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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/メータ&ロスアンジェルスPO

2007年04月11日 23時29分22秒 | マーラー+新ウィーン
 昨夜取り上げたストコフスキー盤から10年後(67年)に収録されたもので、指揮はメータ、オケは同じロスアンジェルス・フィルである。当時、このコンビは比較的にモダンなレパートリーをデッカの優秀録音を武器に次々に録音して、「惑星」とか「春の祭典」など大ヒット作を連打していた訳だけれど、これもその一枚ということになるのだろう(しかし、このアルバム、「浄夜」はいいとしても、「室内交響曲第1番」や「管弦楽のための変奏曲」まで入っているのはおそれいる)。私は少し前に連続でレビュウしたマーラーなどでは、メータの演奏をいつもけなしていたのだが、この演奏はなかなかいい。少なくとも彼の演奏でいつも感じるような、私の音楽的なツボ絶妙にハズしてくれるような違和感(笑)をあまり覚えず、「浄夜」というか、この時期のシェーンベルクらしい壮絶なまでにの美しさを、ストレートに楽しませてくれる演奏となっているのだ。

 演奏そののもはかなり大柄である。テンポは遅め、構えが大きくシンフォニックな響きが充満した、一昔前の形容でいえばグラマスという他はないような演奏なのだが、これが「浄夜」という作品には良くマッチしている。この曲は複数の細い線が織りなす複雑な文様を楽しむという側面はもちろんあるとしても、オケ全体が官能的にうねり、時に叫んだり、むせび泣いたりするというマスのダイナミズムもまた魅力な訳で、この演奏はその後者の典型的な演奏といえるかもしれない。とにかくメータが作り出すオケの瀟洒な響きに身を委ねているだけでも心地よいものだといえる。ストコフスキーのようにシェーンベルクの音楽を「分かり易く丸めた」ようなところもなく、これだけ大柄な演奏でありながら、存外リズムはシャープだし、荒れ場でも手綱をゆるめず、音楽的な緊張感が最後まできちんと持続しているあたり、当時はさぞやフレッシュな演奏に聴こえたことと思う。

 ただ、難をいえば、この曲の標題的なストーリー性ということに関しては、さすがに後日レビュウすることになるであろう横綱級の演奏と比べると、第2部、第4部の独白のパートと、それをサンドイッチするテーマが循環するパートの対比など、やや一本調子なところはあるかもしれない。例えば第4部冒頭の暗闇に光りが差し込んでくるような部分など、もう少し前バートとの明暗をはっきりさせても良かったかもしれない。
 録音はいかにも60年代デッカの優秀録音といったところだろうか。弾力ある低音部とほんの少し角を丸めた中~高域の組み合わせはショルティなどと共通する典型的なデッカ・サウンドという感じだ。まぁ、現在となってはもうこのくらいの音はもう普通なのかもしれないが、なにしろ昨夜聴いたストコフスキーが、ステレオ最初期のEMI録音だけあって、10年間の録音技術の進歩をいやおうなく感じさせたのであった。
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シェーンベルク 浄夜(弦楽合奏版)/ストコフスキー&同交響楽団

2007年04月11日 00時01分52秒 | マーラー+新ウィーン
 こちらはストコフスキー指揮による弦楽合奏版。オケはストコフスキー交響楽団となっているが、実体はロスアンジェルス・フィルらしく、収録は57年というからステレオ最初期の録音となる。ストコフスキーといえば、大衆受けするブリリアントな演奏という他にも、オリジナルに編曲と見まごうような改変を加えることでも有名だったが、この演奏もシェーンベルクが編曲した弦楽合奏版ではなく、弦楽六重奏のスコアを使った演奏という話をどこがで聞いたことがある。確かにその他の弦楽合奏版を用いた演奏と比べると、どこか違うような気もするのだが、詳しくはよくわからない。

 まぁ、ディテールは違いはさておくとして、これまでの弦楽六重奏版と比べると、さすがに弦楽合奏だけあって、シンフォニックでふっくらとした響きが心地良い。弦楽六重奏版、心の機微のようなものを感じさせる弦楽六重奏版が小説的だとすると、弦楽合奏版の色彩感は総天然色の映画的なスケール感があると思う。ただし、ストコフスキーの解釈は少し古くさい大時代的な趣が強すぎる気がしないでもない。この表現主義的な激しさを否応なく含んだ音楽を無理やりウィーン風な優美な音楽にしてしまおうと、例えば昨日例にあげた第1部のウィーン風なヴァイオリン・ソロなどは全面的にフィーチャーする一方、表現主義的な部分になるとやけにテンポを早くして、そそくさと通り過ぎしまおうとする傾向があると思うのだ。

 1957年という時代。レコードというメディアに「浄夜」を持ち出してくるストコフスキーの英断は評価するにやぶさかではないが、彼の解釈はあまりに「ワーグナーをベースにした古風なウィーン風な音楽」という側面に傾斜し過ぎてはいまいか。シェーンベルクらしい容赦ない冷徹なところだとか、ブラームスとマーラーの折衷だとか、そういう要素があまり感じられないのが不満に感じてしまうである。なにしろ、昨夜聴いたシェーンベルク弦楽四重奏団の演奏が、そのあたりをあまりといえばあまりなくらい自然に演奏してたものだから、この演奏には古典化を多少焦っているような不自然さを感じてしまったりもするのだ....。
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