よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年にオールジャパン完歩目指しています。





母親の50回忌法要

2017-05-30 16:53:58 | 日記

5/28(日)は、母親の50回忌の法要を行いました。

私が18歳の時、母は、急に脳出血で倒れ、そのまま帰らぬ人となりました。それまでは、元気で、夏には、私を連れて京都に里帰りしようと予定していました。

50歳の人生でした。

母は、兵庫県丹波市氷上町の生まれ。それから京都に転居し、青春時代は、京都で過ごしました。

戦時中、縁あって父と結婚し、京都から福岡に嫁ぎました。いまでこそ、新幹線で3時間ぐらいの距離ですが、当時は、寝台列車で十数時間もかかっていました。

見知らぬ土地に嫁ぎ、いろいろ苦労もあったと思いますが、口に出さず、子供たちの為に一生懸命働いてくれました。

あれから50年・・・・・・・今では、私も母よりはるかに年上になりました。

今回、50回忌を行うに当たり、母の写真をDVDにまとめました。

         

法要の後の会食は、私達子供、孫、ひ孫も参列し、糸島市志摩町芥屋(けや)の料亭で行いました。

ここの芥屋の海岸からは、長崎県・壱岐島が見えます。肉眼では、見えるのですが、写真にすると見えませんね。

 

今日は、天気がいいのでこの料亭も満席です。お目当ては、玄界灘の新鮮なお魚です。

  

  

約3時間の会食でしたが、もうお腹がいっぱいになりました。

お開きに皆で記念写真を撮りました。

 

 

 

 

 

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ふくおかウオーキング協会「室見川河畔を歩く」

2017-05-25 12:50:11 | ウォーキング

5/24は、ふくおかウオーキング協会の「室見川河畔を歩く」に参加しました。

実は、このコース3/29に花見ウオークで歩いていますが、今年は桜の開花が遅く、まだまだ蕾の状態でした。

9:30 スタート。

室見橋を西区の方に渡ります。この橋が、福岡市の早良区・西区の分岐点です。

   

川を見ると、カルガモの親子でしょうか、カルガモ親子の行進です。見ていて微笑ましいですね。

    

橋本八幡宮です。

文明14年(1484年)に、柴田蔵人左繁信父子(元々、陸奥国出身、越後国出身と言われる)が、郷里の八幡宮の分霊をこの地に向かえ、建立したことに始まります。

その後、三代黒田光之公は橋本の人を母として生まれ、当地で幼時を過ごされたといい、黒田光之公は産土神として八幡宮を崇敬し、寛文6年(1669年)に、西新町紅葉松原に立派な社殿を建てて遷宮したという。

 

この境内には、地上7mの地点で、楠と槇の木が途中で合体した木があります。名前も「きずな」というそうです。

  

西区橋本の「木の葉モール」が折り返し点です。

   

木の葉モールから外環室見橋を渡り、早良区側に入ります。

 

雨の為少し急ぎます。11:15室見駅へゴール。

今日のランチは、姪浜駅前・髭ダルマの日替わり定食です。

  

今日のGPSです。帰りは、室見駅から姪浜駅まで歩きました。

 

 

 

 

 

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ふくおかウオーキング協会「旧勝田線跡地を歩く」

2017-05-19 18:46:28 | ウォーキング

5/17は、ふくおかウオーキング協会の「勝田線跡地を歩く」ウオーキングに参加しました。このコースの一部は、今年2月にJR九州ウオーキングで歩きました。

JR旧勝田線は、かつて福岡市博多区の吉塚駅と同県糟屋郡宇美町の筑前勝田駅とを結んでいた、日本国有鉄道(国鉄)の鉄道路線(地方交通線)である。

1980年の国鉄再建法施行に伴い翌年9月に第1次特定地方交通線に指定され、1985年4月1日に廃止された。(ウィキペディアより)

集合場所は、糟屋郡須恵町にあるJR須惠中央駅。※歌手の郷ひろみさんは、ここ須恵町の出身です。子供の頃、東京へ引っ越しされました。

9:30須恵中央駅をスタート。

  

九州自動車道のガードを潜ると、「志免町」に入ります。すぐ目につくのは、「旧志免鉱業所竪坑櫓」です。

旧志免鉱業所は、周辺の須恵町、宇美町と共に、粕屋炭田と称し、艦船の燃料確保のため海軍が開発したという特色があり、それらは海軍直属の海軍採炭所、通称で海軍炭鉱と呼ばれていました。

今では志免町のランドマークになっています。

  

志免鉄道公園。志免町には、1985(昭和60)年まで石炭輸送のために作られた鉄道がありました。香椎線の引き込み線と、勝田線です。

香椎線は、1909(明治42)年から開通した博多湾鉄道旅石線(後に博多湾鉄道汽船から西日本鉄道、日本国有鉄道へ変わった香椎線引き込み線・1984(昭和59)年12月31日廃線)のことです。

勝田線は、1919(大正8)年に開通した筑前参宮鉄道(後に西日本鉄道から日本国有鉄道へ変わった勝田線・1985(昭和60)年3月31日廃線)のことです。

石炭景気の需要による開通で、当時の一日乗客数は300名、石炭は750トンと、石炭輸送が主でした。現在、勝田線は緑道として公園整備され、志免駅は志免鉄道公園となり、

レリーフが当時を偲ばせています。(志免町HPより)

 

 

何かの本か何かで読んだのですが、勝田線は、途中に宇美駅があり、宇美には、「宇美八幡宮」、筑前勝田駅の先には、「太宰府天満宮」があります。

勝田線を太宰府まで延伸し、宇美八幡宮や太宰府天満宮を参拝できる鉄道計画もあったようですが、この計画も戦争によって立ち消えました。

私が高校生の頃までは、この勝田線はありました。ただ一日7往復という少ない本数で利用客も減り、ついに廃線となりました。

現在、旧勝田線の廻りには、福岡のベッドタウンとして住宅が建設されています。存続していたら一日7往復で無く、30分に1本ぐらいのダイヤになっていたのではないでしょうか?

 

 

緑道途中には、「光正寺古墳」があります。この古墳は、魏志倭人伝に出てくる「不弥国」の国王の墓ではないかと言われています。

  

宇美川を渡ると右側には、清酒「萬代」の小林酒蔵があります。

その先には、「宇美八幡宮」です。

  

御祭神 

  • 應神天皇(おうじんてんのう) 神功皇后(じんぐうこうごう)
  • 玉依姫命(たまよりひめのみこと) 住吉大神(すみよしおおかみ) 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

御由緒

神功皇后が三韓征伐より御帰還され、産所を蚊田の邑(蚊田は宇美の古名)に定め、側に生出づる槐(えんじゅ)の木の枝に取りすがって、應神天皇を安産にてお産みになられたこの地を宇瀰(うみ)その後、

宇美(うみ)と称されました。御産舎の四辺に八つの幡を立て、兵士に守らせた故事が、「後世八幡大神と称するは此故なり」とも伝えられています。八幡大神御降誕の聖地として、

敏達天皇の御宇(西暦570年頃)に創建され、先ず神功皇后と應神天皇の母子神をお祀り致し、後世に至りて上記の五座としてお祀りされました。(宇美八幡宮HPより)

   

境内には、天然記念物の「湯蓋の樟」があります。

 

境内の奥宮には、応神天皇の胞衣(えな)ケ浦があります。※胞衣とは、胎児が生み出されたのち,排出された胎盤・卵膜など。後産(あとざん)です。

  

宇美八幡宮から須恵町に入ります。

須恵町新原(しんばる)には、「海軍炭鉱創業地」の石碑が建っています。当時の海軍艦艇の燃料であった石炭の確保を目的として、海軍自身によって開発されました。

1898年(明治21)に新原の地が予備炭山に指定され、翌年には第一坑及び第二坑が同地に開坑しました。

  

11:47 スタート地点の須惠中央駅にゴールしました。須惠中央駅からか博多駅に行き、昼食は、鯖中心の海鮮丼を頂きました。

   

5/17のGPSです。

 

 

 

 

 

 

 

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九州国際スリーデーマーチ3日目20kmコース(熊本県八代市)

2017-05-17 17:01:18 | オールジャパンウオーキングカップ

昨日は、ゴール後ホテルに直行しましたが、疲れていたのかもう20時には、寝ていました。

今日は、20kmを歩きます。また、いつものように30kmと一緒にフライングスタート。

出発式では、八代の歩友Mさんがスタッフとして参加されています。

  

7:30スタート。今日は昨日に比べ参加者が多いみたいです。今日も長崎Sさんと一緒に歩きます。

新荻原橋を渡り、水無川を通ります。水無川の砥崎河原は、11月に行われる「妙見祭」の舞台になる所です。

  

3,2km地点が「八代神社(妙見宮)」です。八代神社のお祭り「妙見祭」は、昨年12月、九州では、博多山笠、戸畑祇園、日田祇園、唐津曳山などと一緒に「山・鉾・屋台」の部門で

ユネスコ世界文化遺産に登録されました。昨日と今日福岡の天神で「祭WITH KYUUSYU」と称し、九州のユネスコ登録祭りが行われています。妙見祭りの「亀蛇(きだ)」も参加しています。

  

そのお祭りの新聞です。

  

八代神社で御朱印をもらい、歩き出します。歩いていると晩白柚の花でしょうか、いい香りが漂ってきます。

東方公園です。ここには、777段の階段があります。10分ほどで登れるそうですが、ここは、スルーしました。

  

7,3kmの龍峯コミュニティセンターが最初のチェックポイント。デコポンを頂きました。八代・宇城地区は、柑橘類の栽培も盛んで「不知火」は、熊本で生まれました。

 

8,4km地点が30k、20kの分岐点。30kは、直進し宮原町の方に行きます。

八代は、い草の産地。畑には、い草が植えられています。我が家も4月に畳替えをしました。一部は、和紙の畳、もう一部は、い草にしました。

い草の畳部屋では、部屋を開けるとい草のいい香りがします。落ち着きますね。

  

岩崎神社が2回目のチェックポイントです。

岩崎神社は、今から約500年前(1505年)、八代市千丁町太牟田の上土(あげつち)城主 岩崎主馬(しゅめ)忠久公は、村の人々の生活が豊かに栄えるようにと初めてい草を植え、育てることを教えました。

その後、全国で天候が悪く人々が苦しむ中、太牟田の村人はい草からむしろを作り、この窮地を乗り越えました。このご恩に感謝して、岩崎公はい草の神様としてお奉りしてあります。

 

ここでは、おにぎりのお接待がありました。又、ここで三重県・津のKさんとばったり遭遇。Kさんとは、昨年青森の大会でご一緒しました。1年ぶりの再会です。

  

15kmを過ぎ、遠くに新八代駅が見えてきました。ふと、見るとSLが走っています。

これは、観光列車で土、日に熊本~人吉間を走っている「SLひとよし」です。

  

最後のチェックポイントは、新八代駅横の「松中信彦記念館」です。ここで約16km。

元ソフトバンクホークスの選手でした松中選手は、平成16年(2004)パリーグで三冠王を獲得されました。隣町の宮原町出身の秋山幸二元ホークス監督と共にホークスの黄金期を築かれました。

ここでは、お接待に「トマト」が出されました。昨日の40kmでは、トマトも楽しみにしていたのですが、お接待では出ませんでした。(20kコースでは出たそうです)

隣の八代よかとこ物産館で家内へのお土産にこのトマトをゲットしました。八代のトマトは甘くて本当においしいです。

  

熊本県八代総合庁舎を過ぎ、ゴールまであと2km。このあたりから10kmの方と合流しました。

  

八代市のマンホールです。晩白柚が描かれています。

11:40  ゴール!ゴールでは、「やっちろん戦隊ヤッチロイジャー」が迎えてくれました。

   

今日(5/14)20kmのGPSです。

ゴールの後、汗を流しに「日奈久温泉ばんぺい湯」へ。やはり温泉は気持ちがいいですね。

日奈久のお土産は、「ちくわ」です。

  

   

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九州国際スリーデーマーチ2日目40kmコース(熊本県八代市)

2017-05-15 20:51:26 | オールジャパンウオーキングカップ

昨年は、熊本地震の影響で中止になりましたが、2年ぶりの大会です。今年は、「熊本地震復興祈願」というテーマで5/12~14までの3日間開催されました。

私は、2日目からの参加でしたが、1日目の初日は、雷雨の為、途中で中止と言うアクシデントがあったそうです。

そのせいか、初日に行われた地元八代出身の八代亜紀さんのミニコンサートでは、ヒット曲「雨の慕情」は歌われなかったそうです。(納得です)

マイカーで福岡を4:15に出て、会場に着いたのが6:30.前日の雨で会場内の芝生広場は、水溜りの状態。スタッフの方が水中ポンプや水かきドライヤーなどで懸命に作業されていました。

  

7:30 スタート。今日は、長崎からSさんが20kコースに参加されていましたので、40kと20kの分岐点まで一緒に歩きました。

  

コースは、南九州道とオレンジ鉄道の間を歩きます。山道では、前日の雨でしょうか、道一杯雨水が流れていて、川のようになっています。

  

3,8km地点に「平川瓦窯跡」がありました。南九州西回り自動車道建設工事に伴う発掘調査によって発見された「だるま窯」と呼ばれる瓦を焼いた窯跡の遺跡です。

ウオーキング会場近くには、昔(加藤清正時代)、麦島城があり、その城の瓦に使われたそうです。

  

最初のチェックポイントは、八代ふるさと物産村です。給水所がありましたが、ここはパスしました。

8,3km地点が40k、20kの分岐点です。ここでSさんと別れ、一人旅(家内は、今日から昔の職場の人とOB会の旅行に参加)です。

  

コースは、日奈久温泉に到着。ここが2回目のチェックポイントです。

日奈久温泉は、応永16年(1409年)浜田六郎が、父の刀傷を癒そうと神に祈り温泉を発見したと伝えられるところから孝行泉とも呼ばれています。

熊本県下で最も古い歴史を持つ温泉です。江戸初期に細川家の藩営温泉に指定され、八代城主や参勤途上の島津公も、よくここを利用しました。

昭和5年には漂白の俳人種田山頭火も日奈久温泉の織屋旅館に宿泊し、その日記の中に「温泉はよい、 ほんとうによい。ここは山もよし海もよし、出来ることなら滞在したいのだが、

いや一生動きたくないのだが・」と日奈久を称賛しております。(日奈久温泉HPより)

  

 

  

「官軍上陸の地」という石碑が建っています。明治10年(1877)3月西郷隆盛率いる薩軍は、熊本城の包囲や、田原坂の戦いで兵力をここに集中させていました。当時日奈久は、薩軍の糧食基地でしたが、

3月19日、日奈久南方河口から艦砲射撃などで官軍数百の兵が上陸し、八代での戦いに及んだそうです。

来年の大河ドラマ「西郷どん」ですが、この地もドラマに登場するでしょうか?

  

日奈久から海岸線に出て、国道3号線を南下します。海の向こうには、雲仙普賢岳も見えます。

薩摩街道は、筑前国(福岡県)山家宿をスタートして鹿児島までの街道です。

   

八代市二見の所に日奈久名物「日奈久ちくわセンター」があります。もう、約50年ぐらい前でしょうか、九州自動車道が開通する前までは、この国道3号線を走って鹿児島へ行っていました。

帰りもこの道を通って福岡に帰っていました。このちくわセンターでちくわを買って休憩するのが日課でした。高速道が開通し、この国道も車の通行が減り、いつの間にか、このちくわセンターも閉店するように

なりました。昔を知る者にとって懐かしいです。(現在日奈久のちくわは、高速道PAでも売られています)

 

15km地点の二見コミュニティセンターが接待場所になっています。お漬物やタケノコ、甘夏ジャムをつけたビスケットなどが振る舞われました。

    

  

再び歩き出します。遠くから保育園児の一行がやってきました。手作りの白い象さんの山車?を引いています。地元保育園児の「花祭り」だそうです。

可愛い園児たちとハイタッチをして別れました。(風車と鯉幟を付けていますので変なおじさんと思われたかな?)

  

このあたりから、緩やかですが、上り坂が続きます。

  

坂本町に入ってきました。八代市と合併するまでは、「坂本村」でした。まだ、坂本村の方が馴染んでいます。

「百済来(くだらぎ)」という珍しい地名があります。その昔、朝鮮の百済から来られた人がいるのかなと地元の方に聞きますが、そうではないとのこと。

ウィキペディアで調べてみると、

日羅(にちら、? - 583年12月)は、6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人。父は火(肥後国)葦北(現在の葦北郡と八代市)国造刑部靭部阿利斯登(ゆげいべのありしと)。

父阿利斯登は宣化天皇の代に朝鮮半島に渡海した大伴金村に仕えた九州出身の武人で、日羅は百済王威徳王から二位達率(だっそつ)と極めて高い官位を与えられた倭系百済官僚であった。

敏達天皇の要請により583年日本に帰国し、阿斗桑市(あとくわのいち)の地に館を与えられた。朝鮮半島に対する政策について朝廷に奏上した。その内容が 人民を安んじ富ましめ国力を充実したうえで

船を連ねて威を示せば百済は帰服するであろうことや、百済が九州に領土拡大を謀っているので防御を固め欺かれぬようにすべきこと等の 百済に不利な内容であったため、

同年12月に百済人によって難波で暗殺された。物部贄子と大伴糠手子により小郡の西畔丘に埋葬され、後に葦北に移葬されたたとされる。

聖徳太子伝暦や今昔物語などでは、聖徳太子が師事した、百済の高僧であるとされている。

墓は父阿利斯登の縁の地である熊本県八代市坂本町百済来下馬場の百済来地蔵堂前に現存する 大分県大野川流域や宮崎県などに多くの密教系寺院を開基し、磨崖仏を建立し、

坊津にその名称の起源となった龍厳寺(後の真言宗一乗院)3坊を創建したとされている

この百済来地蔵堂から地名になったのでは、ないでしょうか?また熊本葦北郡には、白木という地名もあります。新羅のことでしょうか? 

昨年埼玉・飯能を歩いた時、「高麗神社」がありました。ここは、高句麗の王様を祀った神社です。このように古来から朝鮮半島と日本は結びついていたのですね。調べてみればもっとあるかもしれません。

   

  

百済来湧水公園が3回目のチェックポイント。ここが昼食会場になっています。私も昨日福岡で買ったパンを頂きました。

 

パンを食べ終わり、歩きだそうとすると、地元のケーブルテレビの方からインタビューを受けました。残念ながら八代区域だけの放映だそうです。

   

球磨川に架かる「葉木橋」を渡ります。球磨川は、日本三大急流の一つで昨日からの雨で水嵩が増しています。

 

荒瀬ダムは、昭和30年(1955)に完成しましたが、2012年より解体工事が行われています。

  

球磨川沿いに歩きます。坂本駅、グリーンパーク坂本と、町の中心部を歩きます。

     

30km地点。このころから蒸し暑くなり、しきりに水を飲みますが、喉の渇きは一向に収まりません。

  

九州自動車道の高架下を通ります。

  

  

肥薩線段駅

  

歩いていると後ろから列車が通り過ぎて行きました。見ると、「かわせみ、やませみ」です。慌ててカメラを向けますが、後ろの方しか、撮れませんでした。

遠くに新萩原橋が見えてきました。ここからが長いです。疲れもピークに達しています。

  

新萩原橋を渡るとゴールはすぐそこです。ですが、この橋、1kmぐらいあるのでしょうか、長いです。

15:20 どうにかゴールしました。

  

5/13 40kmコース(実際は41,3km)GPSです。

 

 

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新緑の九年庵へ(佐賀県神埼市)

2017-05-11 15:48:38 | JR九州ウオーキング

G・W期間中の5/6は、JR九州ウオーキングで佐賀県神埼市にある「九年庵(くねんあん)」に行ってきました。

午前8:00 スタートのJR神埼駅に到着。受付には既に150人ほどの方が並ばれていました。

  

8:20ウオーキングスタート。吉野ヶ里公園の中を通り、先ず、最初の目的地「王仁(わに)神社」へ。

  

 

王仁神社では、近くの方が、自家製の煮もの、お漬物、果物などのお振舞がありました。特に筍は旬で美味しかったです。

ここでは、秋もお振舞をしてくれます。楽しみのコースになっています。

    

1時間半ぐらいで九年庵の入口に来ました。参道の所の木に白い花が咲いていました。「ピラカンサス」の花です。

ピラカンサスといえば、秋口に真っ赤な実をつかますが、お花は、白だったのですね。初めて知りました。

「九年庵」の限定公開は、毎年春の新緑(5月上旬の連休中)と秋の紅葉(11月15日~23日)の時期。春の公開は数日で、ツツジや新緑を楽しむことができます。

私、秋の九年庵には、過去何回も訪れていますが、春の公開は、初めてです。

   

今日は、時々小雨が降っています。雨の水滴が紅葉についています。紅葉のこのプロペラみたいなものが、紅葉の種です。てっきり、紅葉の花と思っていました。

 

 

  

九年庵の池で「オタマジャクシ」を発見!オタマジャクシをみるのは、何十年ぶりでしょうか?子供のころはよく川に行ってこのオタマジャクシを獲って遊んでいました。

  

もう少し、青空があれば、九年庵の新緑と青い空のコラボした写真が撮れるのですが、この天候では、仕方ありませんね。

九年庵から隣の仁比山公園に行きます。この公園も紅葉が綺麗です。

  

帰りは、城原川沿いを通ります。

   

11:10 神埼駅へゴール!サービスで酒まんじゅうを頂きました。

神埼駅では、JR九州の豪華列車「ななつ星」が停車していました。

  

 

 

 

 

 

 

 

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東海道道草ウオーキング№23(新居宿~浜松宿)

2017-05-05 13:53:31 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/9 宿泊した浜松のホテルから電車で昨日ゴール地「新居町駅」に移動。

新居町駅からスタートします。新居関所は、慶長5年(1600)に設置されました。大津波の影響で現在地に至るまで2回変わっています。

最初に設けられたのが、今切渡しの近くです。ここは、慶長5年(1600)~元禄14年(1701)まで。現在は、「大元屋敷跡」の案内板があるのみです。(下記写真①)

次が、新居高校の近くで、元禄14年(1701)~宝永4年(1707)までです。(下記写真②)ここには、「中屋敷」がありました。

現在地に移ったのが、宝永5年(1708)~です。(下記写真③)

 

  

井上通女の歌碑がありました。通女は、江戸時代中期の歌人で讃岐丸亀の生まれ、幼少から和漢の学に通じ、多くの文人と交わり文名を高めました。著書に「東海紀行」「江戸日記」「帰家日記」などがあります。

              旅衣 あら井の関を越かねて 袖によるなみ身をうらみつつ  

この歌は、今切関所で手形に「小女」と記すべきところを「女」とだけあったため、通行を拒否された時の心境を詠んだ歌です。「東海紀行」に収められています。

     

街道に合流します。

西浜名橋を越えると浜松市に入ります。

  

中浜名橋から弁天島に立ち寄ります。このあたりは、弁天島海浜公園になっており、春先には、潮干狩りが楽しめます。

また、海浜公園の前には、マンション、ホテルなど建ち並んでいます。

  

 

【弁天島と天女】

昔、弁天島のこのあたりは、砂州が新居の橋本廻りまで続き、白砂青松「天の橋立」のような風景が広がっていました。そんな弁天島の美しさに誘われてか、ある日天女が舞い降りました。

村人は大変喜び、社を建てるからここに留まって欲しいとお願いしました。ところがどういうわけか、天女は駿河の三保の松原へ立ち去って行きました。

それから長い年月がたち、この辺り一帯は、大きな災害にみまわれ、、洲崎の一部であった弁天は、湖に取り残されて島となりました。その後、舞阪と新居の間は、渡船で行き来するようになりましたが、

江戸時代、宝永6年(1709)、今切渡船安全の為、この島に辨天神社が建てられました。人々は、天女伝説のこともあり、この神社を大切にお守りしていきました。御祭神は、「市杵島姫命」です。

  

舞阪宿に入りました。舞阪宿は、家数541軒、本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠28軒、人口2475人。(1843年資料より)

舞阪宿に入ると、「北雁木(きたがんけ)」があります。ここは、今切渡しの舞阪宿側の渡船場跡で、明暦3年(1657)から寛文元年(1661)にかけて構築されました。

雁木(がんけ)とは、階段状になっている船着場のことをいいますが、地元では、「がんけ」と昔から言っています。この北雁木は、主に大名や幕府公用役人が利用した所です。

    

本雁木跡:ここは、旅人が一番多く利用した船着場です。

  

舞阪宿には、本陣2軒(宮崎伝左衛門本陣、徳右衛門本陣)がありました。本陣跡は、現在駐車場になっていて石碑のみが残っていました。

その向かい側には、脇本陣があります。江戸時代、東海道舞坂宿は江戸から30番目の宿場にあたり、東西交通を結ぶ今切渡しの渡船場でした。今日、当時をしのぶ町並みは失われてしまいましたが、

天保9年(1838)建築の旧脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されていました。旧東海道では唯一の脇本陣の遺構です。この貴重な脇本陣を後世に伝えようと、建物を復元しました。

明治時代は、村役場としても利用されたそうです。

  

広重の浮世絵「舞阪宿」ですが、奥の方の岩山は「舘山寺」の方では、ないでしょうか?、また富士山もこの位置からは見ることができません。

 

舞阪は、江戸時代から海苔の養殖が盛んで、街中を歩くと干物屋さんの看板が多く目にします。生しらす丼なんか美味しいでしょうね。

街道は、新町交差点より国道1号線と交わり、ここは、東海道松並木の方に行きます。

  

340本の松並木は、700m続きます。途中には東海道53次各宿場のイラストが掲げられています。

【浪小僧】

昔、遠州灘の浜では、地引網漁が行われていた。魚が獲れない日が続いたある日、真っ黒な小僧が網にかかりました。漁師たちは気味悪がり、小僧を殺そうとすると、

小僧は、「私は海の底に住む浪小僧です。命だけはお助け下さい。その代り、御恩返しに海が荒れたり、風が強くなったりするときは、海の底で太鼓を叩いてお知らせします。」というので

海に戻してやりました。それ以来、天気が変わる時、海の音が聞こえるようになったと伝えられています。

  

街道は、浜松。馬郡の町に入ります。春日神社の先に「本徳寺」が東本徳寺、西本徳寺と分かれています。本徳寺時代の泉光坊が、東本徳寺、大泉坊が西本徳寺になったそうです。

また、この西本徳寺には、こんな話があります。

歌舞伎「白波五人男」のモデルにもなった盗人日本左衛門(歌舞伎では、日本駄右衛門)がこの寺の釈迦像を盗み、浜松方向に逃げたのですが、かなりの距離を走ったにもかかわらず、

寺の門前だったと言い伝えがあります。

  

馬郡観音】 かってここに馬郡観音堂が建っていて、安置されていた観音像は定朝作と伝わる。戦後に廃堂になり、観音像は近くの如意寺に移されているという。

往古、東海道を上り下りした旅人の信仰をうけ、人々はこの堂の前を通るときには必ず手を合わせたといわれてます。

    

このあたり、神社・仏閣が多いですね。

   

  

そろそろお腹もすいてきました。JR高塚駅近くを歩いていると、浜松のファミレス「さわやか」があります。ここの「げんこつハンバーグ」が有名ですので入ってみました。

さすが、テレビでも紹介されているお店です。美味しかった。

  

お腹も一杯になり、再び歩き出します。

麦飯長者跡

昔、高塚の村に一軒の裕福な家があり、五郎兵衛という男の家族が住んでいた。五郎兵衛は馬を引いて人や荷物を運ぶ、馬子を生業としていた。

ある日、浜松の宿場から舞坂の宿場まで一人の旅僧を送り届けると、馬の鞍に風呂敷包みがくくりつけたままだった。手にとって見ると、ずっしりと重く、家に入って中を見てみると、

そこには観音経一巻と大量の小判が入っていた。急いで返そうと思い、舞坂の町まで馬を走らせ、旅僧の姿を捜すが見つからなかった。

そして、旅僧が現れるのを待って30年ほど過ぎたある日、捜し求めていた旅僧が立派な格式の高い僧(白隠禅師)として、街道を通るのを見つけた。五郎兵衛は大金を返そうとするが、

誠実さに感動した高僧は受け取らなかった。 そこで、五郎兵衛は困った人のために使おうと、街道を行き交う人々に湯茶を接待したり、空腹の人には麦飯を食べさせてあげたり、

怪我をした人を手当してやったりした。こうした五郎兵衛の善行によって、後に小野田という姓が与えられ、村役人や庄屋にまでなることができた。(浜松情報BOOKより)

     

二輪・四輪メーカーのスズキは、この辺りに本社があります。バス停にもスズキ入口がありました。

   

浜松領界石】 江戸時代高塚が堀江領となり、ここに境界を示す標示石が立てられました。堀江領は、舘山寺を居城とした名門大沢氏が納めていました。

先に行くと、右側に松並木があります。

  

【二つ御堂】 奥州平泉の当主、藤原秀衡が京で病に倒れ、彼の元へ駆けつけようとした側室がこの地で死報を受け取り、悲しみの中北側に御堂を建てて亡くなりました。

それは、誤報で、病が治り、奥州への帰途の途中、この話を聞いた秀衡は、南側の御堂を建てたといいます。明治15年(1882)頃まで側室の遺体を埋めた場所に秀衡が植えた、周囲6mの

「秀衡の松」があったといわれています。

   

ここには、馬頭観音、高札場跡もありました。

  

今、歩いているのは、国道257号線。浜松の市街地も近くなりました。

鎧橋】 平安時代末、鴨江寺では、比叡山延暦寺の本山には、無断で戒壇(出家者には、正式な僧・尼として認めること)を行っていました。そのことで延暦寺側の兵が攻めてきたため、

鴨江寺もこの橋で鎧を着て迎えうちました。2日間の戦いで双方1000人を超える戦死者があったそうです。鎧橋の北に戦死者を葬った場所は、千塚または血塚と言われていました。

   

新幹線のガードを潜り、西浅田から東海道本線の下を通ります。しばらく歩くと、「堀留ポッポ道」があります。

東海道線の浜松工場への引込線の後を、緑の散策路として、昭和60年(1985)に整備しています。ここには、大正時代に造られた、初期の国産蒸気機関車が展示されています。

この小型機関車は、「ケ91タンク機関車」で大日本鉄道会社が製造し、東農鉄道(岐阜県美濃太田~多治見間)を走っていました。

   

五社神社】 家康公は、城内にあった神社を2代将軍秀忠の産神様として天正8年(1580)現在地に社殿を建立しました。社名は、太玉命、武富命、斎主命、天児屋根命、姫大神の5柱を祭神として

祀っていることに由来します。戦災で焼失しましたが、昭和57年(1982)、京都の平安神宮を思わせる優美な神殿が再建され、特に子守、子育ての神として信仰されました。

浜松復興記念館】 戦時中、軍施設や軍需工場があった浜松市は太平洋戦争において艦砲射撃を含め、実に27回に及ぶ激しい空襲を受け、市街地の大部分が焦土と化した。

戦後いち早く着手した復興土地区画整理事業が1983(昭和58)年に終了。この事業の完成を記念し、1988(昭和63)年4月に開館。

  

浜松宿は、家数1622軒、本陣6軒、脇本陣0軒、旅籠94軒、人口5964人(1843年資料より)

浜松宿は、箱根宿と並ぶ6軒の本陣がありましたが、戦災で焼失し、現在碑が所在を示しています。

三菱UFJ銀行の所には、川口本陣跡、緑屋の前に、佐藤本陣跡、静岡信用金庫の所に杉浦本陣跡、トイザレスの前に梅屋本陣跡がありました。

この中で最も古いのが、杉浦本陣です。

  

  

街道は、蓮尺の交差点で「姫街道」と交差しています。今回は、ここまでにします。

 

 

旅の楽しみは、温泉と食べ物。浜松と言えば、「餃子」ですね。美味しかったです。

  

 

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東海道道草ウオーキング№22(二川宿~新居宿)

2017-05-03 14:50:42 | 「東海道(京~日本橋)道草ウオーキング」

3/8   二川宿を出、東海道本線のガードを潜ると、正面に大きな建物が見えます。「シンフォニアテクノロジー」の社名。「旧神鋼電機」です。

ここから国道1号線に合流します。一里山信号の近くに「一里山一里塚」があります。この一里塚は、もと道路を挟んで左右に1基ずつありましたが、南側の物は、破壊されて屋敷の一部となり、

わずかに残った痕跡も大正末期には全く滅失してしまいました。幸い、保存され残るこの塚は、東西11m、南西14m、高さ3mの塚です。

  

一里山東の信号を左折、ここから静岡県に入ります。昨年3月、京都を出発して、滋賀、三重、愛知を通り、5番目の県に入りました。

静岡県は、東海道53次の中、約190kmの中に22の宿場があり、ここを過ぎるとゴールの日本橋も近いです。

旧国名も三河から遠江(とうとうみ)になります。

遠江は、古くは「遠淡海(とほつあはうみ)」と表記しました。遠淡海は、一般的に浜名湖を指します。(ただし、国府のあった磐田郡の磐田湖(大之浦)を指すとする説もある。)

都(大和国)からみて遠くにある淡水湖という意味で、近くにあるのが琵琶湖であり、こちらは近淡海(ちかつあはうみ)で近江国となりました。

境川を渡ると「白須賀宿加宿境宿」の看板が見えてきます。加宿(かしゅく)とは、主に江戸時代、五街道や脇往還において駅逓事務を取扱う為設定された宿場(宿駅)において、

人家が少なく人馬を出しにくい宿駅で隣接する村を加え人馬の用を行わせたもの。この主となる宿駅に対して隣接する村を加宿と言う。先の「二川宿」も大岩宿を加宿にしていました。

  

白須賀宿」は、元来潮見坂下の元宿が、宝永4年(1707)の大地震による津波で壊滅したため、翌年、宿が移され、現在の場所が「白須賀宿」となりました。

白須賀宿を歩くと、昔の旅籠でしょうか、家の前に木札が掛けられています。然し文字が薄れちょっと見にくいです。

 

白須賀宿は、津波被害で、潮見坂の下から坂上へ移動しましたが、次は冬の西風の影響で何度も火災に遭っています。そこで人々は、火事の延焼を防ぐため道の両側に土塁を築き、常緑樹で火に強い

槇を植え、火除け地を作りました。宿内に3か所ありましたが、現在1か所残っているだけです。

   

宿場の中心部には、夏目甕麿(みかまろ)邸、加納諸平生誕地の碑があります。

夏目甕麿は、江戸時代後期の国学者で、酒造業の傍ら、内山真龍に学び、本居宣長の門下として「古野の若菜」「家集」等を著しました。甕麿の息子の諸平は、和歌山の藩医・加納伊竹に医学を学び、

加納家の養子となり、晩年には紀州候に召されて国学者の総裁として「当代類題和歌選集」「鰒玉集」など数多くの著作を残しています。

白須賀の本陣は、美容室の所にありました。ここは、大村庄左衛門宅跡で、元治元年(1864)の記録には、建坪183坪、畳数231畳、板敷51畳とあります。

また、白須賀宿は、天保14年(1843)の資料によれば、家数613軒、本陣1、脇本陣1、旅籠27軒、人口2704人となっています。

 

  

白須賀小学校の先には、「おんやど白須賀」があります。東海道を散策する人の為の交流休憩ホールです。

  

潮見坂にやってきました。安藤広重の浮世絵には、この潮見坂を描いています。

   

潮見坂公園跡には、いろんな石碑群が建っています。

  

次の宿場「新居宿」までは、5,3km。京都からの上りは、ここから急な下り坂です。昔は、このあたりから富士山も眺められたそうですが、見えませんでした。

  

潮見坂を下り、白須賀宿の元宿に来ました。宝永4年(1707)の大津波で、潮見坂の上の高台に移るまで、白須賀宿があった所です。

  

街道の左側には、一里塚、高札場がありました。

火鎮神社(ほずめじんじゃ)は、祭神は、火之迦具土神・品陀和気命・徳川家康公。由緒によると、本神社は三座を祀り、由緒正しき神社なりしが、応永以降東海瀟及び安永年間社家火災の為め、古文書散失し、

由緒を詳に能ざるも、徳川家康の崇敬厚く除地壱町四方余、丸太船壱双の御墨附を賜り地方一般の崇敬を蒐めて御隆盛を極む。

大正十四年一月九日村社に列せられ同年十四日神饌幣帛料供進神社に指定されました。

    

街道の右側には、「明治天皇御野立所跡」があります。明治天皇が明治元年京都から東京に行幸する途中ここで休憩された所です。

  

街道は、旧浜名街道という名で右側に「松並木」が広がっています。この松は、松くい虫の被害で枯れ、昭和62年に植え直したそうです。

松並木の途中には、藤原為家、阿佛尼の歌碑が建っていました。

風わたる濱名の橋の夕しほに さされてのぼるあまの釣舟   前大納言為家

わがためや浪もたかしの浜ならん 袖の湊の浪はやすまで   阿佛尼

 

  

松並木に「紅葉寺跡」の看板を発見。紅葉寺跡は、左側の奥の方にありました。

紅葉寺は、室町幕府六代目将軍足利義教が享栄4年(1432)に富士遊覧の時に立ち寄って紅葉を観賞したので紅葉寺と呼ばれているそうです。

  

橋本西の信号から再び1号線に合流します。次の橋本の信号を左折。突き当りに「棒鼻跡」があります。

棒鼻とは、駕籠の棒先の意味があるが、大名行列が宿場に入る時、この場所で先頭(棒先)を整えたので「棒鼻」と呼ぶようになったそうです。

    

新居宿には、疋田弥五郎本陣(188坪)、飯田武兵衛本陣(196坪)、疋田八郎兵衛本陣(193坪)という3つの本陣がありました。現存しているのは、飯田武兵衛本陣です。

新居宿は、人口3474人、家数797軒、本陣3、旅籠26の規模でした。

   

寄馬跡

   

町並みを歩くと、家々に昔の屋号が付けられていました。

旅籠「紀伊国屋」は現在資料館になっています新居宿旅籠紀伊国屋は紀州の出身で、江戸時代のはじめに新居に来て、茶屋を営んだという。はじめは小野田姓を名乗り、後に疋田弥左衛門に改めた。

旅籠屋として創業時期は不明だが、元禄十六年に御三家のひとつ紀州藩の御用宿を勤めるようになり、正徳六年に「紀伊国屋」を名乗ることを許されたという。

その後、享保十七年に帯刀御免、延享二年に五人扶持を賜り、江戸時代後期には敷地内に紀州藩の七里飛脚の役所があった。

紀伊国屋は、明治七年の泉町大火で焼失し建て替えられ、昭和二十四年まで旅館業を営んでいた。建物はその後増築したが、一部に江戸時代後期の旅籠屋の様式を残していたことから、街道文化を伝える施設として活用するため、東海道400年祭にあわせ、再生整備工事を実施した。

  

紀伊国屋の裏手には、「小松楼」があり、現在「小松楼まちづくり交流館」になっています。

新居では大正時代以降、関所の南側に歓楽街が広がり、多い時で60人から80人の芸者がいたと言われています。小松楼は大正から昭和20年代頃まで芸者置屋及び小料理屋を営みました。

建物は明治末期以前のものを現在の地へ移築し、その後数回の増改築を行っています。2階は座敷となっており、独特の間取りやべんがら色の壁など当時の面影を残しています。

平成22年9月1日から小松楼まちづくり交流館としてリニューアルオープンしました。【国登録有形文化財】

  

「新居関所跡」です。

  

新居関所(今切関所)は慶長5年(1600)徳川家康により創設されました。幕府は江戸を守るため全国に53ヶ所の関所を設け、「入鉄砲と出女」に対し厳しく取り締まりをしました。

特に新居関所は約100年間、幕府直轄として最高の警備体制が敷かれていました。鉄砲など武器の通行ではもちろんのこと、当関所に限っては江戸へ向かう女性(「入り女」)にも「手形」が必要で、

不備が見つかれば通ることはできませんでした。

当関所は江戸時代中期に、自然災害で2度の移転を強いられました。現在に残る建物(「面番所」)は、嘉永7年(1854)の地震でそれまでの建物が倒壊したあと、

安政5年(1858)までに再建されたものです。明治2年(1869)に関所は廃止されましたが、明治~昭和にかけて学校や町役場として使われ、当時の建物が日本で唯一そのまま残る関所としての

歴史的価値が高く評価され、大正10年(1921)国の「史蹟」に、昭和30年(1955)には改めて国から「特別史跡」に指定されました。

  

夕方に近づいてきました。今日は、JR新居町駅迄にします。安藤広重の「新居宿」の浮世絵は、浜名湖を渡る今切の渡しを描いています。

 

 

この分は3/8に歩いて写真200枚ぐらい撮ったのですが、誤ってフォーマットしてしまい、4/24に写真だけ撮りなおしに行ってきました。

 

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第31回飯田やまびこマーチ2日目20kmコース(長野県飯田市)

2017-05-01 16:09:06 | オールジャパンウオーキングカップ

4/23(日)第31回飯田やまびこマーチ2日目。今日は、朝が寒いです。放射冷却のせいか、朝5時の気温は3度です。

気温はこれから徐々に上がって20度ぐらいまでにはなるそうです。

 

今日は、「野底山森林公園から元善光寺を抜け田園地帯を巡るコース20km」に参加します。

  

今日も30k、20k同時スタートです。

スタートの時には、「長野県民の歌 信濃の国」が流れてきます。長野県民は、皆さん歌えるそうです。 信濃の国は、十州に 境つらぬる国にして・・・・・・ 

この信濃の歌は、福岡では、ラジオで信濃観光PRのCMで時々流れています。力強い歌が印象に残っています。

長野県民の歌 信濃の国はこちらです。  

https://www.youtube.com/watch?v=F-VWrBooua8

  

大宮諏訪神社を通り、中央道のガードを潜り、風越高校付近から坂道になります。

  

  

  

約5km地点の山田公民館が最初のチェックポイント。中学生がボランティアでチェックのスタンプを押してくれました。

気温もだいぶん上がって、暑くなりました。出発式の時に着ていたジャンバーをここで脱ぎます。

 

この近くには、野底山森林公園になっており、キャンプなどが楽しめます。また、日本固有の「モリアオガエル」の生息する場所としても知られています。

  

少し休憩して再び歩き出します。真っ青な空、桜、リンゴの花など楽しみながら歩きます。途中、「熊出没注意」の看板を発見!

   

浅間塚(せんげんつか)の一本杉です。樹高22m、胸高周囲4,2m、樹齢600年以上で飯田市の天然記念物に指定されています。

コースは、段々山の中に入って行きます。

  

「ふるさと大橋」では、ウオーキング会場近くにあった人形とけい塔と同じ人形がありました。

ここからは、南アルプス「仙丈ケ岳」(3032m)が見られます。 

   

下伊那郡高森町に来ました。高森町のマンホールは、不動の滝、瑠璃寺、市田柿、天竜を下るカヌーなどが描かれています。

干し柿のブランド名「市田柿」も高森町生まれだそうです。

 

     

更に先へ進むと、20k、30kの分岐点です。分岐点から中央道を潜ると、桜の綺麗な神社があります。「牛牧神社」です。

牛牧神社の沿革によれば、永享十二年(1440)次郎城主牛牧氏は信濃守護小笠原政康に従い下総国結城城攻略の戦役の従軍のおり武人の守護神たる八幡宮を祭祀した。

その後何時の世か諏訪明神を合祀し今日に至っている。

神社境内には、樹高32m、幹周り5,5mの大杉がまっすぐ一直線に立っています。樹齢600年とか。

  

このあたりが、南アルプスのビューポイントです。

拡大すると、

  

このうち、「北岳」は、あまり知られていませんが、日本で富士山に次ぐ2番目の高さを誇っています。(日本で2番目に高い山はどこか?とクイズ番組でよく出題されます)

間ノ岳は、日本で4番目です。このように、3000m級の山々が連なっています。

  

高森町の松源寺は、大河ドラマ「おんな城主直虎」ゆかりの地です。

松源寺の案内看板を見ると、松源寺は、臨済宗妙心寺派の寺院で、永正8年(1511年)~永正10年(1513年)頃、松岡城主伊予守貞昌によって創建されました。

開山の文叔瑞郁禅師は、京都妙心寺の24世住持になられた名僧で、井伊家の菩提寺である龍潭寺を開山した黙宗瑞淵禅師は、文叔瑞郁禅師の弟子になることから、文叔瑞郁禅師を

龍潭寺拝請開山に迎えています。

 天文4年(1545年)、直虎の許嫁であった亀之丞(後の井伊直親)は、今川義元に命を狙われたため、この法縁により、信州・市田郷の松源寺に逃れました。そして弘治元年(1555年)に井伊谷に戻る迄の

10年余をこの市田郷で過ごしました。

 現在の松源寺は、江戸時代(寛文6年(1666年)とされる)に現在地(松岡城西総構跡)に再興されたもので。亀之丞が逃れた当時は、ここから西方2kmほどの地、牛牧の「寺山」地籍にありました。

3月に浜松の井伊谷に行きましたが、井伊谷から高森町まで直線距離で120km。今でこそ車でしたら2時間半ぐらいで行けますが、当時は、山をいくつも越さないと行けません。

少年期病弱だった亀之丞が、よくここまで歩いて逃がれて行きましたね。

    

春は、桜の名所としても知られています。

  

松源寺の朱印には、「望郷」と書かれています。この地から井伊谷を思いながら「青葉の笛」を奏でていたのでしょうか? 

    

松源寺を出ると、「松岡城址」です。

平安末期から天正16年(1588年)、徳川家康により改易されるまでおよそ500年間に渡り、この地を支配した松岡氏の居城で、高森町史跡に指定されています。

段上の突端に位置し、西北は、自然の深谷に、東側は、急峻な傾斜地で、まさに自然の城壁といえます。更に多くの空堀や土塁などが施され、防備を強固にしています。

  

 

松岡城址を下りていくと、急な坂道です。これは、「帯曲輪(おびくるわ)」と言って城の山腹に設けられた帯状の細長い曲輪のことで、斜面を急にして敵が攻め上るのを困難にすることを目的に築かれました。

  

  

どうにか、降りてきました。高森町のマンホールは、「市田柿」がデザインされたものもありました。しばらく歩くと、「元善光寺」です。ここの花桃も綺麗です。

  

元善光寺は、推古天皇十年に信州麻績(おみ)の里(現在の飯田市座光寺)の住人本多善光(ほんだよしみつ)公が、国司の供をして都に上がった時に、

難波の堀にて阿弥陀如来様にめぐりあい生まれ故郷へお連れし、お祀りしたのが元善光寺の起源です。

その後、阿弥陀如来様の御告げにより芋井の里(現在の長野市)に阿弥陀如来様を御遷しすることになった時、再び御告げがあって「毎月半ば十五日間は必ずこの麻績の古里に帰り来て衆生を化益せん」との

御誓願を残されました。そもそも善光寺の名は善光公の名を以って付けられたものです。

御詠歌「月半ば毎にきまさん弥陀如来、誓いぞ残る麻績の古里」とある様に、古来長野の善光寺と、こちら飯田の元善光寺と両方お詣りしなければ片詣りと云われております。(元善光寺HPより)

  

    

元善光寺の横の坂を上って行くと、「麻績(おみ)の里」です。ここが2回目のチェックポイント。

  

麻績神社は、一村一社として長年受け継がれています。

座光寺地区の約1400戸が氏子となり、毎年、元旦祭、春祭り、秋祭り、勤労感謝祭の4大祭を開催しています。

麻績という言葉は、麻を積むというところから来ていて、麻を作ることができる豊かな場所という意味で、飯田市松尾から松川町までを指します。

元々は八幡社とだけ呼ばれていましたが、座光寺地区の大地主で、有力者であった、北原稲雄氏が"麻績"という言葉を大変気に入り、明治6年から神社の名称に使うようになり、現在に至っています。(信州JAより)

 

旧座光寺小学校(麻績学校)は、歌舞伎舞台と学校が一体となった珍しい建物です。

この麻績学校の前にあるのが、舞台桜です。普通の枝垂れ桜は、花弁が5枚ですが、舞台桜は、半八重紅彼岸枝垂れという、希少種で花弁が5枚~10枚までの咲き分けで

様々な数の花びらを持つ枝垂れ桜で、全国でもここだけしかないそうです。

  

飯田の市街地に戻ってきました今日は、リンゴ並木を会場に、各地のゆるキャラが飯田に集合しているそうです。歩いている時もいろいろなゆるキャラに出会いました。

   

   

11:25 ゴール  

   

3月の倉敷ツーデーマーチから始めました「日本マーチングリーグ(JML)」、久留米、飯田と、3回完歩しましたので「銅メダル」を頂きました。

お腹もすいたので会場のスタッフさんにお薦めのお店を聞くと、「上海楼」を紹介してくれました。

    

先ずは、ビールです。キリン「信州に乾杯」。

中華そばは、(並)を注文しましたが、麺の多さが凄いです。博多でラーメンを替え玉するより多いみたいです。今まで豚骨ばかり食べていましたので新鮮な味がしました。

  

今日(4/23)のGPSです。

これでオールジャパン達成まであと3県になりました。

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