よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年10月オールジャパンカップ達成。





西国街道(山崎街道)を歩く1日目(西宮から伊丹)13,1km

2014-07-30 20:30:00 | 西国街道を歩く

19日、山陽道・西宮ゴール後、灘五郷の一つ、今津郷を訪ねました。阪神電車で西宮から今津までは、1駅。この日は、甲子園でプロ野球オールスター戦があるためか、電車の中は、タイガースやカープのユニフォームを着た方がたくさん乗ってこられました。 私、阪神電車に乗るのは初めての経験です。しかしこの日は、相互乗り入れしている近鉄の電車でした。

  

駅前から海岸の方に向かって歩きます。民家の庭先には、木苺が実っていました。(子供の頃はよく食べたっけ)

酒蔵通りがありそこを左折。右側には大きな旧家が見えてきます。その横には、大関酒造が経営している「甘辛 関寿庵」があります。ここでは、酒饅頭や酒カステラが販売されています。

    

 

今津六角堂」は今津小学校の中にあります。明治15年(1882)に建設されたというピンク色の壁と六角形の突き出た部分が珍しい校舎です。できた当初は遠方から手弁当を持って見物に来る人も多かったそうです。小学校の校舎建て替えなどで何度か移転した後、今の位置に戻ってきました。現在も一部は校舎として使われているそうです。1階は展示スペースになっており、見学も可能ですが、今日は土曜日で学校も休みのため見学できませんでした。

  

 小学校の先の交差点を右折すると目の前に大関酒造の工場が目に飛んできます。さらに先へ進むと海に出てきます。ここにあの「今津灯台」があります。今津灯台は、今津郷の酒蔵家「大関」醸造元長部家五代目長兵衛によって文化7年(1810)に設置され、樽廻船による日本酒をはじめとして木綿、干鰯といった荷を積んで今津港を出入りする船の安全を守っていた。かつては、毎晩大関の丁稚が油2合を携えて点灯に向かっていましたが、大正年間には電燈となった。

     

この頃になると、空が暗くなりポツリポツリと雨が落ちてきました。このあと酒造メーカーのミュージアムに行こうと計画していたのですが、急いで駅に戻りました。 今日は、夕方、枚方に住んでいる従姉妹夫婦と梅田で約30年ぶりに会いました。3~4歳だった従姉妹の子供さんは、もう30代半ばだそうです。今会ってもわからないでしょうね。

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【西国街道出発】

旧山陽道は、西宮から下関を山陽道、西宮から京都までを西国街道あるいは、山崎街道と呼ばれていました。

山陽道を西宮にゴールした私たちは、これより京都へ向かいます。したがってこの京都までの道を「西国街道」として分けていきたいと思っています。西国街道は、西宮から京都まで約80km。宿場は、昆陽宿(伊丹市)、瀬川宿(箕面市)、郡山宿(茨木市)、芥川宿(高槻市)、山崎宿(島本町)の5宿です。

7/20宿泊先の新大阪のホテルを出て、地下鉄で梅田まで、梅田より阪神電車で昨日のゴール地西宮へ行きました。     8:55前日ゴール地西宮神社へ到着。西国街道のスタートです。

  

西宮神社からの道をまっすぐ進んだ所に「蛭子大神御興座伝説地」の碑があります。昔、鳴尾浜の漁師が沖で漁をしていたところ、変なものが網にかかり捨てた所、また和田岬の沖で網にかかったので持ち帰りお祀りすると夢枕に神様が出てきてもっと西へ連れて行けと言うので神輿に乗せてこの辺りまで運んできたら神様が眠ってしまわれたのでここで輿を休めた所とか、神様のお尻をつねって起こしたのでオコシヤ伝説の地と言われています。これが西宮神社に恵比寿様が祀られている所以だといわれています。

西宮宿は、本町あたりにあったと書いてありますが、現在それらしきものはありません。

与古道公園には、お地蔵様と廣田神社の石碑が立っています。

  

街道は、阪神電鉄の高架を超え東川信号に出ます。この左側に「海清寺」があります。

  

東川からJRを超えしばらく行くと、西宮市民運動公園があります。ここを横断し橋を渡り左に行き、100mぐらいの所を右に行きます。街道は細い路地になります。路肩が狭いので車が来るとよけなければいけません。

  

街道を進み、丸橋郵便局の先に「門戸厄神さん」の標識が立っています。「是より門前まで五丁 中山荒神 三田 有馬道」と、右側には、「すぐ京都、伊丹、池田道 左は参拝ちかみち」と書いてあります。

折角ですので、街道からは外れますが、「門戸厄神さん」に行ってみることにしました。ここから五丁ということでしたので5分ぐらいかなと思いましたが、緩やかな上り坂が続き、おまけにこの暑さ、なかなか進みません。

  

  

 

寺伝によれば開創の経緯は、嵯峨天皇の41歳の厄年にあたる天長6年(829年)、空海(弘法大師)により厄除祈願が行われた。その際嵯峨天皇は愛染明王と不動明王が一体となって厄神明王となりあらゆる厄を打ち払うという霊感を得、空海に祈願を命じた。 空海は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、国家安泰のため、高野山の天野大社、皇室安泰のため、山城の石清水八幡宮、国民安泰のため、門戸東光寺へそれぞれ願って勧請したが、現在残っているのは東光寺のもののみであるという。

ここ門戸東光寺は、あらゆる災厄を打ち払うという厄神明王(門戸厄神)が有名で、厄年にあたる年齢の人が厄払いをするほか、十三詣(じゅうさんまいり)といい、数えで13歳の子どもが厄除けと学業成就を願って虚空蔵菩薩に詣でる。初宮参り、交通安全祈願、護摩祈祷、人形供養も受け付けるそうです。

門戸厄神さんを後に来た道を戻り再び街道へ。しばらく歩くと阪急門戸厄神駅。踏切を渡ります。

   

そのまま真っ直ぐ行くと、左側に2本の道標が立っています。大きい方は、左尼崎、大阪、伊丹、池田、京道、右西宮、真ん中には、厄神明王道と書かれています。小さい方は、「すぐか婦と山かんのん是より十五丁」と刻まれています。

  

街道は、阪神水道企業団の所から新幹線のガードを潜ります。しばらく歩くとスポーツで有名な「報徳学園」が見えてきます。そこを右折。報徳学園というと、二宮金次郎の「報徳思想」ですが、校内に金次郎の銅像はあるのか試すために学内に入りました。探すと、金次郎でなく、大人になった二宮尊徳でした。

 

   

報徳学園の前を行くと「武庫川」に突き当たります。この辺に一里塚があったそうですが、今はありません。

報徳学園の横の道路は、歩道がなく車の通行量も多いので川のそばの遊歩道を歩きます。

川に降りていくと「髭の渡し」の看板が立っています。

  

 

江戸時代に西国街道の武庫川を渡る際、堰堤(ダム)の付近には武庫川の渡しがあり、1909年(明治42)に甲武橋がかかるまで渡しは続けられました。西昆陽村の髭の安兵衛さんの茶屋が近くにあったことから髭の渡しと呼ばれたれたようです。西行きは西昆陽村と常松村が隔月で、東行きは段上・上大市・下大市村が月番でそれぞれ渡しを担当しました。川水が少ないときは歩行渡りや仮橋がかけられたりしましたが、増水時は人足・船渡し・連台による渡しが行われ、船頭6人でも船渡しができないと川留めになりました。現在、行者堂が建てられている東岸河川敷付近に東の渡し場があったと思われます。(西宮市文化財より抜粋)

西昆陽村の安兵衛さんの茶屋は、安兵衛さんが立派な髭を蓄えていたので「髭の茶屋」と呼ばれていたそうです。今探してみますが、わかりませんでした。ただ、バス停だけは今もその名が残っています。

 

甲武橋を渡り、武庫川沿いを歩くと、国道171号線に合流します。ここから伊丹市に入ります。

時間も12時を廻りました。お腹もすいてきましたが、この暑さでは、冷たいそばかうどんがいいですね。

うどん屋さんかそば屋さんを探していると「イズミヤ」の近くにそば屋さんがありました。早速ざるそばを注文します。

ホント、暑い時には、冷たいソバが一番です。おいしくいただきました。またこのお店でもお水の補充をしていただきました。

      

※伊丹市のマンホールは、市の鳥「カモ」が描かれています。昆陽池には、渡り鳥も来るそうです。

お腹もいっぱいになり、元気になった所で再び街道歩きをスタートします。 

そば屋さんのすぐ先に「師直塚」(もろなおつか)があります。高 師直は、足利家の武将で観応2年(1351)に上杉能憲勢の待ち伏せに遭いこの地に置いて子息五郎、弟師泰と共に討たれ高一族は滅ぶことになりました。高師直は南北朝の武将で足利尊氏が上洛の折、すでにその側近にあり、足利家の執事として北畠顕家を倒し、河内の南朝軍を弟師泰と共に制圧し、楠木正行を敗死させるなどの功績がありました。師直らの没後、この辺りに墓らしき塚が残っていましたが、耕作の妨げになると崩され、その後山田村の有志により現在のつかが建碑され、国道の拡張工事により現在の場所に移されました。(案内板より)

  

昆陽里信号から斜め右の道路に入るのですが、道を間違え引き返しました。この西国街道は、街道の案内板が沢山立っていて、道を間違えてもすぐ引き返せます。

 

僧行基が掘ったと言い伝えられている「閼伽井(あかい)の井戸」があります。「あかい」とは梵語で水、特に仏前に供える水の事を言い、昆陽寺の付近の地を閼伽井と呼んでいたことから、ここにある井戸が閼伽井の井戸と呼ばれてきました。大変霊験豊かな水をたたえていたことが記録にあります。

  

地図を見ているとこの辺りに「昆陽(こや)寺」があります。171号線を渡らなければいけませんが、近くに横断歩道がなく寺本4丁目の信号から戻ってきます。

 

昆陽寺は奈良時代の名僧、行基が建立した畿内49院の一つで、天平3年(731年)創建の昆陽施院の後身寺院。朱塗りの山門と境内の観音堂が昭和44年に、また山門内に安置されていた広目天・多聞天立像が平成10年に、それぞれ兵庫県指定文化財となっています。(伊丹市HPより)

 

西天神社の前を通り、昆陽8丁目の所から旧街道になります。この辺りが「昆陽(こや)宿」になります。  

昆陽宿は、天保14年の記録では、家敷7軒、人口913人、本陣1軒、旅籠7軒、人馬問屋1か所あったとされている。本陣は、川端家が務めていたそうです。長勢児童公園あたりだったそうです。

 

  

道標の「中山」は、伊丹市の中山寺、「小濱」は、京伏見街道、宝塚の小濱宿です。稲野小学校の所にも西国街道の案内板がありました。

 

街道は、伊丹警察署、伊丹市役所の所に来ました。今から街道を外れ、「有岡城址」に行きたいのですが、歩いていくと片道30分ぐらいかかりますので、バスを利用します。日曜日なのでバスの本数が少なく30分ぐらい待ってバスが来ました。(あとで聞きましたら、国道の方に行けば、頻繁にバスが出ているそうです)

  

有岡城址は、JR伊丹駅のすぐ前にありました。

「有岡城」は、伊丹氏がこの場所に城を築いたのが鎌倉時代末期頃のことです。初めは居館として建てられましたが、戦国時代を経て、次第に堅固な構えになってきました。伊丹氏の城は、天正2年(1574)織田信長の武将荒木村重の攻撃によって落城しました。その後村重は、信長の命によって有岡城と改名し、壮大な城を築きました。有岡城は、伊丹段丘の高低差を利用し、南北1,6km、東西800mに及ぶ惣構えが築かれ、要所には、岸の砦、上臈(じょうろう)塚砦、鵯塚(ひよどりつか)砦が配置されました。  謀反を起こした村重は、天正6年(1578)、信長勢の攻撃を受け、十ヵ月間の攻防の末、強固な城も遂に落城しました。

天正8年池田之助が城主となりますが、同11月美濃の国に転封を命じられ廃城となりました。明治26年鉄道の開通によって城跡の東側が削り取られましたが、土塁や堀など今もその姿を留めています。昭和50年より発掘調査が実施され土塁、石垣、堀、建物、池等の遺構を検出し中世城郭から近世城郭への移行期の様相が明らかになりました。

  

 

城址では、ボランティアの方が有岡城の説明をされていました。有岡城といえば、我が福岡藩租「黒田官兵衛」が一年近く幽閉された所です。土牢ということで聞いてみましたが、土牢は、発見されていないそうです。

このあと、また街道に戻り桜井まで歩く予定でしたが、有岡城址で急に雷雨に遭い慌ててJR伊丹駅に入り雨宿りをしました。しばらく雨の様子をうかがっていましたが、雨脚は、激しくなるばかりです。今日は一応ここで打ち切りとします。JR伊丹駅から、ホテルの新大阪まで戻りました。

夕方の6時ごろには、雨もやみ、久しぶりに大阪新世界に行ってきました。

  

入ったのは、「串かつ屋」です。ここも人が多く30分ぐらい待ってようやく店の中に入ることができました。

 

 

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山陽道(西国街道)を歩く36日目(三宮〜西宮)15.4km

2014-07-27 07:20:27 | 山陽道(西国街道)を歩く

7月19日からの3連休で山陽道を歩きました。山陽道も今回が最終日。張り切って歩こうと思っています。

    

博多発6:05の新幹線で新神戸へ。新神戸からは地下鉄で三宮に行けるのですが、街道の前に北野異人館に立ち寄りました。北野異人館は、幕末・明治以降の日本において欧米人が居住するために住宅として建設した西洋館です。

時々小雨が降る中、オランダ坂を上り、「うろこ館」」へ。朝が早いのかまだ開門になってなく外から写真におさめました。

     

  

異人館から三宮に降りていくとスタバコーヒーやコンビニなどのお店が地域に合ったように作られています。

更に下っていくとダルビッシュのポスターが掲げられています。ここは、「ダルビッシュ記念館」で昨年11月に開館しました。

ダルビッシュの背番号から11月11日11時11分にオープンしたそうです。

その反対側には、おしゃれな「コーヒー館」が建っています。ここは「にしむら珈琲店」。

入ってみようと店の近くまで来ましたがまだ開店準備中でした。また歩道には、きれいな花が植えられていました。

  

  

三宮駅前の山陽道(西国街道)にやってきました。前回ゴール地、雲井通6丁目に行きGPSをセットし歩き始めます。

 

神戸市内の街道は、生田筋から芦屋打出まで、内陸部を進む大名行列に利用された「本街道」と海岸沿いを進む庶民の生活道路として利用された「浜街道」がありますが、私は、本街道の方を歩きます。

歩いていると各所に「西国街道」の案内板が立っていて、とてもわかりやすいです。

新生田川の雲井橋を渡ると、吾妻地区に、「大安亭市場」があります。

大安亭と言う変わった名称は本来、三宮のセンター街の東の続きとして戦前にあった「小野中道商店街」に大安亭と言う名前の浪花節寄席小屋がありここにちなんで名付けられました。
 「小野中道商店街」は戦前には三宮の表通として存在し、そごうをはじめ、呉服、時計、履物などの老舗が軒を競い、付近では、映画館「大黒館」や、浪花節寄席「大安亭」で、映画や漫才などが気軽に楽しめるとあって、神戸の中心として連日大変なにぎわいでした。
 その大安亭の付近にあったのが大安亭市場でしたが太平洋戦争末期の空襲でほとんどの店舗が焼失してしまいました。戦後しばらくGHQがこの地域一帯を接収したために再建できなくなってしまい幾人かの店主はあたらしい場所を求め現在 大安亭市場がある場所に三々五々新しく出店することとなりました。
 ですから当時は新しくできたと言う意味で新大安亭市場と言う名前で呼ばれていました。そして、いつしかこの新も取れて元の大安亭市場と言う名前に戻りました。 (大安亭HPより)

  

   

   

大安亭には、狸の「ロダン」にまつわる民話「ロダンのたぬき」があります。ここでは省略しますが、若し民話を知りたい方がいらっしゃいましたら「ロダンのたぬき」で検索してください。

街道を進みます。この街道は三宮からまっすぐな道ですが、西国街道の案内板が随所に立っています。

街道を歩く者としては大変助かります。

     

都賀川の大石橋にやってきました。川幅はそんなに広くなく穏やかに流れていますが、2008年(平成20年)には、都賀川水難事故が発生しています。7月28日突如の集中豪雨で水遊びなどで都賀川や河川敷に居た16人が急激な水位上昇によって流され、うち11人は救助されましたが、小学生2人、保育園児1人を含む5人が犠牲になりました。         その教訓か、急激な水位上昇には、回転灯で警告するようになっています。

  

街道は、新在家駅を通り「御影」に入ってきました。御影は、花崗岩の別名御影石の語源となった場所です。

海岸部は、江戸以降栄えた灘の酒(注1)「灘五郷」の一つの御影郷で白鶴、菊正宗、剣菱の造り酒屋があります。

また、御影は澤之井という泉があり、神功皇后がその水面に御姿を映しだしたことから御影の名の起こりだそうです。

(注1)灘五郷:今津郷(西宮市)、魚崎郷(東灘区)、御影郷(東灘区)、西郷(灘区)、下灘郷(中央区)

 

 新神戸に着いたときは、小雨が降っていましたが、いつの間にか夏の太陽が顔をのぞかせていました。

とにかく暑いです。御影の信号の所にコンビニがありましたのですごそこへ入りました。昔の人はお茶屋さんで休憩していましたが、現代ではコンビニがお茶屋さんになっています。飲み物、アイスを買いしばらく休憩します。

ふと、コンビニの前を見ると「処女塚」の碑が建っています。興味津々でその「処女塚」へ。

   

 処女塚(おとめづか)古墳は、4世紀前半に築かれたと思われる前方後方墳で全長70m、後方部の幅39m、高さ17m、前方部の幅32m、高さ14mで昭和60年に遺跡公園として整備された。平成5年(1993)には、魏から卑弥呼に贈ったとされる三角神獣鏡が7面発掘されています。

また、平安時代中期の「大和物語」の中に「処女塚伝説」が記されています。

それによると、昔々この辺りに一人の美しい乙女、菟原処女(うないおとめ)が住んでおり、二人の若者が求婚し、生田川の水鳥を弓矢で射抜く勝負をするも決着がつかず、思い悩んだ乙女がとうとう生田川に身を投げた。それを知った二人の若者も後を追ったという悲しい話である。若く儚い三人の死を憐れんだ親族が菟原処女の墓を造った。それが「処女塚」でその墓を挟むように東西2kmの地点に2つの求女塚(もとめづか)を造った。それが西求女塚古墳東求女塚古墳である。

その後の調査でこの3つの古墳の中では、西求女古墳が3世紀中期で一番古い古墳で実際には、同じ時期ではなかったそうです。

古墳の際には、湊川の戦で敗れた新田義貞を逃がすためにこの地で討ち死にした小山田高家の石碑も建っています。

  

石屋川の西国橋を渡ります。この辺りが「東灘区」でしょうか、付近には、高いマンションが立ち並んでいます。

御影小学校近くに「徳川道起点」の案内板がありました。

徳川道は、江戸末期(慶応3)幕府が兵庫港を開港するにあたって開港場付近の外国人と西国街道を往来する諸大名や

武士との衝突を避けるために作られた迂回路です。そのコースは、西国道と分かれ当時の徳井、平野、高羽、八幡、篠原の各村を経て、杣谷を通り、杣谷峠、森林植物園、鈴蘭台、明石大蔵谷までの8里27町9間(34km)でした。

  

御影小学校の裏手には、一里塚橋があります。この辺りは以前、字一里塚と呼ばれていました。東西に通っていた西国街道に一里塚が設けられていたのでつけられた地名です。今は、塚もなくわずかにこの橋がその名を留めています。

御影中学の所には、「街道松」が残っています。

街道は、2号線に合流しました。2号線住吉郵便局の反対側には、「本住吉神社」があります。

境内では茅の輪くぐりがあり、私たちも矢印の通りに廻ってきました。

 

 本住吉神社は、

社伝では、日本書紀において、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。

延喜式神名帳には記載されていない。古くから「本住吉」と称してきたが、明治初年の『神社調査明細書』には「住吉神社」と記載された。神社側からの申請により、明治38年(1908年)に「本住吉神社」に復称した。社殿は1995年の阪神・淡路大震災で大きな被害を受け、現在の社殿はその後復興したものである。(ウイキペディアより)

本住吉神社の先の交差点には、「有馬道」の碑が建てられています。

    

  

更に進むと、東灘区役所近くの歩道に何かしらモニュメントがあります。案内板を探しますが、見つけられませんでした。

東灘区役所では、「震災慰霊碑 祈りと復興」のモニュメントがありました。

阪神・淡路大震災では、東灘区の被害も大きく、倒壊家屋26000棟、死者1471名の尊い命が失われました。

今では、あの震災がうそみたいに周りには、近代的なビル、マンションが立ち並んでいます。

  

住吉橋を渡り、甲南町5丁目を左折すると「花松くび地蔵(くび地蔵)」があります。

案内板をみると、かつて諸大名や旅人が西国街道を往来していた頃、首から上の病気に霊験あらたかだったという「花松地蔵」と呼ばれる地蔵尊があった。大正6年地域の人々によって建立されたもので、すでにあった花松地蔵にまとめ、「花松くび地蔵」と名づけられた。

私達もここで住所と名前を言い、祈願しました。

  

花松くび地蔵の前をまっすぐ進み幼稚園の所を斜め左に進むと「三王神社(さんのうじんじゃ)」があります。また、摂津本山駅近くの2号線沿いに「国道地蔵尊」があります。

  

 国道地蔵尊は、昭和7年(1931)、交通安全の守護として建立されましたが、平成7年(1995)1月17日午前5時46分突発した阪神淡路大震災で倒壊しました。東灘区は、被害が甚大で倒壊家屋2万6千棟、犠牲者1500人を数える状況でした。復興へ3年余りにして、市街地修復の兆しが現れるに及び、国道地蔵尊再建の発願が起こり、平成10年8月再建を遂行しました。偏に、国道交通安全、地域住民の安寧和平を願い、併せて交通事故、震災犠牲者万霊の供養を祈念しています。  (案内文より抜粋)

時間は、お昼を廻りました。それにしても暑いです。歩く前にコンビニで氷のペットボトルを買っていましたが、それも溶けてなくなりました。どこかで補充と思っていましたら、道路の右側にスーパーがありましたのでそこに寄り道します。店内の冷房にあたり、しばし休憩。買い物客の方が私のDバックの後ろに付けている「博多~京に向かって歩いています」のプラカードをジロジロ見ていかれます。中には「頑張って!」と声をかけてくれる方もいらっしゃいました。 三宮からここまで約10k。予定では時速5kmぐらいで歩くことにしていましたが、暑さで時速3kぐらいしか歩いていません。 ペットボトル5本ぐらい補充し再び歩き出します。

  

稲荷神社の赤鳥居の前を過ぎると芦屋市に入りました。2号線芦屋川にかかる「業平橋」を通り、茶屋之町北信号から  旧道に入ります。

     

   

阪神電鉄打出駅近くには、阿保(あぼ)親王廟の石碑が建っています。阿保親王は、平城天皇の皇子で在原業平の父君   です。時間も1時半を過ぎました。どこか昼食を食べる所を探しますが。芦屋というとオシャレなお店を想像するのですが、   こんな暑い時は、冷たいざるそば、冷麺などがいいのですね。(笑) とにかく食べる所を探し、駅前の商店街へ入りました。 うどん屋さんや冷麺屋などなく、喫茶店がありましたのでそこでランチをいただきました。                       食べ終わり、店の方にお願いして冷たい水をペットボトル2本ほど補充していただきました。

  

先に進みます。打出町の阪神電鉄の踏切を超え、街道は、阪神高速に沿っていきます。高速芦屋ICの所から西宮市になります。夙川を渡り、香櫨園駅を通り、

  

            西宮神社へゴールしました!

  

 

  

西宮神社は、お正月の福男選びの開門神事で有名です。                                私達も山陽道踏破のお礼に本殿に進みました。ゴールしたからでしょうか、歩行中は降らなかった雨がポツリポツリと降ってきました。神様からのお祝いのシャワーでしょうか?

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平成24年(2012)12月から始めたこの「旧山陽道」36日目でゴールしました。                       歩いた距離は、約550km。最初は、青春18きっぷを利用しましたが、広島県近くになったら有給を使い、 3連休を取りながら歩きました。

これからは、西国街道として、京を目指します。京都ゴールは、11月を予定しています。ブログ上で応援していただいた皆様無事西宮にゴールすることができました。本当に有難うございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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梅干の土用干し

2014-07-24 17:02:34 | 日記

神奈川のHさんから梅干はどうなりましたか?との問い合わせがありましたので、その後の梅干を報告します。

福岡地方は、21日から梅雨明けとなり、ブログ友達のBちゃんが梅干しの土用干しをしていると連絡がありましたので

私も早速土用干しをすることにしました。

大きなザルに梅、赤紫蘇を入れて今日から3日3晩干します。

幸い我が家は屋根のついたベランダがありましたのでそこに置いています。

梅を見ると赤く染まっているのもありました。秋にはおいしい梅干しが食べられそうです。

 

  

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桜井神社の岩戸開き(福岡県糸島市桜井)

2014-07-03 21:17:44 | 糸島の歴史

7月2日福岡県糸島市にある「桜井神社」に行ってきました。

この日は、境内にある「岩戸宮」開きが行われます。朝4時からの祭事でしたが、その時間は、まだ夢の中。

バイトが終わり昼から行ってきました。

 桜井神社は、慶長十五年(1610)六月朔より二日の暁にかけて、大雷雨が起こり突如電光一閃のうちに岩戸神窟が開け、ご神霊が顕現されました。

それから、様々な霊験あらたかなことが起こり、それを聞き及ばれた福岡藩二代目藩主黒田忠之公は家臣を二回に渡り遣わして問われるに、

その答え寸分も違わず御験(みしるし)があったので、益々ご神威に感謝され、寛永9年(1632)に現在の豪華絢爛なご社殿をご創建され、

 

現在もその当時の姿を留め本殿・拝殿・楼門は福岡県の重要文化財に指定されております。 (桜井神社HPより抜粋)

   

  

本殿裏側に、「岩戸宮」があります。普通は扉が閉まっていますが、一年で7月2日だけ扉が開けられ、参拝できます。

  

本殿でお参りし、岩戸宮の方に廻ります。

    

岩戸宮の中は、狭く、順番を待って入っていきます。中に入るとひんやりとした空気が漂ってきます。

ろうそくの明かりで照らされた祭壇には、神聖な感じがしてきます。

また、ここから1kmぐらい離れた所に「浦姫宮」があります。

この地方が大暴風雨に襲われた時、桜井の三郎畑という小高い丘に大きな岩屋が出来ました

これを見ようと村人が大勢集まりました。その中の山伏が「神様の岩屋だから人は出入りしてはならない」と厳かにいうと、人々は跪き拝むのでした。
その人たちの中に時の岩松城主浦新左衛門の妻女がいました。
その夜妻女が眠りについていると夢の中にその岩屋が現れ、その中に運ばれていきました。
奥深い所で神々のお姿にふれ、伏し拝みますとキラキラ輝く小石が飛んできて額に当たりました。
夢から覚めた妻女は神のお告げの元、5年の辛い修行を行い、正確な予言をするようになりました。
その後、「浦姫様」と呼ばれ評判が福岡藩二代藩主「黒田忠之公」にまで届きました。
忠之公は真偽を確かめるため、使者を遣わしましたが、「私には人の心の中がわかるのです」と言って
使者の浦姫への疑念や城を出るときの様子を見透したように言い当てたのです。
敬服した使者が福岡に戻り、忠之公に事の始終を報告しますと忠之公はすっかり感心されました。
その後、黒田藩にはお家騒動が起こり、幕府から呼び出されることになりました。
忠之公は、家老を江戸に上らせたのですが、不安でならず、浦姫のもとへお忍びで行かれました。
江戸の成り行きを尋ねますと浦姫は、庭にある榎の大木に登り、江戸の方をみつめ、一心に思いを
凝らします。しばらくすると浦姫の心に江戸城の裁きの様子が映り家老の明快な返答ぶりを教えてくれました。
忠之公は、その信じられないような能力に驚かれ、後に浦姫の話が事実と少しも違わないことを知ると、
その信頼は益々深まり難しいことがおこる度に相談されたそうです。」(浦姫伝説より)

    

因みに黒田家のお家騒動とは、

世に知られている「黒田騒動」は、元和9年(1623年)長政没後から始まります。
 新藩主になった忠之のわがままは治まらず、家臣をむやみに打ち叩いたり、近臣を集めては毎日酒宴におぼれ、剛健・質素の家風は忘れられていきます。

大膳をはじめ藩の重臣たちが忠之に何度諫言してもとりあってもらえず、藩政は険悪な状況になっていきました。忠之は、幕府が最も嫌う軍船を建造し幕府のとがめを受けます。

大膳などの謝罪で事なきを得ましたが、忠之の乱行は治まりません。
 忠之は、領主になる前から小姓として仕えていた倉八十太夫をかわいがり、食禄は加増を重ね9000石にまで取り立てています。

さらに、重臣のだれにも相談なしに十太夫を家老にし、十太夫の権威は藩随一になります。忠之のわがままは益々ひどくなり、藩の乱れは承知しながらも藩の重臣たちも口をつぐみます。

諫言をなすのは大膳のみとなり、諫言してもしりぞけられ続けました。
 忠之は、独断で新規に足軽200人を抱え、一銃隊を編成して十太夫につけます。この時代、大名が城郭を補強・修理したり士卒を雇い入れたりすることは禁止されていて、

幕府による藩取り潰しの口実にされかねない出来事です。大膳は、若輩の十太夫に頭をさげ、諫言書を藩主忠之に届けるよう依頼します。十太夫はこれを握りつぶし、

大膳の悪口を言いつけて忠之をたきつけます。こうして忠之と大膳の間には修復できない亀裂が生じてしまいます。忠之は大膳の殺害を口にしますが、大膳は職を退いて杷木志波の邸に帰り、

藩をつぶすことなくこの急場を乗り切る方法を考えていました。
 寛永9年(1632年)6月、大膳は九州大名の総目付け日田代官・竹中采女正に「藩主に反逆の企てあり」との訴状を差し出します。

これは、裁きの庭で長政と家康の関係を幕府高官に再確認させることが目的で、自身は「主に対する反逆の罪」に問われることを覚悟しての行動でした。
 思惑どおり寛永10年(1633年)3月、大膳は裁きの庭で諸老中を前に「御老中の御威光による御意見をいただく以外には、主・忠之をして神君・家康公の御厚志を守り通さす方法見当たらず

公訴の手段をとりました。家康公の御意思をふみにじってはなりません」と釘をさしています。大膳の命をかけた訴えによって、次のような幕府の評定が出されました。
 「治世不行き届きにつき、筑前の領地は召し上げる。ただし、父・長政の忠勤戦功に対し特別に旧領をそのまま与える。」

「大膳は主君を直訴した罪で奥州盛岡に配流。150人扶持を生涯与える。」
 こうして黒田藩はとりつぶしを免れ、その後忠之は島原の乱や長崎警護の任で活躍し、城下町の賑わいのために尽力しています。

大膳は、盛岡で罪人あつかいされることなく、62歳で生涯を終えました。お墓は岩手県盛岡市にあります。(福岡県朝倉市HPより)

 

この桜井神社の奥には、桜井大神社があります。祭神は、天照皇大神、豊受皇大神。

此の地に天照皇大神、豊受皇大神を勧請すべきという神託があり、二代藩主忠之公は、神明造りの三殿を造営し、寛永2年(1625)伊勢神宮外宮、内宮両宮の御分霊を勧請しました。

この桜井大神宮も20年ごとに式年遷宮を行ってきましたが、第13回目で止まり、現在の社殿は、慶応2年(1866)のものです。

森の中の参道を歩いていくと、神聖な場所に建っていました。何かパワーが宿っているようでした。

   

 

 

 

 

 

 

 

 

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2014博多山笠が始まるの巻

2014-07-01 22:00:27 | お祭り

今日から7月です。

今日、1日は、集団自衛権が、自民、公明両党の合意の上、閣議決定されました。

こんなに重要な問題なのに国民の声を聞かなく、閣議の憲法解釈だけで自衛隊を紛争地域へ送り込むという悪法です。

この悪法で自衛隊には人が入らなくなり、人手確保の為、得意の憲法解釈で「徴兵制度」まで行くのではないでしょうか?

若い人は、もちろん、高齢者予備軍の我々にも徴兵制度が適用されるのでしょうか?

平和の党を看板にしている公明党も最初は反対していましたが、最後は、簡単に寄り切られてしまいました。

どうして憲法改正の国民投票にしなかったのでしょうか?

安部内閣では、これから益々右傾化していくのでしょうね。  クワバラ  クワバラ

 

さて、今日1日、博多では「博多祇園山笠」が始まりました。

今日から「飾り山笠」が公開されます。最初に博多の総鎮守「櫛田神社」に行ってきました。

      

櫛田神社の清道(せいどう)は、まだ準備中でした。桟敷席のチケットはもう売り切れです。境内では、この山笠期間限定販売の「祇園饅頭」が売られていました。

    

櫛田神社の山笠は、表が「男毛剃乃心意気」(おとこけぞりのこころいき)、見送りが、「倭建東征走水譚」(やまとたけるのとうせいはしりみずのたん)

   

【上川端通】 表「船弁慶」(ふなべんけい) 、見送り「花咲爺」(はなさかじい)

この山笠は、「走る飾り山笠」といってこの状態で追い山の時に走ります。途中煙を吹いたりしますので豪快な山笠です。

    

【中州流】 表「奮戦本能寺」(ふんせんほんのうじ)、見送り「賤ヶ岳之戦」(しずがたけのたたかい)、舁き山「猩々酒宴寿」(しょうじょうしゅえんのことぶき)

     

【千代流】 表も見送りも「軍師 官兵衛」(ぐんしかんべえ)

私の同級生の人形師がこの山笠を作りました。豪快な人形が特徴です。

      

【東流】  表「風雲龍謙信決戦」(ふううんりゅうけんしんのけっせん)、見送り「忠義軍師官兵衛」(ちゅうぎのぐんしかんべえ)

   

 【博多リバレイン】  表「開祖誉発展振興」(かいそほまれのはってんしんこう)、見送り「げんき100倍」

  

【ソラリア】 表「賤ヶ岳之大決戦」(しずがたけのだいけっせん)、見送り「大宰府花咲筑紫万葉」(だざいふにはなさくつくしまんよう)

  

【新天町】  表「朱槍一竿傾而候」(しゅそういっかんかぶいてそうろう)、見送り「サザエさん」

      

【天神一丁目】  表「藤太百足退治勇」(とうたむかでたいじのいさおし)、見送り「鞍馬山」(くらまやま)

行ってみると、ちょうど神事の最中でした。

      

【渡辺通一丁目】  表「奇襲本能寺」(きしゅうほんのうじ)、見送り「アニメ名探偵コナン」

    

駆け足で、10個の山笠を見てきました。

飾り山笠の特徴は、表がだいたい戦国もの、見返りがテレビドラマが多いです。

特に今年は、大河ドラマ「軍師 官兵衛」の影響でしょうか、官兵衛を扱った人形が多かったですね。

この山笠も、来週ぐらいからお潮井取りに始まり、動く山笠に変わっていきます。

本番の「追い山」は、7/15AM4:59からです。

 

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