団塊世代の人生時計

 団塊世代として生きてきた「過去」、「現在」、そして「未来」を、自分自身の人生時計と共に綴り、「自分史」にしてみたい。

ふるさと創生事業

2007-12-21 14:05:05 | Weblog
              ふるさと創生事業
 
                           2007年12月21日(金)

 最近、たまたまヒットしたものに「ふるさと創生事業」というのがあった。その中に、何と1億円全てを宝くじ購入に充てた自治体があったというのには、開いた口がふさがらなかった。

この「ふるさと創生事業」について、レポートを作成したことがある。以下にそれを掲載する。


         自ら考え自ら実践する地域づくり事業について

 昭和63年12月21日自治省が発表した新規施策の主題の事業(いわゆる1市町村1億円配分による事業「ふるさと創生」)については,全国の市町村に複雑な反応を呼び起こしている。手放しで歓迎のところ,使い道をどうするか困惑するところ,国からいろいろ注文をつけられるのを警戒するところ等々。マスコミの興味本位の取材も始まっている。
 「ふるさと創生」論は,竹下首相の持論といわれ,一昨年の自民党総裁選に当たって出版された「素晴らしい国・日本 私の『ふるさと創生論』」(講談社)のなかで展開されている。
 この本のなかで「ふるさと」という言葉は,本来の人びとの生まれ育った郷里という意味以上に自由自在に使われている。竹下首相によれば,「ふるさと」とは,「私の生まれた故郷は,今も目を閉じれば,炭焼きの煙が青空にすうっと吸いこまれる島根県ののどかな山村」という意味での生まれ育った故郷でもあり,「日本列島全体」でもあり,地球は「人類共通のふるさと」でもあるといったような,とめどもなく広く用いられている。それだけに無内容であり,政策構想全体をソフトにつつむための修飾文句だけの性格が濃厚である。「創生」という言葉も,日本語の辞書にはない意味不明のものであり,「言語明瞭・意味不明瞭」といわれても仕方ないものである。
 この構想は,地方の自主性を尊重し,地域振興を支援するという売出し文句であるが,はたしてそうであるのか。
 第一に,この財源に充てるとされているのは,昭和62年度決算剰余金精算分として地方交付税に追加されることとなっている1兆808億円と63年度の地方交付税の自然増収見込額1兆484億円合計2兆1,256億円のうち一部3,000億円である。
 この財源は,本来地方自治体の自主財源として,国が自動的に交付しなければならない財源であり,国が恩恵的に与えるという筋あいのものではない。
 「ふるさと創生」のためとして,あたかも,竹下首相の特別の配慮で授けられるというような印象をふりまく配分のやり方は,参議院選挙目当ての「全国規模の利益誘導」(「日経」社説62.12.13)といわれても仕方ない。
 地方交付税法第3条にも「国は,交付税の交付に当っては,地方自治の本旨を尊重し,条件をつけ,又はその使途を制限してはならない」と定めている。
 特定個人の政策名を冠して,「自由に使ってほしい」といいながら,実際は,県に推進のPRや監督をやらせ,自治省に推進本部,内閣に関係省庁連絡会議をもうけて推進各自治体から使い道について報告を求めるというのだから,地方交付税の交付の原則を無視したやり方である。
 第二に,一律配分というやり方も,一見,小規模自治体ほど交付金の割合が多く配慮されているかにみえる。しかし,公共の金をつかみ金的に「自民党の派閥の領袖が子分に配るモチ代」(「AERA」64.1.31)のように配るやり方は,現行の交付税の交付が厳密な計算基準に従って,計算されるというたてまえを完全に踏みにじるものである。こういう恣意的な公金の配分は,財政の私物化ともいえるもので,許されないことである。
 一方,政府は昭和60年以来すでに5兆円近くにのぼっている臨調行革に基づく補助金カットを,来年度も継続あるいは恒久化し,地方自治体への負担を強化することを行おうとしている。地方自治体首長が,「税制改革で地方財源を取り上げた口止め料(斎藤・栃木県栗山村長 「毎日64.1.29」),「余裕があるならなぜ地方への補助率カットの復元ができないのか(畑玉県知事 同上)という批判の声をあげているのも当然といえる。
 次に,1億円配分を前にして,市町村ではその使い道について,いろいろの「アイデア」がだされ,マスコミの話題にもなっている。
 そのなかには,兵庫県津名町のように,1億円の金塊を買って役場に展示するというような突飛な案もだされている(「読売」64.1.24)。竹下首相自身が「いい案がなければ,それを金融機関に預けておくだけでも毎年4・5百万ずつ金利がつきます」(「自由新報」64.1.3・10合併号)という調子だから,津名町のようなアイデアがでてくるのも当然である。自治省が“ソフト事業”を中心にせよと指導している点からも,イベントやプランづくりのノウハウをもつ業者が,アイデア競争に乗って儲けをせしめようと手ぐすねひいている。
 以上,「ふるさと創生」は問題に満ちたものであるが,ともかく実施される運びとなった。
 もともと自治体の自主財源として,住民の福祉の向上のために使われるべき財源なのだから,「ふるさと創生」事業の名で勝手気ままな無駄づかいや,企業のもうけのタネにさせるなどをしてはならない。
 地方自治体にとっては,この1億円が配分されてきた場合,住民要求をまとめて,真に地域の振興に役立つ支出とすることが重要になってくることはいうまでもない。すでに,この配分金をねらって「ソフト事業」のノウハウをもつイベント企業,PR企業,計画づくり企業が手ぐすね引いているということも伝えられている。この1億円の財源は,竹下首相が恩恵的に地方自治体に分け与えるというような性格のものではなく,地方自治体に本来配分されるべき公金であるのだから,地方自治体は,これを竹下流「ふるさと創生」の宣伝普及に使わせず,住民の総意に基づく有効な活用を行う必要がある


 「ふるさと創生事業」のレポートを書いたのは、1989年。
 私の人生時計「14時53分」 チン
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中傷コメント(3)

2007-12-21 10:32:48 | Weblog
             中傷コメント(3)

                           2007年12月21日(金)

 私は、2007年9月5日付のブログで、要旨次の通り書きました。

 今日から21日まで、(自立神経失調症で)職場を休ませてもらうことにした。
 上司はメンタルの病気について、非常に理解のある方だった。
 職場の皆には、迷惑をかけるので、心苦しかった。

 それに対して、亀さんという方が次のコメントを寄せてくれました。

上司の方に理解して頂いてよかったですね。
職場の皆様もぼんやりだけどお分かりになるでしょうよ!21日迄ゆっくり、(心苦しい、押し付け 迷惑等考えていたら調子が逆行しますよ!)しましょうよ。

 問題は、「第三者」という方が、上記二人のやりとりに関して寄せてきた「コメント」です。忠実にそのままを記載すると、

「現象を陳腐な同情で一方向のみから判断するのは非常に情けない話です。社会は常に相対するもので構成されています。
 これを機会に、自分のことも、相手のことも、落ち着いて見つめ直す機会とされてはどうですか。
 それが両者には必要ではないでしょうか。」

 この「第三者」という方の「コメント」は文章として、私には非常に分かりづらいのですが、辞書を引きながら、解釈してみました。

 まず、「現象」とありますが、「私がメンタルな病気で休む」ということと考えられます。続いて、「陳腐な同情で一方向のみから判断するのは非常に情けない話です。」とあります。
 「陳腐」とは、広辞苑によると、①古くなってくさること、②ふるくさいこと、③ありふれていること。とあります。
 亀さんという方が私のことを「心配して」寄せいただいた「コメント」を読めば分かることですが、ブログで知った私という人間に対して、非常に共感を抱いてくれた「コメント」であり、私には非常に「新鮮」で、勇気付けられるものでした。「第三者」という方には、そういう感性がないのでしょうか。

 次に、亀さんが「同情」(広辞苑によると、「他人の感情、特に苦悩・不幸などをその身になって共に感じること。」してくれたのは、確かだと思いますが、「一方向のみから判断する」という意味が分かりません。
 具体的に、どういう方向があるのかを示さないと、そもそも趣旨が伝わらないです。
 次に、「社会は常に相対するもので構成されています。」というのが、難解です。何回読んでも、趣旨が理解できません。「相対」とは広辞苑によると、①向きあっていること。向かいあうこと。②相互に関係を有すること。対立すること。また、相対的であること。③他に対して在るもの。他との関係において在るもの。一定の関係、一定の状況においてだけ妥当するもの。とあります。
 
 解釈するに、次の段落で、「相手のことも、・・」とあり、「相対」とは「相手のこと」という意味かもしれないのですが、
 具体的に、私の場合は、その「相手」は誰なのでしょう。亀さんの場合は、誰なのでしょう。

 そして、なおさら分からないのが、「これを機会に、自分のことも、相手のことも、落ち着いて見つめ直す機会とされてはどうですか。」と書いてあることです。
 ここで、「自分」とは、私及び亀さんのことと思われますが、「相手」というのが誰を指すのかが、前記同様分かりません。「相手」とは一体誰なのでしょう。

 最後に、「それが両者に必要ではないでしょうか。」と結んでいますが、「相手」が分からない状況で、何を「落ち着いて見つめ直す機会」とすべきと主張するのでしょうか。

 「第三者」という方は、思考回路が交錯しているのでしょうか。電気製品なら回路基盤の交換が必要といったところでしょうか。

 「第三者」という方がもし、このブログをお読みになられたら、堂々と趣旨の伝わる平易な文章で再「コメント」をお寄せください。
 そうでなければ、それこそ、「第三者」という方の「コメント」は「陳腐」で、「一方向のみからの判断」で、「相対」という意味を理解せずに書いておられるようなので、ご自身の「コメント」を「落ち着いて見つめ直す機会」が「必要」になるということでしょう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする