アイリス あいりす 

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『この地球に山や森は存在しない』 (Q&A)

2017-05-28 15:33:27 | 動画

『この地球に山や森は存在しない』 (Q&A)

♬今回の動画は、先の「この地球に山や森は存在しない」の動画の視聴者が早くもアップしたものです。

彼はとてもユニークです。

私は何回も声をあげて笑ってしまいました。

どうか、最後までご覧になってください。

彼の思いつきで調べていく過程も、日本人にはないものかもしれません。

とても楽しい動画です。

 

予告 前編、後編はこちらです。

http://blog.goo.ne.jp/y-hne/e/ef4507a2d4d7f42b413fc55fd3c6571b


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ドルイト教とは?

2017-05-28 10:33:37 | 歴史

 http://web.joumon.jp.net/blog/2013/10/1538.html

2013年10月22日

「個のない民、ケルトから学ぶ」7.ドルイド教~聖森の教えと学び~

ドルイド教は、キリスト教の布教以前に存在したケルト社会の原始宗教で、そこでは「全ての自然に、神(精霊)が宿っている」と考えられていました。
ドルイド(Daru-vid)という名前の由来は、Daruが樫(オーク)、vidが知識の意味で、ケルト社会では「樫の知恵を持つ者」と言われています。強靭で大木となる樫は、「森の民=ケルト」の象徴でした。
そして現在、アイルランドやイギリスの一部で、キリスト教以前のドルイド教を復活させようという動きが生じています。そこで今回は、
 ★ドルイド教とは、どのような宗教であったのか?
 ★キリスト教社会のヨーロッパで、なぜこのような動きが生じてきたのか?
について、考察したいと思います。
481px-Two_Druids.PNG
●古代のドルイド僧 (ウィキペディア)より

 

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◆ドルイド教について

ドルイドになるには、長い修行が必要で、時には20年にも及んだそうです。修行の内容は、今日で言うと、神学を含む哲学、自然哲学、天文学、数学、歴史学、地理学、医学、法律学、詩学、演説法などを学びました。
修行の場所は人里離れた洞窟や秘密の森の中でした。教義の伝授は全て口伝で行われ、文字に書き取られることはありませんでした。ドルイドの修行の初めは口誦伝承から行っていたようで、「語り部(フィーレや バード)」を経てからドルイドの修行へ入るという説もあります。
「文字として残す」習慣がないケルト人にとって、口伝えでの口誦伝承は重要な記録を残す手段で、宗教の教典や法律の規則、戦争の武勲の記録、家系図など部族の歴史は語り部の暗唱によって保持していたからです。
『紫堂ゆかりどう「ドルイド)』より

ドルイドの教えは多岐にわたり、20年に及ぶ修行が必要であったとされます。そして現在、アイルランドやイギリスの一部で、ドルイド教を復活させようという動きがあります。彼らは、自分たちのことを「ニュードルイド」と呼んでいます。これは、古代ケルト社会が文字を持たなかったこと、そしてキリスト教によって迫害されたため、古代ドルイド教の教えや儀式などが途絶えているからです。
現在のニュードルイドたちは、自然と密着し、自然を人間と同等と考え共存していくという世界観をもって集まっています。彼ら「自分たちは一種の主義というか、考え方を共有する者の集まりであって、宗教ではない。つまり、そこには絶対者もいないし、厳しい決まりごとものないのだ。」と言います。
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●ニュードルイドの集まり(画像引用元)
ニュードルイドは、キリスト教から離脱して自然回帰する動きとも言えますが、このような潮流がなぜ生まれてきたのか?先ずは現在の主流をなすキリスト教の自然観を考察します。
◆キリスト教の自然観

キリスト教の場合、自然を創ったのは「神」という自然の外にある存在なのである。神がいて、人間がいて、自然がある。それは歴然と区別されているのだ。
神の代わりを人間がするようになっていく、神の意のままではなく、人間の意のままにした方がうまくいんじゃないか。そんな方向に進んでいくのである。
こういった考え方は、キリスト教特有のものだ。この延長線上に、自然科学が明確な形で打ち出されてくる。「人間と自然は異なる存在で、人間が自然を客観的に観察・考察する」という自然科学の考え方は、「神がこの世を創りたもうた」という論理とよく似ている。「神と世界」を「人間と自然」に置き換えているのだ。その後、人間はこうして生まれた科学技術によって「進歩」していくことになる。
河合隼雄著『ケルト巡り』より

西洋キリスト教社会では、人間と自然が別々に存在し、あくまでも人間中心主義であるため、人間の対立概念として「自然」が成立しています。従って、自然と人間が一体となることはなく、むしろ人間に圧力を与える対象として否定し、支配・制御する対象となってい。
では、キリスト教が普及する以前から存在していたドルイド教の自然観とはどのようなものであったのでしょうか?
◆ドルイド教の自然観

古代ヨーロッパ社会、ケルト民族の僧侶であるドルイドにとって、樫の木とヤドリギは最も神聖な植物とされていました。ドルイドは、魔術や呪術、医術などの知識を持ち、自然の様々な現象を感じ取り、現実世界と神秘的な世界の橋渡しをする賢者として崇められ、ハーブを巧みに 使う魔女のルーツであるとも言われています。
多くのものが死や眠りに向かう厳しい冬の風に吹かれても緑の葉を誇るヤドリギは、沈黙に潜む冬の恐怖を追い払い太陽を元気づけ、大地に生き続ける生命を称える冬至祭の主役でした。生命が降って沸いたような姿から稲妻によって天から降りて来ると信じられ、不滅の生の象徴として多産や幸福の祈りや悪霊除けに使われました。
『ドルイドの聖なる植物・宿り木』より
wabisuke_yadorigi2.jpg
●ヤドリギ(画像引用元)
※ヤドリギは、宿主の樹木の葉が落ちた冬でも、緑の葉をつけています。

ドルイド教という土着の信仰では、森の樹木には精霊が宿ると信じられ、中でも樫の木とヤドリギは神聖視され、生命や活力の源であると考えられていたようです。
これらから推測されるのは、キリスト教のように抽象的な(頭の中だけの)絶対神を信仰する宗教ではなく、具体的な自然の一つ一つに神が宿る=現実に存在する自然そのものを対象化する自然観そのものだと思われます。
そして、この自然観はむしろ日本に近いと考えられます。縄文以来の日本では、人間と自然が一体であり、世界の全ては自然の中に包含されていました。「自然」と「現実」は同義であり、自然に対する「一体感」「同一視」が、万物を包摂した「自然観」を形成してきたと考えられます。

◆ ◇ ◆


現在のヨーロッパは、経済的に破綻し、混迷の度合いを深めています。ヨーロッパ社会の秩序や意識の根底にはキリスト教の観念があり、この観念に導かれた結果が行き詰まりとなっています。
そしてニュードルイドたちは、キリスト教特有の “自然を意のままに変えよう、支配し続けようとする”西洋の自然観(世界観)に違和感を持って、キリスト教以前の根源的な世界に何かを見出そうとしているようです。ニュードルイドの動きをまとめると次のようになります。
1.否定から肯定へのパラダイム転換
新しい自然観は、キリスト教のもつ「否定⇒制御」から脱却し、自然に対する「肯定⇒同化」として登場してきた。
2.ヨーロッパの辺境に残っていた共同体
その動きは、キリスト教の観念支配(中心はローマ)から遠く、森の民の気質な残る辺境の地アイルランドから生じている。その集団の在り方は、権力や絶対者のいない共同体として存在している。
3.自然から学び続ける
その姿勢は、自然の様々な現象を感じ取り、現実世界に役立てようと志向している。それには20年以上の歳月を要し、学び続ける姿勢が重要となる。
ヨーロッパの辺境でこうした動きがあり、彼らの「自然から学び続けよう」という姿勢を、東洋で同じ辺境にある日本も学んでいくべきではないでしょうか。。。

 

ーーーーーーーーーー

♬ ふとドルイト教なるものを知りました。

悪魔崇拝の根源であるかのようなブログの指摘もありました。

ところが調べてみると、私は消される運命のドルイト教ではないかと、

勘ぐってしまったのです。

この記事をしっかりと、読んでみると私は縄文人を感じるほどです。

まだ調べきっていない状態ですから、多くを語ることはできませんが、直感として

私はこのドルイト教は、悪魔崇拝者によって自分たちをカモフラージュするために

使われてきたのではないでしょうか?

ちなみに私は無神論者です。どのような宗教にも興味本位なのです。

(この記事の書かれたコメント欄に転載することを書いたのですが、エラーになりました。)

こちらの記事は日本人の気質について書かれていて、希望がもてる記事でした

http://web.joumon.jp.net/blog/2014/12/2620.html

 

 


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🔥神聖な愛/自己 ツインフレーム 光のファミリーの皆さん

2017-05-28 08:38:52 | ツインソウルツインフレーム

 

 https://blogs.yahoo.co.jp/andoromeda369/55459140.html

https://lightworkermike.wordpress.com/2013/04/03/live-your-lives-in-joybyjesus/


神聖な愛・自己 ツインフレーム  光のファミリーの皆さん

 アセンションの旅でとても大切な点は、似た考えを持つ人、
互いにハートが共鳴し合い波動の似ている人と つながることです。
私たちをあれこれレッテルを貼る人に出会った場合、その人の歩くままにさせてあげ、その人もまた、私たち同様に必要な所にいるのだと理解すればいいのです。

 私たちは互いに独自のタイムラインにいます。
互いにスピリチュアルな成長を支え合える人に 繋がることができます。
魂の道が交わらなければ 愛を送って進んでいけばいいのです。
自分のために生きており、互いに支えあうためであって
互いを切り離すために ここにいるのではありません。
高い視点に立って ユニティ・コンシャスネスを育てる時です!

 私たちは一つです! しかし、ハートで深く共鳴する人は、最愛の人です。
そういう人との出会いには最も強くて深い愛があります。一緒にいると自分自身でいることができます。
 最愛の人に出会う時は、その関係の親密度や深さを 形容する言葉はありません。
言葉にできず時空を超えています。そこには、言葉を不要とする神聖な出会いが生じ、沈黙していても心の深い所で知っており、私たちが神聖な愛であること、共に一つであることを思い出すのです! 
その時に、私たちはずっと探し続けてきた同じもの(One)であることが分かります。

 この聖なる出会いについては、外側に立った見方がかなりあります。実際、聖なる出会いは外からラベルを貼ったり定義付けたり、どんなものかを説明したりすることはできません。
 各自はユニークですが、皆同じコアを持っています。それが、神聖な愛の本質なのです。この聖なる出会いは、無条件の愛という人間的な考え方とは違います。
その考え方は源の神聖な愛のことです。
 この出会いそのものは、私たちは本当は神聖な存在ですが、
同時に肉体を持って 神聖な愛を経験できることを教えてくれます。

 だから、この愛は、神聖かつ人間の自己がひとつになっている ということなのです。
聖なる出会いはこうあるべきだ という期待感を持つと妨げになります。聖なる記憶は自分の中から生まれるのです。
 そのような外側の期待感があるために、この聖なる出会いに対して恐れや不安を抱く人が数多くいます。そのように期待することは全部幻想です。幻想は不安そのものから生じます。
ただし、そのような幻想であっても深い “I AM” という自己を知る際の役に立ちます。

 では、いろいろな定義に縛られずに 本当の自己を知って行くにはどうしたらよいでしょう。定義づけることで益々意識が分断されます。

 第1に、自分の中を深く見つめ、なぜ内側ではなく外に意識を向けるのかを知ることが必要です。

 第2に、すべてを手放す時にだけ 完全なリアリティが生まれるという事実に 気づくことが必要です。

 そうして、自分の中から聖なる出会いを感じるようにするのです。なぜそうしないのですか? 

 私たちはなぜ聖なる出会いを 経験したいのですか? 一つであるという真実に向かう用意はありますか?もしそうであれば、見方を変えることができます。静かになってこのように自分に宣言するのです。

「私は(I AM)一つ(One)です。私は(I AM)は最愛の存在です!」と。

最終的に「真に一つ」という「聖なる出会い」を経験する時は、内部から外部へと経験し始めます。そうする時にだけ経験できます。

 内側の自己を通じて自分の最愛の部分を抱きしめる時、その自分の一番深い愛を感じるようになります。それが「神聖な愛」です!
それは、中から起こる愛、最も深い所の、特に抑えつけられてきた部分に 光を灯す愛です。
長い期間でも短い間でも 否定され抑圧されてきた自分に 光を当てる愛です。

 聖なる出会いが生じる時に大切なことは、自分の内部で起こるということです。
完全に自分の内面が開く時、愛する存在はそこにいます。愛するものの真実は混みいっていません。非常にシンプルです。つまり、本当の自分、本来の “I AM Presence” を経験するのです。それが、他の人と深い出会いをする時の愛であり、出会うと一つであることを知ります。

 そうして本当にワンネスが経験出来ます。それ以降のことはもはや説明出来ません。
お互いの最愛の人との出会いは それぞれ異なっています。
愛する者同士は 第3のエネルギーを生み出していき、二人が愛する時にそれが生まれます。

 私たちはこの聖なる出会いを 経験によって知るためにここにいるのです。
私たちは皆愛される存在、愛する “I AM” なのです! 源は故郷に帰れと呼びかけています!

本当に、まさに波動の一致した出会いを果たそうとする人たちのために、このメッセージを書きました!

 私たちはアセンションという 新しい密度に移行する激しい変化の中にいます。
そのために、地球に多くの人がやって来てこのシフトを自主的に手助けしてきました。
 また、多くの「ツインフレーム」という聖なるカップルがやって来て、
この神聖な決定を実行する 一翼を担っています。
 

 彼らは合意の上で この次元世界にやって来て神聖な愛を体現する 新しいモデルになることに 同意しました。神聖地球の新しい男女の概念を示しているのです。
 実際、すべての関係が本質的に神聖ですし、ツインフレームは、今地球にいる人すべてに聖なる出会いが実現する 可能性が高いことを教えています。

 ツインフレームについて説明する メッセージや資料がかなりあります。
でも、その多くが、本当の聖なる出会いという 重要な部分について語っていません。
 この出会いによって神聖な自己が生まれ、同時に個人が魔法のように
ワンネスやスピリットの数多くの イニシエーションを経験する結果、
私心を忘れた奉仕の精神が生まれます。

 その際同意したことは、自分の神聖な記憶を他の人に伝えて
この聖なる出会いに至る 道筋を教えることです。

 この道にはあらゆる困難や試練が伴い、聖なる出会いは神聖な愛である 源のエッセンスを体現することが必要である、

 そういうスピリチュアルな成長を 著しく遂げる経験であることを教えるのです。
その経験によって、彼らは聖なる出会いについて最高の真実を伝え、
広め、肉体にいながら最高の表現ができることを示すのです。

Within Divine Love, Polona

©Polona Somrak https://www.facebook.com/polona.somrak

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