食べ物日記   元気 一番

健康へ気配りしながら主に食事を!

ハウスの補修

2022-05-28 10:14:58 | 予算の使い方

 ハウスへの思ひ

 2月下旬に始まったウクライナへのロシア軍の侵攻は3カ月を経過してまだ続いている。ウクライナの都市に建っていたビルディングも戸建て住宅もロケット弾などにより鉄筋が見える片壁だけになったり崩れて瓦礫になったりしている。住んでいた人は心を込めてそして長年働いて得たお金を使った大切なものだったろう。

 私は日本に住んでいるが、定年退職して長年かけて得たお金で自宅を建てた。日本は平和を継続できており、私は建てたハウスに住み約13年が過ぎる。自宅の補修をする時期が来ている。軽い地震も幾度か経験し、紫外線や雨風による負担はずっと掛かっている。

 塗装業者に工事の見積りを依頼した。工事が必要な理由はメジ材の亀裂クラックと外壁の劣化との対策。メジ材は剥がして新しく柔軟性の高いものを、外壁は洗浄し塗装して耐候性を回復させる。困った点があった。レンガ模様を出来るだけ残す希望だが、透明なクリヤー塗装は古い光触媒塗装への使用は避けて下さい。そしてメジへの塗装には注意をと。案外難しい。

 高齢になってからの工事である。次回は世代替わりしているだろう。そんな思いを持ちながら検討している。私は約100年あった家の後地に新築した。同じ程度には数世代にかけて使いたいと期待している。ウクライナの人達の被害に遭ったハウスと比較すると、私達は幸せだ。日本が平和であり続けることを願い努力もしたいが。

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東沢瀉記念館に小学生

2022-05-21 23:04:16 | 社会・平和

 中洋小学校の行事に

 明治の初めに、東沢瀉先生が学問所(塾)を始める。場所は岩国市保津村。現在は跡地に沢瀉記念館が建てられている。そこに近くの中洋小学校生徒約45人が春の自然に親しみながら、交通ルールや公衆道徳を守り、相互親睦や集団行動をとれるようにと、行事として訪れた。

 東沢瀉は吉田松陰より2才年下だが松陰より30年長く60才(明治24年)まで生きた。しかし学問所は鉄道線路の敷設計画が起こり、住めなくなって明治20年に保津村を離れている。

 沢瀉記念館には、学問所内の教室跡や宿所の位置図などの記録や写真が保存されており、訪問者に当時を想像させてくれる。保津町住民はこの記念館が綺麗に維持され続けるように年に2回、草取りや内部の掃除などをしている。

 さて小学校生徒は毎年この記念館を訪れているが、室内をまだ見たことがないと、父兄のお世話係の人が私にも話をされた。私は驚いて、内部を見る事ができるように手配したいと伝える。そして保津自治会長と相談して、今年は見る事ができた。私はこれまでに知ったことを生徒さん達に少し話をさせてもらった。中洋小学校にも周囲の地域にも歴史がある事を話しできて嬉しく思えた。

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力による現状変更は

2022-05-11 11:20:42 | 社会・平和

  外交の大切さ

 今、ウクライナではロシアから力による現状変更を強いられている。ウクライナの街破壊はひどいものでアパートやマンションなども住める状態にはなくなっている。カメラ側に映る壁は穴が開いて鉄筋が見える物も多い。

 日本の防衛白書には力による一方的な現状変更は許さないと書かれているという。私は個人的に同意したい。国と国との境界を一方的に変更するなど許されない。だが「許さない」との言葉の使い方には心配する。国際法上許されないは判るのだが。

 テレビ番組5月8日サンデーモーニングにも憲法9条を持つ日本はこのような状況にどうするか。主に藪中元外交官の発言だが、国連安保理の拒否権による機能不全は、機能不全と捉え一歩ずつ改善する方法をとる。理事国は自分の意見の理由を提出する(例)など。日本は、1,非核3原則2,適正量の兵器を持つ3,外交を大切に(平和を作るための)する。

 戦争を無くすにはどうするか。100年スパンで考えて、1歩ずつ前進。外交など1歩でもと努力する。核兵器競争は、地球の将来を危険にする。このことを各国が理解する。良いまとめと理解したが❢

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驚く経歴を作った人

2022-05-07 11:29:52 | 予算の使い方

  前ドイツ首相

 その人は東ドイツに1954年生まれた女性である。1978年大学を卒業。卒業後東ベルリンにある科学アカデミーに就職、理論物理学を研究。1986年博士号を取得。同年西ドイツを旅行しているという。

 1989年ベルリンの壁崩壊。この時、彼女元ドイツ連邦首相メルケルは35才。壁崩壊後先行き不安な科学アカデミーを辞職し「民主主義出発」の結党メンバーになる。この党では報道官を務める。1990年東ドイツでの自由選挙で政党連合を組んでいた東ドイツCDUとともに東ドイツ最後の政権で副報道官に就任する。西ドイツとの再統一後合流CDU(元西ドイツCDUと)に入党し、同年12月の連邦議会選挙で故郷から出馬して初当選。初当選だが、第4次コール政権の女性・青少年問題相に抜擢され、1991年1月に就任。1994年連邦議会選挙後の第5次コール政権で環境・自然保護・原発保安担当大臣に就任。1998年選挙でコール政権は敗れ野党に、彼女は幹事長に就任。2000年党大会にてCDU党首に就任する。2005年総選挙にて連立政権だが、第8代連邦首相に就任。51才だった。

 2009年総選挙で2期目の首相に。2010年ギリシャ財政破綻、2011年東日本大震災に伴う原子力発電所事故による脱原発の動きに。2013年総選挙で3期目の首相に。2015年100万人を超える難民移入を許可。2017年総選挙で4期目の首相に。任期は2021年。2020年新型コロナ感染症対応には先手対策が評価されて支持率は回復。2021年退任。

 私はメルケル元首相に関してのNHK番組を偶然にだが見た。興味を持って見て、2つの点を推察する事ができた。そして「見る事ができて良かった」と思えた。1つ目は、ベルリンの壁崩壊から短い期間でドイツ連邦の首相に、どのようにすればなれるのか。 ひと言で表せば、僅かにしか見えなかった民主主義に憧れ、その素晴らしさを学びながら良さをドイツ国民と共有することができたものではないかと。もう1つは100万人とも言われる多くの難民をドイツに受け入れることが国民の生活へ与える影響を考えると心配でなかったのか。 つぎのように説明され、東ドイツ出身の著名人も賛成されていたが、閉じ込めること境界を設ける事を出来るだけ避けたい。ベルリンの壁に似た壁は設けないようにしたい。自分の経験からの信念と思えた。

 彼女は結婚を2度されたという。1度目は大学生時代。2度目は連邦政府ができて後と。男女の悩みは超えて仕事に打ち込めた理由かも--と要らぬ詮索も。

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