知れません。大避神社のおかげです。

「東有年」に入ってきました。

    

 淳泰寺、有年小学校を通ると国道の所に弥生時代の住居が立っているのが見えます。興味深々でそちらの方に寄り道します。

   

    

説明文によると、

有年地区は千種川とその支流によって形成された東西に長い盆地であり赤穂市において最も遺跡が密集する地区となっている。

平成元年~平成4年迄圃場整備事業に伴って調査が行われ縄文時代後期(3500年前)から室町時代にかけての建物跡がたくさん発掘され、太古から人々が断続的ながら長期間「ムラ」を

営んできたことが明らかになった。ここでは弥生時代後期(1800年前)竪穴住居7棟、古墳時代後期(1450年前)竪穴住居22棟及び高床倉庫1棟が密集して検出された。

古墳時代の住居跡からは須恵焼、土師器、ミニチュア土器、鏃、紡錘車(糸を紡ぐ道具)など当時の生活を偲ばせる道具が多数出土したほか、古墳時代としては全国的にも珍しい土馬(土で作った馬の模型)も見つかっている

東有年の信号の所に「八幡神社」があります。八幡神社の鳥居は、延享元年(1744)の創建で今年で270年経つそうです。

八幡神社を左に行くと「有年(ありとし)家長屋門があります。宿場は有年(うね)ですが、ここでは有年(ありとし)です。どちらが先だったのでしょうか?

    

有年家は、江戸時代この地の大庄屋を務めた家柄であった。この長屋門は高さ8尺の石垣の上に建ち白漆喰の練塀、納屋と並び建って庄屋屋敷の格式を強く印象付けている。

赤穂市内に残る江戸時代の長屋門は赤穂城内にある大石良雄宅跡長屋門、近藤源八宅跡長屋門及びこの有年家長屋門のみであり主屋と一体となって赤穂藩の庄屋の

屋敷構えを残す貴重な文化財と言える。(説明文より)

東有年信号から旧街道に戻ります。

有年宿はかつて近世山陽道を備前国から東に山を越えた西有年上所にあった。然し街道の往来が増えるにつれておよそ1里東の熊見川(千種川)の川待ちに対応するためより川に近い

東有年に宿場が移された。参勤交代の際に大名が宿泊する本陣は、有年宿内でもやや左寄りにある「柳原家」に設けられたが現在は標柱があるだけとなっている。

また脇本陣は宝永3年(1706)の古文献では「儀兵衛宅」に設けられたとあるが場所等の詳細は不明である。

旅籠では柏屋、瓦屋、新屋、亀屋、蔦屋、菊屋、丸屋、紙屋、横屋、渋屋、池田屋、有田屋、角屋など数十軒があり今もこの屋号で呼ばれる家がある。

このほかにも木賃宿、商人宿、茶屋、牛馬宿、各種の商店等が軒を連ねていたが残念ながら数度の水害により浸水被害を受け、古い町並みの殆どが取り壊されており、

今は見る影もなくなっている。

  

   

時間は13:30分を過ぎてきました。街道は千種川を渡り有年駅に向かいます。途中「池魚塚」というのがありました。

道路改修資金のために売られた池の魚への感謝とその供養の塚。

14:00JR有年駅到着。今日はこれから車で自宅まで帰らねばいけませんのでここまでとします。

有年駅では、「特急スーパーはくと」が追い越していきました。

   

今日のGPSです。

 今回3日分のGPSです。西宮まであと約110kmぐらいになりました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (16)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く「長船~三石」

2014-01-09 22:15:46 | 山陽道(西国街道)を歩く

1/03 岡山発7:52で前日ゴール地JR長船駅へ 長船駅8:20着。長船駅から約30分かけて備前大橋へ向かいます。

       

備前大橋から2号線を歩きます。道路が広く川面を眺めながらのウオーキングです。土手には「道標」があります。左「西大寺みち」右「久だ里みち?」。

街道は右カーブになっています。新幹線橋梁横には「長船パーキングセンター」があります。ここには温泉があるそうです。ここから右折すると「天王社刀剣の森」があります。

     

説明文を読むと

 この森の松は足利尊氏ゆかりの松で、その昔(1331年)新田義貞に敗れ九州に落ちる途中、この地で再起を祈願した尊氏が後に願いが叶ったお礼に九州日向から持ち帰り寄進した松の子孫とされ、

 昔から日向松と呼ばれています。

 森の西側は旧山陽道(現2号線)に接し吉井川の水運と相まって、交通の便に恵まれ、往時は刀の産地「備前長船」として栄え、その模様は「鍛冶屋千軒打つ槌の音に西の大名が駕籠とめる」と

 謳われたほどで多くの名刀を産出しましたが、現在は古跡としてのみ侘しくその名をとどめています。(以下略)

天王社の裏側には、「備前長船刀剣博物館」がありますが、残念なことにお正月休みで入ることができませんでした。博物館の近くには「刀剣ギャラリー」もありますが、こちらもお休みでした。

    

再び街道に戻ります。街道は長船パーキングセンターの先で新幹線のガードを潜ります。潜ると「備前市」に入ってきます。しばらく歩くと「香登(かがと)宿」です。

香登の入り口には「石長姫神社」があります。ここの常夜灯は嘉永2年(1849)作で上の部分が天然石でできています。

    

香登宿は、片上宿と藤井宿の間にある間宿で吉井川が川止めになると滞留客で賑わっていました。香登は、塩や木綿、油などの地元物産の集散地として商家が多く酒造や油絞りなども盛んでした。

歩いていると民家の庭先に「明治天皇香登駐輦(ちゅうれん)」の碑が建っています。

     

香登を歩いていると正月飾りの珍しいものがありました。角松でしょうか?

大内(おおち)神社の境内の高い所には、「香登の一里塚」があります。香登地内には南北に1対の一里塚が造られました。北側のこの一里塚は、南北7m、東西5m、南側の高さ1.8m、周囲は石積みで囲まれていました。

南側の一里塚は、明治20年ごろ塚石を利用して用心井戸を造ったため今はもうありません。

       

香登宿を過ぎると右手に大きな池が見えてきます。「大ヶ池」です。

この池には、新幹線の橋梁が池の中にあります。この池に新幹線が通る所をカメラで構えました。

普通ですと3~5分間隔で新幹線が通るのですが、出来れば上下線がこの池ですれ違う所を撮ってみたかったのですが、この日は上りは何本か通るのですが下りがあまり通りません。

30分ぐらい待ちましたが下りの新幹線が来ません。あとで分かったことですが東京駅近くで新幹線そばのビルの火災のため新幹線が停まっていました。

    

「伊部(いんべ)宿」に入ってきました。

入ってくるなり町のあちらこちらに「備前焼」の看板があります。

    

備前焼は平安末期頃、伊部で壺、甕、鉢などの生活雑器が作られたのが始まりとされています。備前焼の実用性が高く評価され室町末期には共同の大窯で量産されるようになり全国に広がりました。

備前焼の飾らぬ素朴さが茶人に好まれ茶陶が盛んに作られるようになりました。

江戸時代備前藩主池田光政公は窯元から名工を選び御細工人として援助するなど備前焼を保護奨励しました。布袋、獅子などの置物のほか酒徳利や水瓶などの実用品も大量に作られました。

明治以降一時的に衰退し廃業、転職と苦しい時代が続きましたが陶工たちの弛まぬ努力により昭和31年初代人間国宝として金重陶陽、以後平成16年まで4人の人間国宝を輩出しました。(備前焼案内文より)

     

店頭の備前焼の価格を見ていますといい作品にはそれなりの価格がついていますね。

町の中に「天津神社」があります。天津神社は、由緒書によると、応永18年(1411)以前の創立で、昔は浦伊部にあったが、御神託により、天正7年(1579)に現在地に遷宮した。

本殿は、棟札によると、延宝6年(1678)の建築で蟇股、虹梁、木鼻の繰形が特にすばらしい流れ造りの、堂々とした一間社で、江戸前期の一間社建築としては例のないすぐれた建築である。

境内には日本で最も古い歴史がある焼き物である、備前焼の狛犬、備前焼のタイル参道、備前焼の瓦、備前焼の角陶印陶板が飾られた壁、備前焼の十二支など、備前焼製のもので溢れている。(神社由緒より)

境内を散策しているといろんな所に備前焼が使われていてそれを探すのも楽しかったです。見事です。

     

     

伊部東の信号で写真を撮っていたら後方からけたたましく車のクラクションを鳴らしてくる軽自動車があります。振り返ると目の前に狭い路地から50~60km/hぐらいのスピードで走ってきた車が・・・・・

約5mぐらいの距離でした。咄嗟に横に逃げましたがその車は交差点に差し掛かっても徐行もせずまた左右も確認せずスピードを上げて去っていきました。(制限速度20kの所)

乗っていたのは50~60代の男女でしたがお正月ですし、多分酒を飲んで運転していたのでしょう。本当に怖かった・・・・・・

また、昨日は岡山市内の京橋を渡った所の横断歩道が青になったので渡っていたら左から猛スピードで来た車がこれもけたたましくクラクションを鳴らして近づいてきました。

私が停まると後方を猛スピードで走り去りました。乗っていたのは若い男の方です。これも怖かった・・・・・・・

こんなにたて続けて危ない目に遭うと、岡山のほんの一部の方だろうと思うのですが、私達旅の者からすると「岡山の人は交通マナーが悪い」となってきます。

伊部一里塚」は、2号線の側道の所にありました。街道は2号線と並行する下の道を通ります。国道はここからトンネルになりますが、街道は2号線を横切り「葛坂峠」に入ります。

坂の頂上には、「お夏茶屋跡」があります。お夏というと、あの井原西鶴の「好色五人女」に出てくる「お夏清十郎」です。

寛文2年(1662)姫路の旅籠「但馬屋」の娘「お夏」と手代清十郎が駆け落ちしようとして捕らえられ、その上金子(きんす)紛失嫌疑で清十郎は死刑、お夏は発狂したという話ですが、

ここでの話は、この先の片上港で追手に捕まったお夏は、清十郎が処刑された後、この葛坂峠で茶屋を開き大変繁盛したそうです。

お夏のお墓は、この峠を下った所にありました。

     

葛坂峠を上っていくと「茶臼山城跡」の看板が見えてきました。ちょっと街道とは離れますが、この急な坂を上っていきます。入口には「イノシシ、鹿注意!」の看板があります。

茶臼山城は浦上氏の富田松山城です。

ここから「片上湾」が見えます。街道を歩いていて尾道以来の「海」でしょうか。海を見ていると落ち着きますね。ここは桜の名所としても知られています。

    

降りていくと「お夏の墓」があります。左前方には、国指定重要文化財の「眞光寺三重塔」があります。行ってみようかと思いましたが2号線を渡らないといけませんのでパスしました。

突き当りが「片上(かたかみ)宿」です。

    

片上は古くは多様な表記がされ、「かた」は「片」の他「方」「潟」「形」「肩」など、「かみ」は「上」の他に「神」などの字を用いたが、天正年間から片上の使用が多くなった。

江戸時代に入り、主要街道に宿場が整備されると西片上村には本陣、脇本陣、問屋などが定められた。また、備前岡山藩の蔵屋敷が設けられ、和気郡一円と邑久郡東北部の年責米を収納した。

収納米の一部は地元の問屋(和泉屋)が引き受けて売却し、大部分は片上港から船積みして大坂の備前屋敷に送った。西片上村は岡山藩領下の公式な在町として許され、商人の町筋をつくった

   

片上の町を歩いていると歴史の案内の碑が町のあちらこちらに立っています。

脇本陣と恵美須屋跡は、平成14年に閉店になった「アルファビゼン」の所にあります。

      

 【恵美須屋跡】

西片上内座に移転するまで恵比寿宮はこの地にあったといわれている。

【片上脇本陣】

京屋中村氏があった所。

【万代常四閑翁跡】

岡山城下に住み、第二代池田綱政候から「延寿返魂丹」の金看板を拝受。第11代万代常閑が富山に返魂丹を伝授した。

【前海屋跡】

宝永橋が落ちても前海屋は倒れぬといわれた片上の富豪。海を埋め立て土地を広げた。

【往還名主跡】

片上駅の駅長と言っても差し支えない程の往来の行き交う者に対して厳重な調査、取締の権限を有していた。馬継所も設営されていた。

他にもいろいろな歴史案内の碑が立っています。

街道を進むと左側に「宇佐八幡宮」があります。

建武3年・延元元年(1336)足利尊氏が多々良浜(福岡)の戦いで大勝し九州制覇ができたのは豊前の宇佐八幡宮に参籠して武運長久を祈願したおかげだと勧請し足利の守護神にしようとした。

然し帰路大しけに遭い、神のお告げで潟神村(片上村 現備前市)に祀ることとし、富田松山の麓に祀った。その後応永元年(1394)には和鹿林山(若林山)に勧請、更に正保3年(1646)現在地に遷宮した

この神社には備前焼の狛犬があります。胴回り2,5m、高さ1,4mです。文政9年(1826)作製。

神社の前には、山陽道の道標があります。(藤井宿4里半18km、三石宿2里半10km)

      

時間は14:20 今日は三石宿まで予定していますが道標によるとあと10kmです。16:30ぐらいに到着できそうです。

歩いていると作家「藤原審爾」さんの住居があります。藤原さんは、3歳の時母と生別、6歳で父と死別、父の故郷であるこの備前市で祖母によって育てられました。晩年はここで住む予定でした。

 

     

塩谷口の信号から2号線と合流ししばらく2号線を歩きます。一本松バス停から旧道に入っていきます。

しばらく行くと左手に「閑谷(しずたに)神社」の道標があります。その先を左折すると「閑谷(しずたに)学校」に向かう道があります。ここから約2.5km。行ってみようかな?と思いましたが時間がなくパスしました。

閑谷学校は、寛文10年(1670)岡山藩主池田光政が領内の手習い所を統合して閑谷に設立した郷学。藩営の民衆教育機関としては最も早期の開設で明治3年(1870)閉鎖、のち中学校として再興。

校地内の閑谷神社・講堂は貞享3年(1686)及び元禄14年(1701)の建立で現存最古の学校建築です。

八木山という所で再び2号線に合流。この辺りが兄坂、弟坂でしょうか?八木山には「一里塚」がありました。

      

坂を越え山陽自動車道の下を歩きしばらく行くと「三石駅」の標識が見えてきました。山陽本線の煉瓦の橋梁を潜ると「三石宿」です。

三石は、「煉瓦の町」で知られています。町の中には煉瓦工場があります。

    

 

    

   

    

16:59ゴールのJR三石駅到着。ここから17:23 発の山陽本線で岡山駅に戻りました。

今日のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加

山陽道(西国街道)を歩く「岡山~長船」

2014-01-07 19:53:17 | 山陽道(西国街道)を歩く

2014.1/02今年の初歩きで山陽道を歩きました。

今回はマイカーで岡山まで行きました。福岡の自宅を朝3:30に出て岡山に着いたのが9時。車を岡山駅近くの駐車場に置き、街道を歩きました。

今回はDバックの後ろに「博多から旧山陽道を京に向け歩いています」というプレートを付けてのウオーキングです。

 9:09前回ゴールの岡山駅西口からスタート。岡山駅西口には「旧万町跡」というプレートが立っています。岡山藩は江戸後期に東の森下町とともに旅籠の営業を許可しました。町の西端には岡山最大の

町門がありました。

岡山駅の地下通路を通り、柳川電停の手前に「金毘羅神社」があります。天正元年(1573)宇喜多直家入城による城下町整備に伴ってこの地に創建されその後岡山城主になった

宇喜多秀家が国家安泰の祈願所とした神社といわれ金毘羅大権現と呼ばれ祀られていましたが明治2年現在の社名に改められました。

        

今回通りませんでしたが、岡山宿の本陣は、表町商店街にあったといわれています。西大寺町の電停を左折すると向かい側に天保年間創業のお饅頭屋さんがあります。

      

更に先に行きますと「京橋」があります。ここが岡山の元標になっています。

     

京橋を渡ると中橋、小橋と続いて大納言に入ります。ここの角には、「きびだんご」のお店が並んでいます。もともと一つのお店だったのでしょうか?

更に先を進むと大きな川に出てきます。この川は「百間川」。100間ぐらいの川幅があるのでこの名が付いたのでしょうか?川を渡ると「幡多」(高屋)に入ります。

     

郵便局の所には「道標」が建っています。見てみると「西大寺。長岡駅」、「岡山玉島、神戸大坂京」と書いてます。

真っ直ぐみ東岡山の駅を過ぎ、赤穂線、山陽本線の踏切を渡ると「古都宿」(こずしゅく)です。

宇喜多秀家の時代に宿が「古都宿」から「藤井宿」に変更されました。したがって何も残っていませんが、地名だけは今でも「岡山市東区古都宿」となっています。

昔の役場跡は、古都コミュニティセンターとなり今、建て替え中でした。

      

古都宿から15分ぐらい歩くと「藤井宿」に到着します。岡山城下からもっとも近い宿場が置かれた所で町並みにその面影を留めています。

山陽道は時代を経るにつれて度々そのルートも変遷しており、宇喜多秀家の付け替え(藤井ー長岡ー原尾島ー森下ー内山下〈桜の馬場〉)により宿駅(岡山市東区古都宿)に替えて

藤井が宿駅となりました。そして江戸時代になり、参勤交代制を定めるにいたり、西国の諸大名が江戸への往来の途中、岡山城下町以東最初の休泊地として、本陣(安井家)、旅籠屋等が整備され大変賑わいました。

後に本陣一つでは不便であったため、更に創設され、従来のものは西本陣、新しい本陣は東本陣と称されるようになりました。(案内板より)

   

藤井宿の入り口には、素戔嗚神社があります。この神社の横には「新往来」の案内板があります。

幕末ペリーの来航で尊王攘夷運動などで諸国の志士、浪人の往来が激しくなり備前藩でも岡山城の警戒を強め山陽道を通行する人々に神経をとがらせていた。

備前藩は、長州征伐に赴く諸藩の藩士が岡山城下を通行するのを回避するため一時的に山陽道を宿奥ー奥矢津ー牟佐ー旭川渡りー備前国分寺の新往来を建設し

元治元年(1864)7月より通行させるようにした。

   

備前国安国寺経塔

     

時計は12時半を廻っています。今日は朝3時半に家を出ましたのでお腹もすいてきました。どこか食堂でも???と探しますが今日は正月の2日。 開いている食堂がありません。

仕方ないので上道(じょうどう)駅近くのコンビニに行ってパンとサンドイッチを買い食べました。

お腹も落ち着いたところで又出発します。上道駅の先から山陽新幹線のガードを潜り、山陽本線の踏切を渡ると「沼」が見えてきます。この一帯地名も「沼」です。

浮田小学校付近には「沼城跡」があります。秀吉軍が高松城を水攻めで落城させたのち、高松城から最初にこの「沼城」に立ち寄ったとされています。

     

上道中学を過ぎると砂川を渡ります。名のごとく河原には川砂がたくさんあります。この辺りが「楢原」。橋を渡った所に「道標」があります。

☜神戸大坂、岡山広島、反対側には、☜美作(みまさか)と何だろう?ちょっと読みづらいです。更に先を進むと「和田八幡神社」の鳥居があります。どこかな?と探すと離れた所にありますのでここはパス。

その先にはきれいに整備された水路があります。地元の方に聞くとこれは「倉安川」といって延宝年間、船運のために造られました。延長20kmで岡山城下に続いているそうです。

         

街道は2号線と交差し歩道橋を渡り倉安川沿いに歩きます。左側に「御休小学校」があります。「御休」は「みやす」と読むそうです。昔、明治天皇がここで休憩されたからその名が付いたのではないでしょうか?

その横には「福岡神社」の鳥居が建っています。名前につられ神社の方に歩きますが、本殿まで135段の長い階段が待っています。ここはパスし下の方からお参りします。

神社の由来を見ていますと地元の方が参拝に来られており、私のDバックのプレートを見て話しかけてこられました。

「博多から来て山陽道を京に向け歩いている」というとびっくりされていました。私自身も5~6年前までは街道を歩くなんて思いもしませんでした。

私より一回りぐらい上の方が東海道を歩いているブログを見て面白そうでしたから私もとりあえず近くの「唐津街道」を歩いたのがきっかけでした。

それ以来街道歩きの虜になってしまいました。それから「長崎街道」を踏破し、今回の山陽道歩きになりました。

    

先に進みます。「一日市(ひとひち)宿」があります。ここは東の「片上宿」と西の「藤井宿」間の間宿で一年に一度市が開かれたそうですが、隣接する吉井川の川止めで賑わいを見せていました。

山陽道を歩いた先輩方の写真を見ていますと田んぼの中に宿場の碑が建っていましたが、現在田んぼは埋め立てられ家が建っています。宿場の碑は駐車場の後ろにひっそりと建っていました。

常夜灯の近くには一里塚があったそうです。

      

一日市の信号で2号線と合流します。残念なことに、ここの国道には歩道がありません。道路の端を歩いていますが、大型トラックなどがスピードを上げて通行していると何か巻き込まれそうで怖いです。

備前大橋にたどりつきました。この橋を渡ると「瀬戸内市」に入ります。備前大橋には歩道も付いていて歩道の中ほどには、備前焼で造った陶板があります。

  

 橋を渡ると「明治天皇巡行之碑」が建っています。

このあと、私達は街道を外れ、「福岡県」の地名の元になった、「備前福岡」の町を散策してきました。(ブログで公開しています)

帰りは赤穂線「長船駅」17:24の電車で宿泊先の岡山駅まで戻りました。

    

今日(1/02)のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (12)
この記事をはてなブックマークに追加