和田浦海岸

家からは海は見えませんが、波が荒いときなどは、打ち寄せる波の音がきこえます。夏は潮風と蝉の声。

すっぱい葡萄。

2007-07-17 | Weblog
前に和辻哲郎著「古寺巡礼」の初版を読んでみたい、とこのブログで書いたのでした。それは谷沢永一著「読書通」(学研新書)にあった、この言葉からでした。

「『古寺巡礼』(大正八年初版発行)が生まれた。この書はのち改訂されて今は岩波文庫に収められているけれど、矢代幸雄の眼には、初版の方が、より自然な感情の流露があって興味ぶかく感じられると言う(『私の美術遍歴』)」(p74)


こう書いてあると、ちょいと機会があれば初版「古寺巡礼」を読んでみたくなりますよね。そう思うでしょ。ところがです。
今日何げなく「一冊の本 全」(朝日新聞学芸部編・雪華社・昭和43年)を開いていたら、谷川徹三氏が「古寺巡礼」を、ご自身の一冊の本に選んでいる。それがじつに興味深いのでした。こうはじまります。

「大正八年の秋、有島武郎さんが同志社の特別講義で京都滞在中のことであった。・・・・有島さんが、和辻哲郎さんの『古寺巡礼』をたずさえ、一週間ほど奈良へ行ってくると言って出かけたが、やがて奈良から八木沢善次と私と二人にあてて便りがあった。・・・・この葉書の言葉は私の中にこびりついて離れなかった。そこで、そのためだけでもないが私も『古寺巡礼』を買い、しげしげと奈良へ出かけた。『古寺巡礼』の一部は前年『思想』の前身であった『思潮』に連載せられ、私は雑誌で読んでいたのだが、私の興味はむしろ、著者の広い文化史的知識に裏づけられた自由な想像力の飛翔に向けられていた。・・・」
こうはじまる紹介文なのですが、最後の方に、こんな言葉がありました。

「・・・『教えている』と私は言ったが、これは私が教えられたことを言ったので、和辻さん自身は若い情熱のありったけをもってただ賛美の歌を歌ったのである。【あの美しい堂内に歩み入つて静かに本尊を見上げた時、思はず身ぶるひが総身を走るのを覚えた】【全身を走る身ぶるひ。心臓の異様な動悸。自分の息の出入りがひどく不自然に感ぜられるやうな、妙に透徹した心持。すべてが無限の多様を蔵した単純のやうな、激しい流動を包んだ凝固のやうな――とにかく言ひ現はせない感動であつた】こういう言葉がふんだんに出て来る。こういう言葉の多くは、後の改訂版においては『はづかしく感じて』削除せられ、現に今引用した二つの言葉も(その一つは三月堂の本尊に対してであり、もう一つは薬師寺の東院堂の聖観音に対するものであるが)現行の改訂版にはないものである。」

ああ、その当時の世代には、この書きぶりの稚拙さが、同時に何とも、気持ちを揺り動かされる表現として伝わっていたのだと思われるのでした。でも、現在の私がわざわざ古本を買ってまで読んで伝わる表現かどうかといえば、けっしてそうではなさそうに感じられてくるではありませんか。その当時の情感を揺り動かした文学史的な事件ではあったのでしょうが、それを私が受け止め得るかといえば、否だろうと思える谷川氏の文でありました。

それでも谷川徹三氏にとってはかけがえのないものであったのです。谷川氏の文の最後はこう終わっておりました。

「後には和辻さん自身『はづかしく感じた』その若い情熱のありったけを吐露した表現が私の心を動かしたのである。それからいつかもう四十年経ってしまった。」


ということで、どうころんでも、私などに、読む機会がなさそうな初版『古寺巡礼』というのは、まだ青くてすっぱそうな葡萄のように思えるのでした。ありゃあ、とても読めたものじゃなさそうだ。ということにしておきます。


追記。岩波文庫「古寺巡礼」の解説が谷川徹三で、こちらだと、かえって読みたくなるような感じになります。たとえば「この一節でも初版は一層委曲をつくして当時の和辻さんの心情を一層直下に、切実に感ぜしめるがここでは敢て引かない。」などと思わせぶりだなあ。こういう書き方は、まったく困ったものです。
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