よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2018年12月長崎出島~東京日本橋完歩。

筑肥線新型車両(305系)の試乗会(唐津駅~筑前前原駅)

2015-01-31 21:49:27 | 日記

1/31(土) 筑肥線(西唐津~姪浜・姪浜からは地下鉄空港線と相互乗り入れ)の新型電車305系の試乗会がJR唐津駅で行われました。

    

筑肥線は、昭和58年(1983)福岡市地下鉄と相互乗り入れする際、103系の電車が走っていました。当初は、玄界灘の海の色を表した「空色」の電車が走っていました。

それが、「赤」に塗り替えられ、現在では、303系の電車も走っています。

      

新型車両は、「305系」で全面は、「黒」でボディは、一面「白」です。

   

1両目は、木製のフローリングです。

  

他の車両の床をじっと見ると、QRコードが見えてきます。

  

この電車には、九州で初めて手動によるドア開閉装置が設置されています。(但し、地下鉄構内では使用されません) 

     

大型の電飾案内板も設置されています。

   

鹿家(しかか)駅に停車。

   

11:37  終点の筑前前原駅に到着。

  

このあと、筑前前原駅から唐津駅までの試乗会が行われます。駅改札口には、たくさんのお客様が待っておられました。

この305系は、来月2月5日より、西唐津~福岡空港まで営業運転します。順次新車両を導入していくそうです。(最終的には、6編成36両が投入されます)

試乗会を終えての感想ですが、103系に比べ、音も静かですし、振動もあまりありません。欲を言えば、シートが少し硬かった感じがします。

 

 

 

 


鎮国寺の淡紅梅(福岡県宗像市)

2015-01-28 22:09:45 | お花

今年より、腕の筋肉、肩の筋肉を強くしようと、週に2回ほど、市立体育館に行き筋トレを行っています。

  

2時間ぐらいですが、終わるころになると汗びっしょりになります。

先週も筋トレに行き、汗をかいたのでシャワーを浴びましたが、なんとなく肌寒く感じました。熱を測りますとちょっと高めです。(37,6度)

すぐ蒲団に入り、その日は、早めに就寝しましたが、翌日になっても熱は下がりません。多分インフルかな?と思い、それから5日間、家から一歩も出ず、寝てばかりいました。

月曜日、ようやく平熱に戻り、体力回復に公園2週ぐらいの軽いウオーキングを行っています。公園に行く途中、近くの民家の庭先には、紅梅が咲いていました。

4~5日休んでいるうちに、梅の花が開花していたのですね。

その紅梅を見に行こうと、今日(28日)は、宗像市にある「鎮国寺(ちんこくじ)」に行ってきました。鎮国寺は、

 寺伝によれば、空海(弘法大師)が第16次遣唐使船で唐に渡航中に大暴風雨に遭遇した際に、海の守護神・宗像三神などに祈誓を込めたところ、波間に不動明王が現れ、

右手に持っていた利剣で波を左右に振り払い、暴風雨を静め、空海は無事に入唐することが出来た。 その後、長安(現在の西安)に於いて青龍寺の恵果和尚より真言の秘法を授かり、

806年に帰国すると、まず宗像大社に礼参した。その時、屏風山の瑞雲が棚引くのを見て、奥の院岩窟に於いて修法を始めたところ、「この地こそは鎮護国家の根本道場たるべき霊地」というお告げを聞き、

一宇を建立して屏風山鎮国寺と号した。(wikipediaより)

また、鎮国寺は、「花の寺」としても有名です。今の時期、「淡紅梅」が咲いていました。

  

  

お寺の入口には、「熱海寒緋桜」が1部程度咲き始めていました。

   

その緋桜の横には、珍しい「アヤメ」も咲いていました。アヤメは、4~5月に咲く花ですが、この品種は、冬に咲くから「寒咲アヤメ」というのだそうです。

  

初めてこの寺に行きましたが、境内には、沢山の花が咲いており、四季折々の花が楽しめそうです。

 

 

 


薩埵(さった)峠の富士山(静岡市清水区)

2015-01-18 21:38:36 | ウォーキング

1/12 いつか行ってみたいと思っていた薩埵(さった)峠からの「富士山」。ここは、広重の東海道五十三次の絵にもあるように、江戸時代から富士山見学のビューポイントでした。

九州に住んでいるのでなかなか富士山には、行けませんが、ちょうど下田へウオーキングに行ったついでに登ることにしました。

沼津に泊まり、翌日の朝7:30の電車で興津へ。広重の絵では、沼津からも富士山が見えているのですが、現在は、富士山の方向にビルが建ち、見えません。

  

沼津を過ぎると車窓から富士山が見えてきます。その富士山に私は、興奮気味。車窓から写真を撮ろうとシャッターを押し続けます。

然し、電車の中のお客さんは、そんな富士山なんか無視。私だけがはしゃぎまわっています。

  

興津駅に着きました。駅で薩埵峠への案内図を手に入れ、案内図を見てみると、興津駅から薩埵峠は、旧東海道になっています。

昨年11月に山陽道、西国道を踏破しましたので、街道歩きとなるとワクワクしてきます。8:24ウオーキング開始。

  

   

薩埵峠越えは、時代と共に移り変わりました。

≪下道≫ 親知らず子知らずの道で海岸の波打ち際を道路として利用していました。安政元年(1854)の地震で海岸が隆起し、それ以降再び道路として利用されるようになりました。

≪中道≫ 慶長年間から明暦年間まで主として利用されました。慶長6年(1601)、家康が伝馬制度(使者や物資を馬で運ぶ交通制度)を設けました。慶長9年(1604)五十三次宿場制度確立。

       承応3年(1654)峠道を開いた。

≪上道≫ 参勤交代で諸大名も通った道です。明暦元年(1655)9月、江戸幕府は、朝鮮使節の一行を迎えるにあたり開いた道で幕末まで利用されました。

≪脇道≫ 通称「じぞう道」といい、上古から通行に利用されていました。

今回は、「上道」を通って行きます。興津川を渡り、人形屋さんの所から左折します。東海道線のガードを潜ると、興津川の案内板があります。広重の絵にも興津川の川渡りの様子が描かれています。

  

  

薩埵峠へは、各所に道案内の標識があり、私達みたいに初めて登る人にやさしい配慮がなされています。

薩埵峠は、万葉の時代から磐城山と呼ばれていましたが、文治元年(1185)、近くの海岸から地蔵菩薩の石像が引き上げられ、人々はこれを山に祀りました。山の名も菩薩と同じ意味を持つ「薩埵」と

呼びかえられたと伝えられています。

  

急な坂道を登りきるとお墓が見えてきます。案内板では、お墓の真ん中を通るようになっています。先を見ると急こう配の坂道が・・・・・・・・

そのために、お墓の入口には、「杖」が置いてあります。私達もこの杖をお借りして登って行きます。

   

急な坂道を登りきると視界が開けてきました。右側には、駿河湾が見えます。湾の向こう側には、昨日までいた伊豆半島です。

9:10やっと「薩埵峠」に着きました。興津駅から登り始めて45分です。

広重の薩埵峠(嶺)の絵には、崖から見入っている旅人の姿が描かれています。(左側上部)

   

薩埵山は、京都と鎌倉を結ぶ重要な戦略地点でたびたび古戦場になりました。南北朝時代の1351年には、足利尊氏と弟の足利直義、戦国時代1568年には、武田信玄が駿河進攻の際、今川氏真・北条氏政の合戦が行われました。

薩埵峠からの富士山です。この日は、天気は快晴で雲一つない富士山を見ることができました。

一昨年、富士山を見に河口湖ウオークに参加しましたが、雨にたたられ見ることができませんでした。このような綺麗な富士山は、初めて見ました。もう感激!

  

周りを見てみると何輪か咲いている「桜」がありました。これは、「薄寒桜」といって、明治の終わりに東京市長「尾崎行雄」がアメリカ・ワシントンに送った桜と兄弟です。今もポトマック河畔に咲いています。

これから2月にかけて満開になるのでしょう。薄寒桜と富士山のコラボもきれいでしょうね。路肩には、「日本水仙」の花も咲いていました。

       

ツバキと富士山もよく似合います。この先に展望台があるそうなのでそちらに向かいます。

   

展望台では、カメラマンの方が三脚を使い薩埵峠からの富士山の撮影をされています。ここから東海道本線の電車を入れて撮影されるみたいです。

たとえば、このように・・・・・・・・

また、富士山は、山梨、静岡両県にまたがっていますが、静岡側からの富士山は、右側に「宝永山」があります。宝永年間に爆発してできた火口「宝永火口」です。

   

もう少しゆっくり富士山を見たかったのですが、今日は16:00の羽田発飛行機で帰る予定ですので、富士山は名残惜しいのですが、由比に向かって峠を下りて行きます。

薩埵峠へは、興津からと由比から登るルートがありますが、興津から由比に向かって下りる方が正面に富士山が見られます。 

  

薩埵峠を下りた所が、由比町西倉沢です。ここ西倉沢は、興津宿と由比宿の間(あい)の宿になっており、10軒ぐらいの休み茶屋があって旅人は、ここでお茶を飲み駿河湾の風景を賞(めで)て旅立ちました。

  

柏屋」は、明治天皇が、ご小休に当てられた所です。

西倉沢本陣跡」は、川島家が江戸時代、慶長から天保年間、凡そ230年間、代々「川島勘兵衛」を名乗り、間の宿の貫目改所の中心をなし、大名もここで休憩したので、村では、本陣と呼ばれ

西倉沢では、代々村名主も務めた旧家です。

  

由比は、桜えびの町。薩埵峠で地元の方に教えてもらった「桜えびかき揚げ」の店に立ち寄りました。お店の前に立つと11:00から開店とのこと。どうしようかな?と思いましたが、折角ですので開店まで待つことにしました。

11:00暖簾が付けられ、開店です。5分ぐらいすると、出てきました、「桜えび」です。生桜えびと桜えびのかき揚げ。初めての食感です。

「生しらす」も食べたかったのですが、本日は、祭日で漁をやってないから、入ってないとのこと。(写真は、沼津で食べた生しらすです。)

 

   

  

ただ今、11:30食べるとすぐ歩き出しました。

  

【小池邸】 代々小池文右衛門を襲名して寺屋村の名主を務めていました。この建物は、明治時代の建物ですが、大戸、潜り戸、ナマコ壁、石垣等に江戸時代の名主宅の面影を残しており、国の登録有形文化財に登録されました。

  

由比の中心部に着きました。駅で時刻表を見ると12:51があります。只今11:55。 本陣跡までは、2km。急いで歩きます。

由比宿は、江戸から16番目の宿場で、町並みは、東西五町(約600m)、宿高は、340石、人口は、707人、戸数は、160軒あり、このうち本陣(大名が宿泊する施設)1軒と脇本陣1軒、旅篭屋が32軒あり、

相当な賑わいを見せていたと伝えられています。

 

   

※「せがい造り」:軒先を長く出した屋根を支えるために平軒桁へ腕木を付けだして出桁とたるきを置いたもの。

 「下がり懸魚(けぎょ)」:平軒桁の両側が風雨による腐食を防ぐための装置で雲版型の板に若葉、花鳥などを彫り込み装飾も兼ねている。

   

  

由井正雪は、江戸で、楠流軍学を講義していました。非常に説得力がある講義だったので、たくさんの浪人を弟子にしました。幕府は、由井正雪を召抱えようとしましたが、拒否されました。

それが余計に人気を集めたといいます。
由井正雪は、丸橋忠弥や金井半兵衛とともに、幕府の浪人を発生させる政治を止めさせることを口実にしていました。それによると、由井正雪は、駿府城から武器を奪い、久能山の霊廟にある

徳川家康の遺産200万両を奪い取る予定でした。また、丸橋忠弥らは江戸小石川の幕府火薬庫を爆破して江戸城を占拠し、次の将軍に予定されている徳川家綱を人質として、自分たちの要求を主張することになっていました。

また、金井半兵衛らは大坂で一揆を起こすことになっていました。 

   

12:45 由比駅に戻ってきました。本当に駆け足の由比宿めぐりでした。

今日は、もう綺麗な富士山を見て、本当に幸せでした。また機会があれば訪ねてみたいですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


下田水仙ツーデーマーチ2015(第2日目20km水仙コース)「静岡県下田市」

2015-01-16 21:52:09 | オールジャパンウオーキングカップ

1/11(日)今日も快晴ですが、少し風が強いです。ホテルからは、日の出を見ることができました。

  

2日目爪木崎水仙コース 20km

昨日と同じ7時過ぎにホテルを出発。バスで下田駅へ。

途中、晴れ着を着た方を見かけました。下田では、今日成人式が行われるそうです。

2日目は、昨日の疲れが残っていたため、急遽20kmの方へ変更しました。楠山市長の挨拶のあと、8:45太鼓の演奏で30k、20k同時出発。

   

  

稲生沢川を渡り、「道の駅開国下田みなと」へ。道の駅にある「下田バーガー」は、金目鯛を使ったバーガーですが、時間が早いためまだ開いてなく帰りにでも寄ってみたいです。

  

港には、黒船を模した遊覧船が停泊していました。「まどか浜海遊公園」の所が20k、30kの分岐点です。30kの方が間違えて20kの方へ歩かれ、引返された方も多々見られました。

  

20kコースは、このあと「松陰の小径」に入ります。ここの防波堤には、小学生が描いた絵や歴史の説明が取り付けられています。

弁天島を過ぎると、歩道の幅が狭くなってきます。

  

爪木崎入口の信号を左折。しばらく歩くと20k、30kの合流点になります。そのままゆるい上り坂を登っていくと「須崎御用邸」があります。ここは、昭和46年に造られました。7~8月に利用されているそうです。

  

 10:00須崎半島「爪木崎(つめきざき)」に到着。

   

爪木崎では、昨年の12/20から2/10まで「水仙まつり」が行われています。300万本の水仙が岬一面に咲き誇っています。今が、一番の見ごろでしょうか?

アロエの赤と水仙の白が見事にマッチしていますね。

   

  

   

岬では、青空市が開かれていました。おいしそうな金目鯛やアジ、サンマ、きびなごの干物が売っていました。

   

岩場の方に行ってみます。伊豆半島南部には、太古の海底火山の噴出物が広く分布しています。長い海底火山の時代のあと、伊豆全体が隆起と寝食を受けたため、本来は、地下に埋もれていたはずの

海底火山の姿を直接見られるようになりました。柱状節理」とは、伊豆地域が海底火山だったころの火山活動で地下マグマが地層の隙間に入り込んで冷え固まったものです。

地元では、柱状節理の断面から「俵磯」と呼ばれて、江戸時代には、建築用材として切り出され、見事な六角形の石材は、「俵石」と呼ばれ好評を博したそうです。(案内板より)

  

爪木崎の水仙をあとに、「須崎歩道」を歩きます。須崎歩道は、爪木崎から須崎漁港まで伊豆七島を一望する約2,8kmのハイキングコースです。

コースには、アップダウンが多いとのこと。昨日の疲れが残っていなければいいのですが・・・・・・

  

   

   

   

須崎歩道2,8kmを爪木崎から須崎漁港まで35分かかって歩いてきました。 いくつものアップダウンがあり、かなりきつい歩行でした。

須崎漁港がチェックポイント。ここで「しし汁」が振る舞われました。お腹も減っており、おいしくいただきました。

   

少し休憩して再び歩き出します。本来は、ここから恵比須島を一周することになっていますが、今日は、風が強く安全を考え、主催者の判断で取り止めになりました。

然し、ここからが急な坂道が待っています。「よいしょ、よいしょ」と言いながら登って行きますが、私よりちょっとだけ年上の女性の方達は、息切れもせず、私達を追い越して行きました。

その女性の方たちは、岩手県北上市から来られた4人組の方です。昨年か一昨年どこかの大会で家内がお世話になり、それ以来の再会です。しばらく一緒に歩いてお話をしました。(家内がです)

坂道を登り終え、「ハリスの小径」にはいります。ハリスの小径は、1856年、日本総領事に任命されたダウンゼット・ハリスが、玉泉寺にアメリカ領事館を設置した後、日米通商条約締結中に胃潰瘍を患い、

望郷の思いにふけりながら歩いた620mの道です。今では、その小径には、石畳が敷かれています。

  

まどか浜海遊公園まで戻ってきました。ちょっと寄り道して「下田バーガー」のお店へ。

中に入ってみると注文するお客さんで一杯です。近くの方に「どのくらい待つのですか?」と聞くと、30~40分待ちだそうです。そんなには、待てませんのでここは、泣く泣く引返しました。

   

13:14 下田小学校へゴール!! 

本日のGPSです。

   

昨日の疲れが多少残りましたが、無事ゴールしました。会場では、参加者の数が発表されていました。

2日間合わせてちょうど1000人。昨年より約100人少ないです。

この下田水仙2DMは、初日の前半は、あまり見るとこがありませんでしたが、後半の海岸線、そして今日の水仙と見どころ満載でした。

機会があれば、もう一度歩いてみたいです。

 

帰りは、下田駅まで歩きました。駅では、スーパービュー踊り子号が入っていました。これには、乗らず各駅停車の電車で今夜の宿「沼津」に向かいました。

帰りの電車の中では、駅で買った「金目鯛押しずし」。 これでしばらく金目鯛が食べられなくなるとさびしいです。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


下田水仙ツーデーマーチ2015(第1日目30kmタライ岬コース)「静岡県下田市」

2015-01-15 17:09:20 | オールジャパンウオーキングカップ

昨年まで街道歩きを主体に歩いていましたが、西国道も踏破し、今年はJWAのオールジャパンを中心に歩いていきたいと思っています。

伊豆では、「伊豆早春フラワーウオーキング」として、今月の「下田水仙ツーデーマーチ」、来月の「河津桜ツーデーマーチ」、3月の「伊豆松崎なまこ壁と桜ツーデーマーチ」の3大会が早春に開催されます。

その第一弾として今年初めての大会「下田水仙ツーデーマーチ」に参加しました。

 

1/10 1日目30kmコース 盥(たらい)岬コース。(会場:下田小学校)

 天気は、快晴。放射冷却のせいでしょうか、朝の気温は0℃。ホテルを7:10に出てバスで下田駅へ。ホテルで朝食を食べたかったのですが、ホテルの朝食は、7:30からでそれからでは間に合わず

ホテルに言っておにぎりを握ってもらいました。下田駅から歩いて会場の下田小学校へ。会場では、SNSで知り合ったkiyoさんご夫婦、ふくおかウオーキングクラブのTさん、Uさんとお会いしました。

9:00朝日子供太鼓の演奏で24km、30kmコース同時にスタートしました。

      

市街地を抜け、コースは、だらだらした坂道に入ります。出発して約2,5km地点が敷根公園。この時点に来ると、もう体がホカホカし、防寒着を一枚脱ぎました。

約5kmぐらいの地点が30kmと24kmの分岐点。30kmは、大賀茂小学校を通り、トンネルの方に向かいます。

  

分岐点を過ぎるとウオーカーの方が少なくなりました。皆さん、24kmの方に行かれたのでしょうか?

歩き始めて約1時間。大賀茂小学校地点が7kmのチェックポイント。私のスピードでは、とても時速7kmでは歩けません。多分5,5kmぐらいの間違いではないでしょうか?

コースは、県道119号線を歩きます。途中イチゴの自動販売機がありました。福岡もイチゴの産地ですが、こういった自動販売機は見たことがありません。(卵販売機は見たことがありますが・・・・)

  

この県道沿いでは、道路工事が行われていました。工事用のパイロンが、富士山のイラストでした。静岡県ですので納得。 また、バリケードは、福岡では、お目に掛かれない「木製」でした。

     

トンネルの手前を左折すると下り坂になってきます。しばらく歩くと先ほど別れた24kmコースと合流します。このあたりから、南伊豆町になります。

   

青野川沿いの桜並木を歩きます。ここには、河津桜でしょうか、桜の木を見ると1輪~2輪ほど咲いています。満開の時は、きれいでしょうね。

  

11:40 第2のチェックポイント「弓ヶ浜」に到着。ここまで18km地点と表示されていますが、私のスピードで18kmを2時間40分で歩くなんて、それは無理です。

GPSでは、14k~15kを示しています。ここでは、「豚汁」の接待を受けました。九州では、「ぶた汁」と言うんですが、「トン汁」と言うんですね・・・・・・・

弓ヶ浜は、日本の渚百選にも選ばれています。海岸線が弓なりになっているのでその名がついたのでしょうね。海の色が九州の玄界灘と違います。遠くには、伊豆諸島が見えています。

ここまで歩いてきて見るべきものが何もなかったのでこの景色 癒されますね。

   

この一帯は、富士箱根伊豆国立公園に入っており、弓ヶ浜から田牛(とうじ)までの約2,9kmが遊歩道になっています。コースは、この遊歩道を歩きます。

   

雀岩は、潮が満ちてくると群れをなした雀の鳴くような音をたてるといわれています。これらの奇岩は、海食によってできたそうです。

  

細い急な階段を息を切らしながら登っていくと「盥(たらい)岬」に到着しました。今日は、天気もいいので伊豆諸島の島々を見ることができます。

  

 

盥岬は、風が強く帽子が吹き飛ばされそうになりましたが、素晴らしい景色です。三宅島は、かすかに見えましたが、写真では写ってないですね。

岬を下り、田牛(とおじ)の方に向かいます。途中「椿園」がありましたが、椿園の椿は、まだ咲いていませんでした。(写真は、岬に入る前の所で撮りました)

  

遊歩道の終点は、「田牛(とうじ)」です。この難解地名、どうしても読むことができませんでした。昔、冬至に龍宮窟に人々が集まり祈りをささげたからその地名になったそうです。

また、「伊豆」という地名は、アイヌ語が元という説もあるそうです。(定かではありません)

  

  

今日は、前半の14kmまでは、あまり見る所がありませんでしたが、チェックポイントからビュースポットばかりで、写真ばかり撮っています。

龍宮窟」「サンドスキー場」の案内板があります。龍宮窟は、時間がかかると思いましたのでパスしましたが、サンドスキー場とは、どんなものか見に行きました。

  

サンドスキー場は、海や風によって海岸の崖から削り取られた石や砂は海流によって運ばれて砂浜や礫(れき)浜を作ります。このサンドスキー場は、たまった砂が強風によって吹き上げられ天然の

砂の斜面が出来上がったものです。(案内板より)

このサンドスキー場の近くには、ハマナスの自生地があるそうです。

いくつかのトンネルを越えましたが、トンネルの中に歩道がないものもあり、無灯火で来る車には、冷や冷やしながら通りました。

トンネルを越えると、ビューポイントの「吉佐美大浜」があります。砂浜では、少年野球の選手がダッシュの練習を繰り返していました。海では、サーフィンを楽しむ若者がいます。

  

吉佐美海岸から左の方に行くと、大賀茂川沿いに「はまぼうブリッジ」があります。ここには、「黄槿(はまぼう)」の木が300本近くあるそうです。下田市の天然記念物にもなっています。

この「黄槿(はまぼう)」は、10年ぐらい前でしょうか、わが町の人たちと河口に200本近くのはまぼうの苗を植えました。今では、初夏の7月初めに黄色の可愛い花を咲かせています。(写真は、わが町のはまぼう)

途中、散歩されている方からあと6kmぐらいと教えていただきました。現在13:45。15:00ぐらいには、ゴールできるかな・・・・・

      

はまぼうの並木道を過ぎると国道136号線に合流します。このあたり、民宿やペンションの看板が目につきます。

吉佐美の国道沿いに歩くと途中でUターンするように筑波大学実験センター方面に歩きます。再び海岸線に出てきました。

この海岸線も美しいです。「和歌の浦」だそうです。何という鳥か知りませんが(シギかな?)、渚に停まっていました。

   

しばらく歩くと「下田海中水族館」が見えてきます。

   

下田城址公園、ペリー来航記念碑を通り「」へ。

このペリーロードは、黒船でやってきたペリー提督が了仙寺で日米下田条約締結のために行進した道です。平滑川をはさむ石畳の道沿いには、なまこ壁や伊豆石造りなど風情のある家並みが続いています。

    

了仙寺を通り、ゴールの下田小学校へ。

  

今日のGPSです。スタートの時スイッチを入れ忘れていました。2kmぐらい経過したところからになっています。

ゴール後、寝姿山のロープウェイに乗ろうかと思いましたが、今日は、アップダウンが多く、すぐホテルへ帰りました。

お風呂で体重を測ると-2kgでした。

今晩の夕食もアワビ、伊勢海老、金目鯛が出てきました。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


下田の町を散策②「吉田松陰編」(静岡県下田市)

2015-01-14 05:19:52 | 旅行

①からの続きです。 

宝福寺から了仙寺に向かって歩きます。了仙寺から左折し、しばらく行くと「ペリー艦隊上陸の地」があります。

  

嘉永7年(安政元年1854年)再来したペリーと幕府の間で持たれた4日米和親条約の交渉過程で、開港地として下田港が提示されると、ペリーは、調査船を派遣した。下田港が外洋と接近していて、

安全に容易に近づけること、船の出入りに便利なことなど要求している目的を完全に満たせている点にぺりーは、満足した。条約締結により即時開港となった下田にペリー艦隊が次々に入港した。

そしてペリー艦隊の乗組員が上陸したのが、下田公園下の鼻黒の地であった。ここを上陸記念の地として「上陸の碑」が建てられた。(案内文より)

上陸の碑の横には、「日米友好の火」があります。2004年日米友好150周年によせて、当時のジョージ・ブッシュアメリカ大統領からのメッセージも刻まれています。

 約2000万年前、伊豆は本州から数百km南、現在の硫黄島付近の緯度にあった海底火山群でした。フィリピン海プレートの上にできた海底火山や火山島はプレートとともに北に移動し、

やがて本州に衝突して現在のような半島の形になりました。伊豆南部の広い地域は、噴火した海底火山や火山島によって作られた土地です。下田の市街地をとりまく二つの特徴的な山、寝姿山と下田富士は、かつて

火山の地下にあった「マグマの通り道」が地上に姿をさらした火山の根(火山岩頸)です。

   

開国記念館の前にある「下田小学校」が、明日(1/10)行われる下田水仙2DMのスタート地点です。

了仙寺は、上陸したペリー一行の応接所となり、1855年5月、日本側全権林大学頭等とペリーの間に和親条約付録下田条約がこの寺で調印されました。了仙寺は、玉泉寺と共に米人休息地となりました。

また、了仙寺では、ペリー艦隊の音楽隊が演奏を行い、これには、町民も見ることが許され、当日は、了仙寺の境内・周辺が人で埋まったと言われています。これが日本で最初の洋楽のコンサートです。

 

   

さて、幕末の下田で忘れてはいけないのが「吉田松陰」。

安政元年(1854)、吉田松陰(当時25歳)は、足軽の金子重輔(24歳)とともに下田港に来航した米国ペリー艦隊を追って、下田に来ました。3月27日夜、弁天島近くから船を出して、米艦ポーハタン号に漕ぎ着け、熱心に便乗を

懇請しました。兵学者であった松陰は、欧米列強に対抗できる日本国家をいかにつくるかを探求し、米国に行って見聞を広めたい、その目的のために命を賭して密航を企てたのです。

名前も偽名(吉田松陰は、瓜中万二(くわのうちまんじ)、金子重輔は、(いさぎこうだ))を使いました。

然し、対応した通訳ウィリアムスは、政府の許可がない理由で便乗を拒否し、福浦海岸に送り返しました。事敗れた二人は、柿崎名主「増田平右衛門宅に自首。その後下田奉行所に連行され、一時長命寺に拘禁され、

更に平滑の獄に移されました。

下田獄のあと、金子は、病死しましたが、松陰は、江戸、萩(謹慎処分)、江戸と牢獄を転々として1859年安政の大獄で処刑されました。この間、萩では、近隣の青少年を集め、教育を始めました。

これが「松下村塾」です。この中から、高杉晋作、久坂玄瑞、山縣有朋、前原一誠、伊藤博文などの人物が巣立ちました。

   

 

    

吉田松陰拘禁の跡は、現在下田公民館になっています。句の意味は、「世間の人は、良くも悪くも言いたいように言えばいい。私の誠は、神が知っているのだから」。

尚、「宝島」「ジキル博士とハイド氏」などを書いたイギリスの伝記作家、ロバート・L・スティーブンソンが、「YOSHIDA TORAJIROU」という本を書いているそうです。

また、今年から始まった大河ドラマ「花燃ゆ」では、1/25放送分でこの下田における松陰のことを放映するそうです。

再び町歩きをします。

町の一角になまこ壁の旅館があります。「松本旅館」です。建てられたのが安政2年(1855)、160年の歴史があります。ペリー来航の時期と重なります。この建物が、ペリー来航から現代にいたるまで下田の歴史を物語っているのでしょうね。

現在でも営業しているのかな???

町を歩くと、目につくのが「干物屋」さん。下田の金目鯛が並んでいました。他にもサンマの干物もありました。

 

  

今日の宿は、市街地から少し入った白浜海岸にあるホテル。

ホテルの窓からは、伊豆大島が見えました。

ホテルの夕食は、下田名物「金目鯛の煮つけ」「金目鯛の刺身」「伊勢海老」「アワビ」でした。中でも金目鯛は、この下田が水揚げ日本一だそうです。九州では、めったに食べることができません。

明日からのウオーキングに備えしっかりエネルギーを蓄えました。

  

 

 

 

 

 

 

 


下田の町を散策①「唐人お吉編」(静岡県下田市)

2015-01-13 14:41:47 | 旅行

1/10~11に行われる「第17回下田水仙ツーデーマーチ」に参加するため、前日の9日から下田に入りました。

下田は、幕末(1854年)に締結された日米和親条約で箱館(函館)と共に開港されました。(下田は、即時開港、箱館は、翌年開港)

町を歩くと開港当時の遺跡が残っています。

  

伊豆急下田駅から歩き出すと、途中龍馬とお吉の看板が立っています。ここが「宝福寺」。どうも龍馬の顔は、大河ドラマの「福山雅治」さんに似ていますね。(笑)

嘉永7年(1854)日米和親条約締結にあたり、日本全権の本陣となり、下田奉行所が置かれました。

また、文久3年(1863)、宝福寺に滞在中の土佐藩主「山内容堂」に勝海舟が来山し、坂本龍馬の脱藩の罪の許しを乞い、許されました。

  

    

 

この宝福寺には、開国で自分の一生を棒にふるった一人の女性の物語があります。

「唐人お吉」(お吉物語)

     ♪  泣いて昔が返るなら

       なんで愚痴などいうものか

       花のいのちは一度だけ

       よしておくれよ気休めは 

この歌は、昭和35年ごろ天津羽衣さんが歌ってヒットした「お吉物語」です。今でも中村美津子さんなどがカバーされています。

私がまだ小学生のころだったかな?ラジオから流れる歌を聞いた覚えがあります。このお吉が「唐人お吉」とは、知りませんでした。

お吉(斉藤きち)は、天保12年(1841)愛知県知多郡内海で生まれ、4歳の時、船大工をしていた親と一緒に下田に移り住みました。14歳で芸者となり、その容姿から下田一の人気者となりました。

安政4年(1857年)5月、日本の初代アメリカ総領事タウンゼント・ハリスが玉泉寺の領事館で精力的に日米外交を行っている最中、慣れない異国暮らしからか体調を崩し床に臥せってしまう。

困ったハリスの通訳ヘンリー・ヒュースケンはハリスの世話をする日本人看護婦の斡旋を地元の役人に依頼する。しかし、当時の日本人には看護婦の概念がよく解らず、妾の斡旋依頼だと誤解してしまう。そこで候補に挙がったのがお吉だった。

当時の大多数の日本人は外国人に偏見を持ち、外国人に身を任せることを恥とする風潮があったため、幼馴染の婚約者がいたお吉は固辞したが、幕府役人の執拗な説得に折れハリスのもとへ赴くことになった。

当初、人々はお吉に対して同情的だったが、お吉の羽振りが良くなっていくにつれて、次第に嫉妬と侮蔑の目を向けるようになる。ハリスの容態が回復した3か月後の8月、お吉は解雇され再び芸者となるが、

人々の冷たい視線は変わらぬままであった。この頃から彼女は酒色に耽るようになる。

慶応年(1867年)、芸者を辞め、幼馴染の大工・鶴松と横浜で同棲する。その3年後に下田に戻り髪結業を営み始めるが、周囲の偏見もあり店の経営は思わしくなかった。

ますます酒に溺れるようになり、そのため元婚約者と同棲を解消し、芸者業に戻り三島を経て再び下田に戻った。お吉を哀れんだ船主の後援で小料理屋「安直楼(あんちょくろう)」を開くが、

既にアルコール使用障害となっていたお吉は年中酒の匂いを漂わせ、度々酔って暴れるなどしたため2年で廃業することになる。

その後数年間、物乞いを続けた後、1890年(明治23年)3月27日、稲生沢川門栗ヶ淵に身投げをして自殺した。満48歳没(享年50)。

その後、稲生沢川から引き上げられたお吉の遺体を人々は「汚らわしい」と蔑み、斎藤家の菩提寺も埋葬を拒否した為、河川敷に3日も捨て置かれるなど下田の人間は死後もお吉に冷たく、

哀れに思った下田宝福寺の住職が境内の一角に葬るが、後にこの住職もお吉を勝手に弔ったとして周囲から迫害を受け、下田を去る事となる。

お吉の存在は、1928年(昭和3年)に十一谷義三郎が発表した小説『唐人お吉」で広く知られることとなる。(wikipediaより)

お吉物語の歌の最後のセリフは、「ハリスさんも死んだ。鶴さんも死んだ。今の私には、穴の開いた三味線みたいなものなんだ。どんなにつくろってみたってもう昔の音なんか出やしない。・・・・お酒だよ、お酒おくれ・・・・」

宝福寺の中には、「お吉記念館」があります。この中には、お吉のお墓があり、お吉が使っていた衣装、器、ひな人形などが展示されています。

  

  

写真なんか見ていると、現代でも通用するような美貌の持ち主だったみたいですね。

   

了仙寺近くには、お吉が料理屋を経営していた「安直楼跡」がありました。案内板を見るとご自由に見学どうぞと書かれてましたが、お店は、閉まっており入ることができませんでした。

    

あのころ、真偽は定かではありませんが、お吉は、町の人に妬まれる存在だったと思います。それが、昭和3年発表の十一谷義三郎「唐人お吉」で脚光を浴び、映画や舞台、歌にまでなりました。

今では、観光の目玉として「お吉」を売り出しています。お吉が今、生きていたら、このようなことをどう思っているのでしょうか?

幕末に悲しい一生を送った女性のお話でした。

   辛い浮世の路地裏で

    毒と知りつつ呑むお酒

    下田港のお月様

    明かるすぎますお吉には~ 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 


三社詣りウオーキング「護国神社~櫛田神社~住吉神社」(福岡市)

2015-01-08 12:26:16 | ウォーキング

1/07は、ふくおかウオーキング協会主催の「三社詣りウオーキング」に参加しました。

集合は、地下鉄西新駅。平日とはいえ、今年初めての例会で参加者も約50人。

準備体操のあと、ウオーキング開始。

  

  

※「広田弘毅」は、福岡市出身、戦時中の総理大臣。城山三郎「落日燃ゆ」のモデル。

西新駅から大濠公園を通り、「福岡県護国神社」へ。

御鎮座
昭和18年4月30日
御祭神
明治維新以来幾多の戦役事変に際し戦死病歿せられ 平和日本の礎石となられた 福岡県下一円の護国の英霊鎮座地(神社HPより抜粋)

今日、(1/7)は、七草粥の日。境内では、「七草粥」が振る舞われていました。

  

  

     ♪ 七草なずな 唐土の鳥が 日本の土地に 渡らぬさきに 七草はやせ 七草はやして とんとんとん とんとんとん ♪   (七草囃子の歌)

福岡県護国神社を後に、「櫛田神社」へ向かいます。櫛田神社は、博多の祝い唄「祝いめでた」にも出てくる博多の総鎮守です。有名なものとしては、博多祇園山笠があります。

博多祇園山笠(はかたぎおんやまかさ)は、毎年7月1日から7月15日にかけて開催される700年以上の伝統のある祭であす。櫛田神社にまつられる素戔嗚尊に対して奉納される祇園祭のひとつ。

正式には櫛田神社祇園例大祭

   

祭神は大幡主命(櫛田宮)・天照皇大神(大神宮)・素盞嗚尊(祇園宮)。 天平宝字元年(757)、孝謙天皇の御代。

この櫛田神社は伊勢松坂の櫛田神社を勧進したものだと考えられ、 天正15年(1587年)の豊臣秀吉が博多復興にあたり、現在の社殿の建立寄進がなされた。(神社HPより抜粋)

本殿横に「霊泉鶴の井戸」というのがあったので飲んでみましたが、塩水みたいに辛くて一口だけにしました。

また境内の横には、もう1月だというのに「シコンノボタン」が咲いていました。(だいたい9月半ば~11月ごろに咲く)

ウオーキングの最後は、「住吉神社」。

   

 住吉神社の沿革は、

筑前一之宮「住吉神社」は、底筒男神・中筒男神・表筒男神の住吉三神を祭神とし相殿に天照皇大神・神功皇后を配祀します。
住吉三神は遠い神代の昔に伊弉諾大神がここ筑紫の日向の橘の小戸の阿波伎原でミソギハラエ(禊祓)をされた時に志賀海神社の御祭神ワタツミ三神と警固神社の御祭神・直毘の神と共に御出現になりました。

したがって当社の御鎮座は遠い遠い神代のことで、年代を定めることは出来ませんが、全国的にも九州でも最も古いお宮様です。住吉大神をお祀りする神社が全国に二千百二十九社ありますが、

当社は住吉の最初の神社で、古書にも当社のことを「住吉本社」「日本第一住吉宮」などと記されております。
また平安時代に全国各地に「一ノ宮」が定められましたが、当社は筑前国一の宮として朝野の厚い崇敬をうけました。
約八千年前、神功皇后の三韓への御渡幸に際し、住吉大神の荒魂は水軍をお導きになり、和魂は胎中天皇と申し上げた応神天皇の玉体をお守りになり、刃を用いずして御帰還遊ばすことが出来ました。

よって皇后は住吉三神の御神徳を厚く敬仰感謝され、新羅の都に国の鎮護として住吉大神をお祀りになり、攝津(大阪)、長門(山口)、壱岐に住吉神社を御創建になりました。
当社への朝廷の御崇敬はとくに篤く神功皇后の勅祭(十月十三日の例祭の起源)に始まり、聖武、清和、陽成、後一条、鳥羽、後花園の各天皇が奉幣あらせ、大正天皇は三度、昭和天皇は五度の奉幣がありました。

また当社は諸武将の崇敬も厚く、楠正成・源頼朝・足利尊氏は祈願文、寄進状を寄せ、一時は自国・他国を合わせ神領三千余町(ha)歩神人三百人に及んだと伝えられます。

江戸時代に入っては元和九年(1623年)藩主黒田長政公は白銀二千両と材木を寄進して社殿を再建し、六代光之公も社殿を修理されました。(博多の観光スポットより抜粋)

昔は、この一帯まで海だったそうです。

境内では、鯛や鯉の形をした「おみくじ」がありました。

  

  

約10kmのウオーキング。このあと博多駅東の中華料理店での新年会に出席しました。

初めて「紹興酒」にチャレンジしました。砂糖を入れて飲みましたので、とても甘く、グイグイいけます。飲みすぎに注意しなくては・・・・・・・・

今週末から、静岡へ遠征してきます。

   

 

 

 

 


 

 

 


可也(かや)山登山(福岡県糸島市)

2015-01-04 12:22:19 | ウォーキング

1/03 今年は、静岡・薩埵峠で富士山を見に行こうと計画していますので、練習のため、「糸島富士」と呼ばれる「可也(かや)山」に登りました。

     

可也山は、もとは火山で、形が似ていることから、糸島富士、筑紫富士、小富士などと呼ばれています。標高は365mで山頂まで遊歩道があり、手軽に登れる山としてハイカーにも親しまれています。

登山口は、師吉(もろよし)公民館。ここに車を置き、11:20  さあ、スタートです。  ※登山口は、小富士バス停の方からもあります。

   

民家の横を通り、5分ぐらいで登山口に着きました。ここから、展望台まで1850mです。

  

  

途中から勾配の厳しい坂道が続きます。特に階段の段差が高く「よいしょ」と言いながら登って行きます。登山開始30分で「石切場跡」に到着。

   

石切場跡の説明文は、

可也山は標高365メートル、東西約4キロメートル、南北約2キロメートルの独立峰で、東方から望む山容は富士山に似ており、糸島富士或いは小富士などとも呼ばれている。
万葉集巻十五に『草枕 旅を苦しみ 恋ひおれば可也の山辺に さ雄鹿鳴くも』と詠まれているように古くから知られた山で、その名は朝鮮半島の伽耶地方に由来するとの説もある。
山塊は大部分が花崗閃縁岩からなるが、頂上付近には火山活動で噴出した玄武岩が見られる。特に山腹に露出する良質の花崗岩は、江戸時代初期を主体として近代に至るまで、城や寺社などの石造物の材料として利用された。
有名なところでは、栃木県日光東照宮、江戸城紅葉山、警回神社、桜井神社などの石鳥居の造立にこの山の花崗岩が使われている。その中でも、元和四年(1618年)に黒田長政が普請した、江戸時代のものとしては我が国最大の日光東照宮大鳥居の造立の際には、難儀の未、60トンを超える巨石をこの山から切り出し、海を渡り川を上らせ、遥々日光まで運搬したという顛末が『黒田家譜』などの丈献に記されている。
現在のところ、明確にその時期まで遡及でさる石切り場跡は確定されていないが、山腹の巨石に現在でも数多く残る矢穴(楔痕)が往時の様子を侭ぼせる。

この石切り場には、ベンチがあり、ここで少し休憩します。案内板を見ながら、遠い昔に思いを馳せます。

昔、玄界灘から糸島水道を通り、朝鮮半島からの渡来人が糸島に渡ってきました。現在でも朝鮮からの地名がここ糸島にも残っています。この「可也山」もその一つです。

また、「志登支石墓」などの遺跡も大陸、朝鮮半島などによくみられ、古来より大陸、朝鮮と密接な関係があったのでしょう。

60トンもの大石をこの山で切り出し、それを日光東照宮まで運んだというから、この細い山道をどうやって運んだか見当もつきません。

休憩して呼吸を整え再び出発。山頂まであと900mです。登っていると所々に大きな石が点在しています。

   

左側に、NHKの糸島テレビ塔が建っています。ここからの眺めは、木で遮られますが、福岡市市街地が見えます。

  

今日は、福岡地方朝の気温が氷点下1度でした。寒いので厚着してきましたが、下着はもう汗びっしょり。防寒着を脱ぎました。

第1展望台に来ました。ここからも福岡市内が見渡せます。

 

しばらく歩くと、火事の跡があります。まだ煙くさいにおいが残っていますので最近のことでしょうか?登山道は、急な勾配から平坦に変わります。

   

山頂の手前には、「可也神社」があります。案内板によると、

所在地 糸島市志摩小金丸620番地
  祭 神 神式天皇(かむやまといわれひこのみこと)
  相 殿 木花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと)
  相 殿 倉稲魂命(うがのみたまのみこと)

 可也山は、標高365m、コニーデ式(円錐形)の独立峰で、万葉集には「草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさ雄鹿鳴くも」と詠われており、富士山に似た優美な姿から、糸島富士、小富士などと呼ばれて古くから崇敬を集め、

親しまれてきました。神武天皇が日向の国から東征に向かう際、国見をするためにこの山頂に立ち寄られたとの伝承が残っています。
また、山麓一帯には古くから仏教寺院が営まれ、江戸時代の文献には、古来、可也山に所在していた寺院として、金峰山華厳寺や往生山明星寺などの山号・寺名が見られます。 

これらは、すでに廃寺となり伽藍は残っていませんが、現在、中腹の親山虚空蔵堂に安置されている平安時代後期の作とされる木造十一面観音立像(福岡県指定有形文化財)などは明星寺にあったと伝えられるもので、

この他に培われてきた古い歴史の一端を物語っています。
可也神社は、明治期の文献に小金丸村の氏神である熊野神社の摂社のひとつとして記録されています。元来、山頂付近に熊野神社があって、それが江戸時代中頃に麓の親山の場所に移ったと記されており、

その故地が現在の可也神社として祀られているのではないかと推察されます。
現在の石祀や境内は、皇紀2600年(西暦1940年)を記念して、可也村民を挙げて整備されたものてす。

  

御祭神の木花咲耶姫命 は、富士山浅間神社の神様です。これがこの山の「糸島富士」と言われる起因でしょうか?

また、入口の「可也神社」と彫られた石碑の裏には、紀元二千六百年と書かれています。これは、1940年(昭和15年)が神武天皇(日本最初の天皇)即位(皇紀)から2600年にあたることからこの石碑が建てられたのでしょうか?

可也神社からすぐの所が、可也山山頂(365m)です。山頂の所には、寒暖計が置かれていました。その寒暖計は、5℃を指していました。登山口が9℃でしたので4℃ぐらい低いです。

山頂は、木で覆われ何も見えません。展望台は、ここから100mぐらい進んだ所にあります。

    

展望台に着くと視界が開けてきました。

  

北の方向を見ると、遠くに「壱岐島」が見えます。

 

西の方は、木が茂っていて眺望は、あまりよくないです。

志賀島の所には、12:30に博多港を出航した、釜山行フェリー「カメリア」が通っていました。

この眺望は、本当に素晴らしいです。しばしこの眺望に見とれていると、少し寒くなりましたので、脱いでいた防寒着を着て、下山します。

下山していると、、登ってきた方から、手作りのストラップをいただきました。

約50分で登山口に着きました。初めて可也山に登りましたが、結構険しく、ポールを持って登った方がよかったかもしれません。

春には、小富士の方から、梅林を見ながら登るのもいいでしょうね。