よっちゃんのおててつないで

よっくんとカブの夫婦ウオーキングブログです。
2017年10月オールジャパンカップ達成。





門司往還(参勤交代往還)小倉~門司港

2012-01-17 19:16:32 | 長崎街道歩き
先日長崎街道をゴールして次は山陽道を歩きますと宣言しました。
あれから資料などを調べてみますと江戸後期長崎街道が門司大里まで延長されていたのです。
江戸後期には大里から船で本州に渡る人が増えていました・
あの長崎街道を歩いた象さんも、歩いて大里まで行きそこから船に乗って下関・赤間関に到着しました。

この道は長崎街道なんですが、門司往還とか、参勤交代往還とも呼ばれています。
私もこの街道を歩いてみることにしました。
この街道は地図など資料が乏しく何年か前に歩いた「無法松2DM」などを参考にしました。

前回ゴールの常磐橋を渡り京町商店街に入っていきます。
常磐橋は伊能忠敬が測量を行ったモニュメントがあります。



商店街をまっすぐ進むと左手に小倉駅が見えてきます。
門司往還はというと、デパートの中を通っているんです。
折角ですのでデパートの中を通ろうと思いますがまだ10時前、デパートの開店まで
小倉駅で時間をつぶすことにしました。

デパートの開店に合わせ歩いてデパートの中を歩いてみます。
デパートの中の街道は催事用のワゴンなどが街道?いっぱいに並べられていました。

砂津川の手前に「西顕寺」があります。
ここには「岩松助左衛門」の墓があります。

説明文によりますと岩松助左衛門は、
文化元年(1804)小倉城外の長浜浦に生まれた。岩松家は代々庄屋を勤め助左衛門も18歳で庄屋となり、のち文久元年(1861)海上御用掛難破船支配役を命じられました。
小倉沖の藍島白洲付近は暗礁が多く、西国一の海の難所として船人から恐れられ難破船の絶え間がなかった。
助左衛門は深くこれを憂い文久2年(1862)灯台建設を発起、白洲灯篭築立願書を藩に提出した。
然しその時期がちょうど幕末維新の変動期であったため、事業の進展は容易でなく助左衛門を苦境に
追い込んだがその決意はひるまなかった。
明治4年灯台建設事業は国に引き継がれ明治6年宿願の白洲灯台は点灯されたが助左衛門はその完成を
見ることもなく前年の4月病没した。享年69歳でした。
助左衛門の美挙は小学校国語教科書にも掲載され全国的に紹介された。


西顕寺の先を左折しJRの線路を横断すると「門司口橋」につきます。
ここは小倉城郭の門の一つで昼夜常に開門しており番所には数人が交代で勤めていた。


この門を過ぎると貴布祢神社があります。
このあたりは昔、企救の長浜と言って境内には万葉歌碑が建っています。


注)豊国の企救の長浜ゆきくらし  日の暮れぬれば妹をしぞ思ふ
(訳)豊前の国の企救の長浜を歩き続け 日が暮れてしまえばそぞろにいとしい人のことが思われる


この神社の先の右側が岩松助左衛門の生誕地です。
街道は199号線沿いに出てきました。
昔はこの辺りが海岸線だったのでしょうか、松並木がそれを物語っています。

ここで街道をはずれ手向山の武蔵、小次郎の碑を訪ねることにします。
この碑は宮本伊織が建立したものです。
宮元武蔵の養子伊織(武蔵の兄の子供)は、寛永3年(1626)播州明石藩主だった小笠原忠真に
15歳で仕え寛永9年小笠原氏が小倉に入国したときには若くして知行2千5百石の家老だった。
武蔵は数年間小倉に在住したと伝えられていますが寛永17年には熊本に移り、正保2年(1645)
5月19日に没しました。
碑は伊織が藩主忠真公から拝領した手向山に武蔵を偲んで建てられました。
碑を見ると小さい字で刻まれています。
碑の裏側にはその意味が書いています。


武蔵の碑の数十メートル先には小次郎の碑も建っています。

この手向山から下関側を見ると巌流島が見えます。
  
巌流島は元々「舟島」と呼ばれていたそうで巌流とは小次郎の号だったそうです。
またこの手向山は、明治になり日清、日露戦争の為か、砲台があったところです。
この手向山の山手には幕末幕府軍と長州藩の戦(豊長戦争)の戦場になった鳥越峠があります。


街道は大里(だいり)の町に入ってきました。

大里は昔,柳ヶ浦と呼ばれていましたが、寿永2年(1183)山鹿(現福岡県芦屋町)から逃れてきた
平氏が安徳天皇の仮在所として内裏(だいり)を置いた所からこの名がつきました。
享保年間に「内裏」から「大里」に変わりました。

大里宿は小倉藩主小笠原忠興公が本土への渡海には大里が最適の地とし宿場を設置しました。
以来江戸中期以降は九州の参勤大名の8割以上が大里宿から渡海したので幕末まで大いに繁栄しました。
直線5町52間(646m)の町並みでここには本陣、脇本陣、番所、郡屋、人馬継所、旅籠などが
立ち並んでいました。また密航船や長崎へ向ける品物の検品の為番所も設けられました。
          
大里宿を歩いていると西生寺があります。
ここは又の名を「判行寺」(踏絵寺)といって寛永16年(1639)徳川幕府による宗門改め政策により
キリスト教は禁制となりそれに伴い踏絵が実施されました。
豊前国企救郡に於ける踏絵は毎年3月3日頃西生寺にて行われ幕末まで続きました。

門司往還は、この大里までですが、平成の今、下関への渡航は門司港からになっています。
門司港まで歩くことにします。

199号線の左側は関門海峡です。



ブログ仲間のHさんは下関に住んでおられます。
Hさんの方に向かって「お~い」と呼ぶと聞こえそうです。
次回いつになるかわかりませんが、私の次の街道歩きは海峡を渡って下関からスタートしたいと
思っています。


※小さい写真はクリックしていただければ大きくなります。






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長崎街道を歩いています№17(黒崎~小倉)

2012-01-10 11:33:22 | 長崎街道歩き
1月7日長崎街道(黒崎~小倉)を歩きました。



JR黒崎駅に8時45分到着。
すぐ黒崎の総鎮守の岡田神社に参拝。



それから街道歩きに出発します。
街道は熊手商店街の中を通ります。

    

まだ朝が早いのか商店街も開いている店舗が少ないです。
商店街に中に「興玉神」があります。
これは道租神で道行く人の安全を祈っています。



商店街でパン屋さんを見つけました。
アンパンフェアなど店頭に書いてあり何かおいしそうでしたので
つい買ってしまいました。



街道はJR鹿児島本線を横断します。
踏切の手前に「桜屋跡」があります。
ここは1800年ごろ創業し主に鹿児島、熊本、佐賀藩の定宿として利用されました。
又の名を「薩摩屋」。
西郷隆盛ら勤皇の志士たちも宿泊したそうです。
今はマンションになっており当時の面影はありません。




地図では「町茶屋跡」とありますが、いくら探しても見当たりません。
多分ここあたりでしょうか?



海蔵庵というお寺に「黒崎宿東構口」がありました。
天和元年(1615)黒崎城を廃し城の南側にあった掘を埋めて構口を開き番所を設けて
行旅の人を監視したのが始まりで黒崎の宿場を通過するのは必ず東と西にある構口で
検査を受けました。東構口には4人、西構口には3人が常時監視していました。



構口を先に進みますと新しい記念碑が建てられています。
平成23年ですのでつい最近です。
ここでは黒崎駅周辺の道路工事で発掘された本陣跡や茶屋跡の説明がされています。
黒崎にも城があったのですね。
城跡はすぐ近くの山の上に建てられたそうですのでちょっとここで城跡見学の寄り道をします。





 ここで我が藩、筑前黒田藩について
慶長5年(1600)関が原の戦いの功により五十二万石の大名として筑前国に入部した
黒田長政(黒田官兵衛の長男)は翌6年から福岡城の築城にとりかかった。
(福岡という地名は黒田家のゆかりの地岡山備前邑久郡福岡村(現岡山県瀬戸内市長船)からとった)
また同時に国境の守りを固める為、同15年までの間にこの黒崎城をはじめ、若松城、大隈城、
鷹取城、小石原城、左右良(まてら)城の六端城を築いた。
左右良城は杷木町にあり、豊後国をにらんでいたが、他の五城は豊前国をにらんでいた。
豊前細川忠興とは不仲だったそうです。
黒崎城主は黒田24騎の一人井上周防之房が入った。
然し幕府の一国一城の令により元文元年(1615)わずか十数年で城は破却された。




黒崎城址は道伯山に建てられていました。
今は、新日鉄、安川、三菱の工場がありますが、かつてはこの洞海湾の黒崎湊から大坂行きの船が
出ていたそうです。幕末三条実美ら五卿もこの地から上陸したそうです。



城跡を降りて国道3号線に出ます。
ここで少し小腹がすきましたので黒崎商店街のパン屋さんで買ったアンパンがあることに
気がつきました。Dバックから取り出し行儀が悪いですが歩きながら食べていきます。
このアンパン美味しいです。アンパン好きな私ですが今まで食べたアンパンで五本の指に
入るくらいです。



桃園2丁目の信号から右に入ります。
しばらく行くと「前田の一里塚」があります。
ここでは1里について説明が書かれています。
それによると1里は36町、1町は60間、1間は6尺、6尺は1.8m
計算すると1里は3,9kmになります。(本来、6尺は1.824mですので3.94kmかな?)



八幡図書館の近くに「国境石」があります。上のほうが壊れて見えませんが、多分
「従是東豊前国」「従是西筑前国」と書いてあるのでしょうか?
今は筑前も豊前も同じ福岡県ですが、この時代は別の国だったのですね。
街道は「豊前国」に入っていきます。


新日鉄八幡製鉄所が見えてきます。横にはスペースワールドが・・・・

街道の横には新日鉄病院が。このあたりは新日鉄の城下町です。



大蔵という所に差し掛かりました。地図では階段を登るように書いてあります。
階段を登っていくとここが旧街道になります。
今まで旧街道というと街道の側には旧家があるのですが、この一帯マンションやらの
高級住宅地です。唯一街道の道標を見つけました。



「荒生田の一里塚」があります。
先ほどの前田一里塚を10時48分に通って今11時47分。時速約4kmの街道歩きですね。



この荒生田一里塚の高見神社側にも「国境石」が建っています。
三条の国境石です。
高さ約4mぐらいで「従是西筑前国」と書いてあります。
又、この一帯高級住宅地でこの国境石との対比も面白いです。



高見郵便局を過ぎ板櫃川に出ます。
昔はここは橋がなく川を渡っていたそうです。
今は丈夫な橋も架かっていますので平成の旅人の私たちは橋を渡っていくことができます。

街道もこのあたりは案内板が少なく、まして街道がなくなった所もあります。
あまり遠回りになってはいけないと思い、近くの方に聞いたりして歩いていますが、
中には私のDバックに「長崎街道を歩いています」とプレートをつけていますので
止まって地図を見ていると率先して声をかけ教えていただけます。本当に有難いです。

車社会の現代、ナビで目的地を入れれば確実に目的地まで案内してくれます。
私が街道歩きに興味を持ったのがSNS仲間のRさんが東海道を挑戦されたからです。
Rさんの紀行ブログを読んでいますと何か私も街道歩きを挑戦したくなりました。
かといって、仕事をしているので東海道は無理だし日帰りで行ける九州の街道として
一昨年は唐津街道、そして昨年からの長崎街道を挑戦してみました。
いつの日かわかりませんが私も東海道へ挑戦したいと思っています。
普通の人は馬鹿ではないかと思われたりもしますが、この街道歩きをやってみたら
面白くてたまりません。学校の歴史では教えてくれないものがたくさんあります。
道をよく間違えますが、それも楽しい思い出になります。

話が横道にそれましたが、茶屋町に入りました。
ここには九州鉄道(現在のJR九州)が明治24年4月に開通した九州鉄道大蔵線の橋梁があります。
煉瓦を長手と小口を交互に積んだイギリス式の橋梁です。
100年以上経った今でも現存しています。



街道はここから小倉北区に入ります。
「みずかけ地蔵」があります。
昔、旅人が道中の疲れをここで休憩し水を飲んだ所です。
由来を見てみると神功皇后が新羅出兵の際、立ち寄りここで水を飲んだそうで2000年以上の
歴史があります。また弘法大師が唐より帰国され巡国のみぎりここに立ち寄ったと記録が
あるそうです。



小倉の中心地にやってきました。
このあたり今では裁判所や検察庁などが立ち並びますが、小倉城「清水口門」があった所と
推測されています。昔は武家屋敷だったそうです。



西日本新聞社の所には「到津(いとうづ)口門」があります。
地図では石碑が建っていましたが今では案内板のプレートがあります。



西小倉駅にやってきました。もうゴールはすぐそこです。
「大門跡」もこのあたりにあったそうです。



魚町の商店街を抜け、ゴールの「常盤橋」が見えてきました。
午後2時27分常磐橋へゴール。
昔、この常磐橋は、九州の街道の拠点になっていたそうです。
常磐橋の下からは、下関行きの船の発着所があったり、また門司往還、中津街道、秋月街道、
唐津街道そしてこの長崎街道の起点になっていました。



常磐橋の袂の所では長崎街道を通った象さんに因み「白象饅頭」が売られていました。
私たちも街道踏破記念にこれを買って帰りました。
この店では、500円で店主手作りのランチもあるのですが、もうランチタイムは過ぎており
残念ながら食べることが出来ませんでした。





・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
昨年1月から始めた「長崎街道」 1年がかりでようやく踏破することができました。
最初の長崎県ではキリシタン弾圧の歴史を見て心が痛みました。
佐賀県では街道に沢山のえびす様が迎えてくれました。
冷水峠では、対向してくるトラックが怖く引き返そうかな?などと思いました。
内野宿、木屋瀬宿は昔のままの姿が現存しており感激しました。
昔の人は草鞋履きで1週間でこの街道を通ったそうですが、ウオーキングシューズを履いている
私たちは2週間もかかってしまいました。(昔の人は一日に10里(40km)ぐらい歩いたそうです。)

応援していただいた皆様本当に有難うございました。
また私の拙いブログを読んでコメントくださいました皆様、有難うございました。
次回はいつになるかわかりませんが、別な街道に挑戦したいと思います。
                               (長崎街道228km 完)

















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長崎街道を歩いています№16「直方~黒崎」

2012-01-05 13:17:07 | 長崎街道歩き
1/3 今年の初歩きとして長崎街道「直方~黒崎」まで歩きました。
博多駅発7時27分の電車に乗り直方駅に着いたのが8時40分。

私、今年まだ初詣には行っていません。
今回は初詣を兼ねてのウオーキングです。
先ず直方駅近くの「多賀神社」へ。

多賀神社は、黒田直方藩5万石の産土神として栄え祭神は天照大神の両親のイザナギノミコト、
イザナミノミコトです。ご利益は「家内安全、夫婦円満」だそうで家内としっかりお参りしました。

多賀神社の横には石炭博物館があります。
館内は正月休みの為入ることが出来ませんでしたが、石炭全盛期の機関車などが展示されていました。

参拝の後、街道歩きに出発します。
遠賀川にかかる日の出大橋を渡り左折します。
今日は朝、寒かったので防寒着、手袋を付けてのウオーキングですが、遠賀川からの
風が強く冷たく吹いてきて寒いです。

30分ぐらい歩くと感田「阿高神社」に到着しました。
ここでもお参りします。
この神社の横には筑豊電鉄の「感田駅(がんだ)」があります。

又街道は川沿いに歩きます。
この道路、歩道もガードレールもなく対向する車に注意しながら歩かなくてはいけません。

約1時間後、「木屋瀬(こやのせ)宿」に到着しました。
江戸時代筑前黒田藩は、黒崎、木屋瀬、飯塚、内野、山家、原田の6宿を開設しました。
この6宿を総して「筑前六宿(ちくぜんむしゅく)」と呼んでいます。


木屋瀬宿は唐津街道「赤間宿」と遠賀川を通じ結ばれていました。
また、川を利用して水運も発達していました。
宿場は東構口から西構口まで約1.1キロメートルの街道で、裏通りのない一本道は本陣付近で
「く」の字に曲がり、家並みはのこぎり歯状に建てられていました。これは、「矢止め」と呼ばれ、
敵が攻めてきたときにそのくぼみに隠れたり不意をついて攻撃したりするために
配慮されたものと言われています。宿街道のほぼ中間には、代官所、本陣、脇本陣、郡屋、人馬継所
などの施設と共に14、5軒の旅籠がありました。
   
※伊馬春部は、戦前から戦後にかけて小説やラジオドラマの分野で活躍した人です。(Wikipediaより)

木屋瀬宿には「船庄屋」「村庄屋」「宿庄屋」がありました。
「船庄屋」(松尾家)は、村全体を統括した。屋号を灰屋と称し、問屋役、人馬支配役、村庄屋役
などを務めました。
「船庄屋」(梅本家) 年貢米の集積場である本場(米場)が置かれ、その輸送は権利を持った
24艘の川ひらた(川舟)に限られていました。この24艘の管理を行っていたのが
船庄屋です。
「宿庄屋」は、旅籠など宿内を統括していました。
   
宿場内を歩いてみると何か江戸時代にタイムスリップしたようです。
私感ですが、2週間前に歩いた内野宿に比べると何かこちらの方が活気が感じられます。
   

   

    

    
※コテ絵は、左がダルマ、中がここの宿場踊り、右が街道を歩いた象

    

時間も11時半を過ぎてきました。
今日はもう一つ行かなければならない所があります。宿場町を一通り廻り、筑豊電鉄木屋瀬駅に行きます。
ここから電車で15分ぐらいの所に約30数年前によく行っていたチャンポン屋さんがあります。
そのころはJR八幡駅近くでしたが移転しましたのでそれ以来行っていません。
久しぶりにここのチャンポンが食べたくなりました。(八幡店はここの系列店があります)
永犬丸(えいのまる)駅から歩いて10分。ありました。「銀河のチャンポン店」が。
店も昔は10人ぐらい入ると一杯でしたが広くなっています。
メニューを見ていますと焼きそばもありますが、ここは迷わず「チャンポン」です。
ここのチャンポンの特徴はチャンポンの上に唐揚げが乗っています。
鶏肉がちょっと苦手な私ですが、この唐揚げは食べられます。
待つこと数分、来ました、30数年ぶりの再会です。
スープを一口すするとこの味です。味は30数年前と変わっていません。
また、お腹が減っていたのでご飯も注文しましたがこのご飯、どんぶり飯です。
いくら大食漢の私でもこんなには食べられません。家内にも手伝ってもらいました。

  

食べ終わり店内を見てみるともう20人ぐらいのお客さんが順番待ちされています。
私たちはすぐテーブルに座れましたがちょっとでも遅かったら随分待たされたでしょうね。
また電車で木屋瀬駅まで戻ります。

もう満腹状態ですが、再び街道を歩き出します。
真名子を通り馬場山へ。
茶屋の原に「一里塚」があります。
茶屋の原という地名は秀吉が朝鮮征伐の時ここでお茶を飲んだから付けられたとか。
長崎街道にはこういった「一里塚」が約4kmごとにあります。
飛脚とか乗馬の運賃の目安になったそうです。

   

ちょっとここでアクシデント発生。
チャンポンとご飯を食べ過ぎてしまったのか私のお腹がいたくなってきました。
コンビニやスーパー、喫茶店などを探しますが旧道にはそんなものがありません。
どこかないかな?と探しますがこんな時ってない時はないのですね。
前方に馬場山インターが見えてきました。ここならあるだろうと思って。
インターの事務所の人に事情を言って何とかホント何とか無事危機を脱することができました。

街道は一旦国道に合流しすぐ池田小学校前の交差点を左折します。
左側には山陽新幹線の高架が見えてきます。
しばらく新幹線を見ていますと速いですね。あっという間に私たちの目の前を通り過ぎていきます。
それに比べ私たちは、てくてく旅。何かこの対比が面白いです。

「石坂」という所に来ました。
「興玉神」の横に階段があります。
昔はあまりにも急な坂でしたのでお殿様も駕籠から降りて歩いたそうです。
登り終えたら左側に「立場茶屋銀杏屋」があります。
3年前のNHK街道てくてく旅で原田早穂さんもここで休憩されています。
銀杏屋の名のごとくお茶屋さんの横には大きな銀杏があります。

    

「上津役(こうじゃく)」という町に入ってきました。
この上津役という地名はどういう由来があるのでしょうか?
いろいろ調べてみますがわかりません。
またこの辺りは「永犬丸(えいのまる)」「木屋瀬(こやのせ)」「京良城(きょうらぎ)」など
読みにくい地名があります。

国道211号線(長崎街道)を歩いていると工事区間があります。
道路拡張工事みたいです。
ここに「やから様」というのがあります。
由来を読んでみますが、見難く判読できません。あとで調べてみるとこの地区の人は
子供の癇癪を「やはら様」と言うそうです。源平合戦の折、平家の逃げ延びた母子がここに隠れて
いましたが、子供の泣き声で源氏にみつかり自害したそうです。
このやから様も工事のため移転するそうです。

   

凉(すずみ)天満宮」があります。
このお宮さんには伝説があります。
 この神社は菅原道真をお祀りしている菅原神社です。
 前の道路は旧長崎街道で境内にあった大松の下で旅人が休息したのでこの松は「夢想の松」
 「凉(しず)み松」と呼ばれいつしか神社も「凉天満宮」と呼ばれるようになりました。
 今では松の木も枯れてなくなってしまいましたが、次のような言い伝えが残っています。
 江戸時代正徳年間(1711~1716)のある年、長崎の熊部新治郎という人が所用で京都に
 上る途中、ここで休息し松の枝にお金の入った荷物を掛けた事を忘れ去ってしまいました。
 翌年新治郎が帰郷の時、再び立ち寄ってみた所荷物はそのまま残っていました。
 新治郎は神のお陰と感謝し、石鳥居を寄進したということです。
 これからこの松は「かね掛けの松」とも呼ばれるようになりました。


211号線京良城を過ぎ、焼肉屋さんの所を右折します。
この辺りが「幸神(さいのかみ)」になります。
曲がった所に「古街道」という碑が建っていました。
読むと「旧藩時代小倉より黒崎を経て肥前筑後方面に通ぜし街道なり」と書いてあります。



幸神一里塚を過ぎるとお宮さんがあります。
ここが「幸神(さいのかみ)神社」です。
名前がすぐ気に入りまたお参りします。
由緒は書いてありますが、薄くなっており判読できません。
昔は街道の守り神だったのでしょうか、廻りには草鞋などが奉納されています。



もう黒崎宿はすぐそこです。
宿場の入口には「曲里(まがり)の松林」があります。
この松並木は幕府が全国の街道に松や杉を植樹させた名残で黒崎から木屋瀬にかけて
昭和20年ごろまでは多くの松を残していましたが、今はわずかにこの辺りが昔日の長崎街道の
面影をとどめているのみです。
松並木は幅20~30m、長さ310mで中には江戸時代から生き延びている松の木もあります。



乱橋に来ました。
ここには「筑前六宿街道」の石碑が残っています。



時間も5時近くになってきました。
黒崎宿の探訪は次回にして今日の街道歩きを終了します。
いよいよ次回は小倉常盤橋にゴールします。



今回もGPSをもって行きましたがまたこのGPS機嫌が悪いのか記録していませんでした。













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長崎街道を歩いています№15「桂川~直方」

2011-12-28 18:11:47 | 長崎街道歩き
12/23 前回に引き続き長崎街道を歩きました。
博多駅から福北ゆたか線に乗って前回ゴール地の桂川(けいせん)駅に8時43分到着。
この桂川という地名なんですが、どうして「かつらかわ」でなく「けいせん」なのか
いろいろ調べてもわかりません。

桂川に着くと先ず行ってみたいのが「王塚古墳」。
ここには6世紀ごろの古墳があって石室に絵が描かれているものです。
このような装飾古墳は奈良「高松塚古墳」が有名ですが、高松塚古墳は7世紀の作品です。



『王塚古墳』は六世紀中ごろに作られたと考えられる、前方後円墳です。
 昭和9年に福岡県嘉穂郡桂川町大字寿命で、採土工事中、偶然発見され、多数の馬具、武器、銅鏡、装飾品、土器類を出土しています。  
最大の特徴は装飾壁画の壁面に赤・黄・緑・黒・白で描かれた靫(矢筒)・盾・騎馬・星・双脚輪状文・
わらび手文・三角文などの文様がところ狭しと配列されています。
その豪華絢爛さはわが国における装飾古墳の頂点として昭和27年に国の特別史跡に
指定されています。

古墳の横には王塚古墳展示場があります。
入場料300円を払い館内へ。
館内は撮影禁止のため写真を撮ることができませんが、石室の中は馬、○や△など幾何学的な
模様の装飾が施されていました。この模様は今でも通用するようなデザインです。





6世紀の装飾古墳は九州にたくさんあり、それが東の方に普及していきました。
歴史好きの私は胸が高まります。

王塚古墳をあとに、街道に合流します。
寿命(じゅめい)という地に来ました。ここには寿命古墳群という看板があります。
昔はこの一帯、「穂波」の王がいたのでしょうね。
この「じゅめい」という地名も珍しいですね。



街道は国道200号線の陸橋を渡り「天道(てんとう)」の町へ。
この天道は少し前まで嘉穂郡穂波町天道でしたが、2006年飯塚市に合併しました。
天道の町は昔ながらの町が多く、歴史が感じられます。



天道宮があります。
由来を見てみると
「古老よりの伝えによれば、61代朱雀天皇の承平、天慶の御代、平将門 藤原純友の反乱(承平、天慶の乱)の際源満仲勅命を受けて先ず将門を東国にて討ち、のちに純友を現在の大将陣に対陣し決戦を挑む  満仲勅命を奉じ朝敵を討ち祖神の加護を信じ戦うべしと部下に命じて大将陣の麓に祭る天照大神に祈願し全軍玉串を襟にさして戦い撃滅するを得たりと云へけり、即ちこの頃天道神社ありしものと考えられる、今より約1000年以前のことなり 」



穂波川を渡ると「飯塚宿」に入ります。
「飯塚」という地名がどうしてついたのか、二つの説があります。
一つは、神功皇后がこの地方を お通りになったとき、従軍兵士の論功行賞をなされ、おのおの郷土に帰されたが兵士たちはなお皇后の 徳を慕って飯塚まで従い「いつか再び玉顔そ拝し奉らん」と深く歎き慕ったといわれ、名づけてイヅカ (飯塚)の里と伝えられたといわれています。

また、一つには聖光上人が、当市太養院において旧鎮西村明星寺虚空蔵の再興と三重の塔建立のため、民を集めて良材を運ばせたときに炊いたご飯があまって小山をつくり、それがあたかも塚のようであったので「メシノツカ」すなわち飯塚と呼ばれるようになったとも伝えられています。





飯塚は人口13万人の筑豊第一の都市です。明治時代から石炭で今日の日本経済の礎を
築いた所でもあります。今はもう炭坑はありませんが町にはボタ山が残っておりかつての繁栄を
物語っています。
また、飯塚には九州を代表するお菓子屋さんがあります。
ひよこ、千鳥饅頭、さかえや・・・・・注)千鳥饅頭、創業は佐賀県
長崎街道によって運ばれた砂糖がこの地で饅頭として生まれました。
この饅頭は炭鉱従事者に愛され、今日に至っています。


飯塚宿は現在商店街になっており古い建物はありません。
所々に中茶屋跡、問屋跡などの石碑が建っています。



この商店街に長崎街道のからくり時計があります。
現在時間が11時45分。毎正時に始まりますのでそれまでここで時間をつぶします。
※このからくり時計をYou Tubeにしました。(ちょっとぶれましたけど)

こちらです。コピーしてご覧下さい。
http://youtu.be/rbf1t6gzYyU

からくり時計を見て再び街道歩きを続けます。
飯塚宿は商店街端が東構口になってます。

片島という地区に入ってきました。
国道から少し離れていますが旧家が立ち並んでいます。



時間も1時を過ぎました。
今日も一応軽い食料は持って来たのですが、風が冷たく何か温かいものが食べたくなります。
国道の方を見るとチェーン店のチャンポン屋さんがあります。
お昼はこのチャンポンで温まろうと思います。

30分ぐらい休憩しまた歩き出します。
幸袋(こうぶくろ)いう所に来ました。
ここは炭鉱主で有名な「旧伊藤伝右衛門邸」があります。
一度紅葉の時期に来たことがありますがとにかく広い家でした。
年が明けて3月のひな祭りのころには伊藤家のお雛様が一般に公開されます。



街道は遠賀川沿いに歩きます。
川からの風が強く寒く感じます。
鯰田、目尾、を過ぎると小竹の町に入ってきます。

ここで以前にも書いたと思いますが、長崎街道を歩いた象の話を。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
享保14年(1729)3月ベトナムから入ってきた象が将軍吉宗公献上品として
長崎~江戸まで354里(約1400km)約80日間の旅に出発しました。
象は象使いの人と一緒に一日約4里ぐらいを歩きました。
ここ飯塚には10日目の3/23に入っています。
象は今では動物園に行くと必ず見ることができますが、当時としては珍しい動物として
沿道には見物客が殺到していたのではないでしょうか?
史料によれば、「江戸への献上の象、享保14年3月に罷登る、日本にてめずらしきけだものにて、
登り候節は宿々に見物の者、夥しく出候、前もって道筋往還念入りに作り、喰うもの用意、
真笹、芭蕉、ひいな草、久年母、まんじゅう用意致候、宿々、泊まり宿拵え致し置き罷登り候節、
象使いとび口を持ち象に乗り通り候」

万年代記帳では
「象、通り申す事、3月23日飯塚へ泊まり、小竹休み、木屋瀬泊まり、
水を飲むこと一日に五斗宛、足に関節なし、指無して爪あり、爪大栗のごとし」※福岡県史料より

飯塚では明正寺に宿泊しています。
この象、長崎街道を小倉まで行き、そこから船で本州に渡り京都に行きました。
京都では中御門天皇ともお会いし、「広南従四位白象」という称号を与えられています。
5月25日には江戸に到着し江戸城浜御殿にて将軍吉宗と対面しました。
それから10年ぐらい浜御殿で飼われていましたがある日飼育係が象に殺されるという事件が
起こり、中野の源助というお百姓さんに払い下げされました。
源助さんは象小屋を建てて皆さんに見物させていましたが、1年後栄養失調で亡くなりました。
その骨は中野の宝仙寺に保存されているそうです。
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小竹の町に入ると冷たい小雪がちらついてきました。
遠賀川からの風が冷たくポケットから手袋を出します。
寒いので足は急ぎ足になります。
「郡境石」があります。
読むと「北鞍手郡」「勝野村」と書いてあります。
その先にはお酒屋さんの所に「休憩所」があります。
先ほどの象の話、小竹で休憩となっていますが、ここで休息したのでしょうね。



小竹駅に着きました。時計を見ると2時半。
寒いのでここまでにしようかな?などと思いますが、次回の行程を考えると今日どうしても
直方まで行かないと今後の街道歩きの日程に影響がありますので寒さを我慢しながら
歩き出します。
勝野駅を過ぎ、直方の町に入ってきます。

直方は元和9年(1623)筑前藩の支藩「東蓮寺藩」として四男高政が入封しました。
その後藩名を直方藩と改めました。
元禄元年(1688)福岡藩三男黒田長清が直方藩4代藩主となり、御館山に新館を造営し
新町、門前町を開きました。
然し長清の嫡男が福岡藩の養子になった為、享保5年長清の死とともに直方藩は100年の
歴史に幕を閉じました。



直方も炭鉱の町、多賀神社の近くには石炭博物館があります。
また、商店街の入口には、筑豊炭鉱御三家の一つである貝島太助の像が建っています。

私事ではありますが、子供の頃、よくお土産で四宮成金饅頭を頂きました。
これは直径20cmぐらいあったでしょうか、大きなお饅頭でした。
子供の頃は、一度でいいからこのお饅頭を一人で全部食べてみたいと思っていました。
然し、母は子供たちにきれいに3等分(3人姉弟でした)していました。
この直方の商店街に四宮の成金饅頭がありました。
即、お店に入り普通サイズの饅頭を買って帰りました。
今は、辛党なので、もう20cmのお饅頭は食べることが出来ません。
あっ、そうそう成金饅頭という名は、炭鉱で当たり一躍大金持ちになった人がいたから
そういうネーミングになったそうです。



直方駅には4時5分到着。電車の中で食べた成金饅頭は懐かしく美味しかったです。
今回は、GPSもちゃんと動いてくれました。
桂川から直方まで27kmでした。





この街道歩きもあと木屋瀬、黒崎、小倉になりました。
あと2日で完歩出来そうです。
1月の連休ぐらいにゴールしたいと考えています。














 

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長崎街道を歩いています№14(原田宿~内野宿)

2011-12-26 19:12:54 | 長崎街道歩き
10月初旬から中断していました長崎街道歩きを再開しました。
2ヶ月間の間に木々は紅葉してもう落ち葉になっています。
今回はこの街道の難所「冷水峠」へ挑戦します。

JR原田駅に8時に到着。
前回は気付かなかったのですが、原田駅には伊能忠相の像があります。



原田駅から前回ゴール地の筑紫神社に向かって歩きます。

約1時間ほど歩くと「山家」に入ります。
すぐ目に付くのが「郡境石」これには西「御笠郡」東「夜須郡」と書いてあります。



「敬止義塾跡」があります。説明文を見ると

「福岡藩士であった杉山灌園が明治10(1877)年頃に自宅の離れで塾を開いていた。
近隣から30人ほどの塾生が集まり寄宿しているのもいた。
教科書として日本外史、十八史格図書などが用いられた。
明治23(1890)灌園が死去した為閉鎖された。」
昔の人は向学心に燃えていたのですね。





「山家宿」は黒田藩二十四騎の一人である桐山丹波が慶長16(1611)によって建てられました。
桐山丹波は初代代官となり今でも彼の碑が立っています。







山家宿の東構口には大庄屋「近藤弥九郎」の碑が建っています。



説明文によると
寛保二年(1742)山家村大庄屋に就任した近藤弥九郎の役宅跡です。大庄屋とは江戸時代に触
(郡を二つか三つに区分した行政区)を管理していた役人のことで各村への年貢の割り当てや
納入、土木工事、参勤交代のときの人馬役など広範囲にわたり村政にかかわっていました。

街道は冷水峠に向かって歩きます。
私何度か車ではこの道路を通っていますが歩いていくなんて初めてです。
道路には大型車は有料を通りましょうなどと書かれています。
勾配は緩やかでそんなにきつくはありませんが、ここは大型トラックが何台も何台も通っています。
歩道があればそちらを歩こうと思うのですが歩道もなく仕方ないので道路の隅を歩きます。
然し、カーブの多いこの道路、対向車は下りになりますのでスピードを出してカーブを曲がってきます。
ガードレールには車がこすった跡もあります。
このトラックが私達の方に突っ込んできたらどこに逃げようか?など周りを見ながら歩きます。
トラックの運転手の人にすればどうしてこんなカーブの多い道を歩いているんだい?
などと思われますがこの道は長崎街道になっていますので歩かないわけにはいきません。
それでも何とかトラックを除けながら歩き続けます。
体はヒートテックをつけているから暖かいのですが指先は手袋をしないと寒いし吐く息も白くなっています。
長崎街道迂回路という看板がありそちらに行こうかなと思いそちらに向かいますがそこは小さな道で
ちょっとでも足を踏み外すと谷の底。怖くなり元の国道に戻ります。



上西山バス停から国道に別れを告げ旧道に入ります。
先ず目にするのが庚申塚。これは道路の守り神なんでしょうか?
旧道から再び国道へ。すぐ大根地神社の案内図があります。
地図では大根地神社の方に行くようになっていますがちょっと解らなくなり近くの人に
訪ねようとしますがこのあたり誰も歩いていない。仕方なく民家の方に聞きました。
街道は、土手沿いの狭いあぜ道?だそうです。
よく見ると看板らしいものがありますが、字が消えて見えません。



この西山にも御茶屋さんがあります。
近くの畑で仕事されている人に聞きますとその方が吉野屋だそうです。
隣には長崎屋がありました。
このように街道の御茶屋さんには地名がついているのが多いです。
ここは長崎街道、今までいくつもの「長崎屋」さんに遭遇しただろうか。



しばらく歩くと「大根地神社」の看板が見えてきます。
ここから山道に入っていきます。



10分ぐらい歩くと大根地神社の鳥居が見えてきます。



石畳の道があります。
シーボルトは革靴より草鞋の方が滑りにくいと書いています。
木々に太陽が遮られ寒くなってきました。



首切り地蔵にやってきました。
この首切り地蔵には伝説があります。
「悪者が連れのものを殺した。横の地蔵に「誰にも言うな」というと地蔵が「わしは言わぬが
われ言うな」と言った。びっくりした悪者は地蔵の首をはねた。
何年か後2人連れの旅人の一人が地蔵の首のないことを自慢げに話した。
連れは殺された人の縁者だった。地蔵の忠告を忘れ話した悪者は仇を討たれた。」



この首切り地蔵の辺に冷水の源流でしょうか、湧き水があります。
説明文を読むと
「流れの冷たい水で旅人は喉を潤し、疲れを癒していた。これが冷水峠の名の由来と
言われている。英国の初代公使オールコックはその著「大君の郡」でこの峠の景色の
素晴らしさを著し、祠の横で休む旅人を描いている。」
この冷たい水が冷水峠の名になったそうです。



荒田の鳥居に出てきました。もうここから内野宿まではあと少し。
お腹がすいてきました。時計も12時半を廻っています。
どこか、食堂でもと探しますが、何せ山の中 食べる所なんかありません。
仕方なく保存食として持ってきたロールパン、バナナを食べお昼にします。
(この街道歩きでは必ず少しぐらいの食料を持参することにしています)



内野宿は、慶長17(1612)黒田藩の命で黒田節で有名な毛利但馬が建設にあたりました。
但馬が大隈城主になった後は内野太郎左衛門がその任にあたりました。
そこから内野宿の名前になったのでしょう。
当時内野宿は200軒の商家や旅籠、陣屋などがあり筑前六宿では木屋瀬宿に次ぐ
規模でした。
現在内野宿は国道建設から外れているため江戸時代の道路がそのまま残り当時の宿場の
名残が残っています。















内野宿を歩いていると肥前屋に長崎街道案内所というのがあり入場料100円を払い
中に入ると先ず見せていただいたのが内野宿案内ビデオ。
ビデオを見ていると疲れがどっと出たのか眠くなってきます。
寝てはいけないと思い立ち上がって展示品を見て廻ります。
そしてその館の方にいろいろ質問してみますが、この方無口なんでしょうか、
あまり話してくれません。
街道に興味があってみて廻っているのですからもう少し積極的に内野宿の魅力とか
何かを話して欲しかった。

内野宿を見て廻ったらもう2時半になっています。
本来ならここで内野駅から帰ろうかなと思ったのですが、内野駅は列車の本数が少なく
次回ここから出発するのには不便ですので福北ゆたか線の走っている桂川駅まで歩くことにします。
桂川駅には3時20分到着。すぐ25分発の博多駅行き快速に間に合いました。



今日もGPSを持って行ったのですが、どうもGPSの調子が悪くこの行程が記録されていませんでした。











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長崎街道を歩いています№13「田代宿~原田宿」

2011-10-04 19:20:34 | 長崎街道歩き
10/02長崎街道を歩いてきました。
鳥栖駅に8時20分に着き駅構内のうどん屋さんで朝食を食べスタートです。

ここで前回に戻りますが、驫木宿の番所川を過ぎると肥前国対州領田代宿に入ります。
川を渡ると姿見の池があります。

これは、菅原道真が養子に預けたわが子に会うためにこの地を訪れた。
そしてわが子に与える為水に映した自分の姿を描いたというのが
「姿見の池」伝説です。(鳥栖の長崎街道より)

姿見の池を出ると鳥栖秋葉の町に出てきます。
町並みを見てみると古い家がたくさんあります。
この辺りは、昔は瓜生野今町と呼ばれていたそうです。



ここまでが前回書けなかった分です。

駅構内で腹ごしらえをして8時50分前回ゴール地の本町の信号に行きます。
民家には今盛りとばかり金木犀の香りが漂ってきます。

「田代宿」は対馬藩田代領の代官所が置かれていた町でした。
町は昌元寺町、新町、上町、下町、外町の五町でなりたっていました。
江戸時代の記録によれば「人家500軒計、茶屋・宿場多し」とあり
賑わっていたようです。(とすの長崎街道より)

また、現代では交通の要所でありJRでは鹿児島本線と長崎本線のクロスする所、
高速道では九州道、大分道、長崎道と交差しています。

駅から本町交差点に行きそれから右に行きます。
八坂神社、水影神社を通ると田代外町に入ります。


(八坂神社)
ここに追分石が立っています。田代宿西構口にあたります。
「右さが 左くるめ」
追分石は、道路の端にあるため保護用にガードが施しています。


更に進むと高札場跡があります。ここには幕府からのお達しなどが告げられていました。

サロンパスの工場角には人足、馬などを乗り継ぐ問屋場跡があります。

さて、このあたりはサロンパスの工場ですが田代宿とお薬は切っても切れない関係です。
鳥栖から基山にわたる一帯は慶長4年(1599)に対馬藩田代領となり江戸中期「田代売薬」が
興った所です。対馬藩は朝鮮との交易で藩が輸入した漢方薬、朝鮮人参を元に薬の生産が
盛んでした。これらの薬は行商人の手によって九州一円に売り捌かれました。
言い換えれば「置き薬商法」です。今でも置き薬がありますが、私が子供の頃は、置き薬屋さんが
家に来られ子供たちにお土産として紙風船など配られました。
その紙風船をもらうのが楽しみでした。今考えればよく考えた商法だと思います。

田代八坂神社に来ました。ここでも八坂神社です。
八坂神社を調べると全国で2300社あるということです。

ここで田代宿を廻っているグループと出会いました。そのリーダーの方でしょうか、私達に
話しかけてきました。ガイドさんみたいです。簡単に田代宿のことを教えてくれガイドブックを
いただきました。

(田代宿は寺院も多い)


代官所跡を通り東の構え口に到着。
ここにも追分石があります。
正面に「左こくら・はかた道」側面に「右ひこさん道」と書かれています。

さてここからどう行くのか前方の細い斜め道それとも真っ直ぐ?地図とにらめっこしていると
ウオーキングされている女性の方がこちらですよと斜めの道の方をおしえてくれました。
何にも言っていないのにこの女性の方僕らが街道歩きをしていると解ったなと思いました。
尤もDバックを背負って地図を見ているからすぐわかりますよね。(笑)
その女性は、高速道の下まで案内してくれた。
八坂神社のガイドさんといい、このウオーキング女性といい親切にされるととても気持ちがいい。
この親切を私もいつか機会があれば他の方にお返ししたいと思います。


街道は一本道になります。
この辺りは新しいマンションが立ち並びニュータウンになっています。
地図には載ってませんが弥生が丘という駅もあります。



高島橋を通り基山の町へ。基山の名は五十猛命(イソタケル)が日本で初めて植樹をしたから
その名がついたとも言われています。
基山は、新羅、唐連合軍に敗れた日本が天智4年(655)太宰府防衛の為基山(きざん)に
日本最古の朝鮮式山城である基肄(きい)城が築かれました。この基肄城の麓には太宰府から
南下する古代宮道の城の山道がありました。その古代宮道が肥前国府と筑後国府に分岐する
基肄駅にはよその駅の2倍の馬が置かれて当時から交通の要所でした。


先ず目に付くのが、清酒「基峰鶴」の基山商店の店舗。
街道の通りにあり迫力があります。


基山駅近くに来ました。
ここでも古い家が残っています。
ふと、表札をみると聞いたことのある名前。
確か彼は基山駅の近くに住んでいると言ってたなと思いながら呼び鈴を押してみます。
「間違ったらどうしよう」などと思いながら・・・・
呼び鈴を押してもなかなか家の人は出てこない。お留守かなと思って諦め歩き出すと
中から年配の方が出てこられた。慌てて戻り「私○○と申しまして○○さんとは学生時代の
同級生です。いらっしゃいますか?」と聞くと中から彼が出てきました。
学生時代は、ただ知っているぐらいでしたが、社会人になり得意先に彼がいました。
それからの付き合いになっています。今でも時々町で会っていました。
突然の訪問に彼はびっくりしていましたが彼とは久しぶりの再会でした。

鹿児島本線の線路を横切り国道3号線を横断します。
このあたりが関屋の土塁です。
太宰府防衛の為、水城とともに土塁が造られました。

街道は、3号線に沿っていきます。
遠くには○○ラーメンセンターが。
このラーメン屋さんは私が若い頃はよく食べに行っていました。
小さな店舗でしたが今や大店舗になっています。もう何十年も来ていません。
時間も12時近くです。お昼はここで食べることにします。

30分ぐらいお昼休憩をし、再び街道を歩き出します。
陣屋跡があります。その先には猿田彦があります。


けやき台駅があります。その歩道を渡りますが、街道はこの辺りはわからなくなっています。
仕方ないので3号線沿いに歩きます。

九州道のガードをくくると福岡県に入ってきました。
今年の1月から始めた長崎街道、あの時、日見峠は雪が残っていました。
昔の人は一日に10里(約40km)歩いたといわれています。
ですから長崎街道は約5~6日で踏破しています。
それに比べ私達はのんびりムードの街道歩きです。13日目でようやく福岡県です。

筑紫野温泉の所に国境石があります。
「従是東筑前国」もう一つには「従是西肥前対州国」です。
元々はこれより東へ15mの所にあったそうですが、国道拡幅工事のため現在地に移転されました。


街道が不明の為3号線沿いに歩き出します。
原田駅前の信号から入ると原田宿(はるだ)に入ります。
宿場町は、綺麗にカラー舗装されています。



原田宿は、筑前六宿(ちくぜんむしゅく)と呼ばれ、いつからできたかは正確には
わかりませんが黒田家譜には寛永15年(1638)1月、島原の乱を鎮圧する為
やってきた松平信綱の一行50騎1300人が宿泊したことが記録されていますので
このころには宿場が出来ていたそうです。

宿場の要所には市の案内板が立てられていますが、文面が薄くなっており読むことが
できません。

宿場の奥には筑紫神社があります。
この神社の沿革には「筑前国と筑後国の境に荒ぶる神いて往来の者の命を奪うので
困り果て筑紫の神として祀ってこれを鎮めました。
ここから「筑紫の国」となったそうです。


時間も2時近くなりました。
JR原田駅も近いので今日はここまでとします。
次回は長崎街道の難所「冷水峠」(ひやみずとうげ)に挑戦します。













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長崎街道を歩いています№12「神埼宿~鳥栖轟木宿」

2011-09-22 04:30:00 | 長崎街道歩き
夏の暑さを避けしばらく休憩していました長崎街道歩きを9/18に再開いたしました。
当日は朝から細かい雨が降っていましたのでポンチョを被っての街道歩きです。
8時20分前回ゴールの神埼駅に着き、それから街道の方まで歩いていきます。
時計のGPSをセットしスタートです。

街道を歩いていると神埼にも古い家が建っています。
そんな家を見ていると昭和時代に返ったみたいで懐かしいです。

しばらく歩くとひのはしら一里塚があります。
説明文によれば「江戸幕府は、長崎街道の一里(約4km)ごとに五間四方の築土をし、
旅行く者の道標を知らせ疲れを癒してくれた。この一里塚は、長崎街道に残る
唯一つのものである。ひのはしらの地名はここに櫛田宮の赤木の鳥居があったことによる。


街道は、田手川を渡りすぐ左折する。


橋の横には橋の石碑が並んでいる。このあたりが「田手宿」だ。
田手の町に入ると古いお宮「田手神社」がある。


この神社は1300年前天智天皇が創建され天照皇大神を祀っている。
また、この一帯は1530年(享禄3)北九州の覇権をめぐり、周防・大内氏と肥前・少弐氏との
間で戦があった所だ。(田手畷の戦い)


田手宿を抜けると地図には「追分石」があると書いてある。
探してみるがそれらしいものがない。道路拡張でなくなったかな?
追分石があったであろう所には恵比須様が立っていた。

街道は旧三田川町に入ってきた。
三田川町は平成18年に東背振村と合併し「吉野ヶ里町」になった。
三田川小学校横を過ぎ「目達原(めたばる)自衛隊駐屯場」にやってきた。
34号線「苔野」の信号を横切ると目達原宿に入ってくる。


商店街が立ち並び自衛隊があるせいか、飲み屋さんの看板が目に付く。
祇園宮を右に行くと木造3階建ての建物がある。
もう誰も住んでいないのだろうか、家の周りには蔦がはびこっている。
コテ絵もあるということだったが蔦があり見ることができない。
この家の少し先にも木造3階建ての家がある。



目達原の町を通り過ぎると再び34号線に合流する。
ここが「久留米分岐」
街道は34号線鳥栖方面に行く。鳥栖まであと10km地点。
今年1月から始めた長崎街道歩き、尺取虫方式で歩いたこの街道
自分でいうのも変だがよく歩いたものだ。


街道は上峰町に入ってきた。
しばらくは34号線と並行する。
切通の信号の先に「中原宿(なかばる)」の道標が立っている。


ここから脇道に逸れて行く。
43番礼所を通り、祇園神社の先に「長崎街道」の標識があり、そこを左に曲がる。


見ると一面草むら。マムシに注意しながら進む。先にグラウンドがある。
そのグラウンドから「こんにちは」との声。
声の方向を振り向くと野球部員だろうか、帽子をとって挨拶してくる。
私もどちらかといえば体育会の人間、彼らに負けないぐらいの声で挨拶のお返しをする。
彼らは「三養基高校(みやき)」野球部員だった。

あぜ道から再び旧道に戻る。
先を見ると会社の花壇に一面の白の彼岸花。
立ち止まりしばし彼岸花鑑賞。昔の人も街道に咲いている花に見とれていたのだろうか?
この先にも大きな松葉ボタンが咲いていた。


寒水川の六ノ坪橋を渡る。
このあたりが「中原宿」の中心だ。中原宿の説明文を見ると、
中原宿の始まりははっきりとしないが、正保3年(1646)に幕府に提出された「正保絵図」には
宿を示す記号があることからこの頃には宿として成立していたと見られる。
また、元禄14年(1701)に幕府に提出された元禄絵図には中原宿の記述と宿を示す記号がある。
中原宿は、鍋島藩親類筆頭家老「白石鍋島家」の知行地となっており、中原宿は長崎街道の
本宿(公的な宿)だったが鳥栖の轟宿と神埼宿の間の宿であったため規模は小さかった。
中原宿には6軒の旅籠があり道の北側には東から泉屋、長崎屋、桜屋、南側には東から
松坂屋、大阪屋、岡崎屋があった。岡崎屋の2階の手摺には「中原駅岡崎屋御定宿」の透かし彫り
の看板が残っている。
中原宿は、明治18(1885)8月14日の大火で大部分が焼失した。
全80戸中74戸を飲み込んだ大火災だった。





この旅籠の近くにも祇園社がある。
この中原宿は東と西の木戸に祇園宮があることになる。本家と分家だろうか?



街道は、34号線に合流。みやき町の説明文がある。
この辺りは「太刀洗峠」といって江戸時代轟宿から中原宿に向かう最後の難所だった。
坂の頂上には鳥栖方面の養父(やぶ)郡とみやき町を含む三根郡との郡境になっており、
郡境石が立てられていた。またすぐ西脇を流れる小川は太刀洗川と呼ばれ当時峠を進む
旅人などを襲う山賊が出没し、襲撃に使った刀を洗っていたので太刀洗と呼ばれるようになった。
(中略)元禄4年(1691)オランダ商館ドイツ人医師ケンベルが江戸参府の際記した「日本誌」には、
この地について「我々は心地よい小さな松林を通った。こういう林はこの地には珍しいもので
その中には木の丈が非常に高く大きいものもあったが、松かさはイトスギのようであった。
また、文政9年(1826)オランダ商館医師シーボルトも紀行文の中に「太刀洗の近くで昔、山賊が
住んでいた太刀峠を指して恐ろしい話を聞かせてくれた人があると記している。


※昔の写真みたいに撮ってみた。

太刀洗を過ぎると鳥栖市に入ってきた。
太刀洗峠から少し先にカラオケ屋さんがある。
街道はここから国道から外れる。
五反三歩池がある。
説明文を読むと
「五反三歩池は、溜池造る時五反三歩の水田をつぶしたことからその名が由来とされる
灌漑用水だ。鍋島藩内の治山治水に数多く功績を持つ成富兵庫茂安が最初に造った溜池と
いわれ、またその形が似ていることから名付けられた「尺八」と呼ばれる「配水調整樋管」が
最初に設けられた溜池とも言われている。
満水面積はおよそ2町6反で村田、江島、三島、北茂安などの水田100町歩を潤している。」


その池は、現在茫々でどこが池かわからない。

先のほうに馬小屋がある。
まさか、今頃農耕馬でもあるまい。この馬よく見ると、筋肉が引き締まっている。
競走馬?そう考えながら歩いていると右側に広く大きな「さがけいば場」がある。
この馬は、競走馬だったんだ。
さがけいば場の前を通ると左側に「馬刺し屋」さんがある。
競馬場の前に馬刺し屋さん・・・・何か変な気持ちだ。
尤も馬刺しは熊本直送となっているが・・・。



街道は鳥栖市の中心部近くに入ってきた。
国道34号線沿いには車屋さんがたくさん立ち並ぶ。
生コン屋さんの先から右に折れる。
村田町に入ってきた。
村田村は人家40軒ばかり茶屋、酒屋ありという記録に見えるように街道沿いの
町並みであると同時に村田鍋島藩の城下町であった。
町には六地蔵が祀られている。



一本松の交差点を抜けると道の両脇にネットが張られている。
何の意味だろうかと歩きながら考えていると左の方からゴルフのショットの音。
なるほど、ゴルフのOBのボールが直接当たらないようにネットを張ってあるんだ。
そう思ってネットを見ると沢山のゴルフボールがある。


街道は「安良(やすろ)」に入る。
安良は、朝日山南麓に広がる古くからの集落。朝日山は建武元年(1334)朝日一族によって
山城が築かれている。江戸時代においても街道沿いにあり人家40軒茶屋多しとあるように
旅籠はなかったが轟木宿に宿泊者が多いときにここに分宿していた。



安良の坂を下ってくると新幹線の高架が見えてくる。
左の方は「新鳥栖駅」。カメラを構えていると新幹線が駅に入ってきた。


新幹線のガードを潜ると何かしら記念碑が建っている。
文字がよく読めないがどうも学校跡のようだ。


この辺りは工場や倉庫が立ち並んでいる。
工場の側に目をやると「黄色の彼岸花」が咲いている。
中原宿では、白の彼岸花をみたが、ここでは黄色の彼岸花。
何か今日はついているのかな?



時計は1時を廻っている。
今日は朝6時半福岡を出てきたのでお腹もすいてきた。
今日は家内が朝早く起きておにぎりを作ってくれた。
早くどこかで食べなきゃぁ。
どこか、スーパーでもと探すと34号線交差点の先にスーパーが見えてきた。
ここでペットボトルを買い、スーパーの休憩所でお弁当を開く。
おにぎりの具材は今年我が家で採れた梅の梅干。
やはり自家製の梅干は一味違う。とっても「うめ~」。

30分ぐら休憩して再び街道歩きをスタートする。
今日の予定は「田代宿」までだが何かお腹一杯であまり調子が出ない。
それでも歩き出す。

今日も街道と今の道を事前にグーグルでチェックしてきた。
持ってきた街道地図には赤のマークがいっぱい付けている。
驫木町の信号を渡りパール工業の所を左折する。
ここが轟木宿



轟木宿は佐賀鍋島藩の東に位置し隣の対馬藩飛び地「田代宿」と番所川を境に国境をなしている。
従って番所が設けられ厳しい検問が行われていたそうだ。




高札所跡の横には「日子神社」がある。


番所は番所川の横に設けられていた。


時計を見ると2時半。
久しぶりの街道歩きでちょっと疲れてしまった。
今回はこの驫木宿で終了することにする。
時計のGPSは、距離19.6km、所要時間5時間半。
次回はいよいよ福岡県に入ってくる。


※電車代:鳥栖~神崎360円、神埼駅駐車場:100円 佐賀大和温泉アマンディ入浴代:700円


















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長崎街道を歩いています№11(佐賀宿~神埼宿)

2011-05-27 15:40:22 | 長崎街道歩き
5月22日
久しぶりの街道歩きです。
今日は、朝から小雨が降り、出発を少し遅らせた。
10時には、佐賀駅に着き、それから前回のゴール地旧古賀銀行まで歩く。
古賀銀行は、前回の時遅かったので中には入れなかったが今回中に入ってみた。
入るとガイドさんが細部に渡って案内してくれる。
おまけに2階の商工会長の部屋で私と家内の写真も撮って頂いた。

旧久富家、旧福田家を見て廻りいよいよ今回の街道歩きです。
思案橋を過ぎると構口橋があります。
ここは佐賀城下東の入口になっており、番所が設けられていました。


牛島橋を渡るとここからは旧街道がなくなっています。
従って国道264号線を歩きます。

雨が少し強くなってきました。
見るとイオンのスーパーがあります。
とりあえずこのスーパーで雨宿りすることにしました。
あまり歩いていないのにお腹がすいてきます。時計を見ると12時前。
店内でお茶とおにぎりを買って休憩所の椅子で頂きます。

雨が上がったのを見て再びスタートします。
然しこの雨、私達が歩き出すと降ってきます。意地悪でもしているようです。
正面に大型家電店が見えてきました。また、ここで雨宿りです。
この大型電気店で雨具を用意し、再びスタート。
しばらく歩くとどうも地図と違う。目印の巨勢神社を探すが見つからない。
スマートフォンのナビを見ると大型電気店から右折しなくてはいけなかったが、
まっすぐ来てしまった。すぐ引き返した。
巨勢神社の所が「牛島宿」になっている。
宿場らしいものが残っていないのでパスする。



佐賀は、クリークが発達しており、これが穀物地帯佐賀平野を潤しているのだろう。
畑には麦が植えられており風が吹くと麦の穂がゆらゆら揺れる。
「麦秋」とはこういうものだろうか?





一里塚橋を渡り、左手に行くと「郡境石」がある。






ここから、昔の神崎郡になる。
そのまま264号線に合流するとこのあたりが「境原宿」。エビス像がある「原の町」の信号から左に入った「若宮神社」が休憩地になっている。
道路標識を見ると下村湖人生家の看板がある。湖人というと僕らが子供の頃テレビで見た
「次郎物語」、ここが彼の生家だったんだ。

街道は、264号線を神埼方面に向かってまっすぐ走っている。
ショッピングセンターの手前に「六地蔵」が建っている。
これは、佐賀の乱で戦死した人を供養する為に作られたもので以前は堀の中に
あったのだが、区画整理のためか、ここに移っている。


雨も上がって西の方には雲が切れている。
「高橋」から左折し、矢代橋を渡ると右側にJA佐賀の乾燥施設がある。
街道は、佐賀平野の中を走っている。
畑は「麦畑」ばっかりだ。
多分、今から行く「神埼宿」が素麺が有名だからこの麦、素麺になるのだろうか?
城原川沿いの土手を歩く。
川からの風が気持ちよい。土手を見るとアザミが咲いている。



5kmぐらい土手を歩いただろうか、国道34号線と合流する。
合流した所が「神埼橋






神埼橋を渡って右に行くとここが神埼宿の東構口になっている。
その構口を左に進むと真光寺まで一本道。
所々、「神埼素麺」の看板が上がっている。

「神埼素麺」は、小豆島から行脚してきた僧雲水がこの地で病に倒れた。
この地の「伊之助」が手厚く看護したため、お礼にと手延素麺の作り方を
教えたことから始まる。
どこか、素麺を食べさせてくれる所は無いかな・・・・と探すが、どこの店も
販売ばかり。ではお土産にと一軒の素麺屋さんに立ち寄る。
素麺と冷やし麦を買いDバックに入れる。



真光寺を左折すると櫛田宮まで真っ直ぐ通じている。
所々には古い家が立ち並んでいる。
歩いていると何かお寺が多い。



先ず、櫛田宮に行く。略記を見ると、
櫛田宮は、約1900年前当地方に荒神があって人を害したが景行天皇が櫛田宮を
創建されてから人民は幸福になったのでこの地を「神幸郡(かむざき)」と呼ぶ
ようになった。
鎌倉時代弘安4年蒙古襲来の時、本宮の神剣を博多櫛田神社に奉還して異賊退散を祈り
霊験あらたかなものがあったので厄除け開運の神と崇敬されるようになった。



この「神幸郡(かむざき)」から「神埼(かんざき)」になったという。
境内に入ってみると1000年は越すといわれる「琴の楠」、「肥前鳥居」、
太鼓橋、そうめんの碑、それと今回は見なかったが「オランダ砲」などがある。
また、そうめん碑の横には、祇園社があったが今年5月火事に遭ってしまった。





櫛田宮を出て町の方に行くと勤労者体育館の所に本陣が、祇園宮の前に脇本陣がある。
神埼は、櫛田宮の参道に二日町、七日町、八日町とありそれぞれ市が開かれていたそうです。





時間を見るともう4時過ぎ。
今日はこれから「吉野ヶ里」に行く予定だったが時間も無くこの次の機会に行く
ことにした。それにしてもここ神埼に来て素麺を食べないわけがない。
お店を探して入ってみる。出された素麺はちょっと固めではあるが、やはり本場で
食べる素麺、うまかった。


このあと神崎駅へ行き4時38分の電車で佐賀に戻った。






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長崎街道を歩いています№10「牛津~佐賀城内」

2011-04-16 13:30:26 | 長崎街道歩き
4月10日長崎街道「牛津~佐賀城址」まで歩きました。
長崎街道歩きも今回で7日目(正確に言うと6日目)。
だんだん街道歩きの楽しさが分かってきました。

午前7時15分、福岡を車で出発し佐賀駅前に車を置き、佐賀発8時24分の
電車で前回ゴール地の牛津駅へ。
ここから今回のスタートです。
旧街道の商店街を抜け、継場跡、(前の宿場から送られた一般旅人の荷物をここに
受け継ぎ次の宿場に送り継いだ所)高札場跡、(高札を掲げて禁制すべき箇条を列挙し、
一般市民に告示した場所)を通り、本陣であった正満寺を通って一路久保田へ。
途中の新宿観音の桜が満開なのでしばし桜見学をする。
今日は町内の出方なのか皆さんで草刈作業が行われていた。



「町分」というバス停に来た。
ここから右に行きと「芦刈町」。芦刈町の案内板がむつごろうの絵が載っている。

時間は9時を過ぎたところ。歩き出すとエンジンがかかってきたのか暑くなってきた。
「祇園宮」でジャンバーを脱ぎまた歩き出す。

「香椎神社」に差し掛かった。
このお宮は、安元3年(1177)に窪田因幡守利常が勧請したもので鳥居は「肥前鳥居」と言って
佐賀県の重要文化財になっている。また、鳥居の横の石橋も古さを物語っている。

街道は、嘉瀬川に差し掛かった。
旧道はここから右に入っていく。
そこで見かけた古い「千鳥饅頭」の看板、家も白壁の家でレトロな雰囲気が漂っている。
ふと、表札を見てみると「原田本家」と書いてある。
原田本家というとあの千鳥饅頭??
帰ってから調べてみると原田家は、ここ久保田で和菓子店「松月堂」を営んでいた。
どうかして拡販を図りたかった先代は炭鉱景気で湧く飯塚に目をつけた。
ここで支店を設け、カステラの中に餡子が入るような饅頭を開発した。
これが炭鉱に働く人に受け「千鳥饅頭」の誕生となった。それから飯塚支店を本店にした。
因みに千鳥は、菅原道真の句からとったという。
また、先代の長女は、羊羹で有名な「村岡屋」に嫁つぎ、ご主人亡き後社長として
活躍された。先日90歳で亡くなられたと新聞に載っていた。

街道は嘉瀬川を渡る。
ここの河川敷は今やバルーンフェスタの会場。
若し江戸時代の人がこのバルーンを見たらどんなふうに感じただろうか?
嘉瀬川を渡ると嘉瀬町。
右側に森林公園がある。広い敷地には野球場などがある。
「刑場跡」はこの公園の中にあった。
隣には千人塚があった。江藤新平もここで処刑された。

公園の案内板を見てみるとこの公園内に「鑑真和上上陸記念碑」があると書いてある。
鑑真和上は、鹿児島の坊津に上陸し太宰府を経て平城京に行かれた。
その足跡を私は、一昨年に坊津へ、昨年は太宰府、奈良の唐招提寺に行った。
坊津からは陸路だろうと思っていたが坊津から東シナ海を通り、有明海から
この嘉瀬津に上陸したのだ。和上はその後太宰府~博多に行き瀬戸内海を通り平城京に
着いたという。鑑真和上記念碑の横には中国から送られた「瓊花」という木が植えられていた。

公園の前には、俊寛僧都の墓がある。
俊寛は、平安時代の僧で1177年鹿ヶ谷で藤原親成、成経父子や平康頼らと平氏討伐を
謀ったが源行綱の密告により発覚し喜界島に流された。当地で亡くなったということに
なっているが、ここ佐賀を始め脱出したという説もある。
歌舞伎「俊寛」の題目にもなっている。


「せんぺい」という看板が面白い
国道207号線森林公園バス停から旧道の方へ向かう。
国道から離れている為かこの通りにも昔の家並みが残っている。
家の造りからしてこの家は昔の商家だ。何屋さんだったんだろう?
色々想像してみるのも面白い。これが街道歩きの楽しさだろう。
近くの方に聞いてみた。「呉服屋」さんだそうです。

旧道と国道が交差する所に来た。
ここに別れの松がある。
この「別れの松」は刑場に曳かれる罪人がここで見送りの肉親や知人と永遠の別れを
告げねばならなかった。そこでこの場所を別れの松と呼ばれていた。早朝白衣に
まとった姿で駕籠を出された罪人はこの松の所でしばらく駕籠を止めて見送りの
者と別れの水盃を酌み交わすことが許されていた。
明治になり嘉瀬の刑場が廃止になっても「別れの松」は代々植え継がれ今も残っている。

国道207号線「高橋」の信号から左折する。
左折するや、前方に木製の橋が架かっている。これが高橋だ。
旧高橋は本庄江を航行する船の往来を便利にするため橋桁を高く持ち上げ船の帆柱や
竿が支障なく通るようにした為その名が起こったといわれている。
江戸時代までは高橋の市場には集散する船の積荷で賑わっていた。
また、この時代のことを数え歌で歌っていた。
「一(市)は高橋、二(荷)は牛津、三(産)は泰順、四(詩)は安道、五(碁)は
但馬、六(禄)は諫早、七(質)は成富、八(鉢)は皿山、九(句)は十方庵」
このように高橋周辺は、市として栄え瓦屋、蒲鉾屋、元結紙製造屋などがあった。
この辺りが佐賀宿の入口になっている。

佐賀宿に入ると路上の片隅に恵比寿像が建っている。
色々な形の恵比寿様があり楽しませてくれる。
また、街道の印としてU字溝のフタに街道の絵をプリントしている。
これを辿っていけば長崎街道だ。

八戸(やえ)の地蔵菩薩がある。
これは、宝暦6年(1756)に長瀬町の鋳物師であった谷口安左衛門兼品のよって
鋳造された銅製のものであったが戦時中の昭和19年に拠出され、昭和29年
八戸地区の有志によって石像が再建された。
昔、街道を旅する人々は道中の無事と無病を祈願した。

久保薬店という古い薬屋さんがある。
案内板によれば「城下で最も古い生薬屋といわれ、醫局監製「牛黄清心圓」
(ごおうせいしんがん)の看板がその昔を偲ばせる。
安政5年(1858)6月8日付けの「久保家日記」を見ると「明日牛黄清心圓」を
調合したいという願いを好生館御役所に提出した」とある。
当時佐賀藩の薬局は好生館薬局と称され醫局立会いの下に諸薬が調整されていた。
尚、牛黄清心圓は中国漢方医学書「恵民和剤局方」に記載されたもので牛黄を主薬
としたかんの薬とされ神経を安定させ身体を強める
薬として賞用されていた。」
※牛黄:牛の胆嚢や胆管に出来た結石を採集し乾燥させたもの。

久保薬店の付近の家々は道に対してやや斜めに建てられ家の前にはさんかくの空間が
出来ている。これがノコギリの歯に似ていることからノコギリ型家並みといわれている。
また、この家並みが建てられた理由は敵が攻めてきたときその窪みに隠れて不意をついて
攻撃できる為などといわれている。

このあたりは、どういうわけか知らないがお寺が多い。
街道から左に入ったところに「龍雲寺」がある。
入ろうとするが橋桁の工事のため通行止め。迂回路に従って行く。
「龍雲寺」は、藩内外の武士の言行の批評を通じて武士の心構えを説いた
「山本常朝(じょうちょう)」の墓がある。葉隠武士を説いた人です。
名文句は「武士道と云ふは死ぬ事を見付けたり」である。
よく、太平洋戦争で特攻、玉砕や自決の時に使われていたが、常朝自身「我人生くる事が
好きになり」と後述しているように葉隠は死を美化したり自決を推奨する書物と一括する
ことはできない。嫌な上司からの酒のお誘いを丁重に断る方法や部下の失敗を上手く
フォローする方法、人前で欠伸をしないようにする方法等現代で言うところの
ビジネスマナーの指南書である。(Wikipediaより)

街道の資料によるとこのあたりに江藤新平の墓があるそうだ。
ちょっと街道を離れるが行ってみる。
本行寺に彼の墓はあった。江藤新平は(1834~1874)は、藩校弘道館時代に枝吉神陽の
影響を受け尊皇論を唱え文久2年(1862)には脱藩して倒幕運動に従ったが捕らえられ
永久閉門となり慶応3年(1867)まで謹慎させられ極貧の生活を送った。
明治維新後新政府に招かれ大木喬任(たかとう)とともに江戸遷都を建議し実現させた。
のち文部大輔として文部省官制を整備し更に左院、副議長、司法卿、参議を歴任。
特に司法卿として司法権の独立、民法編纂に大きな業績を残した。
また、征韓論に敗れて下野し島義勇(よしたけ)らと共に佐賀の乱をおこし志を遂げようと
したが成らず刑死した。のち罪名をとかれ大正5年(1916)従四位を追贈された。


再び街道に戻る。
日新小学校の所に反射炉があると地図に書いてある。
佐賀藩は寛永19年(1642)から福岡藩と交代で長崎港の警備にあたってきたが、
文化元年ロシア使節レサノフの来航、文化5年にはイギリス軍艦「フェートン号」の
長崎港侵入があり長崎港の警備はそれ以来緊迫した空気に包まれた。
鍋島直正が10代藩主につくとこれに対処する為長崎港台場の増設と洋式大砲の設置を
痛感し、幕府に提議するが認められず嘉永3年(1850)藩独自に築地(今の日新小学校)に
反射炉を築き日本で最初の鉄製大砲の鋳造に成功した。
嘉永6年(1853)ペリーが来航すると幕府は江戸湾防御の為、品川に台場を新設し
大砲を佐賀藩に注文した。そこで佐賀藩は多布施に公儀用の反射炉を増築し安政3年
(1856)までに24ポンド砲25門、36ポンド砲25門納めた。更に150ポンド砲
3門を幕府に献上した。また、当時世界で最高の技術を要するアームストロング砲を
佐賀藩では元治、慶応年間に3門鋳造することに成功している。
今、東京・フジテレビのあるお台場は、この佐賀藩の大砲が設置された所です。


街道は六座町に入る。
六座とは何か?と歩きながら考えていると「穀物屋跡」「縫工屋跡」「木工屋跡」
「金銀屋跡」「鉄砲屋跡」「煙硝屋跡」の碑が建っている。
佐賀城下の町づくりの際、鍋島町蛎久から北面八幡宮と共に蛎久の市場をここに移した。
城下で一番古い歴史を持った町で市場発祥の地として長崎街道佐賀城下一の繁華街で
あった。

伊勢神宮を通ると交差点の向こう側に魚料理屋さんが・・・・
今、1時15分。今日は佐賀に行くので朝食を朝5時ごろとった。
どうもお腹がすいてきた。まだランチタイムということで迷わず店へ。
美味しい店なのか、お客さんが順番を待っている。
15分ぐらい待ったであろうか、お店の方の誘導で店の中へ。
私は、海鮮丼定食、家内は鯖竜田揚げ定食を注文。
出てきた定食は、どちらも美味しく流石行列のできる店は違うな!

30分ぐらい休憩し再び街道へ。
龍造寺八幡宮に着いた。
この八幡宮は、龍造寺李益が鎌倉鶴岡八幡宮の分霊を祭ったもの。
藤原道隆の流れを汲む高木季家が文治2年肥前国小城郡龍造寺の地頭となり
その地名から龍造寺を名乗った。南北朝では足利尊氏につき、次第に勢力拡大する。
水ヶ江に城を構えそれが今日の佐賀城の原型になった。

九州北部に覇を唱えていた龍造寺隆信は、天正12年(1584)島津・有馬連合軍に
敗れ、家は没落。補佐役の鍋島直茂が実権を掌握し佐賀藩を打ち立てた。

ここにあの「鍋島化け猫騒動」がおこる。
色々脚色されているが、
「2代藩主鍋島勝茂の時代、勝茂の碁の相手を務めていた盲目の龍造寺又七郎が
勝茂の機嫌を損ねた為、斬殺される。又七郎の母は飼っていた猫に悲しみの京中を
語り自害。母の血を舐めた猫が化け猫となり城内に入って毎晩のように勝茂を苦しめるが
忠臣が猫を退治し鍋島家を救うというもの。

私が子供の頃は、夏場はこの怪談映画が多かった。この化け猫は、入江たか子さんが
演じ、迫力ある演技で映画を見た夜は恐くて一人で寝れなかった。

街道は佐賀市の中心部を歩く。
「柳町」という所に差し掛かった。
ここには、佐賀歴史民族館があり明治時代の古い建物が公開されている。
古賀銀行は、明治18年両替商をしていた古賀善平が設立した
銀行で大正8年には九州の五大銀行の一つに数えられるまで成長した。
大正15年恐慌により休業に追い込まれその後は商業会議所、労働会館として改築され、
現在佐賀市歴史民族館として復原されている。

旧古賀家
古賀銀行の創設者古賀善平の住宅で明治17年に建てられた。
町屋でありつつも武家屋敷の様式を呈している。
室内には15の和室があってそれぞれの部屋には見事な欄間やふすま絵が楽しめる。
三省銀行
明治15年7月旧佐賀藩士柿久栄次を頭取に佐賀郡の米穀商を株主にして三省社という
銀行類似業が設立され佐賀郡蓮池町(現佐賀市柳町)に本社を置いた。三省社は営業向上
とともに普通銀行への転換が要求された。明治18年資本金5万円の三省銀行となる。
その後米穀思惑売買の投機師とも取引を結ぶようになった。
それがいつの間にか投機師専門の金融機関化し貸付方針が乱れ貸付資金の大部分が
回収不能に近くなりその後経営が悪化し明治26年商法実施直前に解散した。

あと、牛島家、福田家、中村家など明治時代の建物が
残されている。

肥前通仙亭というのがある。
ここには、煎茶の祖といわれる高遊外売茶翁(こうゆうがいばいさおう)のことが展示されている。

今日佐賀の町を歩いていると幕末から明治新政府にかけて活躍した佐賀の七賢人の功績を
見たくなり、急遽、佐賀城址に行くことにした。   (続く)

今回のGPS

8時間歩行。距離22.3km



















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長崎街道を歩いています№9(武雄・高橋~牛津宿)

2011-04-09 14:49:29 | 長崎街道歩き
3月27日長崎街道(武雄・高橋~牛津宿)約25kmを歩きました。
福岡を7時15分に出発し、途中小城に立ち寄り武雄温泉駅に着いたのが9時10分。
車を駅に置き、ここから前回ゴール地の高橋駅まで歩きます。

高橋駅に着いたのが9時45分。
ここから今回の街道歩きのスタートです。

この街道歩きには、前からGPSが必要だなと思っていろいろ探してみると値段も
手ごろでGPSウオッチというのを見つけ出し今回初めてこれをつけての街道歩きです。
それと、前回道を間違えたので今回は事前にコースをチェックし特に曲がり角などには
蛍光ペンで印を入れていました。

今回の歩行GPS

【北方宿】
長崎自動車道の高架を通り過ぎると北方宿に入ってきます。
民家の前に追分石が立っています。
もう古くて読めませんが、多分「さが」「たけお」「いまり」と書いてあるんでしょう。

この北方は、合併により武雄市に入っていますが元々は杵島郡でした。
杵島郡というと真っ先に思い出すのが「杵島炭鉱」。
炭鉱絵馬が奉納されていると聞いて「大崎八幡宮」へ。
本殿に入ると神事が行われているのか中には入れませんでした。
本殿の外から見てみると炭鉱絵馬がありません。
天井絵は、十二支が書かれていました。


北方宿本陣は、この八幡宮から少し入った所にありました。
江戸時代、旅人は旅籠がある塚原宿に泊まり北方宿は通過するだけの宿場でした。
本陣は天保10年に建てられ伊能忠敬も宿泊した記録があります。
北方は、国道から少し外れているのでしょうか、古い家が立ち並んでいます。
木ノ元集落に着きました。
左手に「稲主神社」があります。
五穀豊穣を願ったのか、境内の狛犬の所に俵の石碑が建っています。

木ノ元神社を過ぎると今はトタンで覆われていますが、藁葺きの屋根があります。
何か、昭和半ばにタイムスリップしたような感です。

しばらく街道を歩いていると石楠花の寺・高野寺という看板がありちょっと覗いて
みたくなり街道を離れる。残念ながら石楠花はまだ咲いてなく4月中旬ぐらいに
なろうという住職さんの話。諦め再び街道へ。

「追分」という信号に出てきた。
ここから「塩田」と別れる。
長崎街道は、昔は塩田を通るルートだったが、塩田は、川の氾濫が多く、いつの間にか
武雄のルートが定着した。

「焼米宿」という説明看板がある。近くには、焼米溜池もある。
長崎街道25宿には入っていない。
説明文を読んでみると
「船運みにも恵まれた船津で上使屋はなく、旅籠、船宿があって酒屋、茶屋、味噌、
醤油などの日用雑貨店がある庶民の宿場だった。
寛政12年(1800)鍋島治茂公は、白石地方の新田が開発され灌漑用水、干害防止を
兼ねた焼米溜池を築造させた。」

因みに「焼米」という地名は、武内宿禰が来たとき住民達が焼き米を
献上したからとか?
また、「武雄」の名は武内宿禰のお父さんの名「武雄」からとったとか。

「福母地蔵」を通り、大町町役場近くに来ると「土井家住宅」の看板がある。
「土井家住宅」は、19世紀初頭から江戸末期まで造り酒屋だった。
明治初期農家の土井家の所有になった。国の重要文化財になっている。

このあたりは、昔の大きな家が多い。
また、赤レンガの倉庫など歩いていて楽しむことが出来る。

また、お地蔵様も赤レンガで囲われている。

【小田宿】
「小田宿」に入ってきた。
街道の家々には「小田宿」の旗を立てている。民家の玄関先には「千切り大根」に
するためであろうか、切った大根を干してある。

「横辺田代官所跡」がある。
説明文によると
「文明15年(1483)肥前の国主藤原朝臣家兼公が現在の砥川町、江北町、大町町、
北方町の六角川北岸の北郷地域を総称して横辺田と称し領有したことに始まる。
享和元年(1801)に佐嘉本藩の直轄地として藩主鍋島治茂公(第8代)が七代官所の
一つに入れ明治9年(1876)に廃止されるまでの172年間横辺田、東郷、白石中郷、
南郷、六角郷、橋下郷、成瀬郷、北方郷、塩田郷、吉田郷、嬉野郷、能古見郷、
七浦郷、須古郷、など15の郷を嘉永2年(1849)には諫早代官所の所轄地域も
横辺田代官所に合併されて民政の安定と課役を司り行政所轄の中心所在地であった。」

現在は、何も無く、大きな椋の木が植えられている。

「馬頭観音」に着いた。
奈良時代の天平9年(739)僧行基がこの地に居た豪族親娘の情愛や孝行話に感動して
かつては海辺にあった大楠に馬頭観音様を彫りあわせて人馬の安全と健康を守る為
祈願したといわれる。
然し、江戸時代の嘉永4年(1851)側の観音堂が火災に合い楠樹に延焼し、観音像は
難を免れたが焼け跡から風化腐朽を早め現在は尊像をみることはできない。

観音堂に行ってみると天井には馬の絵がたくさん描かれていた。

小田宿は、各民家の軒先に「小田宿」の旗を立ててある。
これも町おこしの一環だろうか?
民家の玄関先にはビオラがきれいに咲いていた。
歩きつかれた私達を和ませてくれる。



小田宿追分石跡のあった「中島商店」に差し掛かった。
河島さんの地図ではここを右折と書いてある。
この中島商店の家も大きい。昔は商家だったのだろうか?
尚、この追分石、現在は江北中学校に移設されています。


街道は田園地帯になった。
今日は、天気がよく、私のDバックの後につけた「鯉のぼり」が勢いよく泳いでいる。
街道歩きの先輩のRさんが鯉のぼりをつけて「東海道」を歩かれたので私も真似して
鯉のぼりをつけて歩いている。

「朝鍋宿」というバス停に差し掛かった。朝鍋宿は、この街道の宿場町にない。
説明文もないので帰ってネットで調べるがわからなかった。

街道は、JR肥前山口駅に着いた。
前回の街道歩きはここを終点にしていたのだが道を間違えたりして来れなかった。
今回は、事前にコースを予習していたからここまで間違えなく歩いている。

「カンカン石」という所にやってきた。
そこに置いてある小石でこの石を叩くと「カンカン」という音がする。
面白いので何回かやってみる。端の方を叩くとならない。真ん中あたりで音が
しているみたいだ。この石、磁鉄を含んでいるのでこんな音がするそうだ。


【牛津宿】
六角川を渡ると牛津に着いた。
昔、牛津は小城郡の中に入っていたが、2005年旧小城郡の小城、三日月、牛津、
芦刈の4町が合併し新しく「小城市」になった。人口約46000人。
牛津は長崎街道沿いの宿場町「牛津宿」として、また有明海に面した港町で
西の浪花と呼ばれるほど商人の町として栄えた。小城支藩の米、佐賀の物流を
扱う卸問屋が集まったので賑わい「港には百石船が目白押し」といわれていた。
牛津のことを歌ったものに「一(市)は、高橋、二(荷)は牛津」
「牛津 津でもち 駅でもち 町の栄えは店でもつ」というのがあった。
物資は有明海から牛津川をさかのぼる船によって運ばれました。

牛津駅にある長崎街道銅板。当時の牛津宿のことが描かれている。

牛津駅構内

時計を見ると午後4時。今日の街道歩きはここまでとするが
武雄まで戻る電車を見ると少し時間があったので駅の裏にある「旧田中丸邸」に
行くことにする。
「旧田中丸邸」は、現在牛津会館、赤レンガ会館になっているが、
田中丸氏は牛津商人の代表格で三代目田中丸善蔵氏は、日清戦争で財をなし
佐世保に玉屋デパートを創業した人です。
玉屋デパートは全盛期には、小倉、博多、佐賀、長崎、佐世保、伊万里と
店舗があった。
その田中丸さんの自宅が「牛津会館」倉庫が「赤レンガ館」になっている。

この田中丸邸を見学したらちょうど帰りの電車の時間迫ってきた。(次回続き)


  ※本日の交通費  駐車場代(武雄駅)400円
           牛津~武雄JR  360円























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