和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

齋藤十一。

2008-12-22 | Weblog
昨日。雑誌「WILL」が届いておりました。2月号。
その巻頭随筆「天地無用」に「転移」と題した文がありました。
そこに丸谷才一氏が朝日新聞に書いていた文を紹介しております。

「総合雑誌は明治期の博文館により創刊され、我が国ならではの独特な編集を続けてきた。鶏の飼い方から軍艦の構造まで載せていると揶揄されたこともある。大正昭和期には我が国の出版界をリードする権威を示していた。それが現今は衰退を噂され、魅力が乏しくなっている理由を思案した丸谷才一(「朝日」11月22日)が、「中央公論」に代表される如く。嘗ては広い分野を抱擁していた綜合雑誌も、今や政治と経済を中心とする方向に移行し、その堅苦しさをやわらげる小説を重視せぬようになったゆえ趨勢ではないかと注意を促している。」

この後に、コラム子は、こうつないでおります。

「仰せ御尤もであり首肯せざるを得ない的確な指摘であるが、このような傾向が生れた原因もまた無視できない。第一には、媒体の変質移行であろう。斎藤十一の構想による「週刊新潮」と後続の「週刊文春」等により、週刊誌掲載の小説が評判を生み、それを支える幅の広い作家が続々と出現した成り行きである。・・・・」


ここに齋藤十一氏の名前が登場しております。
ちょうど、十年ぶりぐらいに、私は雑誌「新潮45」を買ったばかりだったのです。その新潮社の名物編集者だった、齋藤十一が思い浮かぶのでした。

ということで、以下は本の引用。
「編集者 齋藤十一」(冬花社)は、弔辞からはじまって、
さまざまな思い出を集めた一冊。ちょうど、それらを読み込んで上手くまとめたような佐野眞一氏の文も載っておりました。そこには、こんな言葉があります。

「美和夫人によれば、齋藤が生涯のライバルとして認めていた編集者は、『文藝春秋』を国民雑誌といわれるまでに育てあげた池島信平ひとりだったという。・・・雑誌はそれを作りあげた編集者の指紋のようなものである。『文藝春秋』は池島の編集長就任から数えて六十年以上の星霜を刻み、『週刊新潮』は創刊からまもなく半世紀の歳月が経つ。にもかかわらず、『文藝春秋』にはいまも池島のぬくもりのようなものが感じられるし、『週刊新潮』にはいまも齋藤の人間観が色濃くにじんでいる。」(p29~30)

坂本忠雄氏は、こう書いておりました。
「周知のように戦後、『新潮』編集長としての出発から、 「芸術新潮」「週刊新潮」「新潮45」「FOCUS」と次々に新雑誌を創出され、意表を衝くような斬新性に世人は驚き、歓迎した・・・・今やさまざまに流布している「『週刊新潮』で文学をつくっている」という言葉を私はじかに聞いたのだが、それもここにつながっていると思う。」(p97~98)

さらにいろいろな人が語っており、この追悼本に響いている言葉がありました。う~ん。ここでは伊藤幸人氏の文から。それは、こんな場面でした。

「『新潮45』の第一回編集会議というべき、創刊にあたっての初顔合わせで、編集長以下編集スタッフ4名を自室に呼んで、齋藤さんが放った言葉はいまも忘れられない。昭和59年(1984年)12月28日のことである。
『他人(ひと)のことを考えていては雑誌はできない。いつも自分のことを考えている。俺は何を欲しいか、読みたいか、何をやりたいかだけを考える。これをやればあの人が喜ぶ、あれをやればあいつが気に入るとか、そんな他人のことは考える必要がない』 
『要するに、世界には学問とか芸術というものがあるし、あったわけだね。そういうものを摂取したい自分がいる。したいんだけど、素人だから、手に負えない。そういうものにうまい味をつけて、誰にも読ませることができるようなものにするのが編集者の役目だ』強烈なアジテーションに、われわれ編集部員は圧倒された。・・・実は、こうした齋藤さんの『演説』は、その後の編集会議でもずっと続いていたのだ。」(p168~169)

この本、2006年の出版なのですが、まだネットのbk1などで注文すれば、数日で届くようです。

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