やおよろずの神々の棲む国でⅡ

〝世界に貢献する誇りある日本″の実現を願いつつ、生きること、ことば、子育て、政治・経済などについて考えつづけます。

【中学歴史教科書8社を比べる】188 ⒅ 日朝関係(戦後)の描き方 7 <ⅰ 終戦直後の引揚者の状況 7 考察5:在日コリアン 2>

2017年05月22日 | 中学歴史教科書8社を比べる(h28-令和2年度使用)

2 「日本にいた朝鮮人引揚者の状況」の描き方のちがい ⑵ ~まとめ表再掲~

 

① 基礎知識 その2

~前回の中間まとめの要約~

1959年当時の在日朝鮮人=【終戦時の残留者】 + 【戦後密入国者】(=「20万から40万と推定される密航者 およびその子孫」)

 では、終戦直後にふるさと朝鮮に帰った人数と、「そのまま日本に定住した」人数は何人?

 

<ウィキペデア:在日韓国・朝鮮人 2017.5.20>より

・「1945年8月終戦当時の在日朝鮮人の全人口は約210万人ほどとする報告もある。
 その9割以上が朝鮮半島南部出身者であった。  
 
このうちの多くが第二次世界大戦終戦前の10年間に渡航したと考えられている。」

 

・「1945年以降は、日本は戦災によって国土が荒廃し、食料不足になり占領国からの食糧援助に頼らざるを得なくなったが、戦災に遭わなかった朝鮮は日本統治時代には食料を輸出できるほどの生産性を備えるに至ったことなどから、1946年3月までに在日朝鮮人のうち140万人の帰還希望者が日本政府の手配などにより朝鮮に帰還しているが、戦後も朝鮮からの密航者が絶えず日本の治安上の問題となった。

 また、1945年に朝鮮半島に帰還したものの、その後に動乱を避けて再び日本に移入した者も多かった。彼らとその子孫も、オールドカマーのうちに入れられて考えられることが多い。」

 

・「帰国と滞在

 終戦直後の1945年8月24日、朝鮮人帰還者を乗せ釜山港へと向かった浮島丸が、連合国軍司令部の航行禁止命令により、舞鶴港への入港中、触雷・沈没して乗員約5000名のうち約550人が死亡する浮島丸事件などの事故もあったが、その後連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)により送還事業が開始され、翌1946年までに徴用者を中心に140万名が朝鮮半島に帰還する一方、1939年9月の「朝鮮人労働者内地移住ニ関スル件」通達により朝鮮における雇用制限撤廃(自由募集)以前から滞在していた者を中心に約60万名が日本に残った

 朝鮮人の引揚に関しては、GHQと日本政府は引揚希望者を全員帰国させる方針であり、船便による具体的な送出人数に関してもGHQが指示を出している。また、日本国内(内地)の輸送に関しても具体的な指示が出ている。」

 

・「その後も朝鮮人の引き揚げは継続され、1959年に外務省は、朝鮮への国民徴用令適用による朝鮮人徴用は1944年9月から下関-釜山間の運行が止まる1945年3月までの7か月間であり、また、戦時中に徴用労務者として来た朝鮮人の内、そのまま日本に留まった者は1959年時点で245に過ぎず、日本に在住している朝鮮人は、「大半が自由意志で来日・在留した者」とする調査結果を発表している。」

 

~中間まとめ2 1959年ごろの状況~

・ 終戦時の在日朝鮮人はおよそ210万人(推測)

A 終戦直後にふるさと朝鮮に帰った人数=140万人 (※その後数年内に密航して戻った者もいた)

B そのまま日本に定住した=約60万人 

 ※そのうち、内地に「徴用」されていた人数は245人だけ。つまり、在日コリアンがよく言う、「”強制連行”された者」のうち日本に残留した人数はこれだけであり、ほとんどはふるさとへ帰還した。

C 終戦から十数年のうちに、朝鮮から密入国した人数=20~40万人

⇒D 1959年ごろの在日朝鮮人の推測数=80~100万人+戦後14年間に生まれた子供(第2世代)、となる。

 今の佐賀県の人口は約80万人。100万人というのはなかなかの数。

 

~次回、東京書籍と学び舎の内容評価など~ 

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※追加修正(5月26日) まとめ表に教育出版の記事資料を追加。